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第七章「真相」

 翌九月十一日土曜日の夜、東京湯島の本富士署捜査本部で緊急の捜査会議が開かれていた。そこには本庁の捜査員たちの他に、京都府警から代表してやってきた中村や、さらにアドバイザーとして榊原と瑞穂の姿もあった。いよいよ、捜査も大詰めに近づいているようだった。

「あいつ、西城大学の出身だったのか! くそっ、そんな素振りは全く見せなかったくせに」

 直接内浜と会っている竹村が悔しそうに吐き捨てる。が、それは他の捜査員たちも同じ気持ちのようだった。一年前の事件という事で新入社員の内浜は関係ないと判断していた事もあって、ここにきていきなりの急浮上は想定外すぎる話だったのだ。

「改めて調べた結果を報告します。内浜将志、二十三歳。本籍地は東京都調布市ですが、現在は実家を出て練馬区内のマンションに一人暮らし。大学は京都に出て西城大学の経済学部に所属しています。かなり優秀な学生で、学業成績の上では小堀川陽子よりも上ですね。現在は東邦証券営業部に所属」

 杉山がそう言って急遽調べた内容を報告する。捜査員たちの表情は真剣だった。何しろ、ようやく出た有力容疑者の情報である。

「問題の中阪商事の受験結果はどうなっていたんですか?」

「履歴書によれば、最終面接で落選となっています。あと、改めて大学側に問い合わせた結果、彼は大学内のキャリアセンターにもよく足を運んでいたようです。センターの鵜殿という職員が覚えていました。もっとも、職員に相談するというより、閲覧スペースで各種資料を見ている事が多かったようですが」

 新庄の問いかけに中村がそう答える。

「ちなみに、被害者もこのキャリアセンターに中阪商事の内定を知らせに行っています。面識自体はなかったようですが……そうなると、同じキャリアセンターに通っていた内浜がその事実を知っていた可能性が出てきます」

「だが、それがどうして殺人に結びつく? 自分が落ちた第一志望企業に他人が受かっていたからと言って、その度にそいつを殺していたら世の中殺人だらけになってしまうぞ」

 本富士署署長が眉をひそめる。その言葉を受け、新庄は榊原に視線を向けた。

「榊原さん……ここはあなたの意見を聞きたい。あなたの事ですから、もうある程度事件の真相はつかめているんじゃないですか?」

「……あくまで推理なら」

 榊原は慎重にそう答える。が、隣に緊張気味に座っている瑞穂は、榊原がそう言って話す推理にミスがあった事がない事を知っていた。

「聞かせてください。お願いします」

「わかった。私もアドバイザーとして責務を果たそう」

 榊原はそう言うと、その場で立ち上がった。刑事たちの視線が集中する中、榊原は臆することなく推理を始めた。

「今回の事件、犯人がこの内浜という男だという点に関しては私も異論はありません。おそらく、彼に絞って深く掘り下げれば証拠は必ず出てくるでしょう。その辺は警察の方々にお任せするほかありませんが、問題はなぜこの男が被害者を殺害するに至ったのかという動機の部分です」

「君には、それがわかるというのかね?」

 署長の言葉に榊原は頷いた。

「事の発端は、五月に行われた中阪商事の最終面接です。この時、中阪商事を第一志望とする二人の西城大学の学生がいました。それが小堀川陽子と内浜将志です。もちろん、中村警部がさっき言ったように彼ら自身に直接的な面識はなかったはずですが、少なくとも内浜は同じ最終面接まで残っていた彼女の事を顔だけでも知っていたはずです。そして、この二人の明暗はくっきり分かれた。小堀川陽子が内定をもらう一方で、内浜将志は落選してしまったんです。おそらく、その事実は彼が落選後に次の企業の情報を得るためにキャリアセンターに来た時に、センターに内定の報告に来た小堀川陽子自身の言葉で知ったのでしょう。多分、閲覧スペースで偶然その話を聞いてしまったのだと思います。もちろん、被害者本人は彼が落ちた事……というより彼自身の存在にもついて知らなかったとは思いますが」

