17
レイラはすこん、と気が抜けてしまった。
レイラは難しいことをずっと悩んだり考えたりするのが得意ではない。だから激情を持て余すと、がむしゃらに動くことでしか発散することができないのだが。
しかし、人と話すことでも上手く発散ができたようだった。誰にも話さないようなことまでペラペラと喋ってしまったわけだが。
アニエスと朝まで酒を飲みながら愚痴大会をするのと同じような作用だったのだろうか。しかも当のヨアニス相手にである。今更ながら頭をかきむしりたいくらい恥ずかしいことを言ってしまった気さえする。
だから気が抜けて、一周まわって、開き直ってしまった。
たまたまレイラが好きになってしまった人が手の届かない相手だっただけだ。
レイラのこれからは変わらない。
このヒルデガルドに来たのはあくまで功績を稼ぐための仕事。これが終わればバルシュミーデに帰り、騎士としての職分を全うするだけだ。
……その前にヘンリエッテにはとにかく謝り倒そう、レイラはそう思った。
最悪、騎士の身分も返上して市井で平民として生活を送ったっていい。実家に帰れば蟇蛙卿との縁談が進められるだろうから、もう帰る気もない。逆にいえばこれ以上ないほど気楽な立場だ。
明後日は最後のパーティー。
そこでヨアニスの相手が決まる、もしくは相手が決まらず、この催し自体が終わる。どちらにせよ終わりには変わらない。
ヨアニスがレイラに来て欲しいと言った意図はよくわからない。
もしかして、と思わなくもないが期待して裏切られるのはいつだって苦しい。
期待したり不安になったりずっと考えていても、最初から決まっている結果は覆らない。
明後日まではできるだけ意識しないように、忘れるように努めた方がいい。
そう、先ほどの出来事は全部、夢か何かだと思えばいい。
明後日のパーティーで、ヨアニスの相手が決まっても決まらなくても、そこでヘンリエッテが諦めて帰ることになるかもしれない。そうでなくとも、バルシュミーデに戻ればもうヨアニスに会うこともないのだから。
それを考えただけで胸が痛む。けれどレイラはヒルデガルドからいずれ去る日が来るのだ。
行き場を失った恋心だけが可哀想ではあるが、恋は必ずしも叶うものではない。
レイラはろくに恋をしたことがあるわけでもないのに、そんな知識だけは知っているのだった。
「……帰ろう」
いつのまにか月が昇っており、焚き火を消しても月明かりを辿れば庭園の入り口に戻ることもできるだろう。
レイラは火が消えたことだけはしっかりと確認して立ち上がった。
てくてくと歩きながら、レイラの髪が夜の森に映えて美しいと言ったヨアニスの言葉を頭の中で何度も何度も反芻していた。
月明かりの下、己の赤い髪をひと房つまんでみるが、よくわからなかった。
目を閉じてみると、まるで先程の出来事全て本当に夢か何かだったような気がしてくる。
焚き火に映った美しい夢だった。
この美しい夢は誰にも話したくはない。
――ずっと心に秘めていようと思いながら。
恐る恐る扉を開けると、その物音に気がついたのか、すごい勢いでヘンリエッテが顔を上げた。
まさかずっと待っていたのだろうか。
ヘンリエッテの大きな青い瞳が潤む。
「レ……イラ……」
「ええと、……申し訳ありません。……頭を冷やして来ました」
「馬鹿!」
ヘンリエッテは子供のように駆け寄ってレイラの服をぎゅうっと掴んだ。絶対に離さないとばかりに。まるで母を見つけた迷子の子供のようだ。
実際はその会話は家出した娘とその母のようなものではあったが。
「し……心配したんだから……!」
「……申し訳ありません」
ヘンリエッテの大きな瞳からはポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
随分と心配をさせてしまったようだ。
「ヤスミン、ヤスミン! レイラが帰って来たの!」
ヤスミンを大きな声で呼ばわるヘンリエッテ。
しかしそのヤスミンはいつも通り穏やかに迎え入れてくれた。
「まあ……おかえりなさい。ヘンリエッテ様、ですから頭が冷えれば戻るといったでしょう?」
「だって、このまま遠くに行ってしまって、帰ってこないかと思ったわ……!」
「このヒルデガルドではどこにも行けませんわ。それにレイラもいい大人です。どうしてもひとりになりたい時もあります」
ヤスミンは大人として、レイラの行動を先読みしていたらしい。しかしヘンリエッテの言うようにどこか遠くに行きたいと言う気持ちもあったのは事実だ。だから少しばかり罪悪感もある。
ヘンリエッテはレイラを離さず、そのままソファに座らせた。
