第25話 鳴鐘、決戦終結
「――はい、そこまで。……ちょっと、あけてもらえるかしら」
社長執務室に隣接する応接室、そこに続くドアが大きく開け放たれる。
ざわりと人垣が割れて現れた黒河沙紀絵統括部長は、女王のような圧倒的威厳を漂わせ、その場に君臨した。
その後ろから従者のように付き添うのは、鶴岡マネージャーと西條マネージャー、次いで茂木顧問と見知らぬ初老の男性。黒縁の眼鏡をかけたその人物は、ドアのところで丁寧に一礼して前に進み出た。
「ほぉ……? 揃いも揃って、んなところで隠れん坊かぁ?」
「まさか最初っからそこにいたんじゃねーだろな」
国武と佐々木が咎めるような眼を容赦なく向ければ、黒河沙紀絵は全く悪びれることなく、悠然と微笑み返す。
「ええ、その通りよ、最初から」
瞬間、葵のすぐ傍で再びゴゥッと立ち上る黒炎。途轍もない熱を孕んだ双眸が彼の母を射抜くが、当の沙紀絵は素知らぬ顔で自分の背後に「多渕さん、西條マネージャー……お願いします」と、小さく指示する。
頷いた西條が、床の上で掴み掴まれ放心している今田氏と蜂谷の身体をいとも簡単に引き剥がし、ぐにゃりと脱力した蜂谷を片肩に担いだ。
すらりとした体躯ながら、しなやかで力を感じさせない西條の動きに葵がぽっかり見とれていると、先ほど “多渕さん” と呼ばれた初老の男性が、ひょこひょことした足取りで社長机に近寄り、その上の漆器の文箱の蓋を静かに開ける。
彼が中から取り出したものを見て、葵は「あ……」と思わず声を漏らした。
――そんなところに。
どこかにその類の物はあるのだろうと、漠然と思っていた葵だが、まさか目の前にあるとは思わなかった。
文箱の中に忍ばせてあった物――去年の夏、弟の萩がよく似たものを持っていて、兄の蓮と一緒にからかった覚えがある。一見、携帯音楽プレーヤーのような小型機器は――、
「……ICレコーダー」
傍の侑司が唸るように呟いた。
その場はざわりと不穏な空気が揺れるが、黒河沙紀絵は全く動揺も見せない。
「……水奈瀬さん、ご苦労様」
冷淡とも聞こえる声音でさらりと告げた彼女に、すかさず大御所二人が声を荒げた。
「おぅおぅ、まさかオメェさん、この水奈瀬をオトリに使ったってぇことか?」
「納得いかねーですぜ? うちの大事な店長をダシに使ったワケ、きっちり説明してもらわねーとな」
「ち、違うんです! これは、私の意志で――、」
言いかけた葵の弁明は、侑司の噴き出す黒い焔に丸ごと呑まれた。
対峙する母子の間に火花が散る。
「……一緒に立ち会う、と言っていたはずだ。何故、水奈瀬は独りでここにいた」
「侑司、やめろ」
杉浦が小さく首を振った。
一緒に立ち会う……? 葵は回らない頭で懸命に考える。
元々、今日この場で蜂谷と対峙するのは葵一人のはずだった。他の人はともかく、てっきりマネージャー陣は全員、それを知っているものだとばかり思っていた。しかし、侑司の言葉からして、彼だけがそれを知らなかったのだろうか。
今にも爆発しそうな導火線の間に、鶴岡が素早く入り込んだ。
「……侑司。あちら、弁護士の多渕さんだ。今回の立会人になっていただいた。……仕方なかったんだよ。ここまで一気にカードが揃うなんて誰も予想していなかっただろう? こちらとしては何としても、彼の “自白” が欲しかった」
「……最初からそのつもりだった、ということですか。彼女を、危険に晒すとわかっていて」
「黒河さん、私は――、」
「危険が及ばないよう、西條くんを待機させていたのよ」
うんざりした口調で沙紀絵が言うと、ちょうど社長室のドアから出ようとしていた西條が、蜂谷を支えたまま、顔だけ振り返ってニコリと微笑む。
「――僕は少しだけ兵役経験がありますから。二人か三人くらいなら……お任せください」
貴公子のような身のこなしと微笑みに一同がポカンとする中で、端っこの小野寺双子二人だけが、同じ顔を奇妙に引きつらせ小刻みに頷いていた。
半ば引きずるように蜂谷を支えた西條が部屋を出て行き、その後に多渕弁護士も粛々と続いて出て行く。それを見送った群衆に、統括部長は張りのある明瞭な声で告げた。
