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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第2部
77/114

裏9話   諸岡良晃、その身を震わす

 諸岡良晃は、地下鉄駅と商業施設を結ぶ地下通路を全力疾走していた。

 時刻はまだ朝の九時半過ぎ――これでも遅すぎるくらいだ。

 息が切れるほど走るのはいつ振りだろうか。日頃の運動不足に舌打ちしたい心地で、案内表示を頼りに目当ての出入り口までたどり着いた時、「諸岡!」と背後から呼ぶ声がした。

「ああ……お前、早かったな……」

 振り返った諸岡に駆け寄ってくるのは大久保恵梨。自分と同じように肩で息を吐いている彼女も、地下鉄を降りるなり、この地下通路を駆けてきたのだろう。

 大久保は諸岡に追いつくなり「行こう」と言って、再び足を速める。

 通行人を巧みに避けながら細長い脚でずんずん進んでいく彼女に、諸岡も負けじとついて行った。


「――今日は休み?」

 B2地下出入口から、二人は階段を駆け上がる。

「ううん、半休。でも休んでいられなかった」

 答える大久保の、いつもは涼やかなその顔も、今は焦りの色を滲ませている。

「麻布は、誰が最初に?」

「見つけたのは、牧野チーフ。昨日は遅めの予約客が長引いて、あの時間はちょうどみんな片付け中だったの。たまたま日報つけようと裏に入った牧野チーフが第一発見者。……かえってそれが良かったのかもね……誰よりも先に、こっそり私を呼んでくれたから」

 階段を上り切って大久保と並んで小走りになりながら、諸岡は少しだけ安堵を覚える。

 麻布のチーフ牧野晃治は、数か月前の結婚披露パーティー二次会で、杉浦や牧野女史と共に頭を突き合わせた仲だ。おそらく瞬時に只事ではないと悟ったのだろう。


「事が事だからって、牧野チーフが穂積さんにも知らせた。いきなりあんなのを見せられて、さすがの穂積さんも真っ赤になって怒っちゃって。……私も人のこと言えないけどね。でも、牧野チーフが騒ぎ立てなかったおかげで、知っているのは三人だけ。他の人は知らない。穂積さんがすぐに鶴岡さんに連絡して、緘口令が下って、そのまま。以後音沙汰なし。――恵比寿は?」

 顎までの黒髪を揺らし、大久保が切れ長の目を諸岡に向ける。

「見つけたのは俺だよ。知ってるのも、俺だけ」

 簡単に答えるが、実際、諸岡が受けた衝撃とそこから沸き起こった憤りは、そんな簡単に説明できるものではない。



 ――諸岡がその連絡をうけたのは、昨夜の十一時頃だった。

 一人暮らしの冷え切ったアパートに帰り着き、まさに靴を脱ごうとした時、ポケットの中の携帯端末が鳴った。

 端末画面を見れば、現担当マネージャーからの着信。いい予感はしないものの出ないわけにはいかない。端末をタップし耳に当てれば、息せくような質問が矢のように飛んできた。


『――諸岡くん、今どこにいますか? ……今日のクローズは何時頃でしたか? ……誰が最後にお店を出ましたか? ……夜の十時半過ぎ頃、FAXを着信しませんでしたか?』


 どうやら柏木は一度店に電話したらしいのだが、誰も出ないので諸岡の携帯にかけてきたようだ。

 面喰いつつも、今日は珍しく早めに終わり十時半前には全員退店したこと、最後のセキュリティーは自分がかけたこと、今日受けたFAXは確かリカー受注確認の一件だけであること……等を答えれば、今度は不可解な “命令” が下った。


『……申し訳ありませんが、今すぐもう一度お店に戻って下さい。……このことは他言無用です。諸岡くん一人で戻って下さい。……そして事務室のFAX機を確認して下さい。何もなければ結構です、この件は忘れて帰宅して下さい。……もし、何か受信していたなら即刻回収、決して誰にも見せずに厳重保管です。破棄してはなりません、どんな内容でも。……いいですか、事は急を争います。三十分後にまた連絡いたします』


