第4話 新マネージャー、始動
GW(ゴールデン・ウィーク)――世の大半の人々が、この言葉の響きに華やかで浮き立つような気分を抱くのではないだろうか。
それはもちろん、行楽、娯楽、休暇に慰安……様々なプランへの期待や興奮によるものなのだろう。しかしながら、ある種の業界ではこの黄金の長期休暇期間が、また別の意味で、期待と興奮に彩られており、まさに決戦場……いや血戦場と化すのだ。
それはレストラン業においても、いわんや “クロカワフーズにおいても” である。
来たれ黄金週間!を目前に控えた四月末、開店前の『アーコレード』慧徳学園前店、裏の事務室内は、その血戦場を目前にして、何とも言えない張りつめた空気に満ちていた。
勤務シフト表を前に対峙しているのは、この店の店長、水奈瀬葵と、同店担当マネージャーの黒河侑司だ。
「……ここはオーバーラインだ。店の規模が小さい分、余計な出費はより大きく予算に響く。人件費率を考えろ。ディナーはこのままでいいが、ランチは一本減らせ」
「あのでも、厨房の吉田はまだ入って半年ほどです。チーフがいなければ、りょうへ……矢沢がフライヤーと焼き場に入ることになり吉田をフォローしきれません。洗い場要員で池谷か篠崎を入れておかないと――」
「いつまでだ? 今無理ならいつまで待てばいい? 中途半端なトレーニングじゃ育つものも育たない。笹本に焼き場とディシャップを兼任、矢沢はフライしながら焼き場フォロー、吉田への指示も矢沢にさせろ。フロアは三人、それ以上は無意味だ。無理なら代わりのヘルプを呼ぶ」
「……そんな……」
今年のGW休暇は四月末の土曜日から五月初めの日曜まで、休暇の取り方次第では実に九連休となる大型連休だ。既に本社では、どの店舗も間に入る水曜日定休を返上し、二週間ぶっ続けで営業することが決定されている。
そこでやり繰りに苦労するのが社員の休日である。
月決めされている休日の日数は労働法の関係で減らすことはできない。いつもは定休日だけで補えない休みを平日か、もしくは平日の午前休、午後休で賄うのだが、GW中はどうしても人出が必要で、なかなか休みを回せない。
こういった繁忙期間はどこの店舗でも人手不足で頭を悩ますのだが、慧徳学園前店では店長である葵自身よりも、特に佐々木チーフの休みを回すのが一苦労なのだ。
一通りこなせる遼平がいるので佐々木がいなくても料理は出せるが、普通の休日とはまた違う忙しさの中で厨房を仕切るのはまだ無理がある。笹本が遼平のレベルまで行っていないのも不安要素の一つだった。
忙しくなることが予想されるこの期間の中日に佐々木の午前休を確保はしたものの、ヘルプなど想定外であった葵は、ともかくもシフトラインを厚めに組んでいた。スピードが勝負のランチタイムは頭数がいれば何とかなる。
しかし今日、葵が出勤するよりも早く店に来ていた侑司にシフト表を見咎められ、早速ダメ出しを食らった。
そして、二人が対峙するこの状態ができあがった、という次第である。
シフト表を目前に、他店舗からのヘルプを呼ぶ、などという脅しともとれる黒河侑司の言葉を投げかけられて、葵は無意識のうち唇に歯を立てる。
侑司が示唆する意味は、うちのアルバイトの代わりに他店からのヘルプを入れる、ということだ。繁忙期に他店舗との人員の貸し借りは全くないことではないが、余程スタッフ人数が足りないか、もしくは人数がいても店が回る状態ではない、という時にしかヘルプは頼まない。つまり頭数はいるのに人手を借りるということは、うちのアルバイトが使えない状態だ、と申告したことになる。
