裏18話 暴言失言!青柳麻実にご用心
その日の夜遅く、青柳麻実は伸びきった麺のようにくったくたとなった身体をズルズル引きずりながら、勤め先である出版社の本館ビルを出ようとしていた。
“三泊四日だけど実質一泊四日とか当たり前だよ遠方取材” のラッシュはめでたく今日で終了だ。年明け早々に幕を開けた激務から、ようやく解放される。
しかし何故だろう、達成感より遥かにこの身を蝕むゲッソリ感。
剥げた化粧にバサついた髪、色気も可愛さもあったもんじゃない動きやすさ重視の服を着た女が、いかにも重そうなボストンバッグを肩に担ぎヨレヨレ歩く姿は自分でも、終わってんな……と思う。
……限界まで伸びきった麺は小麦粉に還ったりしないかしら……粉になったらこのまま風に吹かれて飛んで帰れるのに……
――と、馬鹿なことを考える自分は、脳ミソも伸びきってシワなど完全に無くなっているのだろう。
好きな仕事で遣り甲斐もあるが、元々少ない女子度が限りなくゼロへ近づきつつある現状は、由々しき問題なのかもしれない。
トホホ……と力なく顔を上げた麻実は、その瞬間「あ」と歩みを止めた。
エントランスから入ってきたのは、オリーブ色のダウンジャケットを着込んだ男。麻実と同じようにだいぶ疲れた顔と見えるが、そんな些末は知ったこっちゃない。
――見つけた……!
麻実の中からすべての疲れが吹っ飛んだ。持ち前のバネで飛ぶように駆け寄り、麻実は担いだ特大バッグごとその男に体当たりした。
「……ぃってっ、あ、青柳……っ?」
「――やっと見つけた片倉さん! 何度も電話したのにっ、メールもしたのにっ、会いたかったのにっ!」
「……お前、セリフに見合った動きをしろよ……重い」
「クロカワフーズのこと調べてるんでしょ? 葵は大丈夫なのっ? 片倉さん、あちこちに首突っ込んで嗅ぎまわってるんならアタシにも教えてよっ!」
「……青柳……、いいから、どけ……圧死する……」
呻くような片倉の声に、麻実は渋々、ロビーの床上へ下敷きにした彼の身体から身を起こした。
「……ったく、『会いたかった』と押し倒された相手に、ここまで欲情できないとはな」
イテテと腰をさすりながら立ち上がった片倉に、麻実も憮然と言い返す。
「アタシに押し倒されるなんて宝くじ当選以上の幸運なんですよ。片倉さんなんかすべての運に見放されればいいんだ」
「縁起でもないことを言うな。ただでさえ愛の女神は俺を見てないっつーのに……」
ブツクサ言う片倉の胸倉を掴んで、麻実はあわや口づけか!くらいに顔を近づけた。
「片倉さんの失恋なんてどーでもいいんですよ! 何度も連絡したじゃないですか! なんで着信無視っちゃってるんですかっ! メールくらい返してくれたっていいじゃないですか!」
「ツバ飛ばしてキンキン叫ぶなよ……俺だっていそがし」
「アタシだってずっと忙しかったですよ今だってソッコー帰りたいんですよ寝たいんですよでもずっと気になってたのに仕事忙しくって葵に会いに行けないしも連絡取れなくて毎日毎日モヤモヤイライラ――」
「わかった、わかったから。俺から離れて息継ぎをしてくれ。こっちまで苦しくなる」
心底うんざり顔で麻実を押しやった片倉は、乱れた胸元をやれやれと直した。
「……大体、なんで俺が “嗅ぎまわってる” って思ったんだよ」
「桐島や橋本が言ってたんですよ。片倉さんが仕事そっちのけでクロカワフーズの社内紛争に首突っ込んでるって」
「あいつら、余計なことを……」
「クロカワフーズの本社にまで出入りしてるんでしょ。葵の弟がそこで会ったって言ってたし」
「ああ……あれね……」
と、片倉が何か言いかけたところへ、彼のポケットから軽快な電子音が流れた。
携帯端末を取り出した片倉は、これ見よがしに顔を顰めて耳に当てる。
「――はい、すみません。今、下にいます。すぐ行きますんで……はい、わかりました――」
手短に通話を終えて、片倉は溜息とともに麻実の肩を叩いた。
「……というわけで、あちこち嗅ぎ回ったツケが回っててな、今、時間がないんだよ。色々話してやりたいのは山々なんだけど」
「えぇぇぇっ! ヒドイ片倉さんっ! 満たされないアタシをほったらかしにするわけぇっ?」
「誤解を招く発言はやめろ!」
歯を剥きだして吼えた片倉はハッと周りを見渡した。
通常の退社時間はとうに過ぎているとはいえ、数人の同僚が何事かと注目しながら通り過ぎていく。片倉は麻実を引っ張って、通行の邪魔にならないようフロア案内パネルの影へ移動した。
「――葵ちゃんと、連絡が取れないのか?」
周囲に目を走らせながら、片倉がぼそりと訊く。麻実はムスッと口を突き出したまま答えた。
「……まぁ、葵はあまり携帯に依存してないんで、着信に気づいていないだけの可能性もあるんですけど」
すると、片倉は少し何かを考え込むような素振りを見せてから、ちらりと腕時計で時間を確認した。
