16
「なんだか逆転してしまったな……レイラ殿」
それが呼び方のことだと気が付き、レイラは顔を伏せる。
「……大変申し訳ございません。知らぬこととは言え、ヨアニス様にあのような無礼で馴れ馴れしい態度をしてしまい……」
「やめてくれ。顔を上げて欲しい。俺のワガママで隠すように頼んだんだ。俺が悪いと思っている。……すまなかったな」
ヨアニスはぶんぶんと手を振っている。
そしてレイラの向かいに腰を下ろした。パーティー用の綺麗な服にそのまま土が付くが、ヨアニスはそれを気にしないのだろうか。
レイラはヨアニスの謝罪にただ無言で首を振って答えた。レイラが責めるような事柄でもない。
しばらくお互い無言で焚き火を眺めていた。
パチパチと爆ぜる音だけが聞こえる。
「……レイラ殿は自分を何もできないと卑下するが、そんなことはない。こうして焚き火も付けられるようになったじゃないか。すごいことだ」
「……いえ、とんでもございません。酷い無知を晒してしまいましたが、教えてくださったヨアニス様のおかげです」
「うん、できないなら、できるようになればいいだけの話だ。かくいう俺も未だに大陸共通語の敬語が覚えられん、前にもそう言ったろう」
「あ……。ありがとう……ございます」
それは以前も交わした会話だった。
不器用な優しさが伝わってくる。ヨアニスはこういう人だった。
思わずうれしくなるのは、ヨアニスがあの何気ない会話を覚えていてくれたからだろうか。
「それに、何かを教えられた時にちゃんと話を聞いて、それを身につけられる人間はそう多くはない。話半分だったり、時には怒る人間だっている。なんでお前にそんなこと言われなくちゃならんのだ、ってな」
「ええ……確かにそういう人もいますね。私も何度も見てきました」
「ああ、だからちゃんと話を聞けるだけですごいし、言われたことを実際に身につけられる人間はもっとすごい。ましてや俺は小汚い格好の従僕のフリをしていたからな。人ってのは相手の見た目の印象で動くか動かないか決めることも多い。だから、レイラ殿は……その、素直で……よいと思う」
「……素直、ですか。むしろ頑なだと言われてばかりでした。そんなこと初めて言われました」
気のせいか、ヨアニスの顔が赤く見えた気がした。きっと焚き火の赤い炎が顔に映りこんでいるのだろう。もう随分と暗くなったから、光源は目の前の焚き火しかない。
「でも、見た目の印象っていうのは分かります。私はこの見た目のせいで婚約破棄をしたばかりです。いえ……見た目だけではないですね、私には足りないところがあります。本当に……たくさん」
もうなんだかヨアニスに話しているというよりも、レイラの独り言のようだった。
夜の暗さと煙で、向かいにヨアニスがいることは確かにわかるのだが、ハッキリとは見えない。
だから言えたのかもしれない。
「別に婚約者に未練があるわけではないのです。むしろ清々するのに、それでもなんだか苦しい気がするのは、私が誰にも愛されないからかもしれない。……小さい頃に良く遊ぶ少年がいました。子供の頃に住んでいたタウンハウスが近所で、家格もそれほど差もない同い年の少年です」
レイラが今まで誰にも話したことのない話。
ヨアニスも黙って聞いていてくれている。
「私は小さい頃から今とそう代わりません。お転婆にしてもやりすぎたところがあって、髪をくくって木剣を振り回して泥まみれになって遊んでいました。兄がいるのでその影響かもしれません。あまりにも汚すので兄のお下がりを着せられていたんです。だから、幼馴染も私が女だと思っていなかったんでしょう。スカートを履いた状態を始めて見せたら『気持ち悪い』と言われました。それからあだ名はずっと赤毛のノッポ女でした。子供の頃から他の子より飛び抜けて大きかったんです。そのせいか、自分は違うんだなってずっと思ってきました。普通の女の子にはなれないんです」
オチもなにもない話だ。
決して面白くもなんともない。ただ遮られなかったから話しただけだ。
「その、幼馴染は」
「さあ、随分前に結婚しているはずですが、今は全く付き合いもないので……。もう子供もいるんじゃないかな。私のことも覚えているかどうか。その彼のことが今も好きなわけでもないんです。ただ、私が他の女の子と決定的に違うんだって分かった切欠なだけで」
「人と比べてしまうのは……いつだって苦しいもんだが。……その、失礼かもしれないが」
「はい?」
「レイラ殿は……男性が嫌いだったりとか……するのだろうか。世の中には同性を好む人間もいると聞くが」
レイラは勢いよく首を横に振った。脳裏に先程の令嬢たちとのダンスシーンがよぎる。
ドレスも着ずに令嬢たちと踊りまくっていたから、そういう風に思われてしまったのかもしれないが、完全に誤解だ。だってレイラはこの目の前の人が好きだ、とつい先ほど気が付いたばかりなのだから。
「ち……違います! 誤解です! 別にトラウマとかでもないんですよ! 確かにダンスは……まあ楽しかったですが……」
「そ、そうか……すまん」
よかった、と小さく呟くのが聞こえた気がしたのは気のせいか聞き違いか。
そもそも何故ヨアニスはここに来たのだろう。すっかり失念していたが、パーティーはいいのだろうか……何せ主役であり多くの令嬢たちから狙われていたはずだ。
聞いてみようか、とレイラは顔を上げた。
「……あの」
「……なあ」