「――ほぼ全員集まっているようね。ちょうどいいわ……ここで見たこと聞いたことは、他言無用に願います。今回のことも含め、今後の調査で明らかになった結果は、後日きちんと説明させていただきます。……それから、せっかく足を運んでもらって悪いのだけれど、予定していた午後からの会議は中止にします。今月中に改めて開けるかどうかは未定……詳細は追って、担当マネージャーから伝えます。今日はこのまま解散して頂戴」
言い渡した女王は、困惑し動くに動けない一同に背を向け、釈然としない顔の大御所チームや未だ怒りの焔を漂わせる侑司をするりと無視して、脆く崩れつつある元老を超然と見下ろした。
「――今田顧問。……貴方はここに残っていただけますか? お互い、話し合いが必要のようです」
掴みかかっていた蜂谷を剥ぎ取られたままの、乱れた姿で床の上にへたり込んでいた今田氏は、沙紀絵の声に顔を上げた。その顔は、一気に十年も老け込んだように垂れ下がっている。
濁った眼で統括部長を一睨みした今田氏は、土気色に弛んだ頬をぶるりと震わせた。
「……ゆ、許さんぞ……こ、こんな、茶番が……っ、ゆ、許されるとでも、思っているのか……っ! かっ、仮にも、顧問である、この私をっ、……とっ、盗聴するなど……っ」
沙紀絵の柳眉がピクリと上がり、ざわついていた室内がしんと静まった。
今田氏は、身体中に鉛をぶら下げているかのような大仰な動きで苦し気に立ち上がり、それでも精一杯の威厳を保とうとするのか、乱れた着衣を忙しなく正す。
「……わっ私は何もっ、知らんことだっ! すべて蜂谷がやったのだっ! ク、クレームだとか、ファクスだとか……っ、私には関係ないっ! あの男を信用した私が間違いだった! あ、あんな男っ、煮るなり焼くなり、好きにすればよいのだっ! わ、私は帰るぞっ!」
憤然とその場を去ろうとした今田氏の前に、鶴岡の長身が壁のように立ちはだかった。
「そうはいきません。話し合いが必要だと、統括が申されました」
「……は、話すことなどないっ! そ、そこをどきたまえっ!」
喚く口調と裏腹に、今田氏の足は一歩、二歩と後退する。
統括部長一行の出現により一時は緩んだ包囲網が、いつの間にかまた、厳重に断固とした意志を持って今田氏を取り囲んでいた。
迫りくる脅威に、今田氏は追い詰められた鼠と化し、突破口を葵に定めた。
「――だいたいっ、その小娘が社則違反などするのが悪いのだっ! たかだか極小店舗の分際で、自店を取材撮影させたというではないかっ! クロカワフーズの社員とあろう者が、言語道断も甚だしいっ! そんな目立ちたがり屋の浅ましい輩などっ、即刻クビにすべきだっ!」
「……ぉい」
「……てめぇ」
青筋を立て、肩をいからせた国武と佐々木を、仙田や綿貫、穂積が両サイド背後から引き止める。だが止めている側も噛みつきそうな顔をしているため、今田氏の声はますます上ずった。
「――おっ、脅しには乗らんぞっ! わ、私は元々っ、反対だったのだっ! 庶民向けだか何だか知らんが、安っぽい店を次々に開きおって……っ、しかもこんな小娘に経営管理を任せるとは……っ、聞けばその小娘、クロカワフーズの社員らしからぬ素行の悪さと言うではないかっ! 純朴そうな顔に皆が騙されているのだっ!」
部屋中が憤りに満ちる中、葵はすぐ隣の激昂に手を伸ばした。
「……せておけば……」
「――黒河さん……っ!」
掴んだ腕が、鋼鉄のように強張っている。
反対側を杉浦が抑えているが、怒りに震える侑司の身体は今にも飛び出しそうだ。
「どっ、どうせ役職の地位も卑しい真似をしてもぎ取ったのだろうっ! そんな女に任せたりするから、メディアに晒されるような辱めに遭うのだっ! そもそもっ、『アーコレード』など『櫻華亭』の猿真似に過ぎんではないかっ! 下賤の店がっ、同じクロカワフーズの下でのうのうと在り続けるためにっ、『櫻華亭』の品格までが疑われるのだぞっ!」
「……侑司……っ!」
――お願いっ! 黒河さん……っ!
