12
狩り大会から戻ると、居間にはヘンリエッテとヤスミン、そして見慣れない女性たちでのお茶会の真っ最中であった。
狩りに行っていたので汚い格好で申し訳ないが、挨拶だけさせてもらう。
彼女たちはイグナーツの王女たちだった。姉妹とその従姉妹だそうで全員がよく似ており、おっとりと穏やかな雰囲気の美女たちである。
「このような格好で申し訳ありません」
「いいえー、わたくしたちがお邪魔してしまっておりますもの……狩りはいかがでした? たくさん獲れまして?」
「ええ、多めに獲れたので、今日明日あたりで食卓に上がる肉は獲ってきたものになるかもしれませんね」
「まあ、楽しみですこと! ああ、お引止めしてしまってごめんなさい。お着替えになるのでしょう? もし、お疲れではなかったら、この後もお話を伺いたいわ」
「ええ、勿論」
イグナーツの隣国ブラウリオの女性たちも狩りに参加していたし、この辺りの国はバルシュミーデに比べると狩りに好意的なようだ。
「ねえレイラ、ヒルデガルドの貴族の男性がたくさん参加していたって本当? どうだったの? 素敵な方はいて? そちらも是非聞かせてほしいわ」
ヘンリエッテは狩りや獲物には興味がなさそうながらも、頬を薔薇色に染めながらこそっと言ってくる。
レイラは笑いを噛み殺した。
ヘンリエッテは王女と言えども、年相応には恋の話が好きなようで実に可愛らしい。
「はい、少しお待ちくださいね」
レイラはいつも通り、自室の鍵を開けて部屋に入った。
――そして何が見えているのか、一瞬理解できなくて立ち竦んだ。
それは、色とりどりの布だった。
いや、布だったものだ。
モスグリーンに、黒に近い深い赤色をした布の破片。
レイラのドレスがズタズタに切り裂かれ、見るも無残な姿になっていた。
アニエスがレイラのために用意してくれたあのドレスが、である。赤など結局袖を通してすらいない。
ドレスの前面が刃物かなにかで切り裂かれている。繊細なレースや細やかな刺繍の飾りも台無しになってしまっていた。
思わず膝から崩れそうになり、すんでのところで踏みとどまった。
青ざめながらも他の貴重品や持ち物を確認したが、盗まれているものや壊されているものは他にない。
被害はドレス2着だけだ。しかも鞄に仕舞いっぱなしだった元々持っていた方のドレスは無事ときた。
レイラは途方にくれた。
このような直接的ないじめを受けたことも、今までに全くないわけではない。
しかしながら、ここでレイラの自室に入ることのできる人間など限られている。
シプリア、ヘンリエッテ、ヤスミン、クラリッサくらいのものだろう。できれば疑いたくない面子である。
レイラはどうするべきか迷い、先程は着替えが済んだら居間に来るようにと言われていたことも思い出す。
着替えて居間に顔を出した方がよいのだろう。
しかしズタズタになったドレスも不憫でこのままにしておきたくもない。
レイラはとりあえず布の破片を拾い集めて1箇所にまとめた。
そうして思考が停止した状態ながらもなんとか着替え終わる。
どうするべきかの答えが出ないまま、レイラはうんうんと唸り、普段はそう悩まない脳を動かせる。しかしそれらしい答えは出ない。
――と、そこに遠慮がちにノックをされた。
遅いからヤスミンあたりが様子を見に来たのだろう。
ドアを開けるとやはりヤスミンの姿があった。
「レイラ様、どうかなさいましたか? ちょっと遅いようなので、ヘンリエッテ様から様子を見に行くようにと……」
「ヤスミン……ええと、その……」
レイラは言葉を濁す。
戸口に背の高いレイラがいる以上、ヤスミンからは部屋の中、あのズタズタになったドレスは見えないはずだ。
しかしこのまま何事もなかったかのようにヘンリエッテやイグナーツの女性と話せるほどレイラは器用ではない。
あからさまにレイラの様子がおかしかったせいだろう。ヤスミンも何かを感じ取ったようだ。
「……狩り大会で何かあったのですか? ……いえ……戻ってきた時は普通でしたよね。……ちょっと失礼します」
「いえ、あの、待って! ヤスミン!」
ヤスミンは細腕でどこにそんな力があったのか、驚くことにレイラを押しのけて部屋に入ってくる。
「これは……!?」
しかしそんなヤスミンもドレスの惨状を見て絶句した。
