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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第2部
73/114

第16話  攪乱なり、月会議(十二月度)

 十二月の月定例会議の日がやってきた。通例と異なり、行われるのは第一週水曜日だ。

 十二月は一年の中でも最大の書き入れ時にして最大の繁忙期である。年内最終会議でイベント企画諸々をガッチリ練り上げ、後は各店舗、年明けまで突っ走るのみ、となる。


 その日の午前における総会議ではまず、十一月の決算報告がなされた。

 前年を超えて予算を達成できたのはわずか四店舗、『櫻華亭』本店と『櫻華亭』麻布店、そして『プルナス』広尾店、表参道店のみだ。

 あとの店舗は軒並み前年割れとなった。その中の一つ、慧徳学園前店は前年比96%……実はこれでもまだマシな方であった。『櫻華亭』のホテル店舗三つはそろって80%台に落ちるなど、赤字損失は深刻なものだ。

 そんな中、葵は一人密かに冷や汗を滲ませていた。社内全体的な赤字の原因は、やはり例の悪評投稿記事にあるのではないか……どうしてもその懸念は膨れ上がる。

 しかし、統括部長や徳永GMは、十一月度のイベント不振の原因について、「近年のボジョレーヌーボーブームの陰り」や「ワイン嗜好の定着化に伴う希少価値の低下」というような理由を挙げるだけに止まった。そして、気持ちを切り替え十二月の業務遂行に励むよう言い渡し、決算報告は終わった。

 その後も総会議が終わるまで、葵が怖れている言及は何一つなかった。



 その日の昼食は、本社ビルの小会議室を借りることにした。

 十二月に入ったばかりだというのに、外は冷たい北風が強く吹き荒れ、凍りつくような寒さだ。ということで、手近なコンビニ食料調達ランチで済ませようと話が決まった。

 いつものメンバー、牧野女史や大久保恵梨、諸岡良晃と、小野寺兄弟や坪井までぞろぞろ集まって、事務室から借りてきた電気ポットの周りにわらわらと群がる。小会議室はカップ麺やおでんの香りが満ち溢れた。

 葵も皆の後に続き、カップ入りパスタスープにお湯を注いだ。


「ああー、午前会議、マジで汗かいたな。……お咎め無し、ってのも逆に応えるもんですね」

 諸岡が頭を振り振り細い目をさらに細めると、牧野女史も苦笑気味に肩をすくめる。

「ホントね。統括の笑みが怖くって。今月は今から頑張って取っていかないと、後半キツいかもね」

「諸岡も牧さんも、『アーコレード』はまだいい方ですって。ホテル店舗なんか今月過去最悪なんじゃないかな……うちもギリギリだったし。あー、午後会議、荒れそうだ……」

 大久保が心底うんざりの顔で、買ってきた肉まんにかぶりついた。

 どうやら、冷や汗でスーツ下のシャツをしっとりさせたのは、葵だけではなかったらしい。辛うじて前年超えの『櫻華亭』麻布店も楽観視はしてられないようだ。

 そんな、決して気分上々ではない雰囲気の中、気分上々(あげあげ)なのは若干二名……


「コンビニおでん、チョー久しぶりぃ~、ヤベ~このガンモ、味滲みまくり~」

「あっひ……玉子うまひ……、おおぅ、そのちくわぶ、も~らい」

「ちょ……、お、小野寺さんたちっ! そのおでん、俺が買って来たンすよっっ?」


 おでんにウキウキたかる小野寺兄弟二人を、坪井青年がハエ退治よろしく追っ払っている。

 残る四人は、そっと静かに自分の食糧を腕の中へかき集めた。


「――そう言えば葵ちゃん、例のグルメサイトの馬鹿な記事、削除されてよかったね」

 牧野が三角サンドイッチの包装をペリペリ剥がしながら、にっこりと笑う。

 そう、あれだけ葵を煩悶させた例の記事は、つい数日前、ようやく削除された。午前会議ではその件について全く触れられず、本社は完全になかったことにしたいのかな、と思ったくらいだ。