「……とりあえず、俺が関わった虚偽クレームの事件は解決したよ。葵ちゃんの店で異物混入を訴えた男は、あちこちの飲食店で恐喝紛いのクレームをつける常習犯だった。現行犯逮捕が一昨日の夜。俺もその場にいた」
「――げんこ……っ」
思わず叫びそうになった麻実の口を容赦なく塞ぎ、片倉は声を潜めて早口で続ける。
「さらに言えば、その男は以前、クロカワフーズのコックをしていたことがある」
片倉の手からもがいて逃れ、麻実はできるだけ声を絞った。
「……なにそれ……、――って……片倉さん、クビ突っ込み過ぎじゃない……?」
「半分は成り行きだ。葵ちゃんのために一肌脱ぎたかったというのも否定しないが」
「……まだ諦めてないんだ」
半眼でじっとりと視線を注ぐと、今度は片倉の方がムッとした顔になった。
「あのな……首を突っ込んだっていうけど、俺も知らないことの方が多いんだよ。昨日、杉浦さんに連絡したら、何やら取り込み中だったらしくて、詳しい話は後日に回された。肝心の黒河は電話に出たためしがないし」
「うそ、黒河さんにもしつこく電話してんの? それってある意味、嫌がらせ……」
「したくもなる。葵ちゃんがあれこれ被害を受けたのは、間違いなくアイツ絡みのゴタゴタが原因なんだからな」
「それ、蓮さんも言ってたけどさ……」
麻実は納得がいかないとばかりに小鼻を膨らませた。
昨年末、何やら不穏な事態に葵が巻き込まれていると聞き、心配で彼女のアパートを訪れた時のこと。後から葵の兄の蓮と麻実の兄の伸悟もやってきたのだが、そこで蓮は黒河侑司をボロクソに非難し、クロカワフーズなど辞めてしまえ、とまで言ってのけた。
その場にいた萩が反論し激昂し、殴り蹴倒されの殺伐ムードには冷や汗をかいたが、麻実としては、萩の反駁と葵の意思を断固支持したい気持ちだ。
蓮や片倉の言い分が正しいかどうかではなく、あの時、「黒河さんのせいじゃない」と珍しく語気強く叫んだ葵の顔が忘れられないのだ。
あそこまで声高に黒河侑司を庇った葵の想いを、麻実は否定したくない。
鼻息荒く思い返す麻実の横で、片倉は「ああ、葵ちゃんの兄貴な」と疲れた顔で頷いた。
「こないだシグマの本社で会って少し話をした。弟とは真逆で、兄貴はなかなかの切れ者だな」
「ちょっと、片倉さんてば、蓮さんも手なずけようとしてるの? いくら失恋確実だからって葵の身内に手を伸ばすのはムダな足掻きというか……」
再び胡乱気な目を向ければ、ちげーよ、と後頭部を叩かれた。
「向こうから話がしたいと言ってきたんだよ。……それはともかく、クロカワフーズで起きた不祥事は、どうも一つだけじゃない。杉浦さんの話じゃ、ひとまず粛清は済んだらしいんだが……色々、問題は残ったままのようだな。何でもホテルに入っている『櫻華亭』の支配人が二人、解雇処分になるだろう、と……」
「ウソ……なんか、とんでもなくオオゴトになってない……?」
「あの小さな会社にとっちゃ前代未聞の不祥事だろうな。ただ、俺が杉浦さんに聞いたのはそれだけだよ。緊急事態が発生したとかで、詳しい話はまた改めて、ってことだ」
「緊急事態、って……まさかまた葵に何か……」
「いや、葵ちゃんのことは何も言ってなかった。会社関係の人に不幸があったとかで――」
ひそひそと交わす極秘会話もここまでだった。またもや片倉の携帯が着信したのだ。
「――はい、片倉です。どうもお世話になってます――」
画面を確認して出た片倉の声が、先ほどより少し高い。社外の人か。
他所行きの声を聞きながら、麻実は探偵よろしく考え込む。
最後に葵と会ったのはお正月だ。昨年末は色々あったから心配していたのだが、一緒に初詣へ行った時の葵はいつもと変わらず元気だった。年が明けたら大きな予約が入っているから頑張らなきゃ、と意気込む葵に、麻実は内心ホッと安堵したのだ。
しかしつい数日前、出張先の大阪から《 お土産は “お好み焼き煎餅” と “たこ焼き煎餅” 、どっちがいい? 》とメールしたところ、返信がない。電話も二度ほどかけたが、電源が入っていないらしく繋がらない。いくら携帯電話の利便性を10%ほどしか活用していない葵でも、着信やメールくらいは確認するし返信もするはずだ。なのに、それがない。
まさかまた葵に何かあったのではないか――、多忙極まる遠方取材中であっても、麻実の後ろ髪は引っ張られっぱなしだったのだ。
「――じゃあ、そういうことだ。俺は行くぞ」
思案に耽る麻実に構わず、片倉はとっととその場を去ろうとしていた。
「ちょ、ちょっと待って片倉さん――」
「悪い、ホントにタイムリミットだ。――ああそうだ、虚偽クレームの犯人について詳しい話が聞きたかったら、お前の兄貴……青柳伸悟、だったか。兄貴に聞くといい。あいつも今回の捕り物劇に一役買っている。……あと、葵ちゃんの弟くんもな」
「――はぁ?」
――伸兄? 萩も? なんで?
