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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第1部
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第6話   黄金週間、突入(ディナー編)

 その夜のディナータイムは、佐々木が出勤してきたこともあり、またフロアも池谷が入ったことで、客足が多い割には余裕のある店内となった。

 二十時過ぎ、葵がバックヤードから出てくると、カランコロンと鳴るドアベルとともに、底抜けに明るい声が響き渡った。

「葵ー! 大盛況だねー!」

「――麻実ちゃん! 来てくれたの?」

「だいぶ待つ? 四人なんだけど」

「うーん……ちょっと時間かかるかも……」

 混み合う店内を申し訳なく見渡せば、幼馴染にして親友である彼女は気にする様子もなく、葵に飛びつく。

「いいよ待つから! お腹空かして待ってるぅ~」

 ぎゅっと葵を抱きしめてから「外で待とー」と、一緒に入ってきた男性二人と女性一人を引き連れて出ていった。

 ――相変わらず、エネルギッシュだなぁ。

 葵は笑みを漏らしつつ、ウエイティング表に “青柳様 四名” と記載した。


 葵の長年の友人、青柳(あおやぎ)麻実(まみ)は、都内大手出版社に勤める雑誌編集者である。

 今担当しているのは、その出版社でもそこそこいい発行部数を保持する総合スポーツ誌らしく、取材だ撮影だ、と年から年中あちこちを忙しく飛び回っているらしい。

 葵より一つ年上の麻実は、実家が『アオヤギ・スイミング』を経営していて、上に三人の兄がいる四人兄妹の末っ子だ。青柳家と水奈瀬家は家族ぐるみで昔から仲が良く、両家ともに子供はみんな『アオヤギ・スイミング』のクラブ生だった。

 葵は中学に入ってから部活で軟式テニスを始めたので、スイミングクラブは辞めてしまったが、その後も遊びがてらに泳がせてもらうことも多かった。その後、麻実とは高校と大学は別だったにもかかわらず、親友として交流は今も続いている。

 こうして彼女が店を訪れてくれるのも『アーコレード』がオープンした当初からで、忙しい身でありながら時おり、彼女の友人や仕事仲間を連れて来てくれるのだ。



* * * * *



 二十時半――。

 店奥の一角から、甲高く耳障りな笑い声が響いて、葵は僅かに顔をしかめる。

 盛り上がっているのは、だいぶ前に奥のテーブルへ入った客で、何とも珍しい男子高校生四人組、だった。

 『アーコレード』がいくらカジュアル志向といっても、一般のファミリーレストランに比べて価格はずいぶん割高である。しかも、慧徳学園前店は他の『アーコレード』渋谷店や恵比寿店とはまた違って、年配の客に好まれるようなアンティークな雰囲気があり、昼間のランチタイムなら慧徳大学に通う学生が奮発してランチ、というのもたまに見かけるのだが、高校生だけが食事目的でしかもディナータイムに訪れることは、まずない。

 喫茶関係が充実していれば、お茶飲み目的で若い年齢層も呼べるのだが、『アーコレード』は『櫻華亭』と同様、ランチとディナーの間一旦店を閉めてしまうので、必然的に食事目的のお客様主体となってしまう。よって、小遣い暮らしであろう男子高校生が連れだって食事をする光景は、本当に珍しかった。


 ――しかも制服だし。

 賑やかしさが一層増していくテーブルに、葵は溜息を吐く。

 周りのお客も、騒声が上がるたびに彼らのテーブルへと視線がいっている。

 ハンバーグステーキやメンチカツレツなどのメイン一皿にライス、といったシンプルなオーダーだった彼らは、料理のあるうちはさほどうるさくもなかったのだが、あらかた食べ終えた今はお冷を数度おかわりしつつ、時おり「マジか!」「いやそれ違うからー!」「それありえねーし!」などという叫声が爆笑を交えて聞こえてくる。中には、こちらをちらりちらりと意味ありげに見てくるのがいるが、あれは一種の挑発か?


