第5話 黄金週間、突入(ランチ編)
――何、この……あり得ない客ラッシュはっ!
あまりの忙しさにアドレナリン大放出の脳内を落ち着かせるべく、葵は洗い場台に食器を手早く下げながら、スー、ハー、と深呼吸を繰り返した。
そこで否が応にも目に入る、筋張った長い前腕の持ち主のことは気にしない。
こちらに向けられる鋭い視線も、気にしな――
「水奈瀬、待ちは?」
不意の問いかけに、スルッと落としかけたグラスを「おわっ」と持ち直し、葵は咄嗟に店の状況を思い浮かべた。
「い、今九組で、うち一組車いすのお客様がいらっしゃいます」
「席の確保は?」
「ちょうど1番が空きそうです。入り口付近ですがその分スペースがあるのでそちらへ御案内しようかと」
「了解」
低い声で葵に答え、その人物は黙々と洗い場作業に徹している。
だが葵は気づいている……食器や什器を休みなく捌きながらも、慌ただしい厨房の様子に鋭く隈なく気を配り、時々さりげなく、必死な形相で手を動かす吉田のフォローにも入る……そんな黒河侑司の抜かりなく巧みな動き。
超人的な速さで次々に皿をラックへ並べ、手早く洗浄機へ突っ込むその姿に、葵は思わず見惚れてしまう……
「カウンタD番! メンチ、グラタン上がります! ライス一枚!」
笹本の声にハッと我に返る。
慌ててディシャップ台からオーダー票を取り、丁寧に盛り付けられた料理を手に組めば、耳に入る遼平の凛とした声。
「吉田、次C番のトマサラ先に上げて」
「はい!」
「笹本、2番のメンチ揚がる。バーグ仕上げて」
「了解!」
何となく視線が洗い場に走り、ワイシャツ腕まくり姿の上司と目が合う。
行け、と目線で合図され、葵は再び慌てて料理を客の元へと運ぶべくフロアに出た。
――何だかんだで回っちゃってるんだな、これが……。
とにかく、今はこの怒涛のような忙しさを何とか捌かなきゃいけない。葵は自身に気合を入れ直すべく、もう一度大きく深呼吸する。
どんなに忙しくても混んでいても、お客様への接客は疎かにできない。
GW休暇真っ只中の五月一日、この日、暦の上では平日だが、『アーコレード』慧徳学園前店は予想以上の忙しさにてんてこ舞い状態だった。
“慧徳学園前” とは、この町の地名であるとともに、都心から郊外に延びる私鉄線にある駅名にもなっている。その文字通り、この町は慧徳学園という幼稚部から大学院まである私立の総合学園が母体となった文教地区だ。
そんな “閑静な” と言ってもいいこの地にある『アーコレード』が、ここまで行列を成して混み合っているその理由は、この町と隣町の境にある “鶴の宮公園” の園内で今日から始まった “菖蒲まつり” の所以だと思われる。
毎年行われるこの催しは都内でも割と有名らしく、また初日の今日は天気も良好で菖蒲まつりへの人出は朝からすこぶる好調らしい。
だが、忙しさに翻弄されつつ、葵は「去年もこんなんだったっけ?」と首を傾げるばかりだ。
ともあれ、どちらかというと中~高年層に多く支持されている小さな洋食レストランは、この菖蒲まつりの客足にも便乗して、開店からてんやわんやの忙しさだった。
――いや、正確に言えば、開店からではない……朝出勤してきた時から、葵の頭の中はそれこそ “てんやわんやの大騒ぎ” であった――
先日電話で受けた “菖蒲御膳六十五個” の持ち帰り注文は皮肉にも、その日の朝、侑司とシフトの件でひと悶着起こした、佐々木不在の日、であった。
“菖蒲御膳” は、四月中で終了となった “桜御膳” に次ぐ、六月中頃までの季節限定メニューである。
近年規定が厳しくなっている保健所からのお達しにより、『アーコレード』においても、お持ち帰り可の料理は少ないのだが、その中の一つがこの “季節の洋風御膳” で、旬の食材を上手く盛り込みつつミニサイズの看板メニューもふんだんに入っているので人気度は高く、こうした特別注文も珍しくはない。