 榊原の言葉を、誰もが固唾を飲んで聞いている。そんな中、榊原は淡々と言葉を紡ぎ出していた。

「何にせよ、落選してしまった以上内浜は就職活動を継続しなければならなかった。そして、苦しい就職戦線の中で中阪商事に代わる志望企業を見つける事に成功したんです。それが東京にある東邦証券だった。採用枠はわずか五名。時期的にこれが最後のチャンスでしょうから、彼はこの東邦証券の面接にすべてを賭けていたはずです。落ちたとはいえ中阪商事の最終面接にまで残った彼の事ですから、普通にやれば大丈夫のはずでした。ところが……いざ面接の段階になって、彼の前に思わぬ人物が姿を見せた。それが、中阪商事に内定をもらっていたはずの小堀川陽子だったとしたらどうでしょうか?」

「それは……」

 捜査員たちの表情が緊張する。彼らも、それがいかにまずい話なのかという事が理解できたようだ。

「えぇ、内浜の視点から見れば、これは絶対に許される話ではありません。中阪商事は内定者に内定後の就活の辞退を求めています。これは面接の際にあらかじめ告げられる事ですから内浜も知っていたはず。つまり、中阪商事の内定を得たまま就職活動を行う状況は考えられないんです。にもかかわらず、自分の目の前には内定を得ていたはずの彼女がいて、よりによって東邦証券を受けようとしている。この状況を見て、内浜がどう思うかです」

 その最悪の答えに重苦しい口調で答えたのは新庄だった。

「彼女が中阪商事の内定を辞退して就職活動をしていると思うでしょうね」

「実際は早川による違法な内定取り消しだったわけですが、この件に関して部外者の内浜にそんなイレギュラーな事が起こっているなどわかるはずがありません。つまり、内浜の目から見れば彼女の姿はこう写ったはずです。『彼女にとって、中阪商事は単なる試し受験……お遊びに過ぎなかった』」

 その言葉に刑事たちは息を飲む。そう、この考えが正しければ内浜の立場からすればそういう話になってしまうのだ。

「彼にすれば屈辱的だったでしょう。その『試し受験』のせいで自分は入りたかった企業に入れなかったんですからね。そればかりか、彼女は自分が今まさに受けようとしている東邦証券の面接にも姿を見せた。となれば、彼からしてみればこう思っても無理のないところです。『また、彼女の「お遊び」のせいで自分の人生を無茶苦茶にされてしまう』と」

「そうなってしまう……な」

 署長が呻く。実際は彼女にとっては「試し受験」でもなんでもなかったわけだが、そんな事情を内浜が知るわけがない。

「内浜からすれば屈辱と同時に怒りさえ湧き上がってきたはずです。彼女の『お遊び』のせいで自分は就職もできない。報告通りに彼が優秀な学生だったとすれば、プライドの面からも許せる話ではなかったでしょう。こんな奴に自分が二度も邪魔されるなどあってはならない。その思いが暴発したとすれば……」

「殺意に発展する可能性もなくはない、か」

 それは、何とも重い真相だった。そこには、就職活動という『怪物』に振り回された二人の若者の哀しい姿しかなかった。

「もちろん、これは推測です。しかし、今までの捜査から判断すれば、かなり信憑性の高い推察だと思います。私の考えは以上です」

 榊原はその場に腰かける。彼の推理にしては比較的短い部類のものだった。だが、その内容はどこまでも重苦しいもので、しばしの間、誰も何も話さなかった。

 と、そこで捜査本部の電話が鳴った。新庄が手に取り、何事か小声で話す。やがて電話を切ると、彼は大きく息を吐いて内容を報告した。

「本部からだ。遺体の発見された金橋ビルと内浜がつながった。あの廃ビルの五階は以前個人経営の学習塾が入っていたんだが、内浜は中学生時代の三年間、その学習塾に通っている。塾がつぶれてビルが廃ビルになっていた事も知っていたらしい」

