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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第2部
89/114

裏16話  水奈瀬蓮、煌夜の狭間で契る想いに

 ――時刻は少し(さかのぼ)る。

 諸岡良晃が、木戸穂菜美を外国人二人の手から救出するべく一歩踏み出した、ちょうどその頃――


 エレベーターから降りた水奈瀬蓮は、密やかに感嘆の声を漏らした。

 人気(ひとけ)のない半円形のエレベーターホールは恐ろしく広い。足元は敷き詰められた大理石に豪奢なカーペット、頭上には今にも零れそうなクリスタルの欠片が煌めくシャンデリア。ホールの片隅には中世ヨーロッパの王族が使いそうなソファと同じ意匠のサイドテーブル。完全に異世界の(おもむき)だ。

 蓮は視線を巡らせながらゆっくり足を運んだ。手にした紙袋が微かな音をたてて、思わず笑いが込み上げる。

 庶民はどう転んでも庶民なのだ。取り繕っても仕方ないと思いつつも、とりあえず自分が持つ一番いいスーツを身に纏って来たが、それでも一階のフロントでは気後れしたものだ。

 堅牢なまでの完璧なサービスは、それを欲していない者を卑屈にさせることもある、と初めて知った。


 淡く絞られた照明の柔らかい光は、レストランエリアに入ればさらに明度を落としている。もうすぐ日付をまたごうという時刻だ。どの店もラウンジバーもすでにクローズとなっているのだろう。

 ゆっくりと物珍しく見渡しながら、蓮はとあるレストランの前に立つ。

 《 洋食屋『櫻華亭』~ Established in 1931 》

 モダンクラシック、とでも言おうか、重厚且つ洗練された雰囲気の店構えは、自然と背筋が伸びるような高級感に満ち溢れている。

 広いエントランスのど真ん中に、《 本日の営業は終了いたしました 》の真鍮製パネルスタンドが立っているが、蓮は頓着なく足を踏み入れた。

 フロア内は薄暗い。当たり前だが誰もおらず、小さなダウンライトがいくつかぼんやりと淡く光っている。広い客席フロアは、妹の店の何倍あるだろうか。蓮は興味深く目を凝らす。

 緩慢な歩みで進んだ蓮の足が、フロアの奥まった場所にあるドアの前で止まった。真鍮色のプレートは《 Staff Only 》とある。

 蓮の片眉がわずかに上がり、その手が静かにドアノブへと伸びた。


「――本当にこんな遅くまで、やっているんだな」

 蓮の声に、その男は勢いよく振り向いた。

 驚きに見開かれた双眸を見て、蓮は意地の悪い満足感を覚える。この男の驚いた顔など、滅多に拝めるものではない。

「……どうやって――、」

 背広を脱いだ淡いブルーのワイシャツ姿でデスクチェアに座る男は、振り向いたままの形で固まっている。

 それでも、驚くと同時にすぐさま鋭い警戒センサーを張り巡らせるあたりが、この男――黒河侑司らしい。


「様子を見てきてほしい、って頼まれたんだよ。お前の先輩の杉浦さんに。ちゃんと食べているのか寝ているのか、心配していたぞ?」

 室内へ足を進めながら、蓮は他意がないことをアピールするように、興味津々といった素振りでその小部屋を見渡した。

「へぇ、綺麗に片付いているもんだな。うちの小売店の事務室なんか物だらけで座る場所もないっていうのが常だけどな」

 明るい照明の点いた室内は、広くはないが整然と片付けられている。向かって右壁側にデスクと書類やファイルが並んだ棚。左壁側に簡易テーブルと簡易椅子。入り口付近にほとんど物が置かれていないスチールラック。大きな設置物はそれくらいか。ハイグレード感漂うフロアとは全く異なる、地味で簡素で無機的な小部屋だ。


「差し入れだ。……と言っても、閉店間際だったらしくて選択の余地はなかったけどな」

 持ってきた紙袋を簡易テーブルの上に置いた。入っているのはこのホテルの一階フロアにあるベーカリーのパンと、同じくそこで買った缶コーヒーだ。作業しながら手軽に食べられるもの……と思ったが、ホテル内では限られたものしかなかった。