満身の力を込めて、葵は侑司の腕を引いた。辛うじてできたほんのわずかの隙に葵は前へ飛び出す。
「――『櫻華亭』の威光を踏みにじったクロカワフーズの面汚しこそっ、即刻閉鎖するべきじゃないのか――、……っ?」
目の前の弛み切った顔めがけて、葵は大きく手を振り被った――
「――!」
室内全域に衝撃が走り、何人もが同時に息を呑んだ。
思い切りいった割にあまりいい音がしなかった。ジンジンと痛むのは手の平の親指付け根あたり。上手く当てられなかった。他人の頬を打つなど初めてなのだから仕方ない。
誰かがごくりと喉を鳴らす。
不自然な方向へ首を捻じ向けた今田氏は、ギギギと顔の向きを戻し、陸上に打ち上げられた魚みたいにパクパクと喘いだ。
「……なっ、……なっ、……きっ……きみっ……」
言葉さえ紡げない元老を、葵は真っ直ぐ見据えた。
「……仰る通り、私は清廉潔白な人間ではありません。ですので、私のことは何を言われようと構いません。ですが、『アーコレード』を悪く言われるのは、我慢がならない」
「……こっ、このっ、このわた、私をっ……」
「そして、『アーコレード』にいらして下さるお客様と、『アーコレード』で働く仲間を悪く言われるのは、絶対に許せません。……先ほどの言葉、撤回して謝罪してください!」
詰め寄る葵に、今田氏はブルブルと震えながら声を裏返した。
「……なっ、なんというっ……これは、ぼ、暴力だぞっ……こ、顧問に向かってっ、てっ、手を上げるなど……っ、しょ、正気の沙汰ではないっ! や、やはり、あのファクスの内容は、真実なのだなっ! い、淫乱にして精神まで病んでいるとは……っ、……ひぃっっ!」
葵の背後から伸びた手が、今田氏の襟元を掴み上げた。
「……撤回してください。今の言葉も、全部、撤回し、謝罪して下さい」
歯の隙間から絞り出す言葉と鉄面を被ったような無表情。なのに噴き出す激昂のエネルギーは尋常じゃない。葵は思わずその腕に飛びついた。
「――黒河さんっ!」
「侑司っ!」
慌てて杉浦や鶴岡が止めに入ろうとした時――、
「――撤回して下さいっ! そして、謝罪するべきだっ!」
部屋の片隅から若い声が上がった。一同全員が声の主を探す。ドア付近の端っこで、両の拳を握りしめ決死の顔で叫んだ青年は、汐留の野々村支配人だ。
「……今田顧問の、その傲慢不遜な態度に、僕は抗議しますっ!」
声を震わせながらも断固と言い切ったその声に、隣にいた日比谷店のチーフも被せるように訴える。
「私も抗議します! 一体、何様だと思っているんですかっ! あなたは間違っているっ!」
そこへ、くくと小さく笑った麻布のチーフ牧野晃治が、これ見よがしに肩をすくめる。
「なーんか時代遅れもいいとこじゃないすか? 清廉潔白じゃなきゃここで働けないの? だったらクロカワフーズに社員なんかいなくなっちゃいますよ」
「そ、そうですよっ! 僕なんか人に言えない秘密、いっぱいありますよっ!」
その傍にいた松濤アテンド坪井が嬉々と同意して、すかさず小野寺双子が完璧な二重音声で突っ込んだ。
「「――絶対音痴、とかな」」
それらを皮切りに、抗議の声が室内のあちこちから飛び交った。
『櫻華亭』メンバーもホテル店舗のメンバーも、もちろん『アーコレード』のメンバーも、皆が声高に今田顧問を非難し反駁し、水奈瀬店長や『アーコレード』を侮辱した言動を撤回し謝罪しろ、と訴えた。
「――確かに、俺らは真っ白じゃねぇなぁ、佐々木よぉ」