――かぶった。
「す、すみません!」
「す、すまん!」
――またかぶった。タイミングが悪すぎて、わざとではないのにまるでわざとやっているみたいだ。
「あー……いや、なんていうか……その、折角だ。俺のつまらん話も聞いてくれるか」
「……は、はい、勿論です」
お互い笑いを含んだ声だった。
何故だかこの一瞬だけ、以前の関係に戻れたような気がした。
ついヨアニス殿、と言いたくなってしまった気持ちをぐっと押し留めてレイラは煙越しのヨアニスを見つめていた。
「俺はさ、ずっと武官をしてきて、女はシプリアくらいしか知らんで育った。他の女とはろくに口を聞いたこともないし、何を話せばいいのかわからん。流行りの服だの菓子だのには全く疎いし、酒や武器の話で盛り上がるような粗野で無作法な男だ。だが、王候補を選出するバルベイトスの家に生まれてしまった」
レイラは相槌も打たず、黙ってヨアニスの話に耳を傾けていた。
「本当なら俺よりシプリアの方がよっぽど王に向いている。頭の出来もいいし、大陸共通語を覚えるのもすぐだった。視野も広いし気も利いてる。だが、ヒルデガルドでは女は王になれない。だから俺にお鉢が回ってきた。しかも何の間違いか、俺が王として選ばれてしまったんだ」
確かにシプリアは優秀だった。彼女が心を砕いてくれたおかげでこの離宮内で今日まで気持ちよく過ごせたのだ。
ヨアニスの王としての仕事っぷりはレイラにはわからない。しかし狩り大会で、武官であった時の部下だという彼らと話すヨアニスにはカリスマのような感じられたと思うのだ。少なくとも、とても慕われていたように思える。
「ヒルデガルドは王がふたりいる。俺と共に選ばれたのがあのツェノンだった。あいつのことは昔っから知っているが、とんでもなく優秀だ。あいつならひとりでも立派な王にもなれるかもしれん。シプリアがついてるなら尚更な。俺はただ、決まりでふたり必要だから、とオマケで王になったのさ」
「そ、そんなこと……」
「いや、それがそうなんだ。あいつはなんでも完璧にこなせる。大体ツェノンの顔を見ろ。俺みたいな武骨な顔とは違って、えらく綺麗な顔をしているだろう。とにかくモテてモテて……そんなところまで俺とは大違いだ。俺があまりにもモテないせいで結婚もできないから、ツェノンが俺を憐れんでこの催しを開いてくれたほどさ」
何を言っているのだろうか、とレイラは目を剥いた。
確かにツェノンは繊細で美麗な顔をしていたが、だからといってヨアニスが劣るとは思えない。
レイラの目から見てどちらも大変な美丈夫であるし、好みで言えば断然ヨアニスの方だった。
「ヨアニス様も……大変な美丈夫だと思います。……噂で聞いて、思い描いていた通りの」
「世辞はいいって。さっきのだって俺がヒルデガルドの王だからだ。見ただろう? ツェノンを鷹のような目で見ていた女も、ツェノンにシプリアがいると知った瞬間に俺に鞍替えしようとする。俺が王という肩書があるかないかで、これほどに違うんだ。俺が薪を運んでいる時もそうだった。女達は汚いものを見る目で口を聞こうともしない。名前を名乗ってくれたのはほんの数人だ。その中でも笑顔で気安く接してくれたのは……レイラ殿だけだった」
ヨアニスは乾いた笑い声を立てる。
「俺は、『女神』を探していた。俺の心に暁を運ぶ女神を。明るくて優しくて、俺の心を癒してくれる美しい俺の女神を探しているだなんてさ。この歳でまだそんなことを考えているんだ。──どうだ恥ずかしいだろう」
女神――それは先ほどのクラリッサからの質問への答えだ。
レイラはヨアニスが信仰する神を知らない。きっとレイラの想像も付かないほど美しいのだろう。
レイラはふと、ヨアニスが自分に似ていると思った。
勿論ヨアニスの方がずっと優れている。しかしこんなにも優れ、これ以上ない地位を手にしている男でさえ、誰かと比べて劣等感を持っているのだ。そして得られないもので、苦しみもがいている。
けれどいつか、そんな彼の元にも暁を運ぶ美しい女神のような女性が現れる。
そう考えると、先ほどのパーティー会場で感じたよりもずっと胸が苦しい気がした。
「……じゃあ俺は戻る。邪魔したな。ああ、火の始末だけは頼む」
「あ……はい」
ヨアニスは立ち上がり、服の土ぼこりを叩いた。
焚き火の明かりの範囲から外れ、ヨアニスの顔は暗くて見えない。
ヨアニスが今どんな顔をしているのか、レイラには分からなかった。
「……レイラ殿、俺は明後日にもう一度パーティーを開くつもりだ。そこで俺の結婚相手が見つからなければ、俺はもう、やめることにする」
「え……っ?」
「別に世襲制ではないしな。子供が必要なら養子を迎えればいいし、絶対に結婚する必要はないんだ。そうだな、シプリアがふたり以上子供を産めばひとり貰うさ。今回呼んだ客人にはヒルデガルドの独身男を紹介すればいいだろう」
だが、とヨアニスは言う。
「明後日のパーティー、レイラ殿には絶対に来て欲しい。……どうか、頼む」
静かな声だった。
そのままヨアニスは焚き火から離れ、足音が遠ざかっていく。
「あ……」
レイラには、パーティーに来て欲しいというヨアニスの意図が分からず、聞こうとしたがヨアニスは立ち止まらずに去っていく。
「……レイラ殿の髪は、夜の森に映えて美しいな」
――そんな言葉だけを残して。
待って、と呼び止めたかったが、ヨアニスの姿は、もう闇に紛れて見つからなかった。