 葵が牧野に答える前に、諸岡が目の前の三分待ちカップ麺をじーっと眺めながらぼやいた。

「ホントに時間かかりましたよね。あのサイトの窓口担当者がずいぶん頑なだったって聞きましたよ。 “公平性と中立的立場を保持するため、店側からの削除申請には慎重な調査を要します” って、バカの一つ覚えみたいに繰り返すだけだったって。どっからどう見てもサイトの趣旨に外れた内容なのに、ちゃんとチェックしてんの? って話」

「でもさ、頑なにシャットアウトした割には、突然手の平返したように削除報告をしてきたんでしょう? 鶴岡さんが言ってた。もしかしたら、上からの圧力がかかったんじゃないかって」

 大久保の言葉に、葵は首を傾げる。

「上から……? 上って一体……」

 すると、それを聞いていた牧野女史が突然、うふふと艶っぽく笑った。

「ソレね、たぶん……わ・た・し」


 ――え? と顔を向けた葵たちに加え、ブンブンしっしと騒いでいた小野寺兄弟と坪井もピタッと動きを止めて、牧野女史に注目する。

 一同の注目を集めたボス牧野は、手に持ったサンドイッチをひとまず置いた。


「あのグルメサイトってね、もともとは同名のグルメ雑誌が本元らしいの。そこからネット普及の時代に乗って、口コミ投稿型のグルメサイトを立ち上げたのね。今ではサイトに集まった口コミ投稿をランキング化したものを、季刊で発行しているみたい。……でね、その雑誌の出版社のお偉いさんが、実は私の “ファン” なのよ」

 ――ファン……? という呟きがどこからともなく上がった。女史は少し照れくさそうに、そして満更でもなさそうな顔で続ける。


「私が『櫻華亭』の本店にいる頃からのお得意様だったの。それこそ、晃治くんと結婚する前から可愛がってもらったわ。もういい歳したオッサンだけどね。私が本店から『アーコレード』に異動が決まった時も、バラの花束をたっくさんプレゼントしてくれたのよ? ――そこ、1号2号! 変な想像しない! そこにやましい関係は何もないの!」

 ぴしゃっと言い渡されて、小野寺1号2号は明らかにギクリと肩を震わせた。


「……さすがに仕事上の接待なんかは未だに『櫻華亭』を利用しているみたいだけど、ご家族とかお友達とかで食事をする時は渋谷(うち)に来てくれるわ。ずいぶん豪快にお金を使っていただけるのよね……ふふふ。それでね、先月の終わりにまたいらっしゃってくれたから、つい厭味交じりに言っちゃったのよ。『うちの上の者が、貴社に度々ご面倒をおかけしています』って」

 つまり、くるりと裏返せば『再三お宅に要請している件、一向に音沙汰がないんですけど?』といったところか。

 牧野女史、なかなかの猛者ぶりである。一同は唖然と聞き入った。


「彼は初めキョトンとしてたのよ。そりゃそうよね。あれだけの大手出版社だもの、子会社分離に業務の細分化……高々ひとつのグルメ雑誌から派生したグルメサイトの運営内情まで取締役は把握なんかしていないわ。それを充分踏まえたうえで、私、全部話したの。……うふふ、そうよ、ぜ~んぶ。タチの悪い客が虚偽のクレームをでっち上げて捏造した悪質な記事をネットに投稿したことも、うちがサイト側へ事情を説明して削除申請しているのにのらりくらりとかわされ続けていることもね。……もちろん、その辺は上手く言ったつもりよ? さすがに相手側を悪くは言えないし、かといってうちが被害者であることは譲れないし? 言葉選びって重要よねー」

「それで……どうなったんですか?」

 恐る恐る、と言った風に諸岡が訊く。

 牧野はニッコリ艶やかな笑みを浮かべて、手に取ったサンドイッチをゆっくりと半分に、裂いた。


「――結果は、大久保が言ったとおり。本社に例のサイトのナントカ部長って人から電話がかかってきたのが次の日の午前十時頃っていうから……、まぁ、頑なにポリシーを貫こうとするだけあって仕事は早かったみたいね。投稿記事もすでに削除されてあったみたいだし、謝罪の言葉も添えられていたそうだから、 “圧力” はかなり大きかったのかも」