オープン当初一か月くらいは、慧徳学園前店も他店舗からの応援を借りたこともあったが、それ以来は一度もない。なのに今更そんなふうに言われるなんて……ある意味屈辱だ。
それはうちのスタッフが使えない、とでも言いたいのでしょうか……喉まで出かかった抗議の言葉は、以前耳にした忘れられないひと言を、脳裏に甦らせた。
『――ついて来れない奴は容赦なく、切れ』
目の前のこの人は、あの時、確かにそう言った。
でも、――私は、そんなこと、絶対にしたくない。
デスクチェアに座る侑司を、葵はしっかりと見据えた。
「……わかりました……ここのラインと……ここは、一本ずつ減らします。ですが、ヘルプは要りません。うちのスタッフだけで十分、回せます。厨房には私から話します」
シフト表から目を上げた侑司の視線と葵のそれがぶつかる。
真っ直ぐ見返してくる、強い力を持った、彼の双眸。
揺れそうになる視線を必死でとどめれば、それを無機質に見つめる侑司の口元が、僅かに開きかける。
「……ったく手厳しいな、侑坊は」
――その時、苦笑する佐々木が事務室に入ってきた。
もう開店まで間もない。仕込みもほぼ終わったのだろう。相変わらずガシガシと胡麻塩頭をかき回しながら、佐々木はデスクの上にあるシフト表を手に取り、ざっと確認した。
「まぁいいさ、水奈瀬。遼平と笹本には俺が言っておく。今日からしばらく笹本を焼き場とディシャップ両刀遣いでやらせてみるか……休みまで幾日もないから、どこまでできるようになるかわからんけどな。その代わり、フロアはオーダーミスすんなよ?」
肩をポンと叩かれて、葵は初めて全身に力が入っていたことに気づく。
「ありがとうございます、チーフ」
ふっと肩の力を抜いた葵に、佐々木はにっと笑ってシフトを返す。そしていつものように、デスクの引き出しから煙草を取り出した。
「侑坊よ、うちは『櫻華亭』とは違うんだ。まぁ、もう少し長い目で見てやってくれや。……お前から見りゃ、ちと、イラつくかもしれんがな」
そう言って、「じゃ、俺は一服」と佐々木は事務室の出入り口から、喫煙場所となっている店の裏へ出ていった。
何だかんだ言っても、結局のところ料理長である佐々木の負担が一番大きいのだ。にもかかわらず、いつだってこうして彼の鷹揚で寛大な気質に助けられている。今まで何度、すみませんチーフ、と頭を下げたか知れない。
しかし、感傷に浸っている暇はないのだ。そうと決まれば、早速シフトを手直しして、アルバイトの子たちにも事情を説明しておかねばならない。
葵がシフト表を手にして頭の中であれやこれやと考えていると、「水奈瀬」と低い声で呼ばれた。
既に侑司の視線はパソコンの画面に向けられていて、こちらを見ていない。が、侑司の発した言葉は、真っ直ぐ、鋭く、葵の胸を貫いた。
「――守られてばかりじゃ前に進めない……覚えておけ」
* * * * *
「あれ? そーいえば、黒河マネージャー、いつ帰られたんですかぁ?」
ランチタイムが終わり、皆で賄い休憩に入っている時、斉藤亜美が素っ頓狂な声を上げる。「開店する前にねー」と葵が返せば、
「忙しい人ですねー。杉浦さんより忙しそう。でも、あの人全然バイトと関わろうとしませんよね? シフトラインにも入らないし……何か目つき怖いし。杉浦さんとは大違いー」
賄いのフリカッセ(鶏肉のホワイトグレービーソース煮込み)をフォークでブスブス差しながら亜美は、むぅと口を尖らせている。
四月中の引き継ぎは難しいと、以前杉浦は言っていたが、先日の月会議から一週間ほどたった日の夜に、杉浦と侑司二人がこの店へやってきて、驚異的な速さで引き継ぎを済ませてしまった。