「つまり、ビルに誰もいない事も、ビル内部の構造もよく知っていたって事ですか?」

 杉山の問いに、新庄は重々しく頷く。

「犯行は被害者がフェニックス・ソフトウェアの面接を受けた直後に起こったんだろうな。あの会社の本社は湯島にあったから、おそらく出てすぐだろう。殺害後、近くにあったビルの事を思い出し、そこに遺体を隠蔽したというところか」

「内浜はこの後どういう行動に出ると思う?」

 竹村の問いに、新庄は少し厳しい声で答えた。

「遺体が見つかった事は我々が聞き込みをした事で向こうにもばれている。元々遺体が一年間見つからなかった事を除けば大した小細工もしていないんだ。奴もばれるのは時間の問題だと踏んでいるはずだ」

「逃亡の恐れがあるな」

「だが、まだ証拠が不充分だ。この状況では令状は出ない」

 署長は悔しそうに言った。それを受けて新庄は告げる。

「榊原さんの言ったように、ここから先は警察の仕事だ。いいか、何としても今日中に内浜が犯人だという決定的な証拠を押さえるぞ!」

 新庄の言葉に、刑事たちは大きく頷いた。榊原は、それを後ろで黙って聞いていたのだった。


 内浜将志はスーツ姿のまま、練馬区内にある自室マンションでビールの缶片手にテレビを見ていた。テレビの中ではニュースキャスターが何やら経済に関するニュースを喋っており、証券会社勤務の内浜からしてみればちゃんと見なければならないニュースなのだが、その視線はテレビを全く見ていなかった。

 内浜の頭の中では、昨日会社を訪れた刑事たちの姿が離れないでいた。あの時はうまくごまかしたが、これがいつまでも続くとは思っていない。ついに、自分のやった事に対する因果が今になって巡ってきたという感じだった。

「……何で今なんだよ。まだ一年だぞ……。もう少し……もう少しこの人生を満喫したっていいじゃないか……。それだけのことを僕はしたんだぞ……」

 内浜はそう言うと空っぽのビール缶を握りつぶしてその場で頭を抱え込んだ。目を閉じると、嫌でも一年前の光景が浮かび上がってくる。

 ……正直、あの日の記憶は判然としない。覚えているのは、東邦証券の面接会場であの女の姿を見て心臓が止まるかと思った事、尋常ではない怒りがわき上がってそのまま彼女の後を尾行した事、そして……気づいたら彼女が自分の目の前に倒れていた事。

「違う……違う! ……僕はあんなことをするつもりじゃ……」

 呻くように呟くが、それを聞く人間はいない。内浜は孤独だった。

 就職活動の頃の自分はどこかおかしかったのだと今でなら思う。新卒一括採用枠の中で何が何でも就職しなければならないという強迫観念にも似たプレッシャー。毎日のようにやる自己分析と面接で自分が何なのかわからなくなっていく恐怖。それが歪んで己を見失い、あんなとんでもない事をしてしまった。あの時の記憶は不鮮明で、正直どうやって彼女を殺したのか、どうやって遺体の処理をしたのかさえ覚えていない。

 その結果、内浜は志望企業の東邦証券に入る事ができた。しかし、その代りに得た物は何だったのだろうか。すべてを犠牲にして手に入れた仕事は、どこまでやっても内浜の心を満たしてはくれなかった。それが尾を引いたのか会社でも孤独になり、就活に夢中になりすぎて友人関係をおろそかにした事もあって友人たちは離れていった。残されたのはただの孤独と虚無感、そして人としてやってはいけない事に手を染めてしまい、それを誰とも共有できず永遠に隠さなければならいという罪悪感だけである。

 その因果が、ついに巡ってきた。彼女の遺体が見つかり、警察が動き出したのだ。もはやばれるのは時間の問題だが、こんな状況なのに自殺や逃亡をする度胸は自分にはない。あれだけの事をしておきながら、そして警察に遺体を発見されておきながら、もしかしたらまったく大丈夫で今まで通りの生活を続けられるかもしれないという根拠もない願望が絶えず心の底から湧き上がってくるのである。