 パクリと白いサンドイッチに噛みついた牧野女史に、 “ポスト牧野” との呼び声高い大久保は尊敬色に瞳を輝かせた。

「……牧さん、サイコー……」

「……俺、これから牧野さんのこと “ドン” って呼ぼう……」

 諸岡の呟きを、小野寺双子が援護する。

「――ドン・ハルミ」

「――ハルマゲ・ドン」

「なにか言ったかしら1号2ご……――ちょっと待って。……あんたたちが今食べてる “冬季限定とろけるフロマージュショコラ” って、あたしの……」

「ひっ……うそ……っ!」

「つ、坪っちのじゃ……っ」

 蒼白になった双子が一斉に坪井を見れば、彼は痛ましい顔でゆっくりと大きく首を振った。

 女史の手にある半分に裂かれたサンドイッチがぐにゅ、と潰れた。

「―― “世界の破滅” を、見せましょうか?」


 ぎゃあぁぁぁ……という二つの断末魔が響く中、葵はあえてそちらを見ないようにしながら諸岡と大久保に頭を下げた。

「本当にすみませんでした。……こんなに大事になってしまって、他の店にも迷惑かけてしまって……十一月の売り上げがどこも振るわなかったのは、あのネットの記事が原因かもしれません……」

 すると、ビニール袋からオムライスを取り出しながら、大久保が呆れたように笑う。

「なーに言ってんの葵ちゃん。考え過ぎだよ。先月はイベント企画の詰めの甘さが原因だと思うけどね。大体、ホテル店舗なんてここ何年もずっと悪いんだから。それをあのネットの記事のせいだとか一言でも言おうもんなら、私はあいつらにいい加減、手足を出す」

 あいつら、とはホテル店舗の支配人たちのことだろうか……大久保は秀麗な顔を不愉快そうに歪めている。

 ――ぐえぇぇ……と1号2号も、顔を歪めている。


「あのね、言っておくけど、あんなでたらめの口コミごときに、クロカワフーズ傘下が影響されるわけないの。……こういう言い方、葵ちゃんにはキツいかもしれないけど、標的が慧徳店っていうのも “不幸中の幸い” だったと思う。うちの会社の店は慧徳以外、全部都心の中心部にあるでしょ? 港区辺りの店を探すのに、二十三区以外の店を検索する? 逆に、常連の顧客はサイト検索なんかしない。少なくとも、麻布(うち)は問い合わせや冷やかしの客なんて一件もなかった。『櫻華亭』と『アーコレード』が同じ会社ってこと知らない人も多いからね」

 大久保はプラスチックスプーンを取り出し、「それに」と包んであるビニールを引きちぎった。

「あの記事を見て、やっぱり行くのやーめたっていう客は確かにいたかもしれないよ? でも、慧徳に来ない客(、、、、)の中で、『洋食? えーイタリアンがいいなー』っていう客とどっちが多いかなんて、結局のところわからないでしょ? つまり、記事の影響なんて確かめようがないってこと。気にするだけ無駄なの」

 大久保独自の論理的説明に、諸岡がカップ麺をズルズルとやりながらうんうんと同意する。

「ま、牧野さん、それ以上は……っ、」という坪井の懇願が、「えぇいっ離せ坪っちっ!」という女史の噴炎にかき消されて、「うちもさ」と諸岡が鼻をすすった。


恵比寿(うち)も、柏木さんや杉さんから警戒するように言われてたから、かなり気合入れて構えてたんだけど、慧徳のことを聞かれたことは一回もなかったな。……水奈瀬はあのサイト、見た? あそこには『アーコレード』はもちろん『櫻華亭』も『プルナス』も『紫櫻庵』まで、全店が載っていたよね? その評価はほぼ全部 “最優良” でさ、『櫻華亭』の中には “高いんだから当たり前” みたいな意見もあったけど、ありがたいことに『アーコレード』はどこも褒める投稿ばっかりなんだよ。だから逆に、あのたった一つの悪質な記事が際立って “悪意” を含んだものに見えたんだ。それが証拠に、サイト内のBBSには慧徳の店を擁護する意見が殺到していただろう? ……もし仮に、投稿者が慧徳の評判落としを狙ったとするなら、アレは逆効果だったと言えるんじゃないかな」


「諸岡ー、いいトコ突いてるねー」と言いながら、大久保がスプーンを構え、いざコンビニオムライスを食そうとした瞬間、「ヒ……ッ、し、死ぬ……っ!」と恐怖の叫びが放たれ、「必殺っ!踵落としぃっ、キィエェェェッ!」という雄叫びが重なる。……どぅ、と何かが沈没した。

 スプーンを持ったまま一時停止していた大久保は、何も聞かなかったようにオムライスにスプーンを突き刺した。


「何にせよ、削除されたんだから。もう気にしちゃダメだよ、葵ちゃん。……葵ちゃんはさ、店に来てくれるお客様を幸せにするんでしょ? 暗~い顔してたら幸せにしてあげるどころか、アンラッキーに憑りつかれるんだから。……いい? 無理矢理でもいいから、この件は忘れちゃいなさい」

 ほらせっかくのスープ冷めちゃうよ、と大久保に促され、葵は浮かび上がり切れないまま、とりあえずクルクルとしたパスタを一口食べる。


「あの……もし……もしも、の話ですけれど……今回の件の責任を取らなきゃならない……なんて、ことになったら……その――、」

「うそ、そんなこと気にしてたの? バッカねぇ、そんなことでクビになんかならないって。クビ切るくらいならむしろ予算10%上乗せされるのがオチ。クロカワフーズってね、社員をクビにするほど、アマくない(、、、、、)の」

 プラスチックスプーンで豪快にオムライスを掻きすくっていく大久保に、ズズッとカップ麺の中のスープをすすりながら諸岡も頷いた。

「それはそうかもな。――あ、でも辞表は厳禁だってさ。統括って一度受け取った辞表は絶対に破かないし返さない……つまりどんな事情があっても受理するんだって。辞表を持ってくるなら、それ相応の覚悟で持ってこい、ってことだよね」


 ――いや、あの、私のことではなくて……

 と葵が言いかけた時、 “世界終末的大乱闘” を片隅でハラハラ見ていた坪井が、諸岡の言葉にビビッと反応した。

「――えぇっ! じ、辞表、って……ちょっと、葵さんっ、辞めるンすかっ? ダメっ、ダメっすよっ早まっちゃっっ……!」

 坪井の叫びに、ハルマゲ・ドンの噴炎がピタリと止まる。

「――あ、葵ちゃんっ? なに言ってんのっ? バカな真似はやめなさいっ!」

 慌てて駆け寄ってきた牧野女史に続いて、ボロッとなった小野寺双子もよろめきながら戻ってくる。

「葵ちゃん……!」

「辞めないで……!」

 諸岡と大久保が同時に噴き出して、葵は真っ赤になった。

「……や、辞めませんからっ!」



* * * * *



 午後の店舗会議は、年末から年始にかけてのあらゆることを事細かに段取りしなければならないので、駆け足気味に時間は過ぎた。

 新米マネージャー柏木は、何故かボロボロっとなった小野寺両店長にピクっと眉根を上げたものの、突っ込む余裕がなかったのか、見て見ぬ振りでテキパキと進行していった。

 年末年始の繁忙期に向けて、今まで以上にお客様への丁寧な対応と危機管理の徹底をお願いいたします――締めくくりとして、しゃちほこ張った柏木が一同に言い渡したのは、それくらいのものであった。



 会議終了後、葵は牧野女史と諸岡と連れだって本社ビルの一階へ降りた。

 ロビーを歩きつつ、牧野女史はプンスカと白煙を吐き出している。

 辞表の誤解は解けたものの、店舗会議の最中も、葵がいつになく意気消沈しているのを見かねて「葵ちゃんらしくないわよ!」と一喝下したのだ。


「――どうせ、柏木くんが何でもかんでも大げさに話したんでしょう? そうよね、杉浦くんは根拠のないことなんか言わないもの! 絶対あのメガネよ! もしかして、慧徳店がなくなるかもしれない、とか言われた? んなことあるわけないじゃない! ……ったく、生真面目すぎて石橋叩き過ぎなのよっ、あの男!」

 ガッガッガッとパンプスの踵を踏み鳴らす牧野女史……未だ “ハルマゲ・ドン” 効果が続いているのか。

 シュンとますます小さくなる葵に、牧野はくるりと葵に向き直った。

「それとも、――黒河マネージャーが責任を取らされるかもしれない、って?」

 息を呑み目を見開いた葵に、女史ははぁ、と盛大に呆れた溜息を吐く。

 諸岡が「……柏木さん……ご愁傷様です」と呟いた。


「……あのね、葵ちゃん。そもそも、この一連の騒ぎで一番責められるべき人間は、誰?」

 ビシッと突きつけられた問いに、葵は「え、っと、それは……」と戸惑う。

 責められるべき人物……やはり自分だろうか、と思う。あの時――最初に異物混入のクレームが起きた時――、自分がもっと違う対応をしていたなら、ここまで事態は(こじ)れなかったのだろうか……と言っても、今の葵には “こうすべきだった” という答えさえ、見つけられていないのであるが。

 口ごもったまま返せない葵に、牧野はフンと鼻を鳴らした。


「わからないなら教えてあげる。責められるのは、虚言クレームを(、、、、、、、)出した客(、、、、)よ! そんなの当然じゃない! わざと異物を混入させてクレームを起こして、本社に言いがかりをつけてネットに捏造記事を投稿したのよ! そいつが悪くなくて誰が悪いっていうのっ!」

「は、はぁ……」

 葵は牧野の勢いについ仰け反りながら、でも――、と思う。

「で、でも……それはそうなんですけど……それは、慧徳の……私の言い分が正しい、と証明された上での話ですよね……。いえ、私はうちの店を信じていますし、あの記事は事実無根だと胸を張って言えます。でも、それを証明はできないんです……異物混入がウソだった、という証拠は、無いんです……」

「――その証拠、出せるかもしれないよ?」


 突然割り込んできた聞き慣れない第三者の声に、葵はもちろん、牧野も諸岡もハッと振り返った。ロビーの奥にある自動販売機コーナーから、ゆっくりと近づいてくる人物――、

「――こんにちは、葵ちゃん。ごめんね、聞く気はなかったんだけど、聞こえちゃってね」

「……片倉、さん……」

 皮のブルゾンにデニム、という至ってカジュアルな装いの片倉は、精悍な顔ににこやかな笑みを浮かべて、葵たちの方へやってきた。

 それに対し、警戒心露わに毛を逆立てたのは牧野女史だ。


「――葵ちゃん、こちらは?」

「あ、あの……うちのお店によく来てくださるお客様です……片倉さんと言って――、」

「――怪しい者ではありませんよ。どーぞ、こちらを」

 今にも引っ掛かれそうな雰囲気を感じ取ったのか、片倉は苦笑を浮かべ内ポケットから名刺を取り出し、丁重な手つきで牧野女史に差し出した。次いで、諸岡にも。

 二人は差し出された名刺を見るなり、目を見張る。

「この “央玩出版” って――、」

 諸岡の言葉に、片倉は申し訳なさそうな顔で頷いた。


「子会社とはいえ、うちの関連会社がずいぶんクロカワフーズさんをヤキモキさせたらしいですね。申し訳ありませんでした。――言い訳するつもりはありませんが、ああいったネット関連のサイト運営はどうしても、業務を細かく割り振ってどれだけ労力と時間の効率を上げられるか、に重点が置かれがちなんです。問い合わせ窓口の担当と、サイト内のチェック担当の間にきちんとしたパイプが引かれていなかった……それに加えて、この件の対処を任されていた者は、ただ、引かれた一線を守ることだけに忠実になってしまった……故に、ここまで無駄に対応が引き延ばされてしまったんだと思います。決して貴社に含みがあったわけではありません。どうか、ご了承ください」