「そういえば、レイラ様。先程扉を開け放していかれたでしょう。勝手をして申し訳ございませんが、わたくしが鍵をかけさせていただきました。鍵以外は触っておりませんが、後ほど確認をしておいてくださいませ」
ヤスミンはレイラの前に鍵を置いた。
「すみません……うっかりして」
レイラは鍵を握り込む。本当にカッとなるとろくなことがない。
「そういえば、扉よりも大きいような立派な姿見がありましたわね。あれはわたくしの部屋にはありませんでしたが──クラリッサの部屋にもあるのでしょうか」
レイラはヤスミンの意図が分からず首を傾げた。
ヤスミンはなんでもないと言うように首を振る。
「体が冷えてはいませんか? 温かいお茶を淹れましょう。それとお菓子も。甘いお菓子は心の薬ですよ」
ヤスミンは優しく微笑んでくれて、レイラはなんともこそばゆい気持ちになった。それほど年齢は変わらないけれど、まるで母のようだ、と感じた。
温かいお茶がレイラの前に置かれても、腕にしがみついたヘンリエッテは離してはくれなかった。
「レイラ、いいこと? 貴方はバルシュミーデの国民、バルシュミーデの娘なんだから……! わたくしの娘も同然なのよ! だから絶対にわたくしが幸せにするんだから……ちょっと、なぜ笑うの!」
レイラは気がついたら笑っていた。
バルシュミーデで、レイラはその外見のせいで辛い思いもしてきた。けれども、ヘンリエッテのいるバルシュミーデならば、きっとレイラのような女性は減っていくだろう。その行く末をヘンリエッテの護衛をしながら見守っていく人生も、そう悪くはないかもしれない。
「ありがとうございます。ヘンリエッテ様」
レイラはヘンリエッテのその華奢な体をぎゅうっと抱きしめたくなる気持ちを一生懸命に抑えた。そんなことをしたら、きっと今の3倍は怒らせてしまうだろうから。
とはいえその後もレイラはヘンリエッテからお叱りをたっぷりと受けることに代わりはなかった。
そしてヤスミンからは温かいお茶とお菓子を、おかわり分までたっぷりと振舞われるのだった。
「……あの後、結局ヨアニス様はすぐに下がられてしまったの。パーティーは続いているみたいだけれど、わたくしたちはレイラが心配だったものだから、戻ってきたのよ」
「申し訳……」
「もういいわ。それ以上謝ったらもっと叱るわよ」
ヘンリエッテはレイラの部屋の隣にある、クラリッサの部屋のドアを見る。
「……クラリッサは戻って来ていないわ。まだパーティー会場にいるのか、そこら辺を徘徊してヨアニス様を探しているのでしょう」
「クラリッサのことはしばらく放っておきましょう。わたくしたちは、もうバルシュミーデの代表としてヒルデガルドへの義理も果たしましたしね」
「ええ、わたくしは勝ち目のない戦いに身を投じて、無駄にみじめな姿を晒す気はないの。交易権だってもうあるのだし、いつ帰っても構わないわ。あとはもう少し他国の令嬢とお茶会をするかどうか、くらいかしら。情報交換になるし、流行から情勢まで色々なことがわかって勉強になるのよ」
ヘンリエッテはレイラの手をそっと握った。
「でも貴方は無理しないでいいわ。辛いなら帰国の日まで部屋にずっとこもっていても構わない」
「あ、ですが……」
ヤスミンは何事かを言いかける。
「なんでしょう?」
「実は、ダーランの令嬢からご連絡がありまして……レイラ様にお会いしたいと。ダーランはテレイグと共に一番最後にいらした国です。確か、レイラ様のお祖母様の祖国でいらしたかと……」
「ああ……ええ。私も一度話をしてみたいとは思ってはいたのです。この身長や赤毛はあちらの血であるそうなので、もしかしたらダーランの令嬢から見てもわかるのかもしれません」
「あら、それならわたくしも立ち会うわ。ダーランの風車の話を聞きたいの。先方さえ良ければ明日ここでお茶会をしましょうか」
レイラは頷く。
話してみたいし、何か用事があったほうが気も紛れるだろう。
ヘンリエッテは部屋にこもっていてもいいと言うが、今のレイラにはそちらの方が辛い。
ダーランの令嬢……。どんな方だろうか。先ほどのパーティーにテレイグのアナスタシアと一緒に来ていたはずだが、アナスタシアが非常に目立ち、とにかく印象深かったので、ダーランの令嬢の方は申し訳ないことに全く記憶にない。
「それではお返事をしておきますね」
「ええ、お願いします」
段取りは、お茶会にすっかり慣れたヤスミンとヘンリエッテに全て任せることにした。
ダーランに返事をしたところ、直ぐにでも、という話であったので、お茶会は早速次の日に行われることになった。