ヤスミンの前にはズタズタに裂かれたドレスがあり、もはや隠し通せるものでもない。
「戻ってきた時にはこうなっていて……」
レイラはまるで叱られた子供のように小声で言う。勿論レイラが悪いわけはないのだが、事実を隠そうと考えていたせいで、そうなってしまっていた。
「これは酷いわ……なんてこと。レイラ様……」
ヤスミンがレイラを慰撫するように抱きしめる。その手が僅かに震えているのをレイラは敏感に感じ取った。
「他は大丈夫でしたか? 貴重品類の確認はしました? お気をしっかり持ってくださいね」
レイラは頷く。
「……ええ、この2着だけです」
本来、可愛らしい令嬢であれば、いかに気丈であろうとも、きっとこのあたりでポロリと涙が零れたことだろう。
しかしレイラは違った。
静かにふつふつと怒りが込み上げて来る。
大切な友人の思いが込められているドレスだった。レイラにとって、ピンポイントで大切なものを傷つけられたのだ。
物を壊すというのは、その所有者の心までも傷つけたいということに相違ない。
レイラはかつて騎士見習い時代に意地悪な同僚から同様のことをされた時、容赦なく平手打ちで返した程度には気が短く手が早い。
売られた喧嘩は買う、そう心に決めてレイラは拳を握った。
「あまり言いたくはありませんが……クラリッサではないかと」
「……その可能性は否めません……」
ヤスミンもそれには同意する。
そう疑ってしまう程度に最近のクラリッサのレイラへの態度は酷いものだ。
「こういった自国内のトラブルを、あまり他国の人間には見せたくありません。少しだけ辛抱していてくれますか? レイラ様はやはり疲れが出たということにして、わたくしはヘンリエッテ様にこのことを伝え、お茶会を解散させて参ります」
「はい……」
ヤスミンは気遣わしげにこちらを見るが、レイラは落ち込んでなんかいなかった。怒りを表に出さないようにぐうっと堪えていたのだ。
「レイラ!」
ドアが中々の勢いで開き、ヘンリエッテは飛び込むように入室してきた。
ヤスミンがレイラのことを伝えに行ってから、しばしの時が経っていた。
ヤスミンは首尾よく、お茶会を終わらせヘンリエッテにこの話をしてくれたのだろう。
「ああ……なんてこと……!」
飛び込んできたヘンリエッテはドレスの残骸を見て青ざめて口を手で覆ってしまっていた。
「あら、どうなさったんです?」
クラリッサも一緒であり、クラリッサもまたドレスの残骸を見ては「まああ!」と声を上げていた。
声を聞くだけならばクラリッサがやったとは全く思えない。
眉を寄せ、目を潤ませ、惨状にショックを受けた令嬢にしか見えなかった。
「怖い……きっと侵入者があったのだわ」
怯えたように体を縮こませてフルフルと震えている。その仕草は本当に可憐で、まるで夕方の花の蕾のようでさえあった。
しかし侵入者であるはずがない。被害はあくまでレイラの所持したドレス2着のみ。しかもこの建物に出入りできる人間も、この部屋がレイラのものであることを知っている人間も限られているのだから。
それを分かっているはずなのに怯えたふりすらできるクラリッサに、レイラは薄気味の悪いものを感じ、問いただすことすらできなかった。
しかしヘンリエッテはそんなクラリッサをキッと睨んだ。
「……クラリッサ、貴方なの?」
ヘンリエッテにしては驚くほど低い声に怒りが透けて見える。
しかしクラリッサはキョトンとばかりに首を傾げ、あくまでシラを切り通すようだ。
「どういうことですか? わたしがレイラ様の部屋に入ってドレスを破ったとでも? そんなわけないじゃないですか!」
「じゃあ誰がこんな酷いことをしたというの! わたくしは言ったわよね? 大人しくなさいと! どうして貴方は!」
「は? 誰がやったかなんてわたしが知るはずないじゃないですか。それともわたしがやった証拠でもあるんですか!? ないですよね? レイラ様、部屋に鍵はかけてたんですか?」
ヒートアップしたヘンリエッテとクラリッサであったが、話は再びレイラに戻ってくる。
「え、ええ。かけてましたし、戻ってきた時も鍵がかかってました」
「ほら、わたしはレイラ様の部屋の鍵なんて持ってませんし、鍵開けだってできませんもの!」
確かにごく普通の令嬢が鍵開けをできるとは思えない。
それに、と続けるクラリッサ。