 神妙な顔で頭を下げた片倉の言葉で、ようやく葵は「あ」と思い至った。

 ――そうか……牧野さんが言っていた、例のグルメサイトの派生元である雑誌の出版社って、片倉さんが勤める出版社のことだったんだ……ということは、その出版社は麻実ちゃんの勤める出版社ということで――、


 偶然のつながりにビックリの葵だったが、一方、片倉を見やる牧野女史の目は冷ややかなままだ。

「……で? 社を代表してアナタが謝罪に来たってわけ? “第二編集室プロスポーツ誌部” の “片倉瑞歩” さんが?」

 容赦ない牧野女史の突っ込みに、片倉はくっくと笑って肩をすくめた。

「怪しまれるお気持ちは御尤(ごもっと)もですが、色々な偶然が重なったんですよ。たまたま自分が居合わせた店でクレーム騒動があり、その一端が、たまたま自社の関連会社が運営しているグルメサイトに載ってしまった……その他にも、妙な偶然がありましてね」

「――居合わせた(、、、、、)……? ということは……アナタ、もしかして余計な茶々を入れて引っ掻き回してくれたっていう、例の “隣のテーブルの客” ?」

「引っ掻き回したつもりはないんですけどね、ちょっと出過ぎた真似をしてしまった自覚はありますよ」

 困ったような笑みを浮かべた片倉は、一度ちらりと葵を見た後、牧野に慇懃な口調で告げる。

「……でも、その代償はちゃんと払うつもりですから。今日はその件で来たんです」

 牧野が次の句を継ぐ前に、片倉は葵へ向いて一歩踏み出した。

「ねぇ、葵ちゃん。あのクレームをつけた客のこと、俺がどこかで見たことがある気がする、って言ったの、覚えてる?」


 もちろん覚えている。確かに彼はあの時そう言っていた。……その後の展開ですっぽり忘れてしまっていたが。

 大きく頷く葵に、片倉は満足そうな笑みを浮かべた。

「思い出したんだ……ようやくね。……実はあの後、そのことがずっと引っ掛かったままでね、モヤモヤしてるっていうのに、その間にも事はどんどん大きくなっていくだろう? まさか、俺が余計な横やりを入れたせいであんなことになったんじゃないか、って気が気じゃなくって。それで、とにかく何か思い出すきっかけになれば、と思って色々調べたんだ。……そうしたら、やっと思い出せた」

「……それって……あの時の、あのお客様が……片倉さんのお知り合いだった、ってことですか……?」

 尋ねつつも記憶の中では、あの男女カップルの客と片倉は顔見知りのようには見えなかったように思う。

 そんな葵の困惑を読んだように、片倉は笑って首を振る。

「いや、全然知り合いなんかじゃないよ。実は今も名前は知らないし、どこで何をしている人間なのかも全く知らないんだ。……でも、俺はそれを調べて洗い出すことができる。編集部の人脈と情報網はね、ある意味警察と同等に並ぶくらい、広くて緻密なものだからね」


 いまいち理解できない謎かけのような説明に、葵の困惑はさらに深まる。脇にいる牧野も諸岡も、怪訝な表情で顔を見合わせている。

 そんな三人の反応を楽しむような顔をして片倉は「そこでね、葵ちゃん。俺から提案があるんだけど」と、ちょっと居住まいを正し改まった。そして、口を開き――、


「――俺とつき合わない?」


 まさかの想定外な “提案” に唖然とする葵。さすがに牧野も「はぁ?」みたいな顔をしている。いち早く反論したのは諸岡だ。

「ちょっとアンタ、何言って――、」

 言いかけた言葉も、片倉はスルッと無視した。

「俺の気持ちは、最初に会った日から変わらないよ。ほら、五月に青柳たちと一緒にお店へ行った時……あの時すでに、俺は葵ちゃんのこと、好きだなって思ってた。本気だよ。本気でもない女の子のために、こんな労力と時間をかけて人探しなんかしないさ。全ては、葵ちゃんのため……好きな子のためなら、俺は何でもする。……どうかな。俺とつき合ってくれるなら、葵ちゃんに嫌な思いをさせた、あの卑劣なクレーム客の正体を、君の目の前に引きずり出してやるけど?」


