二話 ぬらりひょん・朱音
暗い……闇の中は暗くて寒い
暗い……歩く道は道ではなく、進むよりも落ちるに近い。
暗い……天国でなければ地獄でもない……それ以前に僕はまだ生きている。
何かが遠くにいる。
ひたりひたりと、背後から近づいてくるのが、うっすらだけどわかる。
振り向いてはいけない。
おそらくきっとそれは……死そのものだから。
◇
「は……」
目が覚めると知らない天井。
「ここは」
跳ねる心臓は、息を吸い込むたびにだんだんと落ち着いていき、同時に頭は現在の状況をっ確認し始める。
辺り一面に敷かれた緑色の畳。
少しばかり古ぼけているが、布団は柔らかく、包まれる感触で高級品であることが分かる。
天井は鶉目。 部屋の恥に置かれタンスや机の上には、茶碗や人形、果ては壊れた三味線などのものが統一感なく置かれている。
部屋の中の物をすべて机の上に持ってきたのだろうか? 綺麗に掃除された部屋と机の上が対照的な印象を持たせる。
「……目は覚めた?」
一度聞いたことがある声が背後あら響き、振り返るとそこにはラグビー世界選手権、もとい入り口にいた女性が立っていた。
「……」
「あれ? あれれ? なんでそんな構えているの青ちゃん! 大丈夫だよ! もう飛びついたりしないよ!」
「……えと」
「あっ……うんうん、そうだよね! いきなりびっくりしたよね! ごめんなさい! でも、本当に君が来てくれるとは思わなかったからつい……本当にごめんなさい!」
「……えと」
両手を合わせて謝罪をする女性は、言葉に切れ目がなく、どうにも割って入れそうにない。
僕は仕方なく、話を聞き続ける。
「あ、そうそう! いきなりこんなところがあってびっくりしたよね!」
よいしょっと……なんて可愛らしい声を漏らし、女性は本腰を入れて話すためか、正座をして目の前に座り、落ち着きのない子供の様に前後に体を揺らしながら楽しそうに言葉をつなげていく。
「ここは忌み無し荘って言ってねー! つい最近立てたんだよね! 椿がいきなり建てたいって言いだして! あぁ、ボロッちく見える? それはね? 一応マヨイガだし、古く見えるようにわざとしてるだけだよ! どうかな?」
「え……はぁ、確かに綺麗ですね……むしろ、僕が見た建物で一番豪華かもしれないです」
「んもう! お上手なんだから! 褒めても何も出ないよ青ちゃん! あ、私が作ったんじゃないんだけどねぇ」
状況を整理しよう。
現在会話の中からは状況は全く読み取れないが、彼女の反応や接し方からわかることは三つ。
一つは、自分は彼女と知り合いであるらしいこと。
二つは、自分はこの場所に来た覚えはないという事。
そして三つ目は、この場所ができたのは、僕と彼女が出会った後という事。
以上のことを踏まえて整理をすると……なるほど、子供のころ、よく遊んでくれた隣の家のお姉さんだ
昔、小さなころに僕は一度ここに住んでいたことがあるみたいだし……たしかに、五歳の時、短い間のうっすらとした記憶だったけど、よく遊んでくれたお姉さんがいたような気もする。
歳も一回り離れている人だから、こっちは覚えてなくてあっちは覚えているという構図もおかしくはないだろう。
「あのーすいません」
「? どうしたんだい?」
「いや、何分昔の話なので、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「あれー? 忘れちゃったの? あーでもまだあの時は子供だったもんね、忘れちゃっててもしょうがないよね! うんうん、ごめんごめん、何かもう一回自己紹介ってのも気恥ずかしい気もするけれども、そだね、私の名前はぬらりひょん。ぬらりひょんの朱音だよ。思い出してくれたかな?」
「……」
思い出せるわけもなく、分かったこと其の四に、この人はおかしいというのが追加される。
「ぬらりひょん?」
「そそ! 思い出した? こう、ぬるぬる~っと、貴方の後ろにこんばんわー! いやーしかし、いきなりここにきて倒れちゃうんだもん! 確かにびっくりさせたのは悪かったけど、みんな心配したんだよ~?ほら、この子達なんてずーっと看病してたんだから」