ポカンと立ち尽くす麻実を置いて、今度こそ片倉は小走りに行ってしまった。吹き抜けのエントランスロビー中央から伸びるエスカレーターに向かい、一段抜かしで駆け上がっていく背を見送りつつ、麻実の口からもう一度漏れる。
「……はぁ?」
* * * * *
「――ということがあったわけさ、伸兄」
ぼりぼりと豆菓子を頬張りながら麻実が言えば、向かいのダイニングチェアに座った兄の伸悟は、信じらんねーコイツ、という顔のまま麻実を凝視した。
「それで俺を呼びつけたのか? 今、年度末の決算間近でメチャメチャ忙しいんだけど?」
「アタシだってメッチャメチャ、忙しかったモン」
「……《 母さんに緊急事態発生! 大至急帰って来て! 》――こんなふざけたメールを寄こしやがって……」
携帯端末画面を操作しながらギリギリ歯ぎしりする兄に、麻実はフンだと鼻を鳴らした。……騙されるアンタが悪い。
――片倉にフラれた(?)翌日の金曜日である。
今日一日休みをもらった麻実は、昼過ぎまで一人暮らしのアパートで昏々と眠った後、まともな人間に戻るべき工程(食べたり飲んだり身綺麗にしたりなど)を経て、ようやく夕方頃、妙光台の実家に顔を出した。
なぜに実家?とバカにしてはいけない。彼氏のいない麻実にとって、ここは唯一の “お出掛け場所” であり “安息場所” なのである。映画やショッピングも嫌いではないが、激務から解放されたばかりの、いわば “病み上がり” の心身状態で “御一人さま” はちょっぴり辛い。かといって一人1DKのアパートに籠り、ダラダラするのは非常に切なくて寂しい。
さらに言えば、昨年末にプールのリフォームがあらかた済んで、物置と化していた自宅はだいぶスッキリ片付いている。なのでむしろ、雑然と散らかった独り暮らしのアパートより格別に快適だ。
つまるところ、寂しさと退屈を紛らわしつつもお気楽で居心地のいい場所は、実家以外にあり得ない!というのが麻実の断固たる主張である。(どうでもいい)
それはさて置き、実家に着いてプールに顔を出して、ちょっとは手伝え、たまには水に入れ、と父や兄の謙悟に引っ張りこまれそうになったところをアワワと逃れ、しかし無念にも母に捕まり事務作業をいくつか手伝わされた後、やっと自宅のリビングに腰を降ろすことができた麻実は、そこでようやく、昨日片倉から聞いたいくつかのことについて思考を巡らせた。
誰もいないリビングのソファに気兼ねなくだらりと寝そべり、麻実はフムと天井を見上げる。
相変わらず葵とは連絡がつかない。正直、クロカワフーズで起きた不祥事とやらは、麻実にしてみればチンプンカンプンなのだが、伸悟が関わっているというなら是非とも話を聞かねばなるまい。
とはいえ、今は病み上がりでパワー充電中の身。心身ともにエネルギーが漲っているなら、いつかのように銀座の『御蔵屋百貨店』まで押しかけてもいいが、さすがに今日はわざわざ地下鉄に乗って銀座まで行くのが非常にメンドっちい。
うむむと唸って考えることしばし、ふと麻実の頭上にピカンと豆電球が灯った。
伸悟の仕事は夜の九時か、遅くて十時頃までだ。……それなら。
果たして、ムフフと人の悪い笑みを浮かべつつ送った一通のメールが、前述の《母さんに緊急事態発生》云々、なのである。
「――で、何が知りたいんだよ」
立ち上がった伸悟は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。麻実は「アタシ麦茶欲しい」とちゃっかりお願いしつつ、内心ウヒヒとほくそ笑む。
思っていたより早く到着した伸悟だったが、どうやら今夜は独り暮らしのマンションに帰らず実家に泊まろうと腹を据えたらしい。
――アタシもそのつもりだし? 夜はまだまだこれからだ。じっくりみっちり話してもらおうじゃないの。
「全部。伸兄がクロカワフーズの不祥事とやらについて知っている事、ぜ~んぶ」
ファミリーサイズの麦茶ペットボトルをドンッとダイニングテーブルに置いた伸悟は、不機嫌丸出しの顔でも、ご丁寧にグラスを食器棚から出してくれる。青柳家の男たちは皆、よく気が利きマメなのだ。
ボリボリと数粒の豆菓子をまとめて頬張る麻実の手元から、さっと一つ小分けの小袋を掠め取った伸悟は、ビールをやけ気味に煽って豆菓子の袋を開けた。
