裏6話 水奈瀬蓮、失われた若き志の記憶
自宅マンション最寄りのコンビニエンスストア。
あまり広いとは言えないその駐車場の一角にステーションワゴンを入れ、エンジンを切って外に出た水奈瀬蓮は、近づいてくる低く轟くマフラー音と、眩しいライトの光に振り返った。
同じくコンビニの駐車場に滑り込んできた一台のオートバイ、跨っているのは見覚えのある背格好の男。
果たして、バイクを停めてヘルメットを脱いだその男――弟の萩は、コンビニの出入口でこちらを見やる兄の姿に、すぐ気がついたようだ。
「おあー、誰かと思ったら蓮兄じゃん。なにー、晩メシ? どーしたの今日は。ずいぶん早くね?」
「ああ、珍しく早く終わった。……お前は? バイトはなかったのか?」
「今日は休み。てか、今週いっぱい休みもらったんだ。ちょっと色々調べたいことがあってさ」
「……調べたいこと? お前が?」
「んだよ、オレだってやるときゃやるんだぜ?」
こんな会話を交わしつつ入ったコンビニの店内。
どちらともなく肩を並べて、まずは店奥のリカーコーナーへ。
「……んー、あんましビールって気分でもねーんだよな……」
ガラス越しにずらりと並ぶ様々な缶を二人で眺める。
蓮は仕事場近辺で夕食を済ませることが多いので、コンビニに入る事自体が実は久しぶりだ。……へぇ、このメーカー、こんなビールを出しているんだな、とガラス扉を開けて手を伸ばそうとしたところで、萩がガシッとその腕を掴んだ。
「なぁ、蓮兄。たまには飲みに行かねー?」
「は? 今から? お前と?」
「いーじゃん、まだ八時過ぎだろ? ちょうど蓮兄に話したいこともあってさ」
「話なら家でもいいんじゃないか? 俺、明日早いんだよ……飲みに行くよりかは家で――」
「ジジむさいこと言うなよ。どーせ帰っても食うもんねーし。コンビニ弁当もいい加減飽きたし」
「俺はそんなに飽きるほど食ってもないけどな」
「飽きるほど食ってるカワイイ弟に、たまには旨いモン――食わせろ!」
「――……っ! や、やめろっ……ぐっ……」
萩ほどのガタイにいきなり飛びつかれてヘッドロックをかけられれば、さすがの蓮もギブだ。
……大の男が二人、店内でじゃれ合うのはどうかと思うぞ……
かくして水奈瀬兄弟は、怪訝な顔を見せる店員を尻目に、手ぶらのままコンビニを出て、各々の足(車とバイク)を一旦マンションに置いてから、徒歩で夜の道を駅前へと向かったのだった。
* * * * *
「――だからさ、オレ、運命感じてんの。まさか宮崎にいるとはね。センセーもチョーびっくりしてた。オレがPT目指すなんて、思ってもなかったんだろうな」
妙光台の駅前から少々裏通りに入った場所にある、古くて寂れた小さな居酒屋。
狭い店奥の軋むテーブルに男二人が向かい合い、焼酎お湯割りをちびちび飲む。他に客はいない。
何とも侘しい図であるが、この店の女将の目にはかなり微笑ましく見えるようだ。ついさっきも、三つめのサービス小鉢が出されたばかり。
そういう時萩は、大概愛想がいい。
「オバちゃん! コレうっめーなぁ!」とガッつくだけで、お多福のような女将の顔がさらにニコニコしだすのだから、末っ子気質は得だよな、と蓮はしみじみ思う。
食べて飲んで喋るのに忙しい萩の “話したいこと” をまとめると、こうなる。
年明けから始まる臨床実習、その実習先の医療機関をどこにしようか、と悩んでいた萩だが、ようやく決めることができたという。
実はそこに至るまで、“おばあさん” だの “パンクした車椅子” だの “プレッシャーに負けそうだった自分” だの、よくわからない部分も出てきたのだが、そこは話の筋を秩序立たせるために蓮の中で割愛させてもらう。