「……あーあー、あれ高等部の奴らだな。マナーも弁えない奴らがこんなとこ来んなよなー。しかも制服でこの時間っていいのか? 亜美の後輩だろ? ガツンと言ってこい」

「えーっ、あたし? ヤですよ! 池さんだって慧徳大生なんですから彼らの先輩ってことになるでしょ! 池さん行ってきて」

「俺は外部生だ。あんな金持ち高校生と一緒にするな。幼稚部からの “慧徳っ子” であるお前が行け」

「違いますー! あたしは中学からです! 幼稚部なんて……あんな “筋金入り” と一緒にしないでください!」

 いつの間にか手の空いたらしい池谷と亜美が、葵の後ろから客席を覗きこみながらコソコソと小突きあっている。

「こらこら。私が行くから。池谷くんC番のアントレ、中に声かけて。亜美ちゃんはコーヒー落としといて」

 そう小声で告げて、「はーい」という二人の返事を背後に聞きながら、葵はまたもや爆笑が弾けて盛り上がる奥のテーブルへ進んで行った。


「――失礼いたします。お客様、何かデザートなどお持ちしましょうか」

 にこやかに笑みを浮かべ、ウォーターポットでお冷を注ぎ足しながら、葵はごく穏やかに男子高校生たちの会話を遮った。

 一瞬顔を見合わせた四人だが、そのうちの茶髪の一人がにやりと笑って、「じゃー、おねーさん食べたーい!」と言うと、もう一人も「俺も俺も! てかケー番教えてよ、おねーさん」と言ってまた甲高く笑う。一方、黒髪の一人は気まずそうな顔で俯いている。どうやら茶髪二人が中心となって盛り上がっているようだ。

 葵は、このヤロ……と思いつつも、

「当店の料理はいかがでしたか?」

 ことさらゆっくり、丁寧に四つのお冷グラスを満たしながら四人に問えば、突然の質問に再び彼らは顔を見合わせた。

 が、すぐにその中の一人が切り返す。

「チョー美味かった! ねね、おねーさん、 “みなせさん” ! ここの店長さんなんでしょ? 彼氏いる?」

 葵のネームバッジを目敏くチェックし、軽く身を乗り出して聞いてくる高校生は、よく見ると顔立ちはまだ幼い。


 慧徳学園の大学は七割方外部からの入学なのだが、高等部までは持ち上がりの内部生が多く、また金持ち子息が多いと聞く。私立にして学費が他の私立よりも高いのだ。だから特に幼稚部から高等部まで、ましてや大学までも一貫して慧徳に通い続けるのは、相当な資金が必要だと世間では言われている。(亜美がいう “筋金入り” とは金銭的意味合いも大きく含まれているらしい)

 この四人組が、池谷の言うように金持ち高校生なのかどうかはわからないが、見たところ不良高校生ではなさそうだった。制服はネクタイを緩める程度できちんと着ているし、髪も二人が黒色、もう二人は茶髪だが、さほど派手なわけではない。賑やか過ぎるのは褒められたものではないが、素行が悪いわけでもなさそうだ。


 葵は笑みを絶やさず、静かな声音で続けた。

「ご満足いただけて良かったです。ここは料理だけでなく、流れる時間も、店内の雰囲気も、すべて(、、、)、楽しんでもらえることをモットーにしております。それこそ、来ていただいたお客様全員に(、、、、、、)、です」

 ちょこっとだけ強いアクセントを所々につけながら、最上級の笑顔で柔らかく言い渡せば、またもや顔を見合わせ視線を絡まり合わせる四人たち。その表情は気まり悪げだ。

 案外頭の良い子たちなのであろう、これで伝わったかな……と葵は肩の力を抜いた。

「では、ごゆっくりどうぞ」と葵が一礼すると、

「はーい……」

 不承不承といった感じで口々に小さな返事が返ってくる。


 思いのほか素直な少年たちに可笑しさを堪えつつ、ウォーターポットを手にカウンター内に戻ると、今度は遼平が、カウンター奥にある厨房口から身を乗り出すようにしてこちらを見ている。

「こら遼平、出てきちゃダメ」

 小声で注意すると、無言で何を訴えているのか、じっと葵を見つめてくる。

「遼平?」

 葵が首を傾げると、遼平は何も言わず厨房内に戻っていった。

 ――何なんだ?