「僕は……どうしたら……」

 相談する者は誰もいない。そんな状況で、内浜は頭を抱えながら涙混じりの声で一人寂しく呟いたのだった……。


「……奴は、どうやって返り血を処分したんだろうな」

 同時刻、捜査本部の一角で、忙しそうに動き回る捜査員たちを見ながら、榊原は傍らの瑞穂に唐突に静かに問いかけていた。

「え?」

「これはおそらく衝動的な犯行だ。死因は撲殺。となれば、彼女の頭から出た返り血が犯人にも付着していたはず。それをどうやって処理したのか、だ。まさかそのまま着ているわけにもいかないだろう」

「ええっと……」

 瑞穂は首を伸ばして、正面のホワイトボードの書かれた文字を見やる。そこには、ここ数時間で刑事たちが集めてきた内浜将志に関する情報が書かれていた。

 問題の八月四日付近の日程もすべて判明している。内浜は八月三日から五日にかけて都内で複数の面接を受けており、滞在中は調布の実家ではなくビジネスホテルを使っていた事がわかっている。また、彼女が死亡したとされるフェニックス・ソフトウェアの面接時間に……もっと言えば同日行われた東邦証券の面接以後の時間帯に、彼に面接の日程は存在しない。つまり、内浜にアリバイは存在しないのだ。

「この日程だと、着替えがあったんじゃないですか? 三日も泊まり込んだみたいですし」

「なるほど。だとすると……犯人は犯行時着替えを持っていた事になる。そうだね?」

「そうなりますが……」

「じゃあ、その着替えはどこに預けていたんだろうね? 面接会場に持っていくわけにもいかないだろう」

「そりゃ、近くの駅のコインロッカーとかに入れておいたんだとは思いますけど……」

「何に入れて? 就活鞄には入りきらないだろうし、そもそも面接会場に持っていく必要がある。かといって、まさか紙袋に入れるわけにもいくまい」

「何ってそれは……」

 そこまで言って、瑞穂の言葉が止まった。

「先生、まさか……凶器って……」

「さて、どうだろうね。だが、この推察が正しいなら返り血や遺体の処理に説明がつくし、何より奴は決定的な証拠を未だに持っている事になる。これが……勝負の分かれ目だな」

 榊原はそう言うと、その場からゆっくり立ち上がって、正面で指示を出す新庄の方へゆっくり歩いて行った。この事件のアドバイザーとして、最後の仕事を果たすために……。


 日付が変わる。二〇一〇年九月十二日朝。内浜は最悪の気分で目を覚ました。ベッドから起き上がり、思わず額に手をやってしまう。涼しくなり始めているというのに、全身汗だくだった。何か悪い夢でも見たらしい。

「……行かないと」

 内浜はそう言うとフラフラと立ち上がり、いつも通りにスーツを着て出勤の準備を始めた。簡単な朝食を作り、食べた後で身だしなみを整える。そして、今日から出かける出張のためにスーツケースを準備し、中身を確認してから家を出た。

 いつも通りに行動する……そうすればこの日常は守られる……内浜はそれしか考えられなくなっていた。とにかく、今ある日常を崩したくない。なぜなら、この日常は自分が人を殺してまでやっと手に入れた物なのだから……。それが、たとえガラスのようにはかないものであったとしても……。

 内浜はいつも通りに最寄り駅まで行くと、東京駅行の切符を購入した。今日は日曜日だが、静岡にある取引先へ休日出張を命じられている。普段からよく行くお得意先で、先方の自分に対する評価も高い。大丈夫、日常は続いていく、これまでもこれからも、何の問題もない……内浜は心の中でそう念仏のように唱え続けていた。

 在来線を乗り継いで東京駅に出る。そして、改札を出て新幹線のホームの方へ足を踏み出そうとして……。


 その瞬間、内浜の周囲をスーツ姿の男たちが取り囲んだ。


「……え?」

 突然の事態に、内浜は立ち止まっていた。そんな中、一人の男が前に出る。

「どうも、内浜さん。御出張ですか?」

 それは、先日会社を訪れてきた竹村という刑事だった。いきなりの事態に、周囲の通勤客たちが何事かとこちらを見ている。それが耐えられなくなって、内浜は反射的にこの場を取り繕おうとした。