 一方的に言うだけ言って、通話は切れた。

 何なんだよもう……と、この時の諸岡は事の重大さもまったくわからず、渋々脱ぎ掛けた靴を履き直し、恨めしい気分のまま白い息を吐きつつ自転車に跨ったのだが。

 恵比寿の店は、諸岡のアパートから自転車で二十分弱である。かじかむ指先をこすり合わせながら店に戻り、もう一度セキュリティーを解除し、すでに暖房効果の消えかかった事務室の灯りをつけた諸岡は、デスクに目を向けて “それ” を見つけた。

 FAX機に吐き出されている一枚のA4サイズ用紙。ついさっき店を閉めた時は、FAX着信など絶対になかった。ということは、諸岡が最後に店を出てから届いたのか。

 あまり視力の良くない諸岡は、デスク前まで来て、初めてギョッと肩を揺らした。

 誰もいない事務室に思わず、震えを帯びた声が零れる。

「……なんだよ、これ……」


    慧徳の 水奈瀬葵は

  妊娠 堕胎 繰り返す 淫乱女

  精神疾患 誇大妄想 幻聴あり

  彼女を 孕ませて 捨てた陰獣は

      黒河侑司


 白い紙面にボツボツと連なる不気味な黒い大きな文字。

 凍りついた諸岡を、再度ビクッと震わせたのは携帯端末だ。


『……諸岡くん? FAXは届いていましたか? 着信していたのですね? ……よく聞いて下さい。今日……いや、おそらく明日も、私はそちらに向かえません。こちらからの指示があるまで、そのFAX用紙を貴方が厳重に保管しておいて下さい。いいですか、くれぐれも早まった真似はしないよう、そしてこのことは決して誰にも言わぬよう……』


 諸岡の中からかつて味わったことのない怒りが湧き上がり、耳元の柏木の声がぐわんぐわんと大きく波打ちくぐもっていく。

 ――なんで、どうして、誰が、こんな……

 どう返事をしたのか記憶もないまま、諸岡は誰もいない真夜中の事務室、FAX機の前で、しばらく愕然と立ち尽くしていた。


 ――そして今朝。

 一晩かけてどうにか平静を取り戻した諸岡は、まだ薄暗い早朝から店の事務室に入ってデスクを陣取り、それこそ修行僧のような忍耐力を駆使して “こちらからの指示” を待った。

 折り畳まれたA4用紙は、不本意ながらも胸元に隠し持ってある。怒りに任せて破り捨てなかったのは奇跡に近い。辛うじて働いた理性が、柏木の言葉を思い出させた。

 苛立ちが加速して増す中、最初に電話してきたのは渋谷の牧野昭美だ。

『――何なのよアレっ! いったいどうなってるのっ!』と、開口一番、鼓膜が破れそうな声を耳にし、諸岡は膨れ上がる最悪の予感に頭を抱えた。

 ――例のFAXは、渋谷店にも届いたのだ。

 牧野女史にも同じく、昨夜のうちに柏木から連絡があり “指示待て” の命が下ったという。

 とはいえ、女史が大人しく待つわけがなく、昨晩から散々、柏木や杉浦に電話をかけつづけているが、一向につながらないらしい。

 キンキン泣き喚く牧野女史を宥め、半ば強引に通話を切り、諸岡はこうなったら……と直接『紫櫻庵』の店に電話した。ダメもとだったが、それが功を奏した。

 出たのは料理長の黒河和史だった。

 諸岡が名乗っただけで、黒河和史は淡々と『こっちに来れる? 来た方が早いよ』と言った。――杉浦、ここにいるから、と。

 すべて了解しているような口調は、『紫櫻庵』にもFAXが届いた、ということだ。

 くっそ……と歯噛みしつつ、諸岡は電光石火のごとく行動に移した。出勤してきたアルバイトの中で一番古株の鴇田(ときた)に、ディナーまでには帰ってくるからと店を任せ、急ぎの事務処理だけ素早く片づけて店を飛び出したのだ。

 大久保恵梨から着信したのは、店から駅に向かう途中だ。

 『紫櫻庵』に向かっていると言えば、「私も今から行く」とだけ返されて通話は切れた。

 ――麻布にもか。

 最悪の予感が目に見える形を取り始めている――諸岡は暗澹たる焦燥を抱きながら、駅まで自転車を飛ばしたのだった。



 諸岡と大久保が向かっているのは『フィーデール・インターナショナル・ホール』だ。その地下一階の一部が、地下鉄に通ずる地下通路と連結している。以前『紫櫻庵』のレセプションが行われた時は、地上の施設裏にある搬入口から出入りしたので、ここを通るのは初めてだ。