 よくわからないまま、葵は他のお客様にもそれとなくお詫びしておこうかな、と店内を見回した。


 その後、ずいぶんトーンダウンした男子高校生たちは、しばらくすると席を立ち、各々個別に支払いを済ませた。

 そのうちの茶髪一人がレジに立つ葵に、しつこく「おねーさん、下の名前何てゆーの?」だの「メアド交換しよ」だの言ってきたのだが、上手くかわされて諦めたのか、最後は「また来るねー」と手を振って帰っていった。

 あっけらかんとしたその態度に、若干拍子抜けした葵だったが、しかしのんびりしている暇はない。

 彼らと入れ違いでようやく青柳様御一行を案内することとなる。



 待ってましたとばかりに席に着いた麻実は、嬉々としてメニューを開き「今日は何にしよっかなー」と言いながら、連れの三人に「これが美味しい、これもお薦め」と説明し始めた。

 聞けば連れの三人は同じ編集部の先輩後輩らしく、三人とも『アーコレード』は初めてだと言う。それでも、麻実の意見を取り入れつつ早々に注文は決まった。

 先ほどの高校生とは違って、四人でワイン一本とオードブル一品、それぞれメインを変えてのコースを四つ、という、いかにも大人なオーダーであった。


「うわぁ、美味しそう! ホントにドカンと出てくるんですね!」

「でしょー? ここのシチューは煮込んでたブロックがそのまま出てくるの。柔らかくって美味しいんだからー。あ、片倉さん、タンシチューちょっと味見させて下さいよ」

「じゃあ、お前のカニコロッケ一個と交換な」

「ぅぐ……、それは惜しい」

「先輩、それは我がままというものです」


 ワインでほんのり頬を赤くした麻実は、仲間と一緒にテンション高く、運ばれてきたメイン料理に感嘆の声を上げている。

 『アーコレード』の料理は、見た目はボリュームがあって若い女性や年配客に敬遠されがちなのだが、実際食べてみれば驚くほどすんなりと量を食べられてしまう不思議さ(マジック)を兼ね備えているのだ。

 麻実たちも、オードヴル盛り合わせの前菜を四人でつまみ、空豆のスープにミニサラダ、魚料理としてホタテのコキーユを綺麗に平らげた後、メインの皿も嬉々として手をつけ始める。

 さらにワインをもう一本追加となり、葵はお勧めワインの “シャトー・ラ・ピルエット’06”をワインオープナーで開栓した。


「葵ー、今日の昼、凄かったでしょー? 混んだんじゃなーい?」

 自家製タルタルソースをたっぷり付けたカニコロッケを頬張る麻実は、至極ご満悦だ。

 彼女は葵と正反対で、アルコールに弱くすぐ顔に出るタイプである。今グラスに残っているワインも、最初の一杯が飲みきれていないのだろう。葵は麻実以外のグラスに均等に注ぎながら苦笑しつつ頷いた。


「菖蒲まつりのお陰だね、きっと」

 すると、麻実は大げさに目を見開いて「それだけじゃないでしょ!」と首を振る。

「あれ “ツグ鳴く” 効果だって」

「つぐ、なく?」

「えっ! 葵見たことない? 『ツグミ鳴く空に』っていう前クールの連ドラ! 住吉基也と橘ちひろ主演の昭和初期の純愛もの。中高年のおばさま方に大人気だったんだから」

「テレビ自体、見る暇ないんだよね……でも、何で連ドラ?」

「あんたねー……あの鶴の宮公園にある菖蒲苑がロケ撮影に使われたんだよ。近場で働いてるのに知らなかったの? 世のおばさま方には “聖地” だなんて言ってる人もいるんだから」

 呆れる麻実の隣で、後輩だという女性がうんうんと頷いた。

「あそこが二人の思い出の地で、主人公の名前も “あやめ” なんです。ラストなんか結構いい見せ方だったんですよー、私も現地見て回ろっかなーって思いますもん」

 どうやらこの後輩さんはがっつりドラマを見たクチらしい。

 一方二人の男性先輩方は、もっぱらキャストに関心があるらしい。

「橘ちひろは当たり役だったかもな。あれはいい女になったよ」と、したり顔で語ったり、

「俺はウイコ役の遊奈彩香の方がいいっすよー。あの子に責められてみたい」と、妄想に入ってみたり。

 葵は笑いを堪えて「では、ごゆっくりどうぞ」とワインボトルをテーブル中央に置き、バックヤードに戻った。


 麻実たちは結局、閉店間近までいた。

「おーいしかったよぉー! 葵ーっ! やっぱり『アーコレード』はイイ! この値段であの美味さはある意味奇跡だよぉーっ!」

 レジ前で雄叫びを上げる麻実を、「はいはい、麻実さん行きますよー」と引っ張っていく後輩さん。男性の一人はタクシーを呼びに行って、もう一人が会計をしていた。


「まったく……相変わらずだよな、青柳は」

 支払いをクレジットカードで済ませながら麻実の先輩は呆れ顔だ。酒というより雰囲気に酔う、みたいな麻実の醜態は、葵も良く見てきたので笑って同調する。

「たぶん、ああ見えて頭はしっかりしてると思いますよ?」

 葵がカードご利用の控えを渡しながら言うと、彼も「いつものことだしもう慣れたよ」と言って苦笑する。そしておもむろに名刺を取り出して葵に差し出した。

「ホントに美味しかった。俺、『櫻華亭』は仕事で何度か行ってるんだけどさ、『アーコレード』は初めてで。こんな可愛い店長さんだったら通っちゃおっかな」

 くすり、と微笑して「今度暇だったらメールしてよ」と言う。

 他意を感じさせない見事なさりげなさは、むしろ感心すべきなのかもしれないが、この時の葵はそれどころではなかった。

 内心の狼狽を抑えこみ、強張った心を隠して、葵はにこりと微笑み丁寧にお辞儀する。

「……ありがとうございました。またご来店ください。お待ちしています」

 男は一瞬困惑したような表情を見せたが、すぐに元の笑顔に戻って、じゃあまた、と帰っていった。

 閉まる入り口ドアを見送る葵の顔から、ゆっくりと笑みが消えて、手元にある名刺に視線が落ちる。


『――こんなに可愛い店員さんがいたら通いたくなるな』


 予期せぬときに、些細なことで、押し込み隠して見ないふりをしている記憶の断片が、ちらりとその片鱗を見せる。

 葵はゆっくりと息を吸い込み、強く目を閉じた。

 ――と、その時思い浮かんだ、もう一枚の名刺。

 サロンのポケットの入れっぱなしになっていた、『旭町五丁目自治会』の代表者様の名刺を取り出して、男から受け取った名刺とともにキャッシャーカウンターの上に並べる。

 痛みをやり過ごすように息を吐き出し、レジ下にある顧客リストファイルを引っ張り出して、迷うことなく二枚ともファイルに保存した。


 あの男性には申し訳ないという気はある。

 だが、強固にならざるを得なかった葵の心の壁は、内なる(おり)を隠蔽するとともに、外部からの侵入をも頑なに拒むようになっていた。



* * * * *



 そしてまもなく日付が変わろうとする頃。

 ――なーんか今日一日、長かったなー……。

 葵は一人残りクロージング業務を終えた後、店を出てセキュリティをかけてから店裏に駐輪してある自転車に向かった。

 ――と、暗がりの中で人影が動いて、葵は一瞬ぎょっとする。しかしその正体はすぐに判明して安堵とともに脱力した。

「遼平……びっくりさせないでよ……どうしたの? 忘れ物?」

 厨房スタッフは入りの時間が早い分、帰りはフロアスタッフよりも早く帰れる。遼平も一時間ほど前に帰ったはず、だが。

 見れば遼平はいつも乗って来ている原付バイクに腰掛けている。一度帰ってまた来たのだろうか、それともずっと待っていたのだろうか。

「送ってく」

 遼平はぼそっと言って原付を動かそうとするので、葵は慌てて断った。

「い、いいよ、だって遠回りでしょ? 私自転車だし、大丈夫だよ?」

「引いて行くから。帰ろう」

 そう言ってエンジンはかけずに、ガコンとスタンドを外して引いて行く。

 遼平の家は、店から原付で十五分ほどの隣町にあり少し遠い。一方葵のアパートは自転車で五分だ。方向も違っている。しかも、原付を押しながら歩くのはかなり重労働なんじゃないか?

 ……と、思ったけれど。

 ――ま、いっか……

 今日は朝から色んな事があり、葵の脳内も未だに浮足立っているような感じだ。

 ゆっくり自転車を引きながら帰るのも、いいクールダウンになるかな、と思い直し、葵も急いで遼平の後を追った。


「朝から大変だったねー。遼平もお疲れさまね」

 スルスルと原付を引いて歩く遼平の速度に合わせて、葵は自転車にまたがり足で地面を蹴ってのんびり進んでいく。

 ぽつぽつと点在する街灯が、整然と並ぶ邸宅の庭木を薄ぼんやり照らしていた。

「黒河さんには感謝だねー。あの人いなかったら今日は無理だったなー。さすがに朝はビックリしたけどー」

 無言でいる遼平に構わず、葵は真っ黒な空を見上げてふふ、と笑った。

 昼間は強い日光が降り注ぐ初夏のこの時期も、夜も更ければまだ風が涼しく気持ちがいい。

 葵は「ヒューン」と言いながら地面を蹴って、その慣性の動きを楽しんだ。


「――ちゃんと前向けよ。ぶつかる」

 ぶっきらぼうな口調で咎められても、疲れた身体に惰性的なスピードが心地いいのだ。ほどいた髪が風になびくのも、チチチチと鳴るチェーンの音も、アスファルトから伝わる振動も、何だかとても心地いいのだ。

 強めに蹴って勢いよく前に飛び出した時、後ろから遼平がやや大きい声を張り上げた。


「なぁ、今日……ナンパ、されたのか?」

「え? ナンパ?」

 振り返り、そんなことあったけ……と思い返し、咄嗟に思い浮かんだのは、メールしてね、と言った麻実の先輩のことだった。

「えっと……」

「慧徳の奴らに……しつこく声かけられてたんだろ?」

 そう言われて初めて、ああ、あれかー、と思い出す。

「ナンパってほどのもんじゃないよ。からかっただけじゃない? あの年頃の男の子のノリって言うかさ」


 こまっしゃくれた口の利き方をする一方で、案外すれていない無邪気さを見せていた男子高校生たちを思い出し、葵は思わずまた、うふふ、と笑いを漏らした。

 そう言えばあの四人、茶髪二人と黒髪二人の温度差が奇妙だったなー、と思い出す。ともあれ、高校生に接客するなんて久しぶりのことだ。葵がアルバイトをしていた『敦房』の頃は、高校生も割とよく来ていたのだけれど。

 比較すること自体違うことなのかもしれないが、あの場所が『アーコレード』に変わって、来店する客層は大きく変わってしまったと思う。今は高校生の客なんて、保護者同伴でもなければ本当に珍しい。

 『敦房』に比べれば『アーコレード』の客単価や売上は格段に高い。席数もメニューの数も増え、メニュー単価が上がったのだから当然だ。『櫻華亭』のネームバリューも少なからずあるだろう。

 同じ洋食レストランにして、『敦房』という個人経営の小さな店と、『アーコレード』という一つの企業傘下の一店舗。双方の料理は、驚くほど似ている部分も多くある半面、全く違う部分もある。葵には一概に、どちらが美味しい、とか、どちらが客に受ける、などは言えない。