どうやら、できるだけ早急に本腰を入れて『紫櫻庵』の準備に着手しろ、という上からのお達しがあったらしい。よって、店にいた亜美を含む数名のバイトは、その引き継ぎの日に黒河侑司と対面を済ませている。
その時の黒河侑司は、さすがにアルバイトに対して “無視” はなく、「よろしく」と無難に挨拶を交わしていたが、新マネージャーのあまりの愛想なさに、亜美は一瞬にして頭の中で「新マネージャー=おすすめ対象外」というラベルを張り付けたらしい。
それ以来、葵に対しては「新マネージャーを堕とせ! アターックッ!」などと言ってくることもなくなり、これには内心ほっとしていた。
「店長、すみません……マネージャーにまた何か言われたんですよね? 自分、まだ焼き場が完全じゃないから……」
そう言って頭を垂れたのは、亜美と同じくアルバイト歴一年の笹本だ。彼は二部学生で朝の仕込みとランチタイムを主に入ってもらっている。真面目な性格で慎重を期するため、やや要領が悪い部分もあるが、ミスは少ないし何より働く姿勢が実直なので、佐々木も遼平同様に可愛がっていた。
ただ、忙しいランチタイムではなかなか新しいことを学べない。ましてや遼平という何でも器用にこなす先輩が傍にいるだけに、彼が若干焦りを感じているのも葵は気づいている。
「違うよ、私が叱られたの。まだまだヒヨっ子だからねー。笹本くん、ゴールデン・ウィーク中は結構大変かもしれないけど、フロアもできるだけフォロー入るので、お願いしますね」
「そーだよー。笹モッチには期待してるんだから! ねっチーフ?」
亜美にキャピッと振られたチーフが「まあな」と苦笑して返せば、「あ、オレも! 早く焼き場に行けるよう、頑張りまっス!」と吉田がびしっと手を挙げて宣言する。
「えー、ヨッシーはオリーブをバラまくからダメー」という亜美のバッサリに「いや、あれはですね、瓶の蓋がその、こう……」と、しどろもどろで言い訳する吉田を見て、笹本も少し表情が緩んだようだ。
そのうちに、夕方からの篠崎や遼平が店にやって来て、みんながディナータイムの準備に取りかかる。そんな中、一服しに外へ出る佐々木の後を追って、葵も裏口から出た。
* * * * *
「チーフ……やっぱり私は甘いんですかね……」
水を張った業務用ウスターソースの空き缶に灰を落とす佐々木は「ああん?」と訝しげに葵を見た。
「今朝、黒河さんに言われたんです。『守られてばかりじゃ前に進めない』……って」
初めは慧徳のスタッフレベルのことを言ってるのかと思ったが、後からじわじわと、あれは自分に対しての言葉だったんじゃないか、という思いが強くなっていった。
入社三年そこそこの小娘が店長という責任者につき、たった一人で店を動かすなど、どだい無理な話……いつも佐々木チーフや杉浦に助けてもらっていたのは事実だ。
一方、黒河侑司は、他でもない『櫻華亭』本店の支配人を経験している。彼から見れば、自分が今している仕事ぶりなど、ママゴトのように見えるかもしれない。
守られてばかりのつもりはなかったが、実際はその状態に甘んじていた……のかもしれない。
落ち込んでいく思考に俯く葵を見て、佐々木はカカカと大口を開けて笑った。
「いいんじゃねぇか? 甘えるしかねぇだろ? お前はまだまだヒヨっ子なんだから」
そうはっきりと言われれば、葵はうぅ、と唸るしかない。
先日引き継ぎを終えた黒河侑司は、それから何回か店に訪れていた。会議の日に葵を視野にも入れなかったことなどまったく覚えてもいない様子で、今朝のような手厳しい指摘を容赦なく並べていく。
杉浦なら気にしないか、見て見ぬふりか、はたまたいずれ時期を見て、という些細なことでも、侑司は素早く目敏く容赦なく、まるで重箱の隅をつつく……いや、掻き出す勢いで矯正していくのだ。