先月、古坂夫人が桜御膳十二個をお持ち帰り注文してくれた際は、佐々木と遼平、笹本の三人が普段より一時間早出で、特注分と店の仕込みをこなした(杉浦は『頑張ってねー』の電話越しエールのみでもちろん来なかった)のだが、今回はその数六十五個で、できれば配達もお願いしたいと言う。
朝の厨房はその日の仕込みもしなければならない。さすがに休日仕様の仕込みに加え、特注六十五個は佐々木がいなければ無理だろう、ということで、「俺が朝だけサービス出勤してやるよ。ついでに配達もな」と言う佐々木の言葉に、この日ばかりは素直に甘えてしまおうと葵は決めた。
――が、今日の朝、葵も「詰め」と「包み」は手伝おうと、いつもより早く出勤し事務室から厨房を覗いた時、思わず二度見してしまった。
バタバタと忙しく動き回る遼平、笹本の脇で、コックコートを着た明らかに佐々木とは違う長身の人物が、吉田と二人で御膳の詰め作業を行っているではないか。
ポカンと口を開けて絶句した葵を一瞥し、「時間がない、早く包みに入れ」と命じたその人物――黒河侑司は、狭い厨房空間の中でも、異様な存在感を醸し出している。
――コ、コック着、着てる……。
先日、佐々木との会話で想像だけはしてみた黒河侑司の生コックコート姿は、彼の上背の効果もあってか、間近で見るといつもの背広姿とはまた違った迫力がある。葵は我知らず、熊と遭遇さながらに更衣室まで後ずさってしまった。
しかし慄いている暇はなかった。
特注受け渡し時刻と開店時刻が迫り、葵も黙々と一つ一つ包む作業に没頭する。そして慌ただしくも無事に特注分の菖蒲御膳を仕上げ、厨房の店分仕込みとフロアの開店準備に追われる中、スーツ姿に戻った侑司が六十五個の菖蒲御膳とともに店を後にしたのだが。
ここで一息つく暇もなく、店は開店するなり満席になるほどの忙しさになる。
篠崎が来るまでの一時間あまり、フロアは葵と亜美の二人だけだ。独楽鼠のようにフロアを回りながら、さすがに限界かと焦りの脂汗を滲ませた時、侑司が戻ってきた。
てっきり配達後そのまま本社に帰るのだろうと思っていたのだが、彼は店に戻ってくると、亜美と葵の二人で手が回らなくなっていたフロア接客にするりと入り込んだ。しかも完全なギャルソンスタイルで、だ。侑司の接客業務を初めて目にする葵と亜美が、一瞬動きを止めてポカンと魅入ってしまったのは仕方がなかったことだと思う。
しかも、接客する彼をちらりと横目で見れば、小憎らしいことにいつもの無表情でも冷淡なオーラを発するでもなく、控えめながらも柔らかな笑みを浮かべて、その声音さえも優しいではないか。
お客様の目線に合わせてその長身を少しかがめる彼の姿勢に、つい、「マネージャーっていうのはこうも普段と接客時のギャップが生じる代物なのか!」と内心突っ込んでしまったほどだ。
そうしてしばらく接客をフォローし、ようやくアルバイトの篠崎が出勤してきたのを見計らった侑司は、黒ベストと蝶タイを外した白シャツとロングサロン姿で厨房に入り、今はプチパニック状態の吉田に代わって洗い場に入りつつ、時おりサラダ場や焼き場を補助している。
慧徳の店ではフロアに出るのも厨房に入るのも今日が初めてだったはずなのに、戸惑う様子も気負う素振りも全く見られれず……そのオールマイティぶりに、葵は呆気にとられるほかなかった。
と同時に、彼のさりげなくも的確なフォローの仕方は心底感心させられた。
前任の杉浦は、率先して先頭に立ち周りを巻き込んでいくタイプで、それはそれで葵も楽しかったのだが、侑司のやり方はそれと正反対でありながら、実に効率が良いと感じた。