要するに、萩が以前世話になったリハビリの先生が福岡にいるので、その先生の近くで実習ができるならと、試しに連絡を取ってみたらしい。すると、今は宮崎県の大学病院に勤めていることがわかった。
宮崎と聞いて驚かないわけがない。母がいる宮崎、水奈瀬兄妹弟にとっては第二の故郷とも言える宮崎だ。しかもラッキーなことに、その宮崎の大学病院は臨床実習の指定医療機関となっているではないか。
萩は、もう行くしかない!と即決し、すぐさま例の大学病院へ電話をかけ、例の先生へと電話をつないでもらい「来年そっちに行きまっす!」と高らかに宣言したらしい。
そりゃあ、その先生も “チョーびっくり” したことだろう。
機嫌よく小鉢を空けていく萩を見やりながら、蓮はおぼろげになりつつある記憶を探ってみる。
その、理学療法士だという “枡井先生” ――名だけは確かに覚えている。顔はうろ覚えだが。
萩は中学生の頃、腰を痛めて手術入院したことがあり、その時のリハビリ担当医だった人物だ。そして偶然にも、父の大学の後輩だった。
そう言えば父が亡くなった時、葬儀に参列してくれた覚えもある。その後も、萩や母とは何度か連絡のやり取りがあったらしい。
と言っても、ここ近年は萩の口から枡井先生の話など出た記憶はない。
あたかも、その先生の傍で働きたくてそのためにあちこち電話をして探したんだ、という萩の得意げな口振りは、少々首を傾げたくなる不可解さもあるが、本人が意気揚々としているのだから、まぁ良しとするか。
鹿児島の芋焼酎で満たされた何の飾り気も洒落っ気もないグラスをぼんやり指でなぞりつつ、蓮はちょっとした感慨に浸った。
高校卒業後の進路について、リハビリの専門学校に通いたいと言った萩……まさか弟が父親と同じ理学療法士という職業を目指すなど、当時の蓮には考えも及ばなかった。
あまり物事を深く考えず、直感と行き当たりばったりで突き進んでいく弟ではあるが、彼なりに色々考えてはいるようだ。父親代わりの兄としては、九つも離れた弟の成長が誇らしい。
「……で? 行くとしたらいつからだ――ってお前はサルか」
手元から顔を上げれば、萩の両頬があり得ないほど脹れている。口の中にこれでもかと頬張ったのは砂肝焼きか。
萩はもぐもぐと咀嚼しながら片手で「ちょい待ち」の合図をした。……躾が行き届いているんだか、いないんだか。
「――っぁあ、この砂肝、マジうめぇ。……えっとナンだっけ、そうそう、年明けのは一月の終わり頃だな。それは四週。四年に上がったら五月から八週、八月の終わりから八週、だっけか……うへぇ、考えてみると結構ハードじゃん?」
「まぁ、宿泊先を伯父さんのところにお願いすれば、餓死することもないだろう」
「それはもう電話しといた。もしかしたらしばらく世話になるかもー、って。したら、なーんか伯父さん興奮しちゃって、いつの間にかオレがあっちに移住するみたいな話になってんの。すぐに母さんから「本気っ?」って電話かかって来てさ、最初っから説明し直し。……ったく、伯父さんも人の話、聞かねーんだよなぁ……」
ぶつぶつ言いながら箸で小鉢をつつく弟に、お前も人のこと言えないだろう、と心中突っ込んでおく。いちいち口に出すのも面倒だ。
「でもさ、ナンか……伯父さんの言う通りになりそうな気が、すんだよね」
不意にぽつりと呟く弟。
どういう意味だ、と蓮が問うた声に、ガラガラッと立てつけの悪い入口の引き戸の音が重なった。常連客らしい中年の男二人を女将が騒々しく出迎える。
兄弟そろって入り口に向けた目を、兄弟そろって元に戻し、弟が神妙な顔で口を開いた。