もちろん彼の言うことは尤もなことで、やり方や考え方は概ね前任の杉浦と変わりなく、葵としても厳しい指導は覚悟の上だったのだが、ここへ来ていい加減、ダメ出しの猛襲に精神的ダメージを自覚してきた。
如何せん、黒河侑司はその言い方に温度がないのだ。
今まで杉浦が必要以上にフレンドリーだったため、余計にその突き放したような物言いが気にかかって仕方なかった。嫌われているのか?自分……と自答したことも一度ではない。
それでも上司の指示には従わなければならない……というより、言ってることはいちいち的を射ているので、反論の余地なく従わざるを得ないのだ。
今回指摘された人件費についても、確かに以前から杉浦にもやんわりとだが、何度となく気をつけるように言われ続けていた。
しかし、GWだ。
黄金休暇にして年度前期最大の書き入れ時だ。
アルバイト人員一人を増やした分以上の利益は取れる、と判断したからこそのシフト組みであるし、十分許容範囲内だと思う。
店の生産性や人件費率を考えれば、少ない労力で効率よく店を起動させた方が良いのは当然のことだが、アルバイトたちとの信頼関係を崩すような無茶なシフト組みはしたくない。
なのに侑司の言い方だと、できる人間を優先に入れてそうじゃない人間は極力使うな、というように聞こえてしまう。
そもそも、葵はどちらかというと、じっくり着実にスタッフを育てていきたい派だ。
アルバイトとはいえ、賃金が発生する以上いい加減にやってもらうのは困るが、できるなら楽しく遣り甲斐を持って仕事をしてほしい。同時に、きついシフト組みや不適当な要求などで、過剰な負担をかけさせたくない、と常々思っている。
しかし黒河侑司は、そんな葵の考え方を一蹴するように、次々とスタッフのレベルアップを求めてくる。彼が直接アルバイトを叱責することはまず無いが、葵はもう何度となく裏(事務室)に呼び出され、フロアスタッフのワイン出しの仕方、アントレのタイミング、厨房スタッフの持ち場の狭さ、佐々木不在時のディシャップの稚拙さなど、事細かに叱られている。
それはもう、責任者であるお前の責任だ、と言わんばかりの猛襲だ。
よって、責任者である葵はその後必ず、責任を持ってアルバイトたちに伝えていかねばならない。
葵だって “ギャルソン” としてはまだまだ未熟者で若輩者だ。年齢だってたいして変わらない学生アルバイトたちに、そんな細かいことまで?というようなダメ出しするのは、結構心苦しいものがある。
私が甘すぎるのか……アルバイトにそこまでのレベルを求めていいのか……心中ではいつも葛藤が渦巻きせめぎ合うのだ。
どんよりと沈んだ葵に、佐々木は「そう落ち込むな」と笑って、気持ち良さそうに紫煙を吐き出した。そして短くなった吸いさしをポイと空き缶に投げ入れると、もう一本口にくわえる。これからディナーが終わるまで吸えなくなるので吸い溜め、なのだろう。
『櫻華亭』では調理人の喫煙はご法度だ、と噂に聞いたことがあるが、佐々木の吸いっぷりを見ると、そりゃ嘘だろう、とツッコミたくなる。
佐々木は煙草に安物ライターで火を点けて、また煙を吐き出した。
「言っただろ? ここは『櫻華亭』じゃねんだ。あっちのスタッフはほぼ全員正社員だぞ。学業の傍らでするアルバイトとはわけが違う。それでもうちの奴らはみんなよくやってるよ。お前もそのつもりで見てやれぃ」
「それはわかってます。みんなが頑張ってくれているのはわかっているんです。ただ……私が、まだまだ足りないんじゃないかって……」
「 “水奈瀬は十分頑張ってるよ” って、言って欲しいか?」
「……そういう意地悪は要りません」