「今日は居間にはヘンリエッテ様とお茶会をしに、イグナーツの方がいらしてましたでしょう? わたしはヘンリエッテ様に言われた通り、部屋にずっとこもってましたし、わたしが自分の部屋を出て、レイラ様の部屋の鍵をこじ開けようとしたなんて、誰か見ましたか? 見てないでしょう?」
そうですよねえ、と勝ち誇ったようにクラリッサは言うのだった。
可愛らしい顔であるのに唇がきゅっと吊り上がり、この上ないほど意地悪な顔だ。思わず引っ叩きたくなる手を、レイラは必死で押し留め、胸の前で両手を握った。
ヘンリエッテもクラリッサのこれに反論が出来ず、流石に口をつぐむ。
「確かに……クラリッサは部屋から出ていません」
そう力なく言ったのはヤスミンだった。
ヘンリエッテはいまだ納得はしていないようだが、クラリッサがやったという証拠はないのだ。
「……もういいです」
レイラは怒りを堪えて言った。
このままクラリッサを問答無用で叩きのめして自供させることもできる。しかしそれではただの乱暴者だ。後々、暴力で証言を引き出されたと言われるだけだろう。
レイラは騎士である。
怒りに任せて動くわけにはいかなかった。何よりヘンリエッテはこれ以上ないほどレイラの代わりに怒ってくれている。
「でも!」
「もうよいのです。ドレスだけならば、私が持ってきたものがまだありますし、少々野暮ったいですが私は騎士ですから、やはり見た目が劣るのは仕方がありません」
勿論レイラだってこのままにしておくわけにはいかない。
クラリッサがやったという証拠さえ見つかればボッコボコにしてやる、という気概もある。しかしそれではレイラが強すぎるせいで完全に弱いものいじめになってしまうな、と今は関係のないことを考えていた。
しかしながら、こういった場は一旦は収めなければならない。
それがレイラが割を食う結果になったとしてもだ。
ヘンリエッテはキッとクラリッサを睨みつけているが、当のクラリッサはどこ吹く風でニコニコとしている。
しかし、証拠はなくクラリッサがやった責任は問われなくとも、クラリッサは確実に王女であるヘンリエッテに嫌われたと思うのだが、いいのだろうか、とレイラは考えていた。
勿論クラリッサが何を考えているのかなど、レイラにはわかるはずもなかった。
クラリッサは話が済んだのなら、とさっさと自室に戻っていった。
ヤスミンはドレスの残骸を片付けてくれている。
自分でやると怒りが再燃しそうだったのでヤスミンに任せることにしたのだ。
ヘンリエッテはしょんぼりと目を伏せていたが、レイラに対してバッと頭を下げた。
レイラは勿論驚いたし、ヤスミンもギョッとして片付ける手を止めている。
「ごめんなさい。わたくしのせいだわ」
「いえ、ヘンリエッテ様のせいでは……」
「いいえ、わたくしの管理責任の問題よ。貴方の大切なドレスを失わせてしまったこと、貴方にも、クレマンティ侯爵夫人にも謝らせてちょうだい」
「そんな……」
レイラが引いてもヘンリエッテは頑なに顔を上げない。これは受け入れるまで粘るタイプのものだ。レイラはふう、と小さく息を吐いた。
「……わかりました。ヘンリエッテ様の謝罪を受け入れます。だから顔を上げてください」
「レイラ、わたくしで出来ることなら力になります。ドレスはもう今からは無理でしょうけれど……」
「……はい」
王女である彼女には自分の言葉に重い責任がある。それでもこうして頭を下げ、出来ることをすると言ってくれたのだ。
おそらく、バルシュミーデに帰国してから、騎士として身を立てる際にヘンリエッテは力になってくれることだろう。
もうそれでいい、そうレイラは決めて、無理やりに怒りを鎮めた。
そもそも、この仕事を受けたのだって、レイラは結婚を諦めて一生を騎士として身を立てるための功績を稼ぐためであって、綺麗に着飾ってパーティーに出席するためではないのだから。
ほんの少しだけ、ヨアニスにあの赤いドレスを着た姿を見せることが叶わなかった、と心の奥底で思ったが、それは些細な感傷だ。モスグリーンのドレスを着たときに、綺麗だと言ったヨアニスの言葉のせいだ。
しかしながら、タイミングとは悪い時にこそ発揮されるのだろう。
全ての参加者は揃っていないものの、初回の親睦のパーティーが行われるという旨が、全ての参加者に通告されたのだった。