彼自身はあまり指示を出さず、フロアでは葵を、厨房では遼平を立てて、敢えて下位の位置で手助けするのみ。それでいて、スタッフの動きと客の動向はしっかり読んでいるのだろう、手の足りない箇所は即座に気づく。だから、過不足なくフォローできる。
何となく、上から目線で人を動かすタイプかも、という気がしていたので、この意外さは新鮮で、何故か奇妙な嬉しさがあった。
「カウンタA、B番、バーグとシチュー上がります!」
「はい! AB番行きまーす!」
笹本の声が高らかに上がり、亜美がテキパキとオーダー表を確認していく。
これほどの忙しさの中、佐々木がいないにもかかわらず、さしたる遅れもなく料理が出てくるのはいい意味での誤算だ。彼らを過小評価していたのは自分自身だったのかもしれない。
もちろんそこには、侑司のバックアップが上手く効いているのだろうが……葵が心配しなくても、彼らはちゃんとレベルアップしている。
メニューを手にして待ち客へと向かう葵は、自然と笑みがこぼれていた。
* * * * *
怒涛のランチタイム終盤――、ラストオーダーを取り終えて、洗濯機に放り込まれたような忙しさが落ち着いてきた時、篠崎が裏からひょっこり顔を出した。
「店長、遼平がマネージャーの賄い、どうしますかって」
混乱状態が続いた厨房も、ラストオーダーの頃にはもう大丈夫だと踏んだのか、侑司は一足先に事務室へ戻っていた。いくら無愛想な侑司でも帰る時はいつもひと言かけて行くので、まだ裏にいるはずだ。
「ああ……そっか……。じゃあ聞いてくるね。亜美ちゃん、ちょっとここお願い」
「はーい」
さすがの亜美も、今日は疲労の色が濃い。夜は早めに上げてあげられるかな……などと考えながら事務室に続くドアをノックして開けると、デスクの脇でこちらに背を向けている侑司がいた。
電話をしているらしく、端末片手に立ったまま腰をかがめてパソコンを操っている。
いつの間にか既にギャルソンスタイルは解いていて、濃紺のスラックスと淡いグレーのワイシャツのみの広い背中は、シャツを通してでも引きしまった筋肉で覆われているのがわかる。
しっかりした首筋から肩にかけて程よく盛り上がり、広い肩幅と伸びる長い腕、がっしりとした上半身に対してウエストは締まっていて腰も細めだ。こういう体型はスーツを着て遠目で見ると一見すらりとして細身に見えるが、実は胸板も厚かったりする。
そして再び、葵の脳裏に見慣れた人物の立ち姿が重なった。
――うーん……やっぱり似てる……この筋肉の付き具合は、もしかすると……
後ろ姿のラインをマジマジと観察し勝手に分析していると、通話を終えたらしい侑司が振り向き「何だ」というような訝しげな顔をした。
「あ、あの、賄い、どうしますか? 召し上がりますか?」
「いや、いい。これから日比谷に行く。明日以降しばらくはこっちに来れないかもしれない。佐々木チーフによろしく伝えといてくれ」
そう言いながらも、侑司は手早くデスクチェアに掛けていたスーツジャケットを着込む。鞄とともにある紙袋から、白いコックコートがちらりと見えた。
「……黒河さん、今日はありがとうございました……あの、すごく、助かりました」
ぺこりと頭を下げた葵に、侑司は一瞬動きを止めてちらと見返したが「いや」と言って、外していたらしい腕時計をつけ始める。
そして所在なく佇んでいる葵に、「水奈瀬」と、お馴染の低音で呼びかけた。
「……何で、今日の特注のことを連絡してこなかった?」
問われて、葵の身体はギクンと強張る。
まったく失念していたわけではない……いや、特注六十五個が入りその日が佐々木不在の朝だと判明した後、葵はすぐに侑司への連絡を考えた。
だが、あれだけ人員削減で揉めた後なのに、結局佐々木に出てもらうことになり、知らせたところで逆に嫌味になるかもしれない、と思ってしまったのだ。
また、佐々木はサービス出勤だと言ってくれたが葵はそのつもりはなく、超過した今日の出勤分は来月のシフトでこっそり調整しようかと思っていたので、知らせるのは少々後ろめたさがあったのも本音だ。だからしばし迷ったうえで、連絡をしなかった。
しかし、 “ホウ・レン・ソウ” は他の企業と同様にクロカワフーズでも重要視されていることである。店長と担当マネージャーは互いの携帯電話番号を必ず把握し合っていて、どんな時でも連絡が取れるようになっているくらいだ。それなのに、報告を怠り連絡せず相談もしなかった……これは葵の職務怠慢だと言われても仕方がない。
ところが「すみません……」と項垂れた葵に、侑司は軽く息を吐いて、意外にも「違う」と言った。
「別に責めているわけじゃない。佐々木チーフから話は聞いた。不測の事態はいつでも起こりうることだ。その都度、水奈瀬が臨機応変に対応してもらって構わない。でも」
と、一旦言葉を切り、葵を見据えて続ける。
「俺らをもっと利用しろ。マネージャーは単なる現場監視役じゃない。店舗で解決が難しいことでも視野を広げてみれば解決法が見つかる場合もある。水奈瀬はこの店の責任者だが……その責任者の責任を負うのは俺らマネージャーだ。そしてつまるところ、俺ら従業員すべての雇用責任を負っているのが会社だ。すべて自分一人で解決しようと頑張らなくていい。今回は佐々木さんに甘えたようだが……もし今後、どうしようもなくなった時は……俺を、利用しろ」
淡々と静かに述べた最後、侑司はすっと目を逸らした。
葵は大いに面食う。……叱責や非難の意が、感じられない。
いつもの突き放すような冷淡さを予測して身構えていたのに、最後の “利用しろ” が思いの外優しく聞こえてしまった。
「は、い……」と半ば呆けたまま、辛うじて返事をした葵を見て、彼は目を細め僅かに頷く。そして、いつの間にか帰る支度が済んでいたらしく、鞄と紙袋を携え事務室の裏口に向かった。
――と、向かいかける途中、彼は背広の内ポケットから小さな白いカードを取り出し葵に手渡す。
見るとそれは名刺で『旭町五丁目自治会』とあり、その代表者の名前と連絡先などが記載されている。今日の特注、菖蒲御膳六十五個の注文主だ。
「急なオーダーで申し訳なかった、と仰っていた。またよろしくお願いします、と。……顧客リストに入れておけ」
そう言って彼は足早に裏口から出ていった。
「……ありがとう、ございます……」
呟いた葵の言葉は、侑司に届かなかったかもしれない。
しばし、その場で閉じた裏口ドアを見つめる。
葵の脳内では、彼の後ろ姿が残像となって……
「……帰ったんだ?」
「――ぅわっ!」
突然背後から声をかけられて振り向くと、遼平が仏頂面で立っていた。
「あ、ごめん! 賄いだよね。黒河さん要らないって……」
遼平は僅かに眉を顰めたままじっと裏口を見ている。
「……遼平?」
「あの人……凄かったな」
瞳を伏せて遼平はぽつりと呟いた。
朝早くからいきなりマネージャーがやって来て、有無を言わさず厨房に入り、手ずから作業されては遼平もかなり驚いただろう。
自分も今朝、彼を目にした時は相当ヌケた顔をしていたんだろうな……そう思うと、何だか可笑しくなってきた。
ふふふ、と少々不気味な笑い声をあげた葵に、遼平は怪訝な顔をする。
「……先入観って怖いね。反省しなくちゃ」
「……?」
侑司から受け取った『旭町五丁目自治会』様の名刺にもう一度目を落として、葵は微笑む。
無事にお客様へ届いてよかった……喜んでもらえてよかった。
手の中にある小さな名刺は、彼の体温の名残だろうか……ほのかに温もりが残っているような気がした。