「オレ……、学校卒業して国家試験に合格したら、あっちに行くかもしれない。上手く説明できねーんだけどさ……そんな気がする。行きたい、っていうより、たぶん、行くんだ。もう、決まってる。……蓮兄や葵と離れたいわけじゃない、けど……やっぱ、オレ、宮崎に行くんだと、思う」
珍しく、一語一語を慎重に発する萩の様子に、蓮は思わず微笑んだ。
「いいんじゃないか? お前はお前の思う通りに生きればいい。……何となく、いずれそうなる気がしていたんだ。お前は母さんっ子だからな、母さんを放ったまま、こっちに生活の基盤を築くことはしないんだろうと、思っていた」
「……蓮兄だって葵だって、母さんを放っているわけじゃねーだろ?」
ちょっとふて腐れたように、萩は口を尖らせる。蓮はくく、と小さく笑った。それは幾分、自嘲気味だ。
――どうなんだろうな、と。
当初は病が完治すれば、母はまた東京に戻ってくるはずだった。しかし、様々なタイミングや巡り合わせのせいで、母は未だ宮崎にいる。
東京に帰ってきたいとも、宮崎に永住したいとも、母の口からは聞いたことがない。――が、母自身がどうこうよりも、結局のところ、蓮自身が仕事を辞めて母の元へ行くことをしなかったのだ。
母を宮崎に見送って以来、親不孝、という言葉が、まるでイバラの蔓のように自身へ絡みついているのは、しっかり自覚している。
しんみりした雰囲気を慮ったのかどうか(いや、たぶん気にしていないか)、萩が焼酎の残りを一気に煽って、「オバちゃん、同じのもう一杯……いや二杯ね」と女将に声をかける。
蓮はわずかに顔を顰めて、同じようにグラスを空けた。……俺、明日の朝早いって言ったよな。
あっという間にやってきた二杯の焼酎お湯割りを、弟が甲斐甲斐しく蓮の手元に置いた。
「オレはさ……母さんも葵も、守ってやれなかったんだ。……いや、これからだって、守ってやれる自信なんかねーよ? 蓮兄みたく頭良くねーし、世の中のことだってたいしてわかってねーしさ。……だから、せめて近くにいてやろうかな、って思う。……ま、この先どうなるかわかんねーけどな」
大きめの口でニカッと笑う弟。不覚にも蓮は、我が弟ながら「可愛い奴め」と思ってしまった……酔ったのか俺。
「だからさ、葵のことは蓮兄に託すよ。頼むぜ、兄貴!」
「……酔ってるな」
「酔ってねぇよ! ナンだよ、こっちがマジで真剣に言ってんのにさ。いーよ、葵のことは黒河サンに託すしー」
「……黒河? 何でアイツが出てくるんだ」
つい胡乱な目を向けてしまった蓮に、萩はきょとんとした顔で「えー、だってさ」と言う。
「葵だって好きなヤツに守ってもらいたいだろ? 黒河サンだったら任せてもいいんじゃね? 黒河サンて、ああ見えて実はいいヒトじゃん。こないだもさ、赤坂で偶然会っちゃって、そっからうちまで送ってもらっちゃってさ。……ああ、オレが枡井センセーに連絡取ろうって思ったの、黒河サンのおかげだったりするんだよね。なーんかオレ、柄にもなく親父のこととか喋っちゃってさー。あの人、聞いてなさそうでキチッと聞いてくれてるから、ついつい口が勝手に――、」
「――待て、萩」
ピタ、と止まった萩に、蓮はヨシ、と頷く。
「……黒河と、会ったのか?」
「ああ、そうだよ。偶然な。……つーか、なんか女と一緒にいてさ、気になったからオレ、後つけたんだよな。んで、……なんだっけ、あのナントカっつーカフェに入ったから、オレも入ってこっそり話を聞いたってわけ。けっこーヤバい雰囲気でさ、女の方が一方的にイラっとするようなこと喚いてっから、ついオレも口出ししちゃったけど。でもそこは黒河サン、やっぱし大人の男だよな、ビシッと拒否って――、」
「――ストップ、萩」