 ――つまりは、交換条件、ということか。

 唖然と固まっていた葵の頭の中は、割と早くすっと冷静さを取り戻した。

 彼の真意は測りかねるが、返答など決まっている。


「――お断りします」

 きっぱり言って、しっかりと片倉のその双眸に向かい合った。

「……お気持ちは、ありがたいと思います。でも、片倉さんとはつき合いません」

 はっきりとした口調で告げられた片倉は、葵の心奥を探るかのように、その目を細める。

「……君をそこまで悩ませ、君のお店や仲間に泥を塗るような真似をした、あの客の正体を暴いてやろうと、言っても?」

「……あの時のお客様を見つけ出したとしても、クレームが出てしまった事実は消えません」

「だから、俺が君の名誉回復と信頼奪回のために――、」

「――いえ、そういうことじゃないんです」

 葵はゆっくりと首を振った。


 そもそもの発端となった “異物混入” ――、今となってはその真偽を立証することはできないが、少なくとも、事が発生した責任は自分にあったのだと、葵は己に科している。

 店長としての危機管理意識が甘かった――あの翌日、侑司から厳しく指摘されたことだ。あの時のショックはまだ記憶の中で生々しく残っているが、よくよく考えれば彼の言うことは尤もだと思った。

 ――自分には “隙” があったのだ。その怠りを、今後忘れてはならない。


「……あの時――異物混入のクレームが起きたのは、店長である私に緩みや隙があったせいだと思います。仮に、本当に正当な異物混入だったなら、私の指導とチェック体制が甘かった、ということで、また仮に、お客様が不当に虚偽クレームを出したならば、私の危機管理がなっていなかったということです。……どちらにしても、お店やお客様に対して私がもっとしっかり目を配っていたら……もしかしたらあんなクレームは起こらなかったかもしれない。……すべてはもう、仮定の話ですけれど」

「水奈瀬……」

 諸岡の否定的な声が耳に届いた。

 葵は親愛なる先輩にちょっと笑って見せて、もう一度片倉に向く。


「うちのお店のために、片倉さんがそこまで考えて下さったことは嬉しいです。でも、私は名誉なんていりません。失った信頼は、自分の力で取り戻します。それが私に与えられたペナルティーです。……正直まだ、あの時どうすればよかったのか、答えは見つけられないんですけれど、悩むことを放棄してしまったら、私はここで終わりだと思うんです」


 しんと静まった次の瞬間――、クック、という忍び笑いに次いで、あっはっは、と片倉の高笑いがロビーに響き渡った。


「はっはっは……あー……参ったね。葵ちゃん、俺はますます君のことが好きになったよ。結構、勇気を振り絞っての告白だったんだけどなー……第一戦は見事玉砕、かぁ……」

 そんな片倉に、牧野は容赦なく白い目を向けた。

「勇気を振り絞ったわりには、いやに計算高い “公開告白” だったわね」

 諸岡も細目を胡散臭そうに細めて辛辣に言い放つ。

「…… “賭け” にしては、ずいぶんお粗末でしたよ」

 二人の言葉に、片倉の眉が面白そうにピクリと上がる。


 ――その時、グーン、という低い音と共に、冷たい外気がそわりと滑り込んできた。

 それにつられて四人の目が正面玄関の自動ドアに向けられる。一方、自動ドアから並んで入ってきた人物二人も、ロビーの真ん中に立つ四人を認める。


「……あ」

「あれー」

「……あら」


 小さな驚きがその場を交差する中、葵の鼓動がでんでん太鼓のように暴れ回り始めた。

 入ってきたのは、杉浦崇宏と黒河侑司。


 ――片倉の口端が、にやりと上がった。





 

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