「俺だってンなもの知らねーよ。取引先ならまだしも、縁もゆかりもない会社の表に出ない水面下の事情なんて、企業スパイにでもなって潜り込むくらいしなきゃ入手不可能なんだって、前に言ったよな? ……おい、じゃあなればいい、みたいな目をするな」
ブスッと釘を刺されて、麻実は眼を眇めたまま唇を突き出した。
「じゃあなんで片倉さんと一緒に、虚偽クレームの犯人を捕まえることに一役買っちゃったりしてるのさ」
「……それはたまたま偶然が重なってだな……」
言い淀む伸悟のブツブツから「めんどくせーなもう……」という語句を耳聡く拾う。
「伸兄って、どうでもいいことはペラペラと理屈をコネ回して説教してくるくせに、こっちが聞きたいことに限って教えてくんないよねっ」
猛烈に抗議すれば、伸悟は「どうでもいいことじゃないだろ、俺はお前のことを思ってだな……」と諭しかけたが、麻実の唸り声を聞いて観念したように溜息を吐いた。
「……片倉さんからいきなり声をかけられた時のことは話したよな? お前から『クロカワフーズを調べろ!』とかいうワケのわかんない電話もらって、俺が蓮さんに会いに行った時だ。本郷のラーメン屋」
「ああうん、聞いたね。葵のアパートに来た日でしょ? 来るなりアタシと萩をジャマもの扱いして追い出そうとしてさ」
「俺はそれを止めてやったんだ」
伸悟は豆菓子を一粒、大げさにガリリと噛み砕いた。
「あの日、片倉さんから忠告を受けた、って蓮さんに聞いて、葵ちゃんのことは心配だったけどさ、その時は俺も首を突っ込むつもりはなかったよ。俺に何ができるわけでもなかったしな。……でもそれから一週間くらいたった頃か、偶然片倉さんを見かけた。下賀谷の南口、繁華街裏で」
「下賀谷?」
聞き慣れた近隣の地名に、麻実は麦茶のグラスを持ったままパチクリと瞬いた。
下賀谷はここ妙光台を通る私鉄線上にある駅で、妙光台より四つ離れた場所にある。若者――特にクリエーターやアーティストの卵的若人――が多く集う街なので、駅前は居酒屋やカフェなど飲食店が盛り沢山だが、イメージ的に伸悟や片倉が寄り付きそうな街ではない。
不思議そうな麻実に、伸悟は再びビールに口をつけてから説明した。
「俺は仕事絡みでたまたまだ。前のイベントでお世話になった写真家が下賀谷で個展を開くっていうから顔を出したんだよ。その帰りに片倉さんを見かけた。スナックやキャバクラが並ぶ裏通りでな。向こうはこっちに気づいてなかったからスルーしようかと思ったんだけどさ、どうも様子がおかしくて。……こう、物陰に身を潜めてこっそり何かを覗き見るような感じ? ……で、その視線の先を辿ったら、女がいた」
「……女?」
「そう、女。キャバクラの派手なオネーちゃん。店の前で客を見送ってたんだな」
その状況を目にした伸悟は直感的に、片倉が何らかの理由でその女を張っていると察した。察すると同時に、どうもその女の顔立ちに見覚えがあるような気がして首を傾げた。飲み屋街周辺は夜でも煌々と明るいが何せ遠目だ、確信はない。しかも、あれだけビッチリ化粧で顔を作っているのだから、見覚えがあるという感覚もあてにならないものだが……
伸悟が首を伸ばして目を凝らす間に、女は名残惜し気に手を出してくる中年男を上手くあしらい、さっさと店に戻ってしまう。片倉の方へ目を移せば、彼は女が店に入っても特に焦ることもなく追うこともなく、その場から立ち去ろうとしていた。
伸悟は一瞬逡巡するも、思い切って片倉に近寄り声をかけたのだ。
「あからさまにすっげー不審な目を向けられたけどな、すぐに青柳麻実の兄貴だって気づいてくれたよ。……で、多少のひと悶着の末、彼が何を調べているのか教えてくれた」
「ひと悶着、ね」
「お前だって一緒に働いてたんならわかるだろ? ああいうタイプは基本、人を疑うことから始めるのがセオリーなんだよ。信用させるにはそれ相応の労力とテクニックがいる」
「えらそーに……ま、片倉さんについては否定しない」
「俺とあの人の間に “葵ちゃん” という共通項があったから、手の内を見せてもらえたようなもんだな。ああ、お前という共通項も3%くらいは役に立ったかもしれないけど――」
「いちいち能書きはいいからさっさとその先を説明して!」