二度目の “待て” もしっかり反応。ヨシヨシ、と蓮は努めて冷静に問い返す。
「……お前は、黒河と偶然赤坂で会った。その時アイツは、女連れだった……というわけだな? 険悪な雰囲気で?」
「だからそうだって言ってんじゃん! たぶんアレ、元カノだな。でも、黒河サンはかなりウンザリしてるっぽかったぜ? パッと見はキレーめの若奥サマっつー感じだったけど、恥ずかしげもなくキイキイ叫び散らかしてさ。周りもナンだナンだ?みたくなっちゃって。――『私のこと許せないんでしょ! 私のせいで泳げなくなったんでしょ!』って……アレだアレ、自分に酔っちゃ――、」
「――萩、ストップだ」
「――っだよ、さっきからっ! オレは犬じゃねんだぞっ!」
ガオガオと吼える弟に、兄は “まだまだ躾の必要性あり” と心中にメモる。
「……その女、『私のせいで泳げなくなった』って言ったのか? そうなんだな?」
只ならぬ色をそこに見たのだろう、萩はゴクリと喉を鳴らし、コクコクと頷く。
「……私のせいで……? ……まさか、あの騒動……女が絡んでたのか……?」
蓮の独りごちた言葉に萩は首を傾げたが、ふと「あ」と口を開けた。
「そーいや、競泳部がどーたらって言ってたからさ、蓮兄に聞こうと思ってたんだよ。ナニ “あの騒動” って。 “泳げなくなった” だの、 “競泳部を辞める羽目になった” だの……何か、ヤバい事件でもあったのか?」
「ヤバい、というか……」
どこからどう説明したものか……もう十年以上も前の話で、第一、蓮は一連の経緯のほんの一部分しか知らないのだ。何故起きたのか、その後どうなったのかは、今でもよく知らないままだ。
だが、これだけは確信している――あの騒動は、今でもあの男の禁忌となっているはずなのだ。
蓮はちらと店内に視線を走らせた。女将と常連客らしい二人がメジャーリーグの話で盛り上がっている。別に気にすることもないのだが。
「……お前、ペラペラ他言するなよ?」
「……蓮兄。いい加減、オレを信用しようぜ?」
水奈瀬兄弟は、狭い店奥の片隅で、額を寄せ合った。
* * * * *
――遡ること十数年、季節は夏。
都内にある国立総合水泳場で高等学校水泳競技関東支部大会――インターハイ予選大会が開催された。
この高校競泳大会は、一都七県から各々強豪が集まりタイムを競う。上位入賞者、及び総合得点上位獲得チームが、インターハイへの出場権を手にするのだ。
蓮の通う定埠高校は都内でも有数のスポーツ名門校であり、中でも競泳部はインターハイの常連校としても知られているほどだ。その年も当然、全国への足掛かりとして総勢男女二十三名が各種目にエントリーしていた。
高校二年にして全国大会標準記録を突破している蓮もそのうちの一人だった。
出場予定種目はバタフライ100mと200m、そして四名一チームのメドレーリレー400m。
高校に入って急遽平泳ぎからバタフライに転向していた蓮は、こういった大会本番でのタイムがどこまで伸びるか、いまいち掴み切れていない。先に行われた地区大会では、辛くも決勝三位に食い込んだが、自己ベストには及ばなかった。予選突破は自信があったが、決勝三位内入賞は際どいところだ。
緊張と不安を志気に変換しつつ迎えた競技初日。
個人メドレー200m予選、平泳ぎ200m予選……と競技は滞りなく進んでいく。そしてやってきたバタフライ男子200m予選。
蓮は予選五組目6コース。まずは予選、と気負わず冷静に後半を上げて、堂々の一着。
タイムを公式掲示板で確認し、水から上がった蓮は荒げた呼吸を整えつつ、監督・コーチ席に向かう。そこで、ふと振り返った。