この子たち? この部屋には、僕と自称ぬらりひょんしかいないはずだけど。
「かちゃり……かちゃり」
先ほどから、なにか机の上でひとりでにものが動き出しているような気もするが、いや違う……ありえない。
考えないように、あれは夢だと思い込もうとするたびに、脳裏をちらつく気絶の原因。
先ほどから都合の悪い……というか聞いたら戻れなくなるであろうキーワードを、わざと聞かないように聞き流してきたが、そろそろ僕の頭がいやでも現状を理解してしまう。
これで、物にしゃべられたりなどしたら……それこそ……。
「ヤッホー、青一郎、お久―」
「しゃべるなああぁ!」
むかつくことに、そのやけにフランクな声と口調の朱色の茶碗に、自分の現実はあっさりと壊されることになったのであった。
◇
「人違い?」
そうです、僕は確かに青一郎という名前ですが、こんなところに来たこともないし、動く茶碗やら三味線とやらにも覚えがない……それに、第一僕は今日ここに引っ越してきたんです……」
少々ひと騒動あった後、何やかんやのもろもろの誤解を解消する為に、僕は自称ぬらりひょんに、ここに来た経緯も含めてすべてを話す。
よくもまあこんな恐ろしい非現実的な状況下で、冷静に事情を説明できるものだと自分に感心をする。
「……え……じゃあ、君は、青ちゃんじゃないの?」
「……ええ、残念ながら……」
「そんなぁ」
見るからに落ち込んだ表情をするなぁこの人は……。
よくしゃべる人であるが、それ以上に目が口ほどにものを言う人である。
「ちくしょーーー!」
叫んだ!?
「姉さん、気を確かに! 彼には非はないっすよ! ってか人間に対して姿を見せてちゃいけないってマヨイガのルール自分から破った姉さんが全体的に悪いっすよ!? マヨイガに妖怪はいないはずなのに姉さん! ぬらりひょんの名前もそろそろ返上っすね!つるべ落としよりも目立ってるっつーか! 姉さんはスニーキングには向いてないっす」
「うるさい穴空き茶碗! 砕いて砂刷りの一部にしちゃうわよ!」
「あああ!? だだだ!? ダメっす、ダメっす姉さん! 自分砕かれると分裂するっす!粉々なんかに砕かれたら、数千の自分とどうコミュニケーションを図ればいいかわからないっす!」
ギャーギャーと戯れるぬらりひょんと朱色の茶碗。
一見して見れば茶碗に向かって叫ぶ危ない人、しかし現実に横たわる怪異は当然受け入れ切れるものではなく、あれらのセリフを耳に入れるたびに、脳が負荷につきずきんずきんと頭を叩く。
「……そそ、それに姉さん! いいんですか! お客さん置いてけぼりっすよ!?」
「……あっ……ええと、こほん……それもそうね。 取り乱してごめんなさい」
「いえ」
頭痛い……。
「あれ? 顔色が悪いみたい。まぁ無理もないよね……お茶で飲んで落ち着いてみる?」
「え?」
一瞬、お茶と言われて、ちらりと隣の茶碗を見てしまう……目が合った。
「な、なにっすか!? 自分雄雌の概念ないっすけど、物っすよ!? そ、そんな……新しい世界への目覚めを少年は僕に求めるっすか!? な、なんか自分、どきどきしてきたっす!」
「朱音さん……砂刷りよりも川へ流したほうがいいですよこいつ……角が取れて危なくないですし」
「やめっやめてくださいっす! 自分は姉さん一筋なんっす! 自分、流されて他人に幸せを贈るなんてマッピラっす! ここに残って姉さんを幸せにするのが自分の役目っす!」
ギャーギャーとうるさい茶碗。
ある意味これだけうるさいやつが隣にいることが、こんな意味不明な状況に陥っても正気を保っていられる原因なのかもしれないが……。
うざい。
「ツクモ」
「はいっす!」
「ちょっとお茶汲んできてくれない? できれば、貴方の中に入れて、貴方を使って私が飲みたいのだけれども」
棒読みだ。
「まじっすか!? 姉さん少年に釣られて目覚めたっすか!? うっひょー! 自分頑張るっす! ぶっちゃけヤカン自分の五倍の大きさあってつぶされる確率百パーセントっすけど、姉さんの為に頑張るっす!」
単純だ。
カチャカチャと音を立てて、ツクモと呼ばれた茶碗は意気揚々と部屋から出ていく。
「あの子、穴あきだから永久に戻ってこないわ」
「!?」
酷かった。