 通用路を抜け、もう一つ幅広の階段を数段上がれば、そこは広く開けた豪奢なフロア。半地下一階がレストランエリアとなっているのだ。

 金曜日とはいえ、まだどの店も開店前の時刻とあってフロアは人気がない。

 ――目指すは、この一角に門を構える『紫櫻庵』。

 諸岡と大久保は、躊躇(ためら)いなく『紫櫻庵』のエントランスに駆け込み、驚く準備中のスタッフに挨拶する余裕もなく、店奥にある事務室のドアを蹴破る勢いで開けた。


「――まーたうるさいのが来たよ……」

 駆けこんで来た二人を見てうんざりした声を上げたのは、言わずもがな杉浦崇宏。

 デスクチェアに気怠そうに身体を預け、心底ウザそうな顔で諸岡と大久保の来訪を目だけで出迎えた。

 その脇に控えるのは、神妙な顔の『紫櫻庵』の手塚支配人だ。まだ三十そこそこの彼は、諸岡が新入社員の頃、『アーコレード』恵比寿店の店長だった人物で、その後本店へ異動となり、数年を経て『紫櫻庵』の支配人に抜擢された有能な人物だ。一癖二癖もある担当マネージャー(杉浦)や料理長(黒河和史)とも互角に渡り合えるのだから、その人柄も相当なものだろう。

 諸岡は彼に軽く会釈だけはしたものの、すぐにギッとデスクチェアの杉浦を睨み据えた。鬱憤は昨夜から溜まりに溜まっているのだ。

 しかし杉浦に向かって口を開きかけた寸前、目の端に只ならぬ “気配” を感じ、身体がギクンと硬直した。


 ――黒河、マネージャー……

 『紫櫻庵』の休憩室兼事務室は、その奥に備品倉庫(パントリー)スペースを設えてあるのだが、その境にある小さな上げ下げ窓の傍で、彼は簡易折り畳み椅子に座っていた。

 ワイシャツとスラックス姿の彼は、長い脚を軽く組んで窓枠に片腕を乗せ、乱入してきた諸岡と大久保にはちらとも目を向けず、引き上げた窓の外を物憂げに眺めている。

 その姿は微動だにせず、纏う空気は静謐だ。けれど諸岡は、彼の内部に尋常ならぬエネルギーが秘められているような脅威を感じた。

 思わず喉を鳴らした時、今しがた諸岡と大久保が入ってきたドアが静かに開く。

 携帯端末を手に持ったまま入ってくる人物を認め、二人は目を見開いた。 


「……西條さんまで……、どうして、……まさか」

 諸岡を締め上げる嫌な予感はもうフルMAXだ。

 国籍年齢不詳の紳士、『プルナス』担当の西條マネージャーは、複雑な色味が交じりあった瞳を憂いに曇らせ「……ええ、その通りです」とデスクの上を指し示す。

 杉浦の奥にある事務デスクの上に、無造作に重ねられた複数枚の紙――禍々しい黒いゴシック文字がボツボツと刻まれたそれは、今、諸岡のジャケットの胸元にある、折り畳まれたFAX紙とまったく同じもの。


「……昨夜、広尾と表参道両店に送られてきました。……あの子たちが慌てふためいて僕に連絡してきましてね。……店に行って確認した後、どうしても気になることがあったので、杉浦くんに会いに来たのですよ」


 西條は昨晩、連絡を受けてすぐに広尾と表参道の店へそれぞれ顔を出し、喚く小野寺双子を(なだ)めて業務を怠ることなかれと命じると、夜が明けきらないうちにここへ足を向けたらしい。

 諸岡の脳裏には、瓜二つの形相で恐慌状態に陥る双子兄弟が容易に思い浮かぶ。そんな二人を操作できたとは、西條という男も只者ではない。


「さすがにあの子たちもショックを隠し切れないようでした……でも大丈夫です。今は決して動くな、と言い渡してあります。彼らは、僕の言いつけには絶対に逆らいません」

 西條は儚げな微笑を浮かべた。諸岡は眩暈を感じつつ、もう(まぬが)れない “最悪の事態” を覚悟する。

「……杉さん、これってもしかして全店に――、」

「……ご名答。まさしく全店舗に(、、、、)一括送信(、、、、)されたらしいね」


 ――やっぱり……!

 天を仰いだ諸岡の隣で、大久保が卑語(スラング)を吐き捨てた。

 沈痛な面持ちの西條が窓際に座る男の方を心配そうに見やる。そして杉浦に向かい、手に持った携帯端末を軽く振った。


「電話は徳永さんからでした。社長には報告が済んだそうです。なるべく早く帰国する、と仰っているようですが、確かな日程については、今はまだ何とも。……社長が不在の間、全権限を統括に委ねると。社員は皆、彼女の指示に従うように、とのことです」

 その言葉に大久保がキッと目を剥いた。

「――総師は日本にいないんですか? 一体何をしているんですか、こんな大変なことが起こっている時に……っ」

 西條を咎めるのは筋違いだとわかっていても、諸岡とて同じように問い詰めたい。

 総師――社長の黒河紀生は普段から不在がちだ。だが、もう何か月もその姿を目にしないのはさすがにおかしい。社内はすでに繁忙期へ突入しているというのに、海外にいったきりというのも不可解だ。

 西條は、透き通った瞳をゆっくりと伏せた。

「今、社長は……とてもお忙しいのです。……遊んでいらっしゃるわけではありません。……それから、侑司くん、統括からのご命令です。今日の午後三時、本社の社長執務室に行って下さい」

 デスクチェアの杉浦が、フンと鼻を鳴らした。

「 “事情聴取” ってかー? 実の息子を疑うのかよ」

「……杉浦くん、そんな言い方はおやめなさい。……水奈瀬さんは……、明日の午後、となりました」


 ――その時、部屋の片隅にいる黒河侑司に、小さな反応が起きた。

 ゆっくりと窓からこちらに視線を移し、その焦点を西條に合わせる。その動きはまるで、システム停止していた人造人間に、起動パスワードが入力されたかのようだ。

 一見虚ろに見える彼の双眸は、よく見れば赤く充血している。諸岡には、その瞳の奥に爆発寸前の超高熱プラズマが瞬いているように見えた。


「……侑司くん、話を聞くだけです。彼女は被害者です。クロカワフーズは、彼女を守り、ケアする、義務があります」

 一語一語静かな口調で、補助パスワードを入力するように、西條は言う。

 人造人間の赤い起動ランプが、すっと消えた。


「僕はこれから本社に向かいます。何か新しい情報が入ったらすぐに連絡しますので。……杉浦くん、携帯の電源を入れておいて下さい」

 西條の言葉に、杉浦は不遜な仕草で肩をすくめる。それまで黙って脇に控えていた手塚支配人が「店にかけていただいてもいいですよ。電話は全部、自分が受けますので」と苦笑を浮かべた。

 西條は「ありがとう」と小さく微笑み、コートと鞄を手に事務室から出て行く。その後に続き、手塚支配人も出て行った。彼は開店準備があるのだろう。

 ドアが閉まるや否や、諸岡は今度こそとばかりに杉浦へ詰め寄った。

「……携帯、電源を切ってたんですね」

 杉浦は目だけをこちらに向ける。

「……切れたんだよ。バッテリー切れ。充電すんのもかったるかったし。……そーいえばモロちゃん、ハルミちゃんから連絡あった?」

「メチャクチャ怒ってます。渋谷は今日、ランチもディナーも貸切宴会が入っているんですよ。どうしても店を離れることができないって、怒って泣いて……」

「はは、よかった、携帯切ってて」

「笑い事じゃないんですよ」

「ああ、まったく。笑い事じゃねーよ。……くそ」

 吐き捨てるような物言い。もしかしたら諸岡は、初めて杉浦の本気の怒りを見たかもしれない。いつものチャラい間延びした喋り方が完全に消え失せている。

 ……もっとも、部屋の端で身動き一つしないアンドロイドの危険度に比べれば、よほどマシであるが。


「――詳しい状況を教えて下さい。こんなことをした犯人に、心当たりは?」

 大久保が厳しい声で問うが、杉浦はそっぽを向いたまま無反応。

 諸岡は感情を抑え、静かに訴えた。

「……杉さん、俺たちを信じられませんか? 情報が欲しいと言った杉さんに、俺たちは協力しました。現状の説明くらいあってもいいはずです」


 数秒後、杉浦は大きく嘆息し、デスクチェアをくるりと反転する。そして物憂そうに眼を上げて、壁に立てかけた折り畳み椅子を指した。

「……わかったよ。……とりあえず……座れば?」



 どこか捨て鉢な様子の杉浦が説明したところによれば、例のFAXは昨夜十時四十分に一括送信されたとみて間違いない、とのことだった。

 まだ全部の店舗に確認を取ったわけではないが、発信時刻はFAX機に残る着信時刻、そしてFAX紙の左上部に小さく印字された日付と時刻から明らかで、肝心の発信者と発信元の印字は、回収した用紙すべてに無かったそうだ。無論、着信履歴は非通知表示である。

 ちなみに、恵比寿に届いたFAXもまったく同様だ。


「――それからFAXが届いた場所だけど、今わかっているだけで、『櫻華亭』の六店舗、『アーコレード』の三店舗、『プルナス』二店舗に『紫櫻庵』。つまり、クロカワフーズ傘下の店舗全店。……加えて、本社の営業事業部室のFAX機と、総務部室のFAX機、社長執務室のFAX機にも着信。……合計十五件」

「……本社にまで……」

 息を呑む大久保に構わず、杉浦は続ける。


「……本社に送られた三つのFAXは、ちょうどその時間、本社にいた徳さんが全部回収。帰る寸前だったらしいから、あと数分遅ければ朝までそのまんまだったかもね。……各店舗に届いたFAXに関しては、それぞれ状況が違う。時間が時間だし、お店にスタッフが残っている場合もあれば、届く前に店を閉めたところもある」


 諸岡は大きく頷く。自店の恵比寿は幸いにも後者だった。昨夜はたまたま早く片付いて、普段より早めに店を閉めたのだ。十時四十分頃といえば、いつもならまだ店にいることの方が多い。


「『紫櫻庵』に届いたやつは、杉浦さんが見つけたんですか?」

 大久保が尋ねると、杉浦は(わずら)わしそうな仕草で前髪を掻き上げた。

「いいや、和史が第一発見者。俺はうちに帰る途中で和史から連絡をもらったんだよ。そんで……、日比谷にUターン」

「……日比谷?」

 諸岡と大久保はそろって怪訝な顔になるが、杉浦はちらりと部屋の窓際に視線を走らせ、思い直したように頭を振った。


「……『紫櫻庵(ここ)』は和史の他、テッちゃん……ああ、うちの支配人ね……あいつしかこのことは知らない。他の店舗も、ほとんどは発見した人間が機転を利かせてくれたおかげで、このFAXを目にした人間は少人数に止まっている。……けど、厄介なのはいくつかある。まず一つ目の『櫻華亭』本店。……第一発見者は、こともあろうに国武チーフ」

「……よりによって……」

 諸岡と大久保は声をそろえて呻く。


「……ああホント、よりによって、だよ。発見時刻は昨夜の着信時すぐ。届いたFAXを見るなり引きちぎって、怒りに任せてビリッビリに破り、ご丁寧に焼き場で燃やして物証消滅。事の次第を知っているのは、怒り狂う国武さんを止めた田辺さんと仙田さん、加納さん……それから茂木さん。国武さんを止めて宥めるには、そんだけ人手が必要だったってことだ」

 杉浦は苦く笑う。

 今、名が出た田辺氏は本店のサブチーフ、仙田氏は現本店支配人だ。仙田支配人はつい一か月ほど前まで松濤店の支配人だったのだが、本店へ異動になっている。そして加納氏はクロカワフーズ唯一のソムリエだ。

 だが、ここでも諸岡はほんのわずかな安堵を覚える。茂木顧問を含め、彼らは皆クロカワフーズの大御所と呼ばれる古株の人間だ。少なくともあのFAXの内容を鵜呑みにし、面白おかしく騒ぎ立てることはないはずだ。


「麻布は穂積さんから連絡があったよ。マッキーが第一発見者だ。この件を知っているのは穂積さんとマッキーとエリちゃんだけだってね。……松濤の発見者はツボちゃんと澤口支配人で、知っているのは綿貫チーフを加えた三人だけ」

「坪っちか……」

 呟いた諸岡に、大久保が「うん」と頷いた。

「諸岡との電話を切った後、すぐに電話くれた。……自分も行きたいけど、今日は店を離れられないって」

 松濤店は仙田支配人が抜けた後、新しく澤口支配人が就いたばかりだ。加えて『櫻華亭』の中でも一番規模の小さい松濤店は、他より少ない人数で店を回しているので一人抜けるだけでも負担は大きい。

 諸岡は大きく息を吐いた。

「……恵比寿(うち)は俺が、柏木さんから連絡を受けて、俺だけが見ました。他には誰もあのFAXの存在を知りません。……渋谷は、牧野さんが発見したんですか?」

「いや。渋谷の第一発見者はアルバイトの女の子。ハルミちゃん、昨日は半休で夕方過ぎに帰ってたんだってさ。FAXを見たバイトの子から連絡をもらって、ハルミちゃんは店に慌てて戻ってきた、ってわけ。……んで、現物を見て半狂乱になった彼女を、わざわざ麻布からマッキーが迎えに来て強制撤収……はは、マッキー可哀そ」


 まるで可哀想だと思ってない顔で、杉浦は薄く笑う。

 大久保が、ハッとしたように黒艶の髪を揺らした。

「――ホテル店舗は、誰が見たんですか? ……確か昨日のディナーは、三店舗とも宴会や大型予約が入ってたはず……」

 途端に、杉浦の顔が汚物を見たような顔になる。

「厄介な二つ目がそこだよ。……エリちゃんの言う通り、昨日は何の因果か、赤坂・日比谷・汐留全部に大きな予約が入ってた。よって、あの時間は三店舗とも絶賛営業中だ。フロアにも厨房にもまだスタッフが多く残っていたらしい。……ああ、誰が見たかって?」

 嘲るように口元を歪めた杉浦は、すっと息を吸った。

「赤坂の発見者サブチーフ。時間は昨夜の着信時。見たヤツは昨日出勤していた全員。日比谷の発見者豊島。時間は同じく昨夜。見たヤツは同じく昨日出勤していた全員。汐留、以下同文」

 一気に言い放った杉浦は、デスクチェアから投げ出していた足で、ガンッとデスクの足を蹴った。

「……あいつら、揃いも揃って大馬鹿なんだよ。特に日比谷の豊島。町内の回覧板じゃあるまいし、届いたFAXを店にいるスタッフ全員に回して “確認作業” に(いそ)しみやがった。おそらく今日中にも、あの文面がクロカワフーズの社員全員に知れ渡るんだろうなぁ? 他の店舗が社会人の常識のもと迅速に対処した労力は、全部無駄になったってわけだ」

 吐き捨てるように言って、杉浦は何かを払いのけるように、もう一度髪を掻き上げた。

 重く垂れこめた沈黙の中、諸岡は重い口を開く。ずっと気になっていたのだ。

「……杉さん、慧徳、は……」


 一瞬詰まった杉浦は、重い息を吐き出しながらさらに深くチェアに沈み、「……発見者、全員。見た人間、それに然り……」と目を閉じた。

「発見者が、全員……?」

 思わず聞き返した諸岡に、杉浦は力なく「ああ」と頷く。

「カッシーとイケちゃんからそれぞれ、連絡もらったよ……昨日の夜、慧徳は客の引きが早かったらしく仕事が早く片付いたんだな。さらに、アルバイト全員がたまたま裏に集まっていたらしく、チーフやアオイちゃんを交えて事務室でワイワイやってたんだと。……だから、FAXがアレ、吐き出す場面を、そこにいた全員が見たってわけ」

 忌々しそうにデスク上の白い紙を顎でしゃくった。

「あ、葵ちゃん……」

 大久保の両手がギュッと握りこまれ白くなる。

「……カッシーと佐々木チーフが、何とかその場を治めてみんなを帰したって。アオイちゃんは……とりあえず、今日は強制的に休みだ。……上からの “命令” だからさ。カッシーが代わりに店へ出るよ」