次はバタフライ予選最終六組目。実はこの組に、以前から気になっていた選手がいる。
1コースから次々に学校名と名前が呼ばれていく中、蓮はおや?と思う。一人、様子のおかしい選手がいる――4コース……蓮がマークしていた慧徳学園の彼だ。奇妙な屈み姿勢で俯いたまま、名を呼ばれても手さえ上げない。
ピピーッと長い笛が鳴って、スタート台へ一斉に選手が上がった。
その時、まさにその4コースの彼が、一度は上げたその足をふらりとスタート台から降ろした。よろめくように後退し、寄ってきた審判を押しのけてその場にうずくまる。
……え?と、蓮も会場内も、一瞬何が起きたのかわからぬ中、小さな悲鳴のような声が上がって、うずくまった選手の周りに他の審判たちが駆け寄る。
――吐いた!という声が聞こえた。
バケツ!だとか、救護!だとかの叫び声が上がって、その周囲に監督やコーチ、そして競技運営のスタッフたちがバタバタと集まる。蓮の目からその選手は見えなくなった。
定埠高校の若いコーチが「何だ? 何があった?」と言いながら、蓮の傍にやってきた。
――慧徳学園の、黒河侑司。決勝で必ず競うと思っていた、ライバルの一人。
蓮は、呆然としながらその人だかりを見つめるしかなかった――
* * * * *
「――えぇっ? んじゃ、それが、黒河サンだったっての?」
「声がデカい」
制御なしで驚きを露わにする萩に、蓮はもう一度ちらりと店内に目を走らせた。
相変わらず狭い店の中には、世話焼き女将とほろ酔い親父二名しかいない。そして誰も蓮たちの話など聞いちゃいない。
「……ああ、慧徳学園のクロカワユウジという二年が体調不良で棄権。割とすぐその情報は流れてきた。だが本当は、そんな単純なことじゃなかった。……その年の大会公式記録に、慧徳学園全員の記録はない」
「は……? ナニそれ、どういうことだよ……」
「ただの体調不良じゃなかったんだよ。結局あの選手……黒河は、救急車で近くの病院に搬送された――急性アルコール中毒でな」
「急性、アルコール、中毒? 酒ぇ? 酒、飲んだの?」
「バーカ。飲むわけないだろう。……おそらく、飲まされたんだ」
蓮は当時の騒ぎの記憶を、ゆっくりとなぞる。
大会初日の予選時に起きた騒動としては、運営側の対処は相当に迅速なものだったと、今ではわかる。
あの後一旦競技は中断され、選手全員が控え室に下がり、観客もその場で待機させられたが、その時間わずか三十分ほどで、何事もなかったかのように競技は再開された。
吐いた、と聞こえた割には、その気配や名残は微塵も感じられなかったし、例の選手と同じ慧徳学園の他の選手はその後も引き続き予選競技に出場していたので、蓮を含めた会場内において、何があったのかよくわからない者の方が大半を占めていたと思う。
事の詳細が微細振動のように会場を伝わり始めたのは、翌日以降である。
蓮たち定埠高校の選手は皆、コーチからその話を聞いた。
――体調不良と思えたあの選手、どうやら急性アルコール中毒で病院に運ばれたらしい……昨夜のうちに慧徳学園は今大会の棄権を申し立て、監督やコーチ、そして選手も応援団も全員、すでに撤退した後だということだ……というのも、あの選手の水筒の中に洋酒らしきものが混入していたと判明したようで……――
「――いやいや、待てよ、水筒に酒なんか入ってたら、フツー飲む時わかるだろ? 中毒になるほど飲んじゃうなんてあり得るか?」
わずかな焼酎が残る手元のグラスを持ち上げてみせる萩に、蓮はまだ半分以上残っている自分のグラスを弟の方に押しやる。