くく、と笑って「そーか」と言う佐々木に、葵は顔をしかめた。
「……黒河さん、たぶん私を見てイラつくんじゃないかと思うんですよ。短大出の娘っ子がろくな経験もないまま店長なんか請け負って。……杉浦さんやチーフに散々甘やかされてきたから、厨房の内情も把握せずシフト組みも満足にできない、人件費率も見込めずスタッフ教育も徹底していない、そんなのでよく店長だなんて言えるな、って思っていると思います。それは私だってわかってますし言い訳はしません! でもだからってあんな冷たい言い方しなくてもい……」
語気荒くそこまで言って、葵は口をつぐんだ。
――マズい、何か愚痴になってる……
苦々しい顔で黙り込んだ葵を、佐々木は一瞬物珍しい顔で見て、ふーっと吐き出した紫煙を目で追った。
「……あいつが本店の支配人やってたのは、知ってるか?」
「あ……はい。こないだ、牧野さんからその頃の話を聞きました」
「そうか。あいつは……昇格が決まった時から、今お前が言ってたようなことを、実際に言われてたな」
「え……?」
思わず聞き返した葵に、佐々木はもう一度紫煙を吸い込み、今度はパッパ、と吐き出した。
「……入社数年のろくな経験もない若造を本店の支配人につけんのか、……総師の息子だからって甘やかされているんじゃねぇのか、……同族経営でこの会社が立ち行くのか、……ってな」
トトンと灰を落とし、また口元に持って行く煙草に合わせ、葵の視線も上がる。
昔の記憶を懐かしむように、佐々木の目が細まった。
「あの頃の『櫻華亭』は、どこも不景気の煽り喰らって売り上げが伸びなくてなぁ……そんな時分にあいつは、よりによって本店の支配人に就けられた。……いくら茂木さんが顧問としてついてるってぇ言っても無茶な話だ。……従業員の信用もなく、客なんかほとんどが茂木さんを支配人だと思い込んでる……そんな苦しい中で侑坊はよくやってたよ。誰より早く店に出ちゃあ誰より遅くまで店に残って……ロスを削って新案練って、フロアの連中を徹底的に底上げする一方で、厨房には何度も頭を下げた。俺や国武なんかは、それを見ちゃあ複雑な気分になったもんだ……なんたって、あいつがちっちぇー頃から知ってるからなぁ」
「ちっちぇ……って、黒河マネージャーの……子供の頃、ですか……?」
途轍もなく想像しがたい映像に困惑する葵を見て、佐々木はにやりと笑う。
「ああ、侑坊も和坊もなぁ。ヤなガキどもだったぞー。何度か母親に連れられて店に来てたがな、ガキのくせに一皿何千円するメイン料理食ってんだ。マナーもいっちょ前にな。やっぱりそういうのを知ってる奴らはどうしても妙な偏見を持つ。……和坊や侑坊にとっちゃあ、クロカワフーズって会社は氷点ギリギリの滝壺みてぇなもんだな。打たれても打たれても、落ちる水に終わりはない」
侑司の兄、和史も、何かにつけて “黒河” の名を引き合いに出される立場なのだと、佐々木は語った。料理人を志した時点で、父親と、ひいては先代、先々代とも比較され続けることは決定事項なのだと。
「……相さんも……ああ、総師の旧姓は “相馬” って名で、昔っから俺らは相さんと呼んでたんだが……相さんも統括も、息子たちを滝壺に落とした後は、放ったらかしだったからなぁ。……特に相さんは、自分も婿養子で黒河に入って苦労した身だからな、和坊や侑坊に対する風当たりに思うところはあったようだが、あくまでも傍観していた。……実の父母でありながら会社の社長に部長だ。敢えて苦行に向かわせるような黒河家のやり方に、俺ら古株は呆れたもんさ」
兄弟そろって、こんなしんどい職場に飛び込んできたんだから、あいつらもバカな奴らだよ、と、佐々木は紫煙の向こうでどこか嬉しそうