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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第2部
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第26話  雪と祈りと、最期の仕事

 ――その日、東京は雪になった。

 白灰色に広がる空からちらちらと舞い降りる雪片は、地上に止まる意志など微塵も見せず、どこかに降り立つと刹那に消えていく。

 風のない、キンと凍る冬の空。陽の気配はないのに、不思議と白く明るい空。

 ちらついては止み、また思い出したように舞い落ちる小さな雪の欠片は、優しく切なく、世界に吸い込まれて消えた。



 濱野哲矢の葬儀は、慧徳学園前の隣の街にある葬儀場で行われた。

 派手さや華美さよりも堅実さを前面に押し出した小規模な斎場、そこに集まった多くの弔問客。重く暗い色を滲ませた人々の中で、葵は見知った顔をあちこちに見つけた。

 『敦房』の頃の常連客が何人もいた。慧徳学園前の商工会でお世話になっている町内役員もいたし、中には『絆生里』の店主もいた。

 そんな中で、他の弔問客がつい目を向けてしまうほどの圧倒的存在感を放つのは、クロカワフーズ関係者の一団であった。

 社長と統括部長を筆頭に、徳永GM率いるマネージャー陣が全員立ち並び、茂木顧問の傍らには何と今田顧問の姿もあった。国武や佐々木と共に大御所チームも顔を揃えており、その他、本店や松濤店の古株社員も何人かが参列していた。

 告別式が始まる前、古坂律子が葵を見つけて慌てて駆け寄ってきた。夫の古坂孝文氏と一緒にやってきたようだ。

 律子夫人は困ったような泣きそうな顔で覗き込み、葵をそっと抱きしめる。

 彼女のフォーマルワンピースから、ほんのりと樟脳が香った。


 葬儀の喪主は濱野美津子。何人か居並ぶ親族席に、遼平と彼の母の姿があった。

 遼平は黒スーツに黒ネクタイ姿で、静かに座っていた。真っ直ぐ前を見据えた色白の顔はさらに色味がなく、果てのない疲れが見える。昨晩の通夜は親族だけで行ったと聞いた。ほとんど寝ていないのだろう。

 それ以上の憔悴ぶりが目についたのは、遼平の母親であった。その顔を悲壮に泣き腫らし、濱野哲矢の妻である美津子よりも打ちひしがれている。哲矢の妹である遼平の母は、すでに夫――遼平の父親も病で亡くしている。身近な人を失う辛さは、決して慣れるものではない。

 逆に、美津子は喪主として立派な立ち振る舞いであった。義妹や義甥、他の親族にも時折労わるように声をかけつつ、訪れた弔問客に対し、丁寧に細やかに礼を尽くしている。黒紋付きにきっちりと結い上げた髪、凛と顔を上げた美津子の姿が、いつかの日に見た母の姿に重なった。


 読経が(おごそ)かに流れていく。

 祭壇には真っ白な供花がこぼれんばかりに咲き溢れており、その中央に飾られた大きな遺影の中で、濱野哲矢は笑っていた。

 その笑顔は、葵の記憶にある『敦房』の頃の濱野哲矢そのままであった。小粋な口髭とキラキラ瞬く悪戯っぽい瞳。コック帽は被っていないが、真っ白いコックコートを着ているのは、本当に『敦房』の営業中、撮影した写真なのかもしれない。常連客を迎える彼の笑い声が、今にも聞こえてきそうだ。

 葵はクロカワフーズ一団の末尾に焼香となった。

 宗派によって異なるのかもしれないが、葵は以前亡き父の法要で、焼香は弔う者の身を清めるためのもの、という説法を聞いたことがある。

 芳香で身を清め部屋を清め、御仏様の加護を願い、死者の冥福を祈る……

 遺族に一礼した時、濱野美津子が葵にそっと微笑んでくれた。

 抹香の香りに包まれながら、葵は今、こうして濱野氏の冥福を祈る自分が、酷く(けが)れているような気がしてならなかった。



* * * * *



 正午を過ぎても気温はほとんど上がらない。

 告別式の後、葵は一人、底冷えのする街を歩いた。

 この街には葵がかつて通った短大がある。久しぶりの景観は、閉じられた記憶の引き出しを一つ一つ開けていくようだ。葬儀場は短大に通った道筋から離れた場所にあったのだが、この街の詳細は、案外頭に残っていた。

 ちらちらと舞い降りる雪片を、頭に顔にコートに染み込ませながら、葵はただ歩いた。


『――濱野さんね、もう十年以上も前に、一度手術しているのよ。その時『敦房』も半年くらい休業したの。……手術は成功してお店も再開したから安心していたんだけど……再発してしまったのね。……『敦房』を閉めたのは……濱野さんなりの “覚悟” だったのかもしれないわ……』


 密かに古坂夫人が話してくれた、濱野氏の病状。

 葵が短大二年の秋、ようやくもがき苦しんだ闇から抜け出し、前を向いて歩きだそうと足を踏み出した矢先、濱野氏に病気が見つかった――葵はそう認識していたのだが、それは厳密に言うと “病の再発” であった。

 再発の先にある生存率は格段に下がる――、そのことを十分理解していた濱野哲矢は、潔く『敦房』を閉めた。


『……お店を閉めた後、もう一度手術して……その後しばらくは安定していたらしいのよ。……去年の九月頃だったかしら、知り合いのレストランでアルバイトさせてもらっているんだ、って……元気そうだったのに……急に容体が悪くなって……すぐ入院したようだけど、その時点ではもう、手術は無理だったって……』


 葵の脳裏に、クリスマスの夜見た、濱野氏の痩せ細った姿が蘇る。

 『アーコレード』を見たかったんだ、という彼の言葉に、一体どれほどの想いが込められていたのだろうか。

 古坂律子が語った濱野氏の “願い” は、葵の(もや)がかった頭をより一層真白く(かす)ませた。


 ――新しい『アーコレード』という店を、どうか贔屓にしてやって欲しい。葵ちゃんと遼平が、そこで働かせてもらう予定なんだ。きっとあの子たちは、ここ以上の、いい店を作るはずだから。


 『敦房』を閉める間際、彼は来店してくれた常連の客たちに頭を下げて頼み込んだそうだ。

 『アーコレード』という新参店舗は、濱野氏の想いを汲み取り律儀に足を運んでくれた常連客の何人かから、その評判が広まったといってもいい。古坂夫妻もそういった功労者の一組である。


『……葵ちゃんがこんなに立派な店長さんになって、濱野さんも喜んでいたのよ』

『……また、近いうちに食べに行かせてもらうからね』

 律子夫人は目を潤ませ、夫の孝文氏は優しく肩を叩いてくれた。……が。


 ――本当に? 

 奇妙に明るい白灰色の空を見上げて、葵は思う。

 自分は本当に、お世話になった濱野氏の期待に添えることが、できたのだろうか――



 一時間以上も歩き続けて辿りついたのは、我が店『アーコレード』慧徳学園前店だ。

 ドア前に立てられた《臨時休業》の立て看板が、ひっそりと冷たく凍えている。

 驚くことに、濱野哲矢の訃報を葵たちに伝えた統括部長は、その場で慧徳の店を二日間だけ臨時休業にすると命を下した。

 何故、慧徳の店が臨時休業となるのか、その意図がよく理解できないまま、葵は柏木から指示される通りに、アルバイトたちや取引業者へ連絡をつけ、臨時休業のための対応をこなした。

 明日の土曜から通常営業となる予定だが、今は眠ったように静まり返る店前。

 ――ああ、そうか……と、葵はぼんやり思った。

 この店は、喪に服しているのだ。


 裏口の鍵を開け、セキュリティを解除し、事務室から店のフロアへ出た。

 しんとした誰もいないフロアは薄暗く、外と同じくらいに冷え込んでいる。だが静謐な空気は、店全体が深く安らかに眠っているようにも思えて、葵はどこかホッとする心地を抱いた。

 テーブル席側の頭上にあるダウンライトだけ点灯して、冷たい空気をゆっくりかき分けるように進む。

 奥から二番目のテーブルへ行き、静かに椅子を引いて座った。ハンドバッグを無造作に置いて頬杖をつく。

 寒さからか歩き疲れたからか、黒いストッキングに覆われた足がジンジンと痛んだ。

 こんなに歩いたのは久しぶりだ。隣街からここまで、最も短距離の線路沿いではなく、わざわざ鶴の宮公園を通って遠回りしてきた。これは、葵が短大に合格したすぐ後、散策気分で巡った順路だ。ゴールはこの場所にあった『敦房』。

 ――そう……座ったのは、この場所。


 降ろされたシェードを上げる気もなく、葵はぼぅっと虚空を見つめる。

 一昨日――統括部長が濱野氏の死去を告げた瞬間から、葵の頭にかかる(もや)のようなものが晴れない。見るもの聞くものすべてに薄い半透明のフィルターがかかっているようで、薄情なことに、濱野氏の死に対する悲しみも悔やみも、ぼんやりと曖昧で涙も出なかった。

 ……悲しくないのかな。私。お世話になった大恩人なのに。大好きな人だったのに。

 麻痺したような思考の中で、たった一つだけ、頭の中に色濃く鮮明に広がるのは、濱野哲矢との出会い……『敦房』との出会い。

 あの時と同じ道を辿ってきた今だから、こんなにもはっきりと思い浮かぶのだろうか。

 目を閉じれば、当時の『敦房』が懐かしく蘇る。

 道に迷い、歩き続けてへとへとになった葵が見つけた、一軒の小さな洋食レストラン。

 そこで出会った人は、明るい陽光のような笑顔で葵を迎えて――、


 ――コツ、と小さく靴音が鳴った。

 目を上げると、カウンター裏から出てきた長身の影。


「……黒河さん」

 無表情に近づいてきた彼は、見上げる葵に小さく嘆息した。

「……心配した。急にいなくなるから」

「あ……えっと」

 出棺を見送り、葬儀の参列者がぼつぼつ帰り始める中、葵は社長と統括部長に挨拶をしてその場を辞した。その近くに徳永GMや他のマネージャーたちもいたはずだ。侑司もそこにいなかったか。

「……携帯も切っているし」

 低い声で呟いて、侑司は腕を伸ばし葵の手を掴んだ。

「……こんなに冷たい」

 温かい大きな手の平が葵の手の先を包む。そこで初めて、自分の指先が冷え切っているのに気づいた。

 侑司はそっと葵の手を離すと、早足にフロアを突っ切り、レジ横の壁にある空調のスイッチを手早く入れる。微かな回転音が鳴って、冷たい空気がふわりと動いた。

 葵の視線が宙を彷徨う間に、侑司は黒のコートを脱ぎながら戻ってきた。そして背後に回り、大きなコートで葵をすっぽりと包む。

「あ、あの……」

「こんなに寒い中で……風邪をひくだろう」

 少し、声が怒っているような気がする。

「……すみません」

 目を伏せた葵を、侑司はじっと見下ろし、何も言わず隣の椅子に座った。

 黙ったまま、侑司はもう一度、葵の手を取る。染み入るような温かさが指先から伝わっていく。震えるような吐息が唇から漏れて、葵は静かに目を閉じた。


 社長執務室での騒ぎの後、葵は彼と話す暇もなかった。

 突然の訃報が忍びやかに広がり、濱野氏を知る大御所チームは騒然となった。統括や鶴岡マネージャーが、騒めくその場を半ば強引に解散させ、今田氏との話し合いは後日に見送られた。愕然と立ち尽くす侑司と葵に厳しい声で指示をかけたのは、やはり統括である。

 葵が茫然自失のまま臨時休業への対応に追われる中、侑司は杉浦と共に、支配人不在となる赤坂店と日比谷店へ回るよう厳命されていた。

 これからホテル店舗は、色々な意味での大改革が必要です、と柏木が言っていた。当然侑司はそこに駆り出されるのだろう。……彼は疲れているのに、顔色も悪かったのに。


「……大丈夫か?」

 低く優しい声がかけられて、葵はゆっくり瞼を上げた。彼からこの言葉を聞くのは、一体何回目だろう。口を開けばいつも彼は、葵を気遣い心配している。

「すみません……」

 さっきと同じ言葉を繰り返せば、侑司の硬い表情がはっきりと苦悶に歪んだ。

「――ずっと、ここにいたのか」

 彼の吐息がかすかに白い。……ここはそんなに寒いのか。

「いえ……さっき、来たばかりで」

 肩が、背中が、包まれた大きなコートが温かい。

 ……ここはずいぶん、寒かったのかも。

「……歩いて、来たんです……ここまで。その……鶴の宮公園を通って、慧徳学園の裏山から降りる道を通って……」

 侑司が驚いたように目を見張る。そりゃそうだろう。寒空の下、一時間以上もかけて、どんな酔狂だ。

 でも、この人なら……わかってくれるだろうか。


「……短大に合格した日、同じ道を歩いて……『敦房』を見つけたんです」

 葵は静かに瞬いて、侑司の前に、当時の記憶を丁寧に並べてみる。


 ――今から約六年前の二月末、受験した短大の合格発表の日。

 大学の構内に張り出された番号を、その目で確認し歓喜に飛び上がった葵は、自宅で待つ母に連絡した後、浮足立った気分のまま大学周辺を少し散策して帰ろうかなと思い立った。

 短大があるその街は、郊外の街とはいえ、私鉄が二本交差する駅ということもあり、葵が生まれ育った妙光台のあたりに比べれば、断然栄えて賑やかである。

 女子短大の他にもいくつか大学があるせいか、駅から離れた場所でも若者向けのお洒落な雑貨屋やベーカリー、安い仕出し弁当屋やブックストアなどが多く集まっていて、図書館や科学館などの施設も豊富であった。

 将来への第一幕は開けたばかり。父が亡くなってから何かと沈みがちな葵であったが、それでも己を奮い立たせて頑張った甲斐はあったのだ。

 気分は上々にして好奇心は膨れ上がり、足の向くまま、新しい生活の一部となる街中を、葵は意気揚々と巡った。 

 そんな中、つい足を踏み入れたのは隣町との境にある鶴の宮公園。

 山地を上手く利用して作った大きな公園で、広大な池に野鳥が生息し、季節ごとに色づく様々な花園が有名らしい。ジョギングコースはもとより、子供向けの遊具広場、噴水広場にアスレチック広場まであるという。

 公園内にある案内板によると、公園の反対側は隣町にある慧徳学園の施設と隣接しているようだ。……へぇ、隣の町にそんな総合学園があるんだ、ちょっと見学してもいいかな……と、軽い気持ちで、葵はずんずんと奥へ進んでいった。

 ――が、鼻歌交じりに足取りも軽やかだったのは公園全体の半分程度まで、だったか。……この鶴の宮公園、想像以上の広大さだったのだ。

 園内はもとが小高い山だったため起伏に富んでおり、上ったり下ったりの傾斜が多かった。その中を、遊歩道やジョギングコースがメビウスの輪かと思うほど曲がりうねり交差している。よって、点在する案内板を求めつつ迷いながら進むうちに、葵はすっかりヘトヘトにバテてしまったのだ。

 気づけば正午はとっくに過ぎており、浮かれるあまり昼食も取っていない。お腹は空いたし足は痛いし、とにかくこの公園を出ようと、手近な出入り口から出て坂道を下った先に、高級住宅が密集する区画に出た。そしてそこからさらにヘロヘロと歩き続ければ、どこからかいい匂いが流れてくる。匂いにつられてフラフラと辿り着いたのが、一軒の小さなレストラン。

 ――それが、『敦房』だった。


「……何か食べよう、というより、とにかく休憩したくて、そこが何の店だかよくわからないまま入ってしまったんです。そうしたら、白いコック着を着たおじさんが、『いらっしゃいませ』ってニコニコ迎えてくれて……それが濱野さんでした。……他にお客さんがいなくて、どうぞ好きなところに座って、って言われて……座ったのが、たぶん、このあたりのテーブルです」


 『敦房』から『アーコレード』になって内装も変わったが、大体の場所は覚えている。

 窓際の四人掛けテーブル席。渡されたメニューに並んでいたのは、ハンバーグやオムライス、スパゲッティーなどの洋食料理。

 空腹で倒れそうだった葵は、一番上に書かれていたハンバーグステーキを注文した。ガッツリ食べたかったから、ライス大盛りで。


「……その辺はよく覚えていないんですけど……疲れてお腹が空き過ぎて、出てきたハンバーグステーキとライスの大盛りを、物凄い勢いで食べたのは覚えてます。……ビックリするほど美味しくて、こんなに美味しいハンバーグは初めて、って感動して、全部食べ終わってやっと、私を見て笑っているコックさんに気づいて」

 目を上げると、侑司が柔らかく笑う。葵も目尻を下げた。

「よっぽどお腹が空いていたんだね、って笑って、アイスコーヒーと林檎のタルトを、サービスだよって出してくれて……それで、他にお客さんがいなかったから、つい、話が弾んでしまって」


 お昼時はとっくに過ぎた午後の昼下がり、コック着にコック帽、口髭の人懐こいおじさんは、葵がデザートを食べる間、すぐ傍のカウンターの椅子に腰かけて、ニコニコと話しかけてきた。


 ――この辺じゃ見ない顔だね、高校生かい? ……え、今日合格発表だったの? ……それはおめでとう、よかったねぇ。じゃあ四月から大学生か。……鶴の宮公園? ――えぇっ、歩いてきたの? ……あははは、それじゃお腹も減るはずだ。……いや、見事な食べっぷりだったからね、料理人としては最高の賛辞に値する食べっぷりだったよ……


 アイスコーヒーの氷が溶け切っても、他愛のない話は楽しく続き、葵はこの店の居心地の良さにすっかり()かってしまっていた。

 話が弾むうちに、『敦房』というこの小さな洋食レストランが、オーナーシェフの濱野氏と、その妻美津子夫人の二人で切り盛りしていることを知り、現在学生アルバイトを募集中だということも知った。


『――わ、私、したいです、ここで、アルバイト!』

 その場で手を上げた自分が信じられなかった。

 いずれアルバイトは始めるつもりだったが、まさか合格発表のその日にバイト先を決めるなんて。弟の萩じゃあるまいし、後先考えず即決猛進など、いつもの葵なら滅多にないことなのだ。

 けれどどうしてか、ここで働いてみたい、という直感には逆らえなかった。勢い込んで前のめりになった葵に、オーナーシェフの濱野氏は一瞬目を見張った後、思い切り噴き出した。

『時給とか時間とか、待遇を聞かなくてもいいのかい?』

 濱野氏は可笑しさを堪えつつ、くっくと笑いを漏らしている。葵は頬を赤らめながらも必死になった。

『えっと、学校があるので、時間はたぶん夕方から夜がいいんですけれど……でも、土日祝日は一日中大丈夫です! あ、時給は……そこそこいただければ、大丈夫です』

『ぶ……っ、そこそこ……ね』

『け、経験はないんですが、体力は自信があります! 水泳とテニスをやっていたので、腕力も人並み以上だと思います! ――ああっ、り、履歴書は今、ないんですけど……な、名前! 私の名前、言ってませんでしたよね、水奈瀬葵と言います! 水に奈良の奈に瀬戸の――、』

 そこで濱野氏は堪え切れずに爆笑した。屈託のないお日様のような全開の笑顔。

 ひとしきり笑って、彼は楽し気に言ったのだ。

『――いいよ、履歴書は。次回来る時にでも持ってきて』

『え……じゃあ』

『うん、採用決定だ。よろしくね。――水奈瀬、葵ちゃん』

 差し出された手を、葵はぽっかり口を開けたまま握り返した。

 ――それが、葵と濱野氏、葵と『敦房』の出会いであった。


「……今でも、不思議なんです。初めて会った見知らぬ子の突拍子もない申し出を、濱野さんはよく受け入れてくれたな、って。履歴書も面接もないのに、私を信用してくれたのは……とても嬉しかった……」

 話しながら、葵は気道のあたりが変に詰まるような感覚を覚えた。……何だろう、ちょっと苦しい。

 侑司が優しく、慰撫するように言う。

「たぶん、他愛もない話を続けるうちに、水奈瀬の人となりを判断したんじゃないか。……話し方、聞き方、目線や表情、その姿勢……見る目を持った人なら、短い会話でも相手の人となりを充分見抜ける」

 ……胸が苦しい。息が、苦しい。

 詰まる苦しさから逃れるように、葵はゆるゆると頭を振った。

「……私は、濱野さんの信用に応えることが、できませんでした」

「水奈瀬」

 咎めるような侑司の声。

 呼吸路を確保したくて、葵の手が胸元を彷徨う。

「 “大人のお子様ランチ” の企画は……あの日……黒河さんと一緒に行った『メランジール』で、濱野さんが出してくれたあの料理から、思いついたものです。……私、あそこでいただいた料理が本当に美味しくて嬉しかったから、うちのお客様にも、あの感動を広めたいと思いました。……それで、あの企画がクロカワフーズで認められて、お客様に受け入れられたら、濱野さんの病気が良くなるんじゃないか、って……私が勝手に “願掛け” したんです。そんなことくらいしか、あの人に返せるものなんて、私には何もなくて……でも……結局――、」

 葵は唇を噛む。

 ――意味のない “願掛け” だった。


「そうですよね……濱野さんのアイデアを勝手に使って、あの人の築き上げた料理への想いを代弁した気になって、私は自己満足に浸っていただけなんです。……蜂谷支配人や今田顧問が仰っていた言葉……間違っていません。こんな私だから、慧徳の店は次から次へと色んな騒動に巻き込まれて、追い込まれて……私がもっとしっかりしていれば、こんなこ――」

「――水奈瀬」

 両肩を掴まれ、ぐいと身体ごと侑司へ向き合わされた。

 大きな両手が葵の頬を包む。侑司と目を合わせれば、苦しく狭まった息継ぎの出口が、優しく押し開かれる気がした。


「……濱野さんは、喜んでいた。あの企画のことも、企画したお前のことも、やり遂げた慧徳の店のことも……涙を流して、嬉しがっていたそうだ」

 ――嬉しがる? 濱野さんが?

 ヒクっと小さく喉の奥が引きつった。

 頬を包む侑司の手が滑り、葵の髪を撫でる。


「……社長は……うちの父親はな、看取ることができたんだ……濱野さんの最期を」



 先日の社長執務室での大糾弾劇――実は社長も、沙紀絵と一緒に隣の応接室に潜み待機している計画だったという。

 しかしその前夜、すでに日付が変わった深夜の時刻、社長宛てに一本の電話が入った。病院にいる濱野美津子夫人からである。

 ――曰く、濱野哲矢、危篤、と。

 最期の時を迎えようとする濱野哲矢は、投薬による昏睡と覚醒を繰り返し、意識も何度か朦朧とし危うい状態に陥ったが、そんな中で『相馬』の名を繰り返し呼んだそうだ。美津子夫人は、夫の最期の “望み” を叶えたかった。