「まぁな。……ただ、水筒は直飲みタイプじゃなかった、と聞いた。……ああ、今はあまり見かけないのか。……ほら、昔、キャップを開けるとストローが飛び出るタイプの水筒があっただろう? 俺らの頃流行っていたんだよ。彼の水筒もそういうタイプの物だったらしい。だからアルコール臭に気づかぬまま、一気に飲み込んでしまった……そんなところじゃないか?」
「むーん……オレなら一口や二口飲んだところで、中毒になんかならねーけどな……」
そう言って自分のグラスを一気に空け、次いで蓮が残したグラスにいそいそと口を付ける弟。思わず目は半眼になる。
「小学生の頃から親父の焼酎を舐めていたお前と一緒にするな。仮にも高校生、未成年だったんだぞ。アルコール耐性のない体質だったかもしれないしな」
言いながら、蓮は頭の片隅でふと思い出した。
夏に蓮は、黒河侑司と乃木坂にあるバーで飲んだことがある。だが、あの時彼は炭酸水を飲んでいた。車で来たのだから当然なのだが、彼がアルコールに弱い体質である可能性も皆無ではない。見た目的には大いに疑問を抱く推測ではあるが。
「まぁ、その辺は不確かなままだ。……とりあえず、その時はまだ大会中だったこともあって、主催側は目下調査中だとしていたが、どう考えても本人が “故意に” 飲んだとは考えにくかったんだろう。……騒動の翌日、参加選手と関係者全員の荷物検査が各校に要請された。……強制ではなく、任意だったけどな。それに対して、うちの監督がものすごく怒り狂っていたのを思い出すよ」
「はっ、そりゃ怒るだろ。他校の選手にそんなイタズラ、あり得ねぇじゃん。てか、選手じゃねーだろ、そんなことするの」
いい意味でも悪い意味でも単純素直な弟の言葉に、蓮は「いや」と頭を振った。
「結果から言えば、犯人は選手だった。被害者と同じ慧徳学園競泳部二年の男子。動機はライバルに対する嫉妬や恨み……と聞いた。ほんの悪戯心だったのか、もっと根強い悪意があったのかは、知らないがな」
「マジかよ……」
あんぐり口を開けて、萩は言葉もないようだ。無理もない。蓮だってその話を聞いた時は信じられなかったのだ。
犯人判明云々の話を聞いたのは、大会がすでに終わって夏の合宿に入ろうという時期だ。蓮たち定埠高校は無事にインハイ出場を決めており、頭の中は全国大会のことで一杯だった頃。
あまりにも信じがたい話に部員全員が唖然とする中、若いコーチの一人が「そんなに切羽詰まった雰囲気の学校じゃないんだけどなぁ」と首を傾げていた。
今はどうだか知らないが、その頃の慧徳学園は、どの体育部に関してもパッと目立つ成績があったわけでなく、競泳に関していえば、ここ数年でほんの数名、支部大会やインハイに顔を出す選手がいる、といった程度のレベルだった。個人個人のモチベーションに優劣をつけるつもりはないが、それでも、インハイ連覇だのオリンピックや世界選手権出場だのを掲げる定埠高校と、かの慧徳学園とでは、根底にある意識レベルが違うのだ、とそのコーチは言った。
あの生徒を引きずり降ろすことになった非情な悪戯は、本当に単なるライバル心が引き起こしたものだったのだろうか、と。
しかし、当時の蓮はそこまで深く考えられなかった。
自己タイム更新と大会制覇を目指し、文字通り “水漬け” になって鍛錬を積み重ねていた頃だ。蓮だけじゃない、部員誰もが自分を引き上げ、チームを引き上げるのに精一杯で、他者を――ましてや仲間を――貶めることなど考えも及ばない……そんな “若さ” の頃だった。
自分と同じ歳の、同じ競泳を嗜む人間がそんなことをするなんて、というショックを受けたのと同時に、渦中の被害者と加害者の両選手は、これから一体どうなるのだろう……そんなことも思い巡らせた気がする。
しばらくして、あの黒河という生徒は競泳部を辞めてしまった、と噂で聞いた。