「素行の悪さじゃあ、黒光りのトップクラスだろうからなぁ」
仲間の結団にとりあえず怒りを治めたのか、国武と佐々木はにやにやと笑い合う。腕を組んだ国武は、聞こえよがしに濁声を張り上げた。
「――水奈瀬ぇ! 心配すんなぁ。この俺らに比べりゃぁ、おめぇはまっちろな赤子みてぇなもんだ」
「国武よぉ、年頃の娘っ子に “赤子” はねーだろ。もっと気の利いた言い様はねーのか?」
「学のねぇ俺様に、気の利いた口を望むなってぇんだよ! 俺が言いてぇのはだな――」
「水奈瀬! このツートップはな、どうにも手が付けられん問題児で……ああ、思い出した。一度二人揃って警察にしょっ引かれたこともあったよな?」
「こ、こら、綿貫! そういうことを蒸し返すじゃねーよ。おめーだって拘置所にお泊りしたことあんだろが」
「思えば先代は、ずいぶんご寛大なお方でしたねぇ」
大御所チームによる悪行思い出話が繰り広げられる中、周囲の喧騒も「自分だってこんなやんちゃしていました」カミングアウト合戦へと変化していき、黒河沙紀絵はやれやれといった顔で軽くこめかみを押さえた。
そこでようやく、葵が縋りついた侑司の腕から少しずつ力が抜けるのを感じた。つま先立ちまで掴み上げられていた今田氏の身体が解放される。腰が抜けたのか、へなへなと崩れる老体を、鶴岡が素早く駆け寄って支えた。
ゼイゼイと喘いで何度か咳込んだ今田氏は、鶴岡に介助され、社長椅子に重い身体を沈めた。
「……しゃ、社長を呼びたまえ……社長は……、紀生君は何故いない……、私に対する数々の無礼……このままじゃ……済まされんぞ……」
そこへ静かに進み出たのは、それまで統括部長の影のように控えていた茂木顧問だった。
「――社長は所用にて不在です。無礼に対する御不満は、この私が承りましょう」
彼の穏やかな瞳に浮かんでいるのは、葵の見間違いでなければ…… “慈愛” だ。
「――お、お前……茂木……お前まで、この私を愚弄する気……なのか……」
「今田顧問……どうか、冷静に」
今田氏の顔面が、恥辱に染まる。
「うるさいっっ! そうやって……いつもお前は……っ、取り澄ました顔で、私を馬鹿にしおって……、先代に取り入り私を本店から追い出したあの仕打ち……、私が忘れたと思うな……っ」
「今田顧問……」
「……本店の顔、なぞ呼ばれていい気に成りおって……だから邪魔なホテル店舗を潰そうという魂胆か……っ、お前が社長を操り……っ、赤坂の閉店を計画させたのかっ!」
ざわ、と室内に動揺が走った。
目を見張る者、眉を顰める者、顔を見合わす者……、いくつもの驚きと困惑の視線が今田氏と茂木氏に注がれた。
「――いい加減になさって下さい、今田顧問」
黒河沙紀絵が呆れたように制した。
「その件については、社長からお話があるまでお待ち下さいと申し上げたはずです」
今田氏はフンと鼻を鳴らし、乱れた髪を直しもせずぐったりと椅子にもたれた。
「誤魔化そうとしても無駄だ……今の社長など傀儡に過ぎん。……総料理長としての責務を疎かにし、茂木の言葉に惑わされ……、そやつはな、この私が決死の思いで創り上げた新たな『櫻華亭』が気に食わんのだ。……FCICの上層部と懇意であるこの私を妬み……私の聖域を潰さんと社長に造言を吹き込み……こうして社員全員を先導し私を貶める……すべてはそやつの、大業を成した私を恨むそやつの……、茂木の陰謀なのだ……」