「あ……あんな……酷い中傷……、葵ちゃん、どんなにショックを受けたか……」

 大久保が血の気の失せた唇を噛んだ。

 諸岡は奥歯を軋ませ、ジャケットの内ポケットに入れていたFAX用紙を取り出す。

 折り畳まれた紙をゆっくりと開けば、目に飛び込む禍々しいゴシック文字。


 《 妊娠 》 《 堕胎 》 《 繰り返す 》


 この奇怪な単語の羅列が意味するところを、諸岡はもちろん信じてはいない。

 最後の《黒河侑司》のくだりも、あの二人をつぶさに見てきたから断言できる。彼が彼女を《孕ませて》《捨てた》など、天地がひっくり返ってもあり得ない。

 だけど――、と苦く思う。

 かつて自分も、あの紙にあったいくつかの “単語” を、思い浮かべたことはなかったか。

 赤ん坊や幼児、妊婦の客を見れば顔を強張らせ、頑なに恋愛話を避けようとする彼女の様子を目にするたび、まったく気づかないフリを装いながら、その実、不遠慮に勝手な憶測を並べやしなかったか。

 たぶんおそらく――、非人道を承知で諸岡は確信する。

 このFAXの文面は、あながちすべてが虚実ではない。秘された水奈瀬葵の過去に切迫する部分が、これらの単語のどこかにあるのだ。

 だから、それに薄々気づき、あるいは事情を知っている皆が、彼女の身を心配し動揺し、激しい憤りを露わにするのだ。

 ――この禍々しい黒文字に、痛ましい真実が秘められているから。

 このFAXを送った犯人は、その秘された彼女の過去をどこかで嗅ぎ付けた。そしてそれを歪曲し、悪意に満ちたゴシック文字を(したた)め、クロカワフーズ全域に広めたのだ――極めて毒性の強い病原性ウイルスを解き放つように。


「――誰ですか……」

 諸岡の内なる憤りが伝染したかのように、大久保が唇を震わせた。

「――こんな酷いことするの、一体誰ですかっ! 葵ちゃんが何をしたっていうのっ! 何でこんな……っ!」

「――大久保……落ち着――、」


 諸岡の声は、途中で切れた。

 手の中にあったFAX用紙がすっと抜き取られたのだ。

 黒河侑司が、いつの間にか諸岡の背後に立っている。

 ――破られる……!

 一瞬過った予感はすぐに外れた。

 彼は静かに身を背け、まったく心情を感じさせない無機質な動きで、恵比寿に来たFAX用紙をデスク上の同じ用紙に重ねた。そしてそのままドアに向かう。


「――侑司、どこに行く? お前はここで “軟禁命令” が下っているんだ。せめて本社に行く時間まではここにいろ」

 杉浦の声に、一瞬だけ広い背中が停まった。――が、再び動き出したアンドロイドに杉浦の鋭い声が飛ぶ。

「――侑司っ! 聞こえねーのかよっ!」


 今まで聞いたこともないような杉浦の怒号に諸岡と隣の大久保は息を呑む。まさにその同時タイミングで、事務室のドアがひょいと開いた。

「――ああ、侑司。手ぇ貸して」


 顔をのぞかせたのは、黒河和史……『紫櫻庵』の料理長だ。白いコック着とコック帽を身につけた彼は、穏やかな笑みさえ浮かべ、無邪気に言った。

「そこでボーっとしてるのもヒマだろ? だったら洗い場に入って。若いヤツに焼き場の練習させるから」

「――和史」

 咎めるような声で杉浦が制する。しかし、黒河和史は悠々と笑って杉浦を無視した。

「――コック着は着なくていいよ。サロンだけつけて。――ああ、一枚でも割ったら弁償ね。お前持ちで」

 開けたドアのふちに寄り掛かり、まるで天気の話をするかのような軽い口調。

 上背は弟ほど高くないが、柔和な顔立ちはパーツだけ見れば弟と似てなくもない。……が、醸し出す雰囲気はまったく違う。

 諸岡はヒヤッとする危うさを抱いた。

 ――ある意味、兄貴の方が、怖い……かもしれない。


「……手伝ってきます」

 こちらに背を向けたまま、低く静かな声で、黒河侑司は言った。

 先に弟を通した兄の和史は、ドアを閉める寸前、杉浦に向かってその白い歯を見せる。


「――杉浦、今のお前よりかは、あいつの方が割る数(、、、)、少ないと思うよ」

「……っ」


 ――デスクの上の重なったFAX用紙に、ダンッ、と杉浦の拳が叩き付けられた時、事務室のドアはすでに閉まっていた。





 

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