「……しかしすごいな。最低ランクの部屋でも一泊数万円だ。さっき部屋は見てきたんだけどな、ベッドがキングサイズだった」

 軽口をたたきながら、紙袋の中からホテルブランドの名が入った缶コーヒーを二本取り出す。侑司は少し警戒を緩めたのか、呆れたように嘆息した。

「……部屋を取ったのか」

「堂々とホテル内を徘徊するには、これが一番怪しまれない方法だろう? ずいぶん高い面会料になったが、ひと時のセレブ感も悪くはない」

 二本のうち一本をデスクに置き、一本のプルタブを開ける。冷たくもなく温かくもないコーヒーだが、一口含めば思いの外まろやかな味がした。


 侑司に会うためだけなら、ここまで用意周到にすることもなかった。

 “ここ” にいることさえわかっていれば、営業中にでも客を装って来て、タイミングを見計らって担当マネージャーを呼び出せば簡単に会える。たとえここでフルコースを堪能しても、部屋を取るよりはるかに安上がりなはずだ。

 しかし蓮は、侑司と話が(、、)したかった。込み入った話で誰にも邪魔されたくない。


「央玩出版の片倉氏……彼からの着信には気づいていたんだろう? 何度もかけているのに全部留守電に切り替わって、出ることもなければ返信もないってお怒りでな」

 すると、侑司の眉が不快そうにぐっと寄せられた。蓮は内心、なるほどなと合点する。向こうも(、、、、)、この男の名を口に出す時そういう顔になっていた。

「それで、俺が杉浦さんに電話したんだ。そうしたら、お前がここ何週間も、毎日この時間になると一人でここに(、、、)籠って探し物をしている、って教えてくれてな。だったら俺が、忍んで行ってやろうと思い至ったわけさ」

「……宿泊客なら、深夜にホテル内をうろついていても怪しまれない……万が一見咎められても上手く言い逃れできる……ってことか」

 低い声で呟くように言った侑司に、蓮は缶コーヒーを傾けつつ「結局誰にも会わなかったけどな」と返す。

 無表情に蓮を見据えていた侑司は、何も言わずパソコン画面へ目を向けた。

 画面上に開いたいくつかのウィンドウ。一番上のウィンドウには、上から下までびっしりとファイルが一覧表示されている。おそらく、これが話に聞いた “復元作業” だろう。

 デスクの上には紙やファイルが無造作に散らばっており、型に()められたような印象の室内で、そこだけが何かを主張しているように見えた。


『――侑司が誰の手も借りず、たった一人で “探し物” をしているのは、葵ちゃんのためなんだよね』

 電話で話した時、杉浦は『不器用すぎるアイツの想いをわかってやって』と笑っていた。

 パソコンを向いた侑司の横顔に、画面の淡い光が稜線を描いている。削がれた頬と目の下の影がより一層目についた。

 ――期待して失望し、一度は見限った男。……けれど、妹の傷痕を慰撫できる唯一の男。

 蓮は一息ついて、簡易椅子を侑司の傍に引き寄せ腰かけた。


「片倉氏が、どうしてもお前に訊きたいことがあると言っていた。俺も、お前に訊きたいことがある。作業を邪魔することになって悪いが……、少し話をしても構わないか?」

 簡易椅子を小さく軋ませ脚を組めば、侑司は顔だけこちらに向けて「ああ」と頷いた。相変わらず感情は見えない。

「まず、俺が知っていることをざっと話すよ。……実は今伸悟が……ああ、覚えているだろう? 俺の後輩だ……あいつが片倉氏の独自捜査に協力しているらしいんだよな。 “辻山徹朗” という男を探しているとか」

「……そこまで知っているのか」

「妹に危険が迫っているとなれば、どんなことでも知っておくに越したことはないだろう?」

 少し笑って、蓮は缶コーヒーに口をつけた。


 片倉瑞歩と名乗る男に、いきなり声をかけられたのは昨年の十二月。

 只ならぬ眼の色で葵の危機を忠告した片倉だったけれど、その時は特に蓮の連絡先を聞くわけでもなくあっさりと去っていった。蓮の手元に彼の名刺は残ったが、彼とはそれっきり会うこともないはずだった。

 ところがほんの一週間ほど前、蓮は再び偶然、片倉とばったり会ってしまう。片倉がたまたま仕事で SIGMA SPORTS 本社に来ていたらしく、彼も蓮を見てびっくりしていたようだ。蓮が SIGMA SPORTS に勤めていることを知らなかったのだろう。

 驚いている片倉を「少し、話がしたいんですが」と誘ったのは蓮の方だ。

 実はそれより前に、青柳伸悟から『ちょっと色々ありまして、あの片倉という男に手を貸すことになりそうなんです』と連絡をもらっていたのだ。その件も含めて、彼と話がしたかった。

