嘆きの海でバナナボート
自転車泥棒めっ!
真っ白な壁に描かれたカラフルな落書き。都会的なアイコンのそれは僕には全く意図が読めない。理解できないことを理解しようとすることほど苦悩することはない。なぜ、理解しなくてはならないのか。しかし、こういった若者たちの文化は数年後、重要な歴史の一部として語られる。時間というものは面白いものだ。「あの頃はよかったなぁ」なんて度々口にする大人たちにも熱く燃えたぎった青春が必ず存在している。大人になっていくにつれて、人は過去の自分を否定していく。成熟とは成長の一部ではない。成長を否定し、次の自分を形成することだろう。成熟しきった果実は地に落ち、新たな実をつける。人は人生の上で何回も死ぬのだ。それも気づかないうちに。
どこかで人が笑った。僕は軽薄な男の目の前でスパゲティを丁寧なフォーク使いで弄んでいた。男の名前は知らない。この数分話を聞いた印象だ。店内には僕らの他に2,3組くらいのカップルがいた。不釣り合いなのもいれば、そうでないのもいた。これはあくまで僕の主観であって、他の人に言わせれば全く違う答えが返ってくると思う。アンビエント・ミュージックが空気に柔らかな振動を与え、心地良い空間を演出していた。話を遮るわけではなく、耳を澄まさなければ喧騒の中に溶け込んでしまう音であった。男の声がこれまた掠れた声で、かつ滑舌の悪さも相まって会話の内容がほどよい塩梅で薄れ、奇妙な心地よさを感じていた。途切れ途切れの言葉を紡ぎ合わせ、適切なタイミングで相槌を打つ。男は僕が一生懸命聞いてくれていると思っているのだろう、嬉々として話の速度を上げていく。テンポが切り替わる時に、ふっと現実に引き戻されたような心地がし、僕は男の顔をちらりと見るのであった。しかし、その後もすぐさまテンポに慣れまどろみの中に戻っていく。時折、ワイングラスに口をつけ少量流し込む。徐々に浸透していくアルコールは体のうちから温め、トントンと頭の中を規則正しくノックするのであった。
「なぁ、・・・最近・・そ・・・」
「え、あぁ・・・はい」
もう二時間くらいこの男といる。男はすっかり顔を茹で上がったタコのようにし、瞬きの感覚が2分の1くらいになったように感じる。ウェイターの少女はやってくるたびに僕の方にもワインを注ごうとするが、僕は「結構」と答えた。
「葉山よぉ・・・本当はさぁ・・・お前逃げてるだけじゃないのぉ?」
「え、あぁ。そうかもしれないですね」
「お前さぁ、ちったぁ優しくしろよなぁ彼女によぉ」
「そうですね」
彼女。とんだおせっかいだ。唐突に僕の頭の一人の少女の顔が浮かんだ。無邪気な笑顔。しわくちゃに頭を撫でた少女は可愛らしい声で抵抗の意志を見せる。子供っぽいその仕草は庇護欲を掻き立て、思わず抱きしめたくなるほどであった。眼を力強く瞑ると、赤、青、黄、緑の火花が灰色のノイズの上で散り弾ける。その中でさっきまでの笑顔がグチャグチャに潰され、酷く歪んで崩れていく。
「聞いてるの?」 その一声で目が覚める。
「うるさいな。黙れよ」と僕は言った。
殺し屋のように日々息を殺して生きているなんて、僕はごめんだ。日差しがいやに痛く、小さな針を肌に突き刺されているかのようだ。コンクリートの壁、床が熱を持って全身から温めようとする。モワッとした空気は息をする度に肺の奥に注ぎ込まれ、内側からも熱される。電子レンジのようだ。電子レンジの中に入った経験はないが、たぶんそんな感じなんだろう。鬱鬱した心とは裏腹に空は馬鹿みたいに快晴だった。まるで僕をあざ笑っているかのようだった。太陽の光の当たらない影の部分に入り、壁にもたれかかると、ひんやりとした感触が背中を走った。つーっと汗が引いていく。同時に熱が奪われ脳がびっくりしたのだろう、眠気が襲ってきた。ゴシゴシと眼を擦るも、そう簡単にはいかない。微かな摩擦熱がこれまた冷やされていくのが心地よく、眠気に拍車をかけていた。こんな昼下がりの屋上で僕は一体何をしているんだろうか。実に無駄で、バカバカしく、今にも投げ捨てなくちゃいけない時間なのに。どうして、僕はできないのだろうか。クールに気取った自分のプライドが捨てられない。凝り固まった価値観をひん曲げることは容易ではない。うん、だめだ。プラスティックの小箱に入れられた人形が踊りだしてきて、こちらを向く。ニヤニヤと笑う人形たちは口元が上に裂けていくにつれ頭から水滴のように溶け始める。グニャグニャに歪んで、爛れ落ちていく。耳が痛い。ハリガネムシが暴れまわっていくようであった。ねぇ、そろそろやめてくれよ。贖罪は用意していないんだ。くそったれた青春はゴミ溜めへ行くべきなんだ。足の先が煤汚れのように黒くなっていく。僕は誰に謝ればいいんだ?誰への罪なんだ?これは現実なのか?不完全な幻想は吐き気を催すほどに奇妙で、転がった果実に手をかけて齧ってみると溶かした砂糖のような甘さを持って、僕を不自然な世界へ蹴り落としていく。やはり、もう無理だ。遠くの窓の向こうでラジオから野球中継が流れてる。スクイズ失敗と叫ぶ実況の声が裏返った瞬間、真っ黒な視界が感覚的な暗転を起こす。
17時更新