バンッと豆菓子の袋の上に平手を叩きおろせば、「そうキンキン叫ぶなよ……」と、どこかで聞いたばかりの台詞だ。
それでも伸悟は、麻実にわかりやすいよう順を追って語りだした。
――その頃片倉は、虚偽クレームを起こした男の行方を追っていた。
“辻山徹朗” というその男が、五年ほど前にクロカワフーズでコックをやっていたちょうどその頃、『櫻華亭』の総料理長である黒河紀生を取材したことのある片倉は、写真撮影で『櫻華亭』本店を訪れた時に目にした、辻山徹朗の顔をたまたま覚えていたのだという。
本来なら、その事実をクロカワフーズ上層部に報告した時点で片倉は用済みの人間になるはずだったのだが、彼は半ば強引に独自捜査に乗り出すことにしたそうだ。
伸悟は、「辻山の確実な居場所を突きとめるまでは、どうにも収まりがつかなかったんじゃないか?」と言い添えたが、麻実は、下心八割ってとこだな、と踏んでおく。
道義にしろ私心にしろ、片倉の独自捜査は簡単には進まなかったらしい。男の素性は明らかになったが、肝心の男の行方がわからない。現在勤めていると思われた職場はとっくの昔に辞めており、自宅アパートには何日も帰宅していない気配で、近隣住民からも有力な情報は得られなかった。
それでも片倉は、辻山徹朗が一年ほど前につき合っていたという女の情報を、ようやく手に入れたという。それが、あのキャバクラに勤めているらしい派手な女だ。
片倉は最初、慧徳の店に辻山と連れだって来店した女かもしれないと期待したそうだが、このキャバクラ嬢は違う女だとわかった。
しかしそれでも、辻山に繋がる唯一の手掛かりだ。何とかしてそのキャバクラ嬢から、辻山が寄り付きそうな場所や、現在付き合いのある人間の情報を得たいとチャンスを窺っていたところ、伸悟が偶然見かけて声をかけた――、という経緯であった。
「それで、片倉さんが一枚の写真を見せてくれたんだよ。写真つーか、プリクラのシールだな。辻山って男とそのキャバ嬢が写っているやつだった。それを見て俺、やっと思い出したんだよ……」
遠目に見た派手な化粧でも、どこか見覚えがあった女……プリクラシールに写っている女は派手めなメイクこそされてはいたが、キャバ嬢仕様ほど作りこまれていなかった。だからなのか伸悟の記憶がヒットした。
――章悟の元カノ。
「――章兄のっ? 元カノぉっ?」
突如出てきた青柳家三男の名前。素っ頓狂な声を上げてしまった麻実に、伸悟はうるさいと顔を顰めて続けた。
「いや、悪い、言い過ぎた。厳密に言えば “彼女” じゃない。 “彼女気取り” だった女だ。……覚えてない? まぁ、お前はまだ中坊だったからな。……章悟って高校の時、ちょっと悪かっただろ? 女にはどっちかって言うと硬派だったけど、変な女に言い寄られることもしょっちゅうだったし」
「んー、伸兄よりマシだった気はするけど?」
「俺はあいつより百倍上手く立ち回っていた」
「ソコ、自慢する?」
豆菓子一粒をツッコミと共に投げつけると、伸悟は上手にキャッチして口に放り込んだ。
伸悟が高校三年、章悟が二年の時のことだ。当時章悟がつるんでいたガラの良くない仲間つながりで、章悟に懸想する他校の生徒がいた。章悟より一つ上の女だったそうだが、ずいぶん章悟に入れ込み、つき合ってもいないのに彼女気取りでやたらと付きまとっていたらしい。
年子といえどもさすがにその歳になれば、弟の交友関係に干渉する気はなかったが、この女に関しては別だ。何とその女、ちっとも自分に靡かない章悟に業を煮やし、どこで目をつけたのか伸悟にまで粉をかけてきたのだ。
もちろん伸悟はにべもなく突っぱねたが、意外としつこい女だったので記憶に残っている。特に美人でも可愛くもなく、かといってブサイクでもなかったが、きつい特徴のある顔立ちだった。プリクラのシールの中で笑っている女は、十年近くの時を経ても記憶にある面影と重なる。
伸悟はすぐにそのことを片倉に告げた。
――そこから、二人の共同捜査が始まった。
「えー、じゃあ、そのキャバ嬢さん、ホントにその人だったの?」
「ああ、間違いなかった。向こうも覚えていたよ。俺が名乗ったらすぐに思い出したみたいだった」
「ほぇ……偶然にしちゃ怖いくらいだね……」
「まったくだな。……そこからの情報収集は、片倉さんサマサマだよ。若気の至りより目新しい男、てなもんで、俺なんかより片倉さんを取りこもうと必死でさ。でもまぁ、彼女が想像以上に協力的で助かった。辻山徹朗とは完全に切れていたけど、ヤツと交流のありそうな男友達や、情報がもらえそうな人間に連絡を取ってもらったりしてさ。……見返りに、配布用の名刺をごっそり持たされたけど」
肩をすくめる兄を見つめ、麻実はその成り行きに感心するばかりだ。……つーか、狭すぎるでしょ世間。
そして、辻山徹朗の捜査は一気に進んだ。
集まる雑多な情報から、辻山が自宅アパートの家賃を滞納していることや、友人の家を転々と渡り歩いていること、そして、この私鉄沿線上のあちこちの店で虚偽クレームを出しては店を脅したり威嚇したりして金銭をせしめる、といった悪行を繰り返していることもわかった。
驚いたのは、仕事終わりに片倉と落ち合うことが何度目かに及んだある晩、刑事から尋問を受けそうになったことだ。どうやら辻山は、警察当局にもマークされていたらしい。
が、こういう場面を予期していた片倉が、要領よく誠意をもって事情を説明した結果、捜査の邪魔はしないという条件付きで、聞き込みに同行することも許された。
そして、つい三日前のことだ。
今夜あたり、と担当刑事から連絡をもらった片倉は、伸悟ともう一人、クロカワフーズの杉浦マネージャーにも連絡を入れ、妙光台の隣駅にある大衆居酒屋に集まった。
店の隅っこに待機し、息を潜めてその瞬間を窺っていた三人は、辻山なる男を含む四人組の男女が店の従業員を呼びつけ難癖をつけるに至り、固唾を呑んで現行犯逮捕の瞬間を待ち望んでいたのだ――思わぬ飛び入り参加が出てくるまでは。
渋面でビールを飲み干す伸悟に、麻実の口も目も真ん丸になる。
「――えぇっ? 萩が? 遼平くんと池谷くんも? なんでそこにいたの?」
伸悟は、「知らない、俺も詳しくはまだ聞いてない」と首を振った。
「マジであれにはビビった。一瞬幻覚か?って思ったもんな。重要場面であいつが出現するとロクなことにならないからさ……案の定、その場はメチャクチャ……」
何故かひょっこり顔を揃えた若者三人に驚いたのもつかの間、逃げ出そうとした辻山が萩にぶつかり、捕まえようと飛びついた刑事や伸悟たちでその場は揉みくちゃ。揉みあう一団の下敷きになった萩は、何かの拍子にブチキレたのだという。
萩の拳が伸悟の脇腹に入り、伸悟が痛みに悶絶している間に、いち早く団子集団から這い出て逃げ出した辻山を、萩はそれこそ猛猪さながらに追って行ったらしい。結果は……推してしかるべし。
「刑事が駆けつけた時、馬乗りになった萩の下で辻山はヒーヒー泣いてたらしい。萩が暴行罪で捕まるんじゃないかってヒヤヒヤもんだったけどさ、辻山に目立った外傷がなかったから萩もお咎め無しで済んだんだな。……なんで辻山が泣いていたのかは、神のみぞ知る、だ」
その後、何やかやとしている間に、萩たちは解放されていつの間にか帰っていた。途中で居なくなったという矢沢遼平のことを萩はしきりに気にしていたらしいが、伸悟は片倉と警察の方へ付き添ったので、結局、萩の口から詳しい話は聞いていないのだ。
「俺が関わったのはここまでだよ。あのクロカワフーズの杉浦さんに、後のことは任せてほしいって言われたし。……ああ、一応、蓮さんにもこっちの経緯は電話でざっと説明しておいたけど、蓮さんもその日の夜、黒河侑司と一緒に何か調べていたみたいでさ。『かなり重要な物的証拠が見つかった、後は黒河に託した』って電話で言ってたんだよな」
「ふーむ……」
「杉浦さんといい黒河侑司といい、クロカワフーズの中でも真相解明に向けて尽力している人はいるんだ。……葵ちゃんは、大丈夫だよ」
空になったビールの空き缶をペキペキと潰し、伸悟はもう一本取り出しに冷蔵庫を漁る。
麻実は一人、難しい顔で腕を組んだ。
「でも、じゃあなんで、葵と連絡が取れないんだろう……」
電話してもつながらない、メールも返って来ない。お互い、そうマメに連絡を取り合うタイプではないし、葵に至っては携帯電話にとりわけ無頓着な性格なので、この状況もあり得なくはないのだが、どうしてか妙に気になって仕方がない。