 果たして、病室に駆けつけた黒河紀生は、それから数時間、かつてのライバルであり盟友であり、永年の親友である濱野氏の最期の時を、傍で見守ることができたのである。


「……病室には、美津子さんの他に、矢沢と彼の母親がいたそうだ。……最初のうちは、父のこともしっかり判別できていたらしい。水奈瀬が慧徳で素晴らしいイベント企画を成功させたことを話したら、涙を流して頷いていた……と」

 風穴のように一つ開けられた出口から、喘ぐような息が漏れた。

「……だが、次第にそれも覚束なくなってきて……そのうち、夢なのか現実なのかわからない言葉を、何度もうわ言のように発するようになって……」

 侑司が葵の頭を、宥めるように撫でる。葵から逸らさないその瞳は、いつもより潤んでいる気がする。


「……水奈瀬、よく聞いてほしい。……濱野さんは朦朧としながら、たくさんの人の名を呼んだそうだ。父と美津子さん、国武さんや佐々木さんの名もあった。先代や茂木さん、今田さんの名も出てきた。他にも大勢……矢沢と俺と……水奈瀬、お前の名も」

「わた、し……?」

「断片的に紡がれる言葉をつなぎ合わせて、父は濱野さんが、何を言いたいのか、その目に何を見ているのか、やっとわかった、と言っていた。……濱野さんは、混濁した意識の中で、厨房に立っていた(、、、、、、、、)

 風穴が大きくなる。急にゴウと突風が吹いて、過剰に流れる空気が痛いくらいに気道を打つ。

 侑司の指が葵の頬を拭い、ひんやりとした感触が残った。


「たくさんの仲間と一緒に厨房に立って、捌いて切って仕込んで……揚げて焼いて盛り付けて……給仕に運んでもらい、またオーダーを受ける……常連の客を迎えて水奈瀬に給仕してもらい、矢沢や俺と一緒に次の日の仕込みをする……『櫻華亭』にいた頃と『敦房』の頃の記憶が交じりあって、たくさんの仲間が濱野さんと一緒に働いた。……先に父から聞いたせいもあるんだろう、何度も “お子様ランチ” を作って……」

 侑司の言葉が詰まった。

 息苦しさが痛みに変じた。鼻の奥が痛い、喉の奥が痛い、ドクドクと脈打つ心臓が痛い。

 視界が滲んで唇が震えて、堪えきれなくなった瞬間、葵の頭は優しく引き寄せられる。

 耳元の侑司の声も、震えていた。


「……とても安らかな顔だったそうだ。……最期まで、何より大好きだった厨房に立つことができた、これ以上の幸せはないと、美津子さんは父に頭を下げたらしい」

 うう、という変な呻き声が、自分の口から漏れ出た。

「……水奈瀬、お前の願掛けは……ちゃんと届いたと、俺は思う」


 押し付けられた侑司の胸で、葵はきつく目を閉じた。弾きだされた涙の後から、さらに溢れてくる痛くて(よじ)れるような感情。

 堪らず漏らした嗚咽に、侑司の腕はさらに強く葵を包み込んだ。


「……いい、お店を、……作りたかっ、たんです……」

「ああ」

「……『敦房』、みたいな……温か、くて……ホッと、す……」

「わかっている」

「……わ、たし……は、……はま、の……さん……の……ぅ」

「水奈瀬……」


 込められる力に感じる微かな震え。……自分が震えているのだろうか、それとも彼が。

 決壊したように溢れる涙は、全部、侑司の胸が受け止めた。

 かつて同じ場所で違う時を過ごした二人は、恩師を失くした途方もない悲しみを分かち合い、心を重ね合う。


 深閑と眠っていた店が、薄く目を開きかけた。

 下げられた窓のシェードの隙間から、一筋の柔らかな光が差し込む。

 雪片が舞っていた真っ白い冬の空に、ようやく淡い陽光が、顔を出していた。





 

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