 以前会った時には感じられなかった疲労の色をその面に濃く滲ませた片倉は、それでも不敵な笑みを口元に浮かべて、蓮の誘いを受けてくれた。


「辻山徹朗――葵の店で異物混入を訴えたカップル客の男の方。……以前、クロカワフーズに勤めていたんだってな」

「……ああ」

 侑司は掠れた声で肯定した。


 SIGMA SPORTS 本社近くのカフェバーで、蓮は片倉と小一時間ほど話をした。

 尋ねれば案外詳しいことまで教えてくれたのは、惚れた女の兄という立場が効いていたのかもしれない。

 片倉の話によると、辻山という男は今から五年ほど前、『櫻華亭』本店のコックをしていたそうだ。中途採用者のため入社当時は二十九歳、それから三か月も経たないうちに退職している。

 その後もいくつか飲食店の厨房に雇われたが、どれも長続きしていないという。

 元同僚の話によれば、調理経験者でそこそこの腕を持っていることが(おご)りになっていたのか、仕事に対する姿勢はしばしば不遜であったらしい。

 いくら知識や経験があったとしても、目上の者に敬意を払えない傲慢者など人として問題視されるに決まっている。そういった辻山の性質が災いして、どこの職場でも続かないのだろう。


「一方の片倉氏は、同じく五年ほど前に一度、クロカワフーズ本社と『櫻華亭』本店を訪れたことがあった……黒河紀生総料理長を取材するために。間違いないか?」

 侑司は静かに頷く。

「クロカワフーズは取材NGじゃなかったのか?」

「……本来なら断るはずだったんだが、取材目的が店の紹介や格付けじゃなく、総料理長本人へのインタビューがメイン、ということだった。その雑誌の質や読者層の専門性を鑑みて、今回限りという条件付きで受けることにした」

「なるほど。メディアにはほとんどその顔を出さずとも、業界内で知らぬものはいないと言われる洋食界のカリスマシェフ……黒河紀生、か。片倉氏の記憶に残っていたのは、その稀少さが印象強かったせいかもしれないな」


 当時片倉は、現在籍を置くスポーツ分野とはかけ離れた部署に配属されていたそうだ。

 担当していたのは調理の専門雑誌――プロの料理人のみならず、料理研究家や料理評論家、フードコーディネーター、管理栄養士などにも重宝される “食” の専門誌である。

 毎号組まれる “食” のプロフェッショナルへのインタビューはこの雑誌のメインコンテンツらしく、老舗洋食屋『櫻華亭』の総料理長である黒河紀生への取材は、何度も断られ続けてようやく許可が下りたというから、クロカワフーズとしてはしつこい取材要請に根負けした部分もあったのだろう。

 そうして、念願の大物取材はクロカワフーズ本社で行われた。

 黒河紀生へのインタビューと写真撮影の後、『櫻華亭』本店の写真撮影もフロアの一部だけという条件でOKが出され、片倉含む数名はカメラマンと一緒に本店へ異動し、店内フロアの一角で撮影を始めた。

 時刻は夕方、ディナータイムの準備中ということで客はまだいない。元々好奇心の強い片倉は、撮影を進めるスタッフの一団から少し離れ、何となくフロア内を見渡していた。

 そのうちついふらりと足が向いて、フロアから完全に隠された厨房内を覗いてしまう。

 そこは(せわ)しない活気と緊張感がビンと張りつめた別世界であった。十五、六人ほどはいるだろうか、年若い者から熟年の者まで、男たちが真剣な顔で手先を、腕を、身体を動かしている。

 片倉はその様に圧倒され、息を詰めて見入っていた。

 ――その時、怖ろしい罵声が響き渡った。年配の料理人が、片倉と同じ年代くらいのコックを怒鳴り飛ばしている。

 何かヘマをしでかしたのだろう、どこぞの組長かと思うようなドス声で容赦なく怒鳴りつけられる様子に、恐るべし厨房の世界……と密かにすくみ上りつつも、片倉は怒鳴られたそのコックの態度に一抹の興味を覚えた。

 ふて腐れた顔で反抗的な目をしており、反省の色が全く見えない。それなりに人を見てきた片倉は、この青年が問題児であることはすぐにわかった。自分の能力を過大評価するようなタイプだ。どこの世界にもこういった輩はいる。

 内心苦笑しつつ、片倉は気づかれぬようその場から退散し、何食わぬ顔で撮影隊一行の元へ戻ったのだった。


「――それから五年が経って、片倉氏は取材のこともそこで見聞きした出来事もすっかり忘れていたらしいんだが、葵の店で、後から入ってきたカップル客を見て、おや、と思ったんだな。……どこかで見た顔だけれど……と記憶を探っているうちに、あろうことかその客から異物混入の苦情が上がった。……ああ、そういえばお前もその日、店にいたそうだな。男の顔は見なかったのか?」

「異変に気づいてフロアに出た時、すでに帰ってしまっていた」

「なるほど。じゃあ片倉氏が、自分の記憶こそが鍵だ、と必死になるのもわかるな」


 ――見覚えのある男の、見過ごせない怪しい動き、そして上がったクレーム。

 責められる葵を見かねて咄嗟に助け舟を出し、とりあえずその場は収まったように見えたが、片倉が引っ掛かったまま出てこない記憶の欠片に悶々とするうち、例の異物混入の苦情はいつの間にか大事へ発展してしまった。片倉はずいぶん焦ったという。

 こうなったら何としても思い出そうと、過去の取材記録を漁り、刊行された雑誌のバックナンバーを調べられるだけ調べ、かつて担当したことのある料理専門雑誌に思い至った時ようやく、あの時怒鳴られていた男だ、と思い出した。

 しかし、顔は一致したが名前など知る由もない。名前がわからなければ探しようもない。

 そこで片倉は、クロカワフーズへ直接問い合わせるのが一番早いと踏んだ。

 堂々とクロカワフーズ傘下の店で “やらせ” を働くくらいだから、十中八九、今なお『櫻華亭』本店に勤めていることはないだろうが、五年前『櫻華亭』本店にいたことと、その男の特徴を挙げれば正体が割り出せるかもしれない。人事管理がしっかりされている会社ならば、退職者でも雇用データを保存している可能性はある。


「まず初めに、お前の母親に交渉したと言っていた。統括部長……だそうだな。最初はまったく相手にされなかったって言ってたぞ。けんもほろろに追い返されそうになったところを、どうにか食い下がって、グルメサイトの方を調べてくることを条件に、再度また交渉する権利をもらったとか。やり手なんだな」

「……そっちの方は上手くいかなかったと聞いた。データベースに残っている登録情報を調べても、個人を特定するには至らなかったと」

 侑司の母親に敬意を表したつもりだったのだが、この息子は完全にスルーだ。

「所詮、編集者と言えども民間人だからな」

 蓮は可笑しさを噛み殺した。


 統括部長との交渉筋は断たれたかに見えたが、幸いなことにもう一人の仲介者がいた。それが杉浦崇宏――侑司の先輩マネージャーである。

 杉浦が間に入ってくれたおかげで、片倉は退職した社員の保存データを見せてもらうことができた。記憶通り、その中にその男はいた。

 辻山徹朗――退職日を見れば、片倉が本店を訪れた例の取材日からひと月も経っていない。やっぱり長続きしなかったんだな、と納得しつつ、片倉はそのデータの中にある住所と連絡先だけ、控えることを許可してもらった。

 そして始まった辻山徹朗探し。

 しかし探索は難航した。予測はしていたが携帯電話番号は解約され、住所は引っ越した後。クロカワフーズを辞めた後の再就職先は割とすぐ判明したが、そこもすでに辞めてしまっていた。ようやく新しい住所を割り出しでも、常に留守で行方がわからない。辻山徹朗の探索は手詰まり状態が続いた。

 だがついに、辻山と一緒にクレーム騒動を起こした女の方の身元が割れた。きっかけを作ったのは何と、青柳伸悟なのだそうだ。


「……俺も実は、伸悟がどうして首を突っ込むことになったのか、詳しい経緯はまだ聞いていないんだ。どうやら辻山徹朗は恐喝の常習犯らしくて、警察も動き出しているって言ってたな。知っていたか?」

「杉浦さんから大体のところは。証拠がない分、現行犯逮捕を狙うしかない、と聞いた」

「そうか……ということは、すでに辻山の居場所は突き止めているってことか。そこに、片倉氏と伸悟は張り付いているのかもしれないな……」

 後で必ず報告しますから、と慌ただしく電話を切った幼馴染を思い出す。

 妹絡みのトラブルに関して、また伸悟が動くことになったのは何かの定めなのだろうか。

 蓮は手に持ったままの缶コーヒーをデスクに置き、嘆息交じりに腕を組んだ。

「――前置きが長くなったが、ここからが本題だ。辻山が『櫻華亭』の本店にいた当時の支配人は、黒河……お前だったそうだな?」

 侑司は微動だにせず、蓮を見つめ返す。

「辻山は、何か問題を起こして辞めたのか?」

 見返していた双眸が一つだけ瞬きして、伏せられた。

「……起こす前に、辞めてもらった」

 音のない静かな部屋に、侑司の声が澱みなく続く。

「辻山という男は、さっき話に出た通りの男だ。傲慢で不遜で、何故自分が正当に評価されないのかと常に不満を抱いているような人間だった。……入社して幾日かは大人しかったが、慣れるにつれて本性を現し、料理長にまで反抗的な態度を取ることが増えた。……厨房の人間というのは職人気質な面も多分にあるからな、プライドは高いし短気な人間も多い。いざこざが発生すれはどうしても大事になる。問題が大きくなる前に、辞めるよう仕向けた」

「……仕向けた?」

「ミスを指摘した同僚に暴言を吐いているところを見つけた。だから、帰れと命じた。逆切れして帰った彼は、次の日から出勤してこなくなった」

 淡々と述べる侑司に、蓮は思わず声を上げて笑った。

「全部見越しての『帰れ』か。そんな奴、辞めてもらって正解だよ。……しかし、一流と呼ばれる『櫻華亭』でも採用者の不合はあるんだな」

「うちのような業種は、どうしても即戦力となる経験者を優遇する。料理人は特にその傾向が強い。その代わり、入社後しばらくは徹底的に日の当たらない陰で使われる。新入でも中途でも……経験があっても年配であってもだ。そこで独りよがりの(おご)りや(こだわ)りを捨てきれない者は、絶対にうちではやっていけない」

「貴社の社員教育理念にケチをつける気はないよ。……俺が言いたいのは、少なくとも辻山にはクロカワフーズを……もしくはお前自身を、逆恨みする動機があったということだな? だがそうなると、いくつか疑問が出てくるんだよ」


 片倉が侑司と話をしたがっていた理由はここにある。辻山徹朗の登場で、腑に落ちない点がいくつも出てくるのだ。

「いいか? 五年も前に辞めたはずの辻山が、何故、今頃になって現れた? 仮に、彼が黒河やクロカワフーズに対し良からぬ思いを抱いていたとしても、今になって報復か? それは何故『アーコレード』の慧徳学園前店で起きた? 黒河が担当マネージャーだと知っていたからか? だとしたら、そのことをどうやって知った?」

 宙を見つめる侑司の眼は動かない。蓮は彼の前に一つ一つ論理を積み上げる。

「辻山としては、自分を知っているクロカワフーズ関係者には、絶対に顔を見られたくないはずなんだ。自分を知っている人間が介入すれば、クレームの真偽が疑われ、逆に自分が業務妨害と名誉棄損で訴えられる可能性が高い。……しかもだ。慧徳の『アーコレード』には佐々木料理長がいる。五年前は本店にいたそうじゃないか。辻山のこともおそらく覚えているだろう。……つまり、あの店は辻山にとって地雷だらけの適地同然なんだよ。そんな危険な場所に乗りこんで爆弾を仕掛けるなんて自爆行為そのものだ。なのに、辻山は躊躇なく起爆させた」

 侑司は黙ったまま目を伏せた。蓮は一息吸って続ける。

「辻山は謝罪する葵に対して、暗に金銭を要求するような物言いでしつこく責め立てたそうじゃないか。知っている人間に見咎められる危険を感じていた様子はこれっぽっちもなかった、と片倉氏は言っていた。辻山は身の安全を確信していたんだ。つまり――、」

 侑司の口が開いた。

「――三年半前にオープンしたばかりの『アーコレード』慧徳学園前店に辻山のことを知っている人間はいない、しかも店長は若い女だから、虚言が見破られることはない、慰謝料請求も簡単にできるはずだ――、……そう、誰かから(、、、、)予め示唆されていた(、、、、、、、、、)としか考えられない」

 淀みなくきっぱりと言い放った侑司に、蓮は頷く。

 ……やはりこの男は、全部(、、)わかっている(、、、、、、)のだ。

「――辻山徹朗と高校の同級生だった(、、、、、、、、、)ここの現支配人が(、、、、、、、、)、深く関わっているとみていいんだな?」

「……ああ、間違いない」

「すべての黒幕は、そいつ(、、、)なのか?」

「すべての、とはまだ断定できない」

 侑司はゆっくり首を振って、かすかに眉根を寄せた。

「故意なのか偶然なのか、色々な思惑が複雑に絡み合っている。……いずれにせよ確実な物的証拠がない以上、何も立証できない」

「だから、こうして夜通し “探し物” ってわけか。……どうなんだ、少しは先が見えているのか?」

 侑司の正面にあるパソコン画面に目を向けると、侑司は何を考えているか全くわからない眼で蓮を見つめた。そしてそのまま、機械じみた抑揚のない声音を出す。

「―― “探し物” は、見つかった」

「は? ……見つ、かった? ――探していたものが見つかった、ってことか?」

 思いがけない “見つかった宣言” に蓮が唖然とすれば、侑司は「お前が来る十五分ほど前に」と言った。

 蓮はしばし絶句だ。……だったら、そこはもっと喜んでいいんじゃないのか?

「……で、何が見つかったんだよ。――あ、いや、無理に訊き出すつもりはないが……」

「話すのは、構わない。……だが」

 言い淀んだ侑司は、決然とした眼を上げる。

「この後始末だけは、俺に任せてくれ。……頼む」

 その双眸に、強い光が瞬いた気がした。そんな眼をするとやつれた顔が余計に際立って見える。

 蓮はふっと口元を緩めた。

「俺がその黒幕に手を出すと思っているのか? さすがにそこまではしないさ。俺は葵が安全ならそれでいい。すべての処置は、お前とクロカワフーズに任せるよ。約束する」

 侑司の眼から放出されるのはスキャニングするような視線。そのまま走査すること数十秒。

「……しつこいぞお前」と蓮がぼやいて、ようやくスキャニング線は外れた。


 ――だがこのすぐ後、軽々しく誓約した己の安易さを、蓮は痛いほど思い知る。



「……こ、れは、いったい……」

 プリントアウトされた二枚のA4用紙――二つのワード文書。

 両方とも、完全削除されていたデータを侑司がリカバリソフトで復元した文書だ。

 一枚目は文書表題に《告発状》と題しており、その左下にある宛書は、《クロカワフーズ取締役役員各位様》となっている。

 細かい文字が連なるその内容は、驚くべきことに、妹の葵を “告発” するものであった。


《 ……『アーコレード』慧徳学園前店の店長、水奈瀬葵さんの良識ない過去の素行と責任能力に欠ける現在の精神状態について、ご忠告させていただきます。

 水奈瀬葵さんは学生の頃、夫でもない男性の子供を妊娠し流産しています。それが原因で精神を病み、現在も完治していません。

 業務に差し支えるほど幻聴に悩まされているということは

 社会的模範となるべきクロカワフーズの社員が、こういった常識外れの人間を雇用し、役職にまで就けて野放しにするのは非常に危険なことだと思い 》


 妹の人生の、ただ一つの汚点ともいえる過去の災厄が、その文書の中でさも悪しき所業のように責めたてられている。……が、文章は不完全で所々が切れていた。書きかけの文書なのだろうか。

 そして、もう一枚の文書――それは一枚目の比でなく、蓮を茫然自失のショックに追い込むものであった。


《 慧徳の 水奈瀬葵は 妊娠 堕胎 繰り返す 淫乱女 精神疾患 誇大妄想 幻聴あり 彼女を 孕ませて 捨てた陰獣は 黒河侑司 》


 これがクロカワフーズ傘下の全店舗に送信された、例のFAXの原本だと、侑司は言った。

 各店舗に着信したFAXはすべて回収したと言われても、妹が受けた恥辱は消えるはずもない。

 しかもボツボツとした単語の並べ方といい、意味の分からない最後の部分といい、気分が悪くなるような不可解さが蓮を襲う。

 ――これは、一体、どういうことだ……

 愕然と凍りつく蓮に構わず、侑司は冷ややか過ぎる声音で説明していく。


「その二つのワード文書はここのパソコンで作られた。その《告発状》の方は、作成されたのが十一月二十二日、二十三時三十五分。FAXの原本の方は、十一月三十日、二十三時四十三分に作成されている」

 侑司はパソコン画面上にある復元ファイル一覧の一点にポインタを置き、作成日時を示す。そしてマウスのクリック音を鳴らし、侑司は画面の中に《告発状》の文書を開いた。蓮が手に持っている一枚と同じものだ。


「……この《告発状》が、どういう目的で作成されたのかはわからない。現時点で、これがクロカワフーズのどこかへ送られてきたという事実もない。文面が途中で切れて完成されてない点から、完成された文書があるかどうか探してみたが、同類のものはなかった。少なくとも、このパソコンの中には」

 恐慌冷めやらぬまま、それでも手にある《告発状》に目を落とす。

 確かに最後が中途半端な尻切れで終わっているのは不可解だが、蓮としては、この文面の文章の組み立てや使われる語彙に見られる、奇妙な拙さの方が気になった。

 再びクリック音が鳴り、今度は画面にFAXの原本が現れる。

「そして、これが作成されたのは《告発状》が作成された約一週間後の夜。実際に一括送信されたのはそれからさらに一週間ほど後だ」

 冷静になれ、平常心を保て、と己に言い聞かせつつ、蓮はしきりに額を小突いた。

「……頭が痛くなってきた。つまり、そいつは何がしたかったんだ……? 《告発状》で葵を(おとし)めようとしたがそれを中止して、一週間考えなおした結果、もっと下劣な方法を思いついたってことか?」

 つい語気粗く侑司に問えば、細めた眼をどこか遠くに向けた男は、低い声で呟くように言う。

「二つの文書を作成した人間が、同じだったという証拠はない」

「……え?」

「異なる人間だという証拠もないが」

「あのな――、」

「このパソコンは基本的に誰でも使える。日報などのデータ管理やメールの確認はパスワードを入れる必要があるが、エクセルやワードを使うだけならパスワード入力は要らない。いずれにしても、この二つのワード文書の作成者が誰なのか……パソコンのデータだけで特定するのは不可能だ」

 侑司がこちらに向かって手を出したので、蓮は二枚のA4用紙を手渡した。侑司はそれを折り畳んでデスク脇に置いてあるビジネスバッグにしまい込む。


「――何とか方法はないのか? ここのパソコンで作成されたのは確かなんだろう? 夜の十一時過ぎっていう時間を見ても、作成が可能な人間は絞られるんじゃないか? そこから何か――、」

「方法がないわけじゃない」

「……あるなら言え」

 つい舌打ちして侑司を睨めば、彼はまったく悪びれる様子もなく、デスクの左頭上に設置してあるモニターへ視線を向けた。

「二つの文書が作成された時間、誰が店に残っていたか、を調べればいい。それができるのは――監視カメラの解析」

「――監視カメラ?」

 思わずドキリとして見上げたモニターは何も映っていない。怪訝な顔をする蓮に、侑司は「モニターの電源は店が終わると切るんだが」と説明する。

「カメラは二十四時間回っている。その代わり録画したデータの保存期間は九十日だ。……ああ、心配はいらない。店やホテル内で事件やトラブルがなければ、特に過去の録画映像を確認する事はない」

「別に(やま)しいことをしているつもりはないけどな。お前に迷惑がかかるのは悪いと思ったんだよ」

 蓮が小さく咳払いをすれば、侑司はにこりともせず説明を続ける。

「この店の出入り口は二つ。表のエントランスと厨房へ入る裏口だ。その両方に監視カメラが設置してある。店を出退勤する従業員は必ずそのどちらかから出入りするから、日時を限定して店にいた人物をチェックすることはできる」

「……へぇ、徹底したセキュリティだな」

 感心の声を上げたが、侑司は揶揄に聞こえたらしい。ほんの少し眉を寄せた。

「今時、監視カメラなんてどこでも常設しているだろう」

「まぁな。でも、裏口にまであるのは珍しくないか?」

「何年か前、米国のあるリゾートホテルで食材の搬入業者を装った強盗殺人事件が起きたんだよ。それを受けて、ここでも数年前から物販搬入経路には設置されるようになった。……ただ、裏口にある監視カメラは管轄がホテルの警備室となっている。ここでは確認できない上に、見ることが叶うかどうかもわからない」

 なるほど、と頷き、蓮は真っ暗なモニター画面をもう一度見上げた。

 持ち前の理性と合理的思考を総動員し、先ほど受けた衝撃の余韻を脳裏から一掃する。蓮のショックはこの男からしてみれば “今更” なのだ。侑司はすでに気持ちを切り替えている。

 ならば、自分も立ち尽くしているわけにはいかない。


「……表のエントランスの監視カメラは、このモニターでチェックできるんだな」

 モニターから目を離さずに言うと、侑司の無表情がわずかに反応を見せた。蓮が何を考えているか思い当たった顔だ。

「時間がかかる。朝までに終わるかどうか……」

「どのみち一人でやるつもりだったんだろう? その日の出勤者と出退勤時間も調べ済みか?」

「……十一月二十二日と三十日は、どちらも大きな宴会などクローズが遅くなる要因はなかったはずだ。出退勤管理データ上は、その日の出勤者全員が十一時前に店を退勤している」

「ほぅ? ますます絞れそうじゃないか。……ということはつまり、二つの文書が作成された時刻とその内容から見て、そいつはスタッフ皆が帰った後一人だけここに残った……もしくは、皆と一緒に店を出て、その後一人でこっそり戻ってきた……そう考えられないか?」

「二つの文書を作成した人間が同じかどうかはわからない」

「ああ、そうだったな。いずれにしても、録画映像を調べてみればわかるさ」

「その人間が裏口から出ている場合もある」

「ならば、警備室とやらに掛け合って裏口の監視カメラも解析するまでだ」

 不敵に笑んだ蓮は、立ち上がって伊国某ブランドのブラックウールジャケットを脱いだ。ネクタイは元々外してきている。

「やれるだけのことはやってみようじゃないか。邪魔したお詫びに俺も手伝うよ。……明日の会議までに証拠を見つけ出したいんだろう?」

 デスクチェアに腰掛けたままの侑司が、驚いたように見上げる。

 蓮は自ら買ってきた差し入れの紙袋を引き寄せ、中から薄紙に包まれたクロワッサンを一つ取り出した。


「今日――ああ、もう昨日になるな。葵から電話があった。明日は会議だから気合を入れていくんだとか何とか、言っていた。普段からあまり電話してくるやつじゃないからな、何かあるな、と思ったんだ」