「な、何ですか? 僕は忙しいんです。話ならこの前……」

「いえ、今日は別件でしてね」

 竹村はそう言うと、一枚の紙きれを内浜に突き付けた。そこにはこう書かれていた。

『捜索差押令状』

 一瞬逮捕状かと思っただけに、内浜は何が起こったのかわからないでいた。

「あの……捜索差し押さえって……」

「今回は差し押さえの方です。我々は、ある物をあなたから差し押さえに来たんですよ。具体的には……そのスーツケースです」

 竹村はそう言うと、鋭い目つきで内浜の持つスーツケースを睨んだ。

「……は?」

「失礼」

 そういうや否や、竹村は内浜からスーツケースを取り上げた。文句を言う暇もない。同時に、後ろから鑑識の制服を着た男が前に出てきた。

「お願いします」

 竹村の言葉に鑑識は促すと、何かスプレーを取り出していきなりスーツケースに吹きかけた。内浜は何が起こっているのか思考が追い付かないでいた。

「い、一体何を……」

「わからないんですか?」

 そう言って内浜を見る竹村の目は厳しい。竹村だけでなく、他の男たちもみな同じ表情で内浜を見ていた。しかし、実際問題として内浜は本当になぜそんな事をするのかわからないのである。何が起こっているのかわからず、内浜はそれを見つめる事しかできなかった。

 だが……なぜか何もないはずなのに、内浜の心臓の鼓動は早くなっていた。何か、心の奥底でスーツケースを調べられるのを拒否するように。しかし、内浜にはそれがなぜなのか思い出す事ができない。

 その時だった。

「出ました」

 鑑識が無表情に告げた。その瞬間、刑事たちは鬼のような形相で内浜を睨んだ。なぜかわからない恐怖を感じながら内浜は恐る恐るスーツケースを見る。


 そのスーツケースは、端の部分が青白く光っていた。


「ルミノール反応ですね。量から見て切り傷程度の出血とは思えません。間違いなく、こいつが凶器です」

 鑑識の言葉に、竹村はゆっくり内浜に歩み寄った。

「説明してほしいですね。何であなたのスーツケースからこんなに大量の血液反応が出るんですか? あなた、過去にこいつで誰かを殴り殺しでもしたんですか?」

「な、何を言って……僕は……」

 その瞬間だった。突然、内浜の脳裏に鮮明な記憶が蘇った。



 人気のない道路を歩く女性。それを追いかける自分。


 その後ろから接近し……


 鬼のような形相で……


 手に持ったスーツケースで彼女の頭に殴りかかろうとしている自分の姿の……



「あ……あ……」

 内浜は思い出していた。そしてその瞬間、体がガタガタ震えはじめていた。

 そうだ、僕は……このスーツケースで彼女を殴り殺して……そして返り血のついた衣服と彼女の遺体をこの中に詰めて……。

「あ……あ……」

 この時、内浜にはまだ反論する余地が残っていた。この検査の段階ではケースに血が付着していた事しか証明されていない。つまり、このケースが小堀川陽子殺害に使われたと立証されたわけではないのだ。そこを突けばこの場は逃げ切れるかもしれないと反射的にそう思っていた。

 だが……

「あ……あ……あ……ああ……」

 一年に渡り罪悪感と孤独感、虚無感に苦しめられていた内浜にとって、

「ああ……あああ……あああああ……」

 これ以上の反論を重ねるだけの気力は、

「ああああああ……あああああああ……」

 もはや……どこにも残っていなかったのだった……。

「ああああああああっ―――――――!」

 次の瞬間、内浜は突然絶叫してその場に崩れ落ち、そして大声で号泣し始めた。


 それが、殺人犯・内浜将志が人を殺してまで手に入れた「日常」が、ガラスのように木端微塵に砕け散った瞬間だった……。

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