 ただこれだけは言える。濱野夫妻の人柄、人徳……それは大きかった、と。

 濱野夫妻に会いたいから、一緒におしゃべりしながら食事も楽しみたいから……あの頃、そんな常連客がとても多かった気がする。

 今の葵の、日々の課題にして原動力なるものは、そこなのかもしれない。

 お世話になった濱野夫妻……断腸の思いで店を閉めざるを得なかった彼らの思いを、少しでも継いでいきたかった。

 そしていつか、誰にも恥じることのない、確固とした “根” を持つ良い店になったら……その時こそ、多大な恩義がある濱野夫妻に、少しでも恩返しができるような気がするのだ。そのためには。

 ――もっともっと、頑張らないと。


 よぉぉーしっ!バッチ来い!ゴールデンウィーク!と、真夜中の静閑とした車道を軽く蛇行走行しながら、葵は鼻息も荒く意気込みを新たにする。――さすがに叫びはしなかったが。

 やや後方で遼平が怪訝な顔をしていた。


 そうこうしているうちに二人は角を曲がり、葵のアパートがある小路に入った。二階建ての小さなアパートはもう見えている。

「遼平、もうここでいいよ。ありがと」

 そう言って葵は一度自転車から降り、遼平と向き合った。

 改めて向き合って、ずいぶん背が伸びたなぁと思う。出会った高校生の頃は、葵とあまり変わらなかったのに。……黒河さんくらいまで伸びるかな、いやそこまでは無理か……と、手前勝手に成長予測する葵を、遼平は真っ直ぐ見つめる。

「葵……俺……俺さ……」

 口ごもる遼平の表情は、暗がりの中、彼の背後にある街灯の影になってよくわからない。

「ん?」と覗きこめば、遼平の顔はふい、と逸らされてしまった。

「……明日も、頑張るよ」

 呟くように言う遼平にカクッとなったが、もう夜も遅いことに気づき、深く追求するのはやめることにする。

「うん、頑張ろー。じゃあね、遼平。送ってくれてありがとー。気をつけてね」

 そう言うと遼平はこくんと頷いて、首から後頭部に引っかけていたハーフキャップのヘルメットをきちんと被り直し、エンジンをかけた原付に乗って、勢いよく走り去った。

 巨大な蜂の羽音のようなエンジン音が遠ざかるのを見送って、葵はもう一度夜空を見上げる。


 ――本当に本当に、長い一日だった気がする……疲れたけれど、それなりに収穫はあった……売上も良かった……麻実ちゃんも来てくれた……厨房もしっかり回った……特注も問題なく届けられた……あ、黒河マネージャーのコック着姿も見れたんだ……今更だけど、あれはレアだ。


 思わずまた再び、フフフと漏れた笑いに、いかんいかん、と首を振りつつアパートの駐輪場所に向かった。

 さっきから思い出し笑いばっかりしている気がする。疲れ過ぎて笑いのパッキンが緩みきっているのかもしれない。

 でも、どうしてだか、今とても気分が良い。


 ――お風呂にゆっくり入りたいなー……でも、湯船で爆睡だろうなー……


 繁忙極まりない黄金(ゴールデン)週間(ウィーク)は、まだまだ続く。

 身体が悲鳴を上げるほどの激務でも、葵にとってはよっぽどその方が楽だ。余計なことを考えずにすむし、疲れ切って帰宅すれば嫌な夢も見ずにすむ。

 いつになく地球の重力をひしひしと身体に感じながら、葵は自転車を所定の位置に置き、アパートの階段を上っていった。






 

※アントレ……『櫻華亭』及び『アーコレード』において、コース料理のメイン(肉料理とは限らない)を指す隠語。ですが、本来(主にフランス料理において)はオードブル・前菜を意味する言葉であって、メイン料理を指し示す言葉としては間違い、なのです。

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