 他に交わした会話と言えば大したものはなかった。宮崎行きを控えた萩の準備はどうか、とか、蓮宛に届いた年賀状をまとめて置いたけれど気づいたか、とか。そんな他愛もない話をした後、葵は最後にゴメンね、と言ったのだ。

 ――どうしても仕事は辞めたくない。やらなきゃならないことがあるの。


「以前……俺は葵に『こんな仕事辞めてしまえ』と言った。……葵が危険な何かに巻き込まれていると聞いて、嫌な予感がした。また四年前のように傷ついてボロボロになる葵を見たくなかった」

 誰かさんにかけた電話じゃ、素っ気なく突き放されるしな、と言えば、侑司はあからさまに憮然とした。

「とにかく、災いから遠ざけたかったんだよ。そうしたらな、あいつ『絶対に辞めない』と言い切った。あそこまで激しく抵抗されたのは久しぶりだ。……あんなFAXが送られていたっていうのにな……きっと、今の仕事があいつにとっては生き甲斐なんだろう。……まぁ、兄貴としてのプライドがあるからな、辞めろと言った手前、前言撤回はしていないんだが……結局のところ、仕事なんて何でもいいんだ。葵が笑って過ごせるなら」

 侑司は黙って、視線を宙に固定している。

「――俺も訊きたいことがある、と言ったな」

 蓮は何となく面映い心地で、手に持ったクロワッサンの薄紙を小さく破った。

「……葵を、守ってくれるか?」

 こないだ突きつけたばかりの問いだ。だが、今度は願いの意が強く出たかもしれない。

 無表情だった鉄面皮は一瞬グッと引き締まった後、はっきりとわかるほどに歪んだ。

「……俺に、そんな資格はない。……水奈瀬を、守ってやれなかった。……だからせめて、今回のことだけは、この手で決着をつけたい」

 絞り出すように侑司は言った。

 ……バカな奴。蓮の口元はつい緩む。

 非常に理解しがたい男であり、一度解ればこれほどまでにわかりやすい男でもあった。

 今はもう、これで充分としよう。してやろう。

「――わかった」

 小さく笑って見せて、蓮はクロワッサンに(かぶ)りついた。

 買ってから時間が経っているのでどうかと思ったが、さすが一流ホテルのベーカリー製。さっくりとしたパイ層の歯ごたえとバターの濃厚な風味は、その辺にあるものと全く違う。


「旨いなこれ。一つ二百七十円もするほどのことはある。……お前も食えよ。 “差し入れ” なんだからさ」

 差し入れた本人がいの一番に手をつけているが。

 諦めたように息を吐いて、侑司はデスクに置かれたままの缶コーヒーをようやく手にした。

「……部屋は、いいのか?」

 ハイグレードなクロワッサンを数口で平らげた蓮は、残っていた缶コーヒーを全部飲み干して肩をすくめる。

「俺みたいな庶民にはデラックス過ぎて落ち着かないんだよ。もしここで有益な証拠を見つけることができた暁には、お前を連れ込んでやってもいいぞ? さっきも言ったが、ベッドはキングサイズだ」

 容赦なく突き刺さる冷ややかな視線。それをしっかり受け止めて、蓮はフンと鼻で笑った。

 ――わかっている。自分にできることなど、無いに等しい。

 実際、蓮はここの従業員の顔など誰一人知らない。監視カメラの解析に立ち会ったところで、何の手助けにもならないだろう。それでも、このまま侑司を放って自分だけデラックスな宿泊部屋へ引っ込むのは、己自身が納得できない。

 ゴミをデスク脇の屑入れへ投げ入れて、蓮はプリンターやチューナーらしきものが設置してあるデスク上の棚に向かい合った。


「――で? このモニターを見るには……ああ、これが電源だな。……録画の再生は? ……いいよ、それくらいやらせろよ」

「……残っていた人間を特定するためには、入った人間と出た人間すべてをチェックする必要がある。言っておくが、相当時間がかかるぞ」

「一晩くらいの完徹は慣れてるよ。……じゃあ、モニターチェックしながら詳しい話を聞こうじゃないか。……ここの支配人だというその男が、何故、ここまで(、、、、)堕落したのか(、、、、、、)

「……」

「安心しろ、俺は手出ししない。さっき約束しただろ? その代わり葵を守れよ? っていうか……お前、意外と疑り深いよな……」


 ――夜明けまで数時間。

 男たちの奇妙な共同作業が始まった――





 

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