麻実のこういう勘はよく当たるのだ。いつかの日、葵の元カレ伊沢尚樹とゴチャゴチャなる直前だって、こんな妙な胸騒ぎがしたじゃないか。
再び冷えた缶ビールを開けて飲みだした伸悟を見るともなしに眺めていると、傍らに置いた麻実の携帯端末からJーPOPの着メロが。
慌てて画面を確認すると、差出人は “アミちゃん” 。
「ああ、そっか。さっきメールしたんだっけ」
伸悟におびき寄せメールを送った後、『アーコレード』慧徳学園前店のアルバイト女子大生、斉藤亜美にも《 久しぶり。最近どう? 葵は今日出勤してる? 》という、探りメッセージを入れておいたのだ。
ちょっぴり期待外れの心地で画面を開けた麻実は、想定外の内容に「えぇ?」と雄叫びを上げる。
怪訝な顔をした伸悟に、麻実は困惑のままメッセージを読んだ。
「慧徳の『アーコレード』、今日は臨時休業中、だって……。再開は明日の土曜日からです、って……濱野さんが、亡くなった、って……」
「濱野さん、って?」
「葵が学生の頃バイトしていたお店のオーナーシェフさん……なんだけど……」
麻実は画面から目を離せぬまま、言った。
葵がものすごく慕っていた人だ。たくさんお世話になり大恩がある人だと、葵は繰り返し言っていた。妊娠・流産で精神的に病んでしまい、就職さえダメになった時も、うちで働けばいいと手を差し伸べてくれたという。
でも確か、その後まもなく濱野オーナーに病気が見つかって、結局『敦房』は閉まってしまったのだ。それ以後、葵の口から濱野氏の病状に関して聞くことはなかったが、その代わり葵は何度となく口にしていた。
――『敦房』みたいな店にしたいんだ。美味しくて温かくて、居心地のいいお店。集まった皆を優しく包み込んでしまうような、懐の大っきなお店。
それが、濱野氏の人柄そのものだったということくらい、ほとんど面識のなかった麻実でさえ知っていることだ。葵は、それほどまでに彼を敬愛していた。
その濱野さんが、亡くなった……?
ふと、昨日片倉が言っていたことを思い出した。杉浦との電話で「会社関係の人に不幸があった」らしいと言っていた。会社関係……? 濱野氏がクロカワフーズ関係者? そんな話、聞いたことはないけれど……
「……葵、大丈夫かな……」
漏れ出た言葉は、小さな豆菓子みたいにポトリと転がった。
「その人のこと、すごく慕っていたんだよ……ショックだったんじゃないかな……だから、電話しても出ないのかな……」
あれほどまで慕っていた恩人が亡くなったなんて。今この瞬間にも、葵は一人で泣いているかもしれない。
「……葵ちゃんは、自分の辛さや悲しさを周りにアピールする子じゃないからな……」
豆菓子を指先で弄びつつ、伸悟がしんみりと言う。
でも……と、麻実は唇を噛んだ。
約束したのだ。何かあったら絶対誰かに相談して、一人で抱え込まないで、と。麻実は真剣に言い聞かせたのだ。
――アタシじゃなくてもいいから、誰か、葵が信頼できる人に――、
「……黒河さんは、葵のこと、好きじゃないの?」
自分でもちょっと驚くほど、責めるような口調になった。
伸悟は、摘まんだ豆菓子を飽きたと言わんばかりに指先で小さく弾く。
「さあな。そればっかりは当人同士の問題だ。周りがどうこう言っても、どうにもならない」
至極最もな言葉だ。けれど、あの二人は何となく上手くいくような気がしていた。だからもどかしい。それはやっぱり――、
「……男の人ってさ、……女の過去、みたいなの……やっぱし気になるもの?」
「人それぞれなんじゃないの? 俺は、まったく気にならないと言えば嘘になるけど」
じとっと目を上げる麻実に構わず、伸悟は “男” の見方を主張する。
「好きになったら過去なんて関係ない、っつーのは建前だろうな。まともな考えを持った男なら、好きな女を幸せにしてやりたいって思うのは当然だ。つまり、相手の過去も現在も全部ひっくるめて未来を考えていくもんだろ。そこで女に辛い過去があったとすればどうしたって無視できない。それがデリケートな問題なら尚更だね」
麻実から振っておいてナンだが、伸悟の物言いは本当にイラッと来る。――正論過ぎるから。
だからつい、こちらもふっかけモードになる。
