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SF作家・畑上香樹の名著「マルチバース・ヒーロー・ヒストリア」、通称MHHがハリウッドでシリーズ映画化され、日本人の軍人役を鬼塚涼介が演じるという話題で、光の所属する3年B組は持ち切りだった。
飄々とした戦略の天才、ヤマシタ提督の軽妙洒脱な雰囲気に、鬼塚涼介はぴったりなのだ。
「マルチバース・ヒーロー・ヒストリア」は、アニメ化された事がある、150話にわたる膨大な物語で、未だに再放送されているので、日本人なら一度は見たことのある国民的名作だった。
海外にも輸出されており、世界中の子供の心を鷲掴みにしていた。
やがて、子供時代にMHHを見て育った世代が大人になり、何度か実写映画化の企画が持ち上がっては消えていたので、当初ファンは懐疑的だったが、今回は決定と聞き日本中が沸き返った。
早くもヤマシタ提督のイメージと重ねあわせて、鬼塚涼介を英雄視する声が上がる始末で、日本人の変わり身の早さに、テレビのコメンテーターが皮肉を言い、盛大に炎上する騒ぎになっていた。
この騒ぎの中で、鬼塚涼介に握手してもらったと知れたら、冗談抜きで殺されかねないムードが漂っていた。
そんな中、光は担任教師に校長室に行くよう告げられて、突然の事にいぶかしく思いながらも、校長室のドアをノックした。
既に男子生徒と女子生徒が1名ずつ校長室に来室しており、光が最後らしい。
校長からEQテストの結果を告げられ、特待生としてAAAと同等の権利が与えられ、1億アルファ(日本円で1億円相当)の年収を約束すると説明され、3人とも青天の霹靂にただただ呆然とするばかりだった。
一番度肝を抜かれたのは、ミーティングと称してAAAと緊密な関係を築く機会が与えられた事だった。
鬼塚涼介にまた会えるという気持ちと、その現実感のなさに光は途方に暮れていた。
ほかの二人も同様のようで、校長室から出ると早速男子生徒が話しかけてきた。
男子生徒は高見沢遼と名乗り、3年H組の所属だと言う。
「あのアンケートみたいなのが、テストだったとはね。あんなんでAAAと同じ待遇って、正直いいのかなって感じする」
そう言って遼は光と女子生徒に目線を向ける。
「1億アルファって現実感ないよね。ああ、もうどうしよう」
女子生徒は3年C組所属の長尾由美と名乗り、自棄になったように呟いた、
光も自己紹介すると「AAAとミーティングって何話したらいいかわからない」と今の気持ちを正直に吐露した。
今の光には呆然自失という言葉が一番似つかわしいだろう。
複雑なファン心理なのだが、遠くから時折見ていればそれで満足なのだ。
月と同じで見上げればいつもそこにあり、歩いても歩いても同じ距離を保って存在し輝き続ける。
月が誰のものでもないように、鬼塚涼介も誰のものでもない、その距離感がいいのだ。
その均衡が崩れたらどうしたらいいのかわからなくなる。
「辞退って出来ないのかな」
光が呟くと遼も由美も身を乗り出すように、「やっぱりそうだよね」「俺もそうしたい」と我が意を得たりと言わんばかりに口々に言った。
おそらく、自らAAAと同等の権利を欲するような、野心的なタイプは、EQテストで上位に来ないようにできているのだろう。
三人で校長室へ戻り辞退を申し出ると、校長から辞退はできないと告げられた。
どうしてもという場合は、このアルファ地区から出ていくほかないとも付け加えられ、三人三様に家族の事を思い浮かべ辞退を断念した、
光の両親は降ってわいたような話に、当初呆然としていたが、流石に年の功か我に返るのが早かった。
「選ばれたからにはがんばりなさい。1億アルファは貯金して将来のために使うようにな。」と常識人の父は言った。
のんきな母は「光の好きな、鬼塚涼介に会えるチャンスじゃないの。良かったわね」と終始にこにこしていた。
こうして、光は完全に退路を断たれた格好で、特待生という未知の環境を受け入れた。