悪態タラタラの物言いだが、先ほどまでの虚勢を張った傲慢さはすでに姿を消していた。恰幅の良い御仁の身体が、急に小さく萎れて見える。そこに、どこかやるせない悲しさみたいなものを感じるのは気のせいだろうか。
しかし、すっかり弱った御仁にさらなるダメ押しが撃たれた。
「――ちょっと! 聞き捨てならないわね。茂木さんはそんなくっだらない “陰謀” なんて考える人じゃないわよ!」
――歯切れのいい突っ込みは牧野女史だ。腰に手を当てビシッと言い渡す様は、まるで女教師である。
するとまた再び、人垣は援護射撃で騒然となった。
「茂木さんのことを悪く言わないで下さいっ! あなたより何百万倍も人格者だっ!」
「何かにつけて茂木顧問を敵視して逆恨みしているのは、あなたじゃないですかっ!」
口々に茂木氏を支持する声。葵も驚くほど、皆の声は高く力強かった。
「……なっ……ぐ……っ……」
言葉を失い絶句する今田氏に、統括部長がほろ苦く笑う。
「はいはい、もうそこまでにしましょう。あなた方の気持ちはよくわかりました。あとはこちらに任せて頂戴。……今田顧問、捕って食いやしません。話を……させて下さい」
今田氏は、もう何も言わなかった。やつれ切った姿で項垂れた。
解散!の声が上がり、ようやくその場に立ちつくした群衆が、解凍されたように動き出した。茂木顧問がそっと今田氏に寄り添い、鶴岡が牧羊犬よろしく自由勝手な大御所チームをまとめる。ほんの少しの当惑を残したまま、室内がざわざわと安堵感、解放感に包まれる中、侑司がゆっくりと葵に向いた。
気づけば彼の腕に縋りついたままだ。ハッと我に返り、葵は慌てて飛びのいた。
「す、すみませ――」
言いかけてギュウと胸が詰まる。
真正面から見上げた侑司は、目の下に隈を作り頬が削げている。こんな面差しの彼は、前にも見た。クリスマスの夜遅く、慧徳の店にやって来た侑司は、疲れ切った顔で葵に訊いたのだ――
「……大丈夫か?」
あの時と全く同じ言葉、同じ声。聞きたいのはこっちの方だ。笑ったつもりなのに鼻の奥が詰まり視界が潤んだ。
「……黒河さんこそ、大丈夫ですか?」
掠れた声で聞き返せば、侑司は小さく微笑む。
侑司の大きな掌が、葵の頬に近づいた。触れる寸前――、
「――統括!」
鋭く火急を思わせる顔で飛び込んできたのは徳永だった。
ドアを開けて群衆を先導しようとしていた柏木が、驚きのあまり仰け反っている。淡いグレーのトレンチコートを着たまま室内に駆け込んできた徳永は、人垣の中に素早く統括の姿を見つけ、小走りに彼女のもとへ飛んだ。その手には携帯端末が握られている。
何事かと集まる一同の視線に背を向けるようにして、彼は沙紀絵に何かを耳打ちした。
社長から、という語句だけ、葵の耳に聞き取れた。徳永の顔色から何か尋常じゃないことが起きた気がする。見守っていた茂木顧問だけが、何かを察したらしくさっと蒼褪めた。
顔を上げた沙紀絵が、視線を彷徨わせた。
茂木氏と今田氏を見て、侑司に移り、そして葵を見る。
葵の心臓が嫌な音をたてはじめた。
沙紀絵は一度目を伏せて、そして上げると同時に、侑司と葵を呼んだ。
怪訝な顔の侑司と困惑する葵に、沙紀絵は「社長から今、連絡が入ったわ」と言う。
一瞬、何故だかわからないが、耳を塞いで逃げ出したくなった。
――が、沙紀絵の言葉は、無情にも、葵にその現実を突きつけた。
「――濱野さん……濱野哲矢さんが……、亡くなられたそうよ」