「なーんかそういうの聞くと、男ってチッサ!とか思うよね。過去にあったことなんか今更変えられるわけないし、マルっと受け止めるのが真の男ってモンなんじゃないの?」
麻実が聞きたいのは、男の本音や建て前なんかじゃないのだ。
しかし、伸悟は伸悟で譲れない定見があるらしい。
「受け止める・めないの話じゃないだろ? 気になるかならないかって話だ。いいか? “気にしない” と “気にならない” は全く別物だってことを知れ。女の過去なんて全く気にならない、なんてマジで思っている奴はよっぽどデリカシーがない馬鹿か、もしくは本気でその女との将来を考えていない阿保だ。結婚して一緒に生活していくことを考えれば、いやでも触れなきゃならないことだってある。好きな女が傷持ちで、その傷が大きければ大きいほど、それだけ男の方にも覚悟が必要なんだって」
伸悟に多少のアルコールが入っていたのも悪かったのだ。普段はここまで麻実の沸騰につき合うことなどない。もちろん、沸騰した麻実が一番悪い。
「はぁ? なにその言い方! 葵を欠陥品みたいに言わないで!」
「そんなこと一言も言ってねーだろ!」
「葵が妊娠したのも流産したのも葵のせいじゃないじゃんか! 男ってそーゆーとこがムカつくんだよ! 種は好き勝手にまき散らすくせして、そのせいで傷ついた女を欠陥品みたいに見るんだ! 傷つけた張本人は “男” なのにさ!」
「男全部を一括りにするな! 俺はそこまで腐ってねーよ!」
「あったり前でしょっ! もし伸兄がそんな外道ならその腐ったイチモツを今後一切使い物にならないようひねり潰して引きちぎ――」
麻実の卑猥にして凄惨な啖呵は、幸いなのか尻切れに終わった。
ダイニングから廊下に出るドアが勢いよく開けられたからだ。開け放たれたそこに、麻実と伸悟の母、実可子がスタッフジャンバー姿のまま、驚愕の表情で立っていた。
「……ちょっと、今の話、本当かい……?」
怖ろしいほどの真剣さで詰め寄ってくる母に、兄妹は揃って狼狽える。
「な、なんのこ、と……」
「母さん、何を聞い――」
「葵ちゃん……、妊娠して、流産したのかい?」
眼光鋭い母は、伸悟と麻実を石に変えるメデューサだ。伸悟が万事休すとばかりに天を仰ぎ、麻実の身体から冷や汗が噴き出した。噴気していたはずの頭は一瞬にして冷える。
笑って惚けて誤魔化せばいい? ――無理だ。こういう時の母にどんな嘘も誤魔化しも効かないのは、娘の麻実が一番よく知っている。
麻実は咄嗟に母へ縋った。
「――か、母さんっ、お願い! 誰にも言わないで! 葵のママさんに絶対言わないで!」
麻実の母実可子は、葵の母朋美と親友だ。朋美が宮崎に移住しても、その交流は絶えていない。年に何度か宮崎から特産品の詰め合わせが送られてくるし、実可子もお礼に東京限定のお菓子などを送っている。母がシニア用の携帯端末を慣れない手つきで操作して、楽しそうにメッセージや画像のやり取りをしているのも知っている。
だから葵は麻実に言えなかったのだ。麻実から実可子を通じて、葵の母朋美に伝わってしまうのが、怖くて。
「――お願い! 葵、ずっとずっと一人で悩んで苦しんでたの! お母さんが知ったらまた病気が再発してしまうからって、それだけは絶対ダメだって……っ、だからお願い――、」
「落ち着きなさい、麻実」
必死の形相でしがみつく麻実を、実可子は静かに抑えて椅子に座らせた。座らせて、もう一度息子と娘を交互に見る。
「それは……葵ちゃんが急に痩せた――短大の二年生の頃の話、だね?」
うんとも頷けないまま俯けば、実可子は悟ったようにゆっくり息を吐き出しながら、自分もダイニングチェアに腰を下ろす。
宙を見つめ、何か深刻に考え込んで十数秒。実可子はやっと口を開く。
「もちろん朋ちゃんには言わないよ。言わないけど……」
そこで母が不自然な間を空けたので、麻実は顔を上げた。伸悟も怪訝な顔を母に向ける。
実可子は真剣な顔で、爆弾発言をした。
「もしかしたら、朋ちゃん……そのこと、知っているかもしれない」
「――え……?」
麻実と伸悟は口を開けたままお互いに顔を見合わせた。
そんな、だって、という麻実の呻きに答えることなく、実可子はガサツな手つきで短い髪をかき回す。わずかに歪んだ母の表情は、悔しげにも見えた。
「……そうだね、たぶん、知っていたんだよ……」




