第28話 立つ鳥、後を振り返らず
「――辞める覚悟をつけてきたのでしょう?」
心の奥深くまで見通す鋭い眼差しが、容赦なく葵を貫いた。
不意を突かれた心臓が暴れるように鳴って、耳の奥がかすかにキーンとする。
「その意思を文書にして持ってきたのなら、今ここで受け取る、と言っているの」
……確かにある。鞄の中に。昨夜眠れぬまま書き記した、一通の封書が。
「あの、どうして……」
わかったのだろう。半ば茫然とする葵に、目の前の女王は苛々した色を滲ませた。
「これでも人を見る眼はあるつもりよ。顧問を引っ叩いておいてのうのうとしていられる貴女じゃないでしょう。今じゃ落ちぶれた古狸とはいえ、あれでもクロカワフーズの重鎮ですからね」
辛辣に言い切った沙紀絵は、腕を組んで「でも」と顎を上げる。
「……本音をいうと、仕事が辛く感じてしまう自分に絶望した……ってところかしら。店に立てば、濱野さんを思い出してしまう――それが、怖い」
ザクリと心中を抉られたような気がした。――それは、事実だ。
喉奥が痙攣しそうになるのを必死に堪え、握り込んでくっついてしまった指を無理矢理に剥がして、葵はそろそろと鞄の中から取り出す。それは、昨夜散々悩みながら認めたもの。
「仰る通りです……私……お店に立つのが、怖いです……」
「……大切な人を亡くせば誰だって精神的にやられるわ。……辛いのは貴女だけじゃないのよ」
わかっている。自分だけじゃない。
美津子夫人や遼平に比べたら……古坂夫妻や『敦房』の常連客……社長をはじめクロカワフーズで一緒に働いた古い社員たち……そして侑司も。皆が濱野氏の死を悼んでいた。
――自分だけじゃない……それは、わかっている、けれど。
「……申し訳、ありません……」
「それでも、 “それ” を出すの?」
沙紀絵の眼が、葵の手にある白い封書を捉える。チリチリと焼き焦がすような視線だ。
「……あの、……はい。……受け取っていただければ、嬉しいです……」
封書に両手を添えて、献上物のごとく差し出せば、彼女の声音は一段と低くなった。
「……クロカワフーズの統括部長は、一度受け取ったものは返さないし、なかったことにしない主義なの。……それでも出すのね?」
どこかで聞いた台詞だ。どこで誰の言葉だったのか……内心首を傾げながら葵は「はい」と頷く。
沙紀絵の片眉が上がり、何も言わぬまま、彼女は封書を葵の手から取り上げた。その時初めて、封筒の封をしておらず、表書きを記すのも忘れていると気づいたが、もう遅い。
パラリと開かれた紙面。
さらに高く上がった沙紀絵の片眉の下で、鋭い眼差しが書面をざっと流し読む。感情をまったく滲ませない能面顔まま、読み終えた彼女は手元から葵へと視線を上げた。
向けられる瞳は驚くほど無機質だ。そうした表情をすると、思いがけず彼女の次男が思い出される。
息詰まる長い長い数秒ののち、気高い女帝は魔術を解くようにふっと力を抜いて、呆れたように笑んだ。
「……まったく……」
「え?」
「……貴女の “覚悟” はわかったわ。これは私が預かりましょう。……正式な “返答” は追って通達――いいわね?」
「はい……あの、……よろしくお願い、します……」
他に何と言っていいかわからず、座ったままの姿勢で深々と頭を下げれば、沙紀絵は元の通り紙面を封筒へ戻しながら、ことさら不機嫌な声を上げる。
「――ああ、言っておくけれど、黒河マネージャーも貴女と同罪、何らかの処分は免れないわよ。……馬鹿よね。せっかく貴女が身を挺して彼の暴走を止めようとしたのに、あわやご老体を絞め殺そうとするのだもの」
「ま、待って下さい、それは――、」
葵が反論しかけた時、単調な電子音が流れた。ソファ上に置いてある沙紀絵のバッグの中からだ。
沙紀絵は驚いた様子もなく、バッグの中から携帯端末を取り出し耳に当てる。
「――はい、……ええ、もう終わります……そう、応接室。……そうしてちょうだい……ええ、お願いね」
簡単なやり取りで通話を終えた彼女は、端末と封筒をバッグにしまい入れるや否や、すっとソファから立ち上がって葵を見下ろした。
「……あの日、貴女一人で蜂谷と対面させることを、彼だけに知らせなかったの。『一緒に立ち会うから心配はいらない』と嘘をついたのよ。何故だかわかる?」
「それは……」
詰まって目を泳がせる葵を一瞥し、沙紀絵はソファを離れた。
「――そう。彼だけが、社長の考えた計画に最後まで反対し続けたの。水奈瀬店長を危険に晒すわけにはいかない、彼女に危害が加えられたらどう責任を取るつもりだ――とね。だから、嘘までついて待機組にも入れなかったのよ。邪魔されるわけにはいかなかったから」
尊大に腕を組んだ沙紀絵は、刻むようにヒールを鳴らし、葵の脇に立つ。
「……わかるでしょう? ああ見えてあの子、血の気は多いし短気だし……おまけに優しすぎるの。鉄の仮面を被ったサイボーグだなんて密かに呼ばれているようだけど、……笑っちゃうわね、あんなに暑苦しいサイボーグがいるものですか。それじゃ駄目なのよ。……経営の中枢に携わる者として、時に心を封じなければならないこともある……大切なものを守りたいのなら尚更、情に流されて判断を誤るわけにはいかないわ」
葵の肩に手を置いた沙紀絵の表情は、厳しい言葉のわりに、優しく穏やかな気がした。
「……これから彼も、多くのことを反省しなければならないのよ」
――と、応接室のドアが控えめな音でノックされた。
「どうぞ」
沙紀絵の合図でドアが緩やかに開く。そこから顔をのぞかせたのは徳永GMだ。葵の姿を認めると、彼は温和な目元を和ませ頷き、沙紀絵に向かって小さく目礼をしてからすっと身を引いた。代わって入ってきたのは――、
「……木戸さん」
葵が驚くのと同じくらい彼女も驚いたのだろう。葵を見るなりたたらを踏んでその場に立ち尽くした。
困惑と緊張で固まった空気を、スパンと割ったのは統括部長の凛とした声だ。
「――では、水奈瀬店長。下がっていただいて結構よ。先ほども言った通り、貴女の処分は追って連絡します。それまでは自宅待機、お店に出ることを禁じます。――木戸さん、そちらに掛けてちょうだい」
今日一番の冷酷にして高慢な女帝ぶりを見せる沙紀絵は、もう葵には興味がない、といった素振りで元いたソファに戻り腰を下ろす。そしてテーブルの上の書類を取り上げて、忙しくめくり始めた。
となれば、グズグズとこの場に止まるわけにはいかない。葵は立ち上がってコートと鞄を手に、深く頭を下げる。立ち尽くす木戸の脇を通り、徳永が待つ廊下に出ようとした時、木戸が動いた。
「――あのっ……!」
呼び止められた声は予想外に大きくて、叫んだ本人が自分の声にビックリしているようだ。
しばらくぶりに見る彼女は、濃グレーのスーツを着てきちんとメイクも施しているが、その下から顔色の悪さが透けて見えるようで、心なしか少し痩せた気もする。
「……あの……水奈瀬さん……私……」
おずおずと言い淀んだ彼女は、くしゃりと顔を歪めたかと思うといきなりガバッと身体を折り畳んだ。
「ご、ごめんなさい……っ!」
頭を下げたまま木戸は、ごめんなさい、本当にごめんなさい、と何度も繰り返す。
戸惑いつつ助けを求めるように視線を彷徨わせれば、眼鏡をかけ直した統括部長と目が合った。彼女は小さく肩をすくめただけで、再び書類に視線を落としてしまう。
葵はそっと手を伸ばし、木戸の華奢な背に添え、頭を上げるよう促した。
「……木戸さん、色々証言してくれたんですよね? ありがとうございました」
――偽善者ぶって。……そんな声が頭の片隅で上がった。
そうなのかもしれない。彼女に対する複雑な感情の中で最も多く占めるのは “哀れみ” であるような気がする。彼女もある意味、被害者だったのだと思うから。
「……水奈瀬さん」
身体を起こした木戸はほんのり鼻の頭を染めて、潤んだ瞳からは今にも滴が落ちそうだ。
すでにクロカワフーズを退職処分となっている彼女だが、こうして今日、本社に来たということは、それなりのけじめをつけるためなのだろう。
それがどれだけの勇気を必要とするか……そう考えれば、彼女に対して初めて共感できる瞬間でもあった。
葵は静かに彼女から目を逸らし、応接室を後にした。
* * * * *
階下のロビーまで、徳永が送ってくれた。統括部長と交わされた会話について、特に何も聞かれなかったが、「ちゃんと食べて、ちゃんと休むんだぞ」と、父親を思わせるような温かさが心に染みた。
徳永に頭を下げて別れ、本社ビルの正面エントランスから出ると、刺すような冷気と眩い日の光。空気はずいぶん冷え込むが、雲ひとつない晴天だ。
本店前の大通りへ出ようとゆっくり足を進めつつ、どうしようかな、とぼんやり考える。
葵は今、処分保留の身なのだ。店に出ることも禁じられてしまい、これからしばらくどう過ごせばいいのか、考えるだけでも途方に暮れる。
もしかしたら、このまま店に立てる日は来ないのかもしれない。覚悟したこととはいえ、お先真っ暗とはこういう状態をいうのだろう。
ただ情けなくも、ホッとした自分が確かにいた。
濱野氏の訃報は、葵からすべての活力を奪ってしまった気がした。悲しみや悔やみに呑み込まれ溺れそうになっても、そこから抜け出す気力がない。
何より愕然とするのは、今になって『敦房』での楽しく充実した思い出ばかりが、強く脳裏に蘇ってくることだ。そのせいなのか、『アーコレード』で必死にやってきた四年近くの年月が、嘘のように色褪せて見える。
『敦房』のような店を創りたい――その一心でやってきたけれど、それさえも身の程知らずな夢物語だったと、空しく思えて仕方ないのだ。
こんな精神状態で店に立っても、笑顔で客をもてなすことなどできるわけがない。
――給仕人失格、である。
気怠く重い身体を引きずるようにしてトボトボと歩みを進める葵の耳に、プァンというクラクションが聞こえた。
顔を上げると、本店のクラシックな門構えの脇に停まっているのは、ハザードランプを点滅させる見慣れた白のステーションワゴン。
「……うそ、なんで……」
呆然としたまま歩み寄ると、助手席側のウィンドウがズィーと下がり、そこから二カッと笑う萩の顔が現れた。
「よぉ! 葵、終わったかー」
「……どうして、ここにいるの」
「とりあえず乗れ」
奥の運転席から弟越しに、蓮がサングラスを少し下げて言う。
「あ、うん……」と、狐につままれた気分で後部席のドアを開け、乗りこもうとする寸前、葵はその動きを止めた。
――水奈瀬……!
胸が軋むような音を立てた。
……今、声が……
ゆるゆると顔を上げ、背後を振り返ろうとした時、萩が焦れた声を上げる。
「――葵? 何やってんだ、早く乗れよ」
「……え? ああ……うん……」
気のせいだな、と思う。
今日は日曜日、時刻はあと少しで正午だ。人手不足が深刻なホテル店舗に張りつくあの人が、この時間、この場所にいるわけがない。
振り切るようにリアシートへ乗り込めば、蓮のサングラスがバックミラー経由で葵を見た。
「羽田まで行く。お前もつき合え」
「あ、そっか……萩の出発、今日だったっけ……」
専門学校の臨床実習だ。こないだまではしっかり頭にあり、あれこれと心配していたはずなのに、今やすっかり頭から抜けてしまっていた。
密かに重い溜息を吐くと、今度は萩が無邪気な顔でシート越しに振り返る。
「せっかく店まで行ったのにさ、葵、まーた本社に呼ばれたとかゆーじゃん? 最近こんなんばっかだぜ? タイミングわりぃの」
「こいつが、行く前にお前の店でメシ食いたいって言うから、早めに家を出て連れて行ったんだけどな。結局食べずじまいだ」
緩やかに発進する車の中で、やいのやいのと説明する二人の話から、どうやら店で二人に対応したのは柏木らしく、水奈瀬さんは今日店に戻ってこないでしょう、と言われたらしい。
「つーかオレ、何度も電話したんだけど。なんで電源入れてねーのさ」
後部に頭を傾げ、萩が不平を垂らした。
「ああ、ゴメン……あのね、私の携帯、もうダメみたい」
「はぁ?」
葵は鞄の中から携帯電話を取り出した。
古いと言われ、まだ使っているのと驚かれながらも、頑固に使い続けてきた葵の携帯電話。とうとう何日前からか、突然勝手に電源が切れるという現象に見舞われ始めた。おそらくバッテリー交換の時期なのだろう。何しろ、朝方フル充電で持って出かけても昼まで持たないのだから。
「それと……なんか、画面に変な線が入ってて……指でグッと押すと消えるんだけど、またすぐ何本か線が現れて、その後にまた電源が落ちるという――」
「――さっさと買い替えろよ! 画面指で押すとかバカだろっ? 精密機械ナメてんのかっ?」
がなり立てる萩に、運転席の蓮が「うるさい」と片耳を押さえた。
「とりあえず、早めにバッテリーだけでも交換した方がいいんじゃないか? 仕事にも差し支えるだろう。あとで、携帯ショップに寄るか?」
蓮の至極最もな言葉に少し迷ったが、結局「ううん、今日は……いい」と首を振った。差し支えるも何も、今後仕事に出られるかどうかもわからない。
不自然な間が空き、車内が奇妙な空気になった時、萩が取ってつけたように「あー!」と吼えた。
「マジで腹が減って死にそうなんだけど! 羽田に着いたらソッコー、アレだ…… “空弁” !」
「ああ、じゃあ俺も買って帰ろうかな。久しぶりに “焼き鯖寿司” が食いたい」
蓮がごく自然に合わせて、萩が大げさに口を突き出す。
「えー、 “空弁” を家で食うのかよ。空で食う弁当だから “空弁” なんだぜ?」
「お前の論理は小学生以下だな。それじゃあ “駅弁” は駅でしか食べられないことになる」
「は? 駅弁は駅から駅の間もオッケーに決まってんじゃん。つまり、線路の上もオッケー、電車ン中もオッケー」
「じゃあ、時々百貨店でやっている “駅弁フェア” はどうなるんだ? 百貨店で勝った駅弁をわざわざ駅構内か電車内、もしくは線路上に持ち込んで食べなきゃいけないのか」
「細かいねー蓮兄は。小さいこと気にしてっとハゲるぜ?」
「このまま八王子方面へUターンしてもいいんだぞ」
「おぉいいぜ! どーせならそのまま宮崎まで行っちゃえよ。夜通し走れば明日の昼頃までには着くだろ? 実習はあさってからだからゼンゼンかまわねーし?」
「ガソリン代、高速代、俺らの宿泊代、すべて払えるんだろうな」
「――二人とも、ごめんね……」
後部席で小さく呟いただけなのに、蓮と萩がピタと止まった。
二人の間に素早く交わされる目線とわざとらしい咳払い。泣きたくなるような二人の優しさ。
そもそも、葵がいなくても店で食事してくればよかったはずだ。事前に見送りへ行けないことも伝えてあるので、葵抜きで羽田に向かえばよかった。なのに、本社に呼ばれたことを知った二人は、心配してわざわざここまで足を運び、いつ出てくるかわからない葵を待っていてくれた。
「――心配ばかりかけて、ごめん……」
申し訳なさで重く項垂れれば、真っ直ぐフロントを見据えたままの蓮がぼそりと言う。
「……お前は、どうなる?」
「まだ、わからない……とりあえず、処分が決定するまで自宅で待機だって」
すると、助手席の萩が憤然とシート越しに身を乗り出した。
「何だよソレ。コモンってやつを殴ったからってクビになんのか? だってそいつの方が先に葵を侮辱したんだろ? 葵がやらなきゃ黒河サンがボコってたって、あのメガネのロボちっくなマネージャーさんが言ってたぜ?」
「え、……柏木さん、そんなことまで話したの……?」
メガネのロボちっく、は違和感なくスルーして目を丸くすれば、萩が自身の眉間辺りにピッと中指を当てた。
「『――暴力はイケマセン。ですがここだけの話、ワタクシは胸がスカッといたしマシタ。あまり上手な平手打ちとは言えまセンでしたが』……だって。どんな引っ叩き方したんだよ」
意外といい線を突いている萩のモノマネに、葵はちょっとだけ笑ってしまう。それをミラー越しに見た蓮も、ホッとしたように頬を緩めた。
「……心根の真っ直ぐな良い妹さんですね、と褒められた。……まぁ確かに、手を上げた時点でお前の非は決定的だ。いくら正義のためとはいえ、それを容認するほど会社という組織は甘くない。それでも……俺はお前を誇りに思うよ」
「蓮兄……」
以前、『クロカワフーズなど辞めてしまえ』と語気荒く通告された日から、蓮とはまったく話ができなかった。その兄に電話をしたのは、蜂谷から呼び出しを受け、統括部長にそれを報告した後だ。
何となく兄の声が聞きたくなったのは、蜂谷との直接対峙を前にやはり不安を感じていたのだろうか。
他愛のない話の後、「どうしても仕事は辞めたくない、やらなければいけないことがある」と告げたのは嘘じゃない。その時は本心で、そう思っていたのだ。
けれど、事態は思いもよらない方向へ進んでしまった。葵の心情も大きく変わってしまった。
絶対に辞めない、と豪語してからふた月も経っていないというのに、今じゃこの身は処分待ち……最悪、退職処分もあり得る状況だ。しかも、自分はそれを諦観してしまっている。
それが情けなくて、ただひたすら申し訳なく思う。
「――んじゃさ」
どんよりと濁った空気を吹き飛ばすかのように、萩が勢いよく振り返った。
「葵も一緒に宮崎行こう—ぜ! 家でじっと待つとかつまんねーじゃん? あ、なんならあっちで新しい仕事を探せば? まぁ『アーコレード』みたいな店はあるかわかんねーけどさ、宮崎にだって旨い飯屋はいっぱいあるんだし……」
ただでさえ長い脚の萩が運転席の方へはみ出し、蓮はぞんざいな手つきで萩の膝を押しのける。
「萩、シートベルトをしろ。それと、葵の処分はまだ決まったわけじゃないぞ」
「……わかってるって。もしもの話だよ」
押しやられた脚を窮屈そうに折り曲げ、萩は不満げに鼻を鳴らした。
葵は手に持ったままの携帯をそっと開いてみる。案の定、画面は真っ暗、電源ボタンを長押ししてもまるで反応がない。バッテリー切れだ。
使い物にならず、持っていても仕方がない……ただのガラクタ。
「……そうだね……もし、正式に辞めることなったら……」
考えてみようかな……と、唇だけを動かして、携帯電話を鞄の中に落とし入れる。
クロカワフーズを辞めて、宮崎で新しい仕事を探す……ということは、『アーコレード』じゃない、違う職場で働く、ということだ。
……慧徳のみんなと別れて、クロカワフーズの仲間とも別れて……黒河さんとも会えなくなって――、
頭を一振りして、葵は速度を上げた窓の外を遠く眺めた。
『――水奈瀬……!』
さっき車に乗りこむ寸前、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。呼ばれたと、思いたかったのかもしれない。
――このまま、会えないまま、終わってしまうのかな……
「――ああっ、そうそう葵! オレさ、また危うくケーサツに連れて行かれそうになったんだけど」
「……まったく、お前ってヤツはどうしてそう猪突猛進なんだろうな」
あの日、大泣きする葵をずっと抱きしめ背をさすってくれた。彼の身体から伝わったかすかな震えは、今も思い出せる。
――温かかったな……黒河さんはいつも温かくて優しくて、だからホッとする……
「またそれ言う? つーか、ゲンコーハン逮捕に協力したんだぜ? これって表彰もんじゃね?」
「ケリ入れられてカッとなって追いかけた――という証言もあるが」
「そーゆーコトを言うのは伸悟さんだろ!」
――いつも助けてくれた彼なのに……自分は、彼のために何ができただろう……
何もない……何も。……だって、自分で立つことさえできない……弱い、ちっぽけな……
「――葵? 聞いてる?」
「え……あ、うん、聞いてるよ。えっと……萩はまた、何かやらかしたの?」
「なにもやらかしてねーよ! ナンだよその “やらかす前提” みたいなの」
「お前……世の中の厄介事を引き寄せる強烈な匂いでも発しているんじゃないのか?」
「人をGホイホイみたく言うなっ」
冷たく眩しく晴れた空の下、白いステーションワゴンは首都高に乗り上げ加速する。
耳に残る微かな声を胸に抱きしめ、葵はそのままそっと目を閉じた。
――ごめんなさい……、黒河さん。
* * * * *
羽田空港で萩を見送り、蓮にアパートまで送ってもらったその日の夜、柏木から連絡が入った。取り急ぎ決まった今後の予定だというそれは、拍子抜けするほど短く簡単な通達であった。
――明日から一週間、溜まった有給休暇の消化にあたること。
今後の進退については一切告げられず、柏木は「一週間後に再度連絡いたします」と言う。
最悪の処分も覚悟していただけに、この通達には呆気にとられた。
今、ここでどうして、有給消化……?
上層部の意図がまったく理解できないとはいえ、否とも言えない。葵は素直に承知の意を伝え、通話を終えた。
ラグの上にペタンと座ったまま、しばらく放心したように宙を見つめる。――が、やがてその瞳の焦点を合わせ、葵は充電用アダプタに繋いだままの携帯をもう一度手に取った。
こうして充電したまま操作するのも、バッテリー劣化の原因の一つになるらしいのだが、通話中に電源が落ちるのを避けるためには仕方がない。
ボタンを操作して耳に当てれば数回のコール音の後、『もしもし、葵?』という優しい声。すでに夜十時を過ぎているが、まだ寝ていなかったようだ。もしかしたら萩が到着したこともあって、今夜はまだ伯父宅にいるのかもしれない。
「――うん。……お母さん、久しぶり。萩は無事に着いた? ……あはは、そっか、よかった。……ううん違うの。……あのね、……私も、ちょっと……そっちに行こうかな、と思って……」