当然、翌年の最終学年にして最後のインハイ予選大会に、彼の姿はなかった――
「――あぁっ? ちょっと待って、蓮兄! それおかしくねーか?」
素っ頓狂な声に蓮が眉根を寄せれば、萩は興奮露わに身を乗り出す。肘が当たって小鉢が落ちそうだ。
「オレ、あの女が『私のせいで泳げなくなったんでしょ!』って叫ぶの聞いたぜ? ナンで? 同じ部内の男子が犯人だったんだろ? ナンであの女、『私のせいで』なんて言ったんだ?」
蓮は空いた皿や小鉢を重ねながら、緩慢に答える。
「さあな。俺にはわからないよ。お前が盗み聞きしたその話が正しいのかどうかも判断できない」
「盗み聞きとかゆーなよ」
「そういうのを盗み聞きというんだ。それはともかく――、」と一旦そこで切って、蓮は中年親父二人と会話を弾ませるお多福女将に「すみません、勘定で」と声をかけた。
「 “泳げなくなった” という話が本当なら、あの急性アルコール中毒によって、黒河侑司に何らかの後遺症が残った、ということかもしれないな。身体的なものか心因的なものかはわからないが。被害者だったあいつが競泳を辞めたのも、それなら説明がつく。……そこに、その女がどう絡むのか……それは、俺らの詮索域じゃない」
「それは……むーん……」
腑に落ちない顔でムグムグいう萩に構わず、蓮はジャケットを羽織って立ち上がった。お多福女将に支払いを済ませると、萩も慌ててジャンバーを着込みながら「オバちゃん、ごっそさん」と愛想も忘れない。
ガラガラと立てつけの悪い入口扉を出れば、一際冷たくなった夜風が吹きつけた。
「……なぁ、それって……葵みたいなやつ、か?」
すっかり人気のない夜道をマンションに向かって歩きながら、萩がぽつりと漏らした。
蓮は夜空を見上げる。月も星も見えないのに、どこか薄ら明るい不完全な闇。
「……今まで普通にできていたことができなくなる……何とも思わなかった物事がパニックや恐怖を引き起こす凶器に変化する……お前ならこの意味、わかるよな?」
「…… “トラウマ” ってことか。……もしそうなら、すげーよな……」
「すげぇ? 何が?」
「だって黒河サン、今は泳いでんだろ? そう言ってたぜ? 『今は何の支障もなく普通に泳げる』ってさ。トラウマを上手く克服できたってことじゃねーの?」
「……すべての人間がお前みたいな単純一本構造だと思うなよ」
「別に簡単に克服できたとは思ってねーよ。ただ、あの人……強い人だな、って思ったからさ……だから、葵を守ってくれんじゃねーかって……、――あ? ……んだよ、こんな時間に」
萩がぶつくさ言いながら携帯端末をポケットから取り出す。ドゥルルンドゥルルンと繰り返すリアルなエンジン音は、萩の端末メール着信音だ。
――……ったく、若さはバカさだよな……それを公共の場で鳴らす勇気は、俺にはない。
呆れる蓮は、立ち止まった弟を置いてさっさと歩き始めた。――が、「はぁ? 何だよソレ」とメール文面に向かって突っ込む萩の声に振り返る。
端末画面をなぞりながら険しい顔をする弟の様子に、蓮は「どうしたんだよ、帰るぞ?」と声をかければ、萩は上げた顔に困惑を貼り付けていた。
「……蓮兄、オレの友達がメールしてきたんだけどさ……」
「……?」
「葵の店が……」
「葵の店?」
「…… “炎上” 、だって」
――炎上? ……火事か!?
※ PT……Physical Therapist 理学療法士のことです。
※ 話中の水泳大会は架空のものです。実際に行われているものではございません。
※ 未成年の飲酒は法律で禁止されています。絶対に飲んだら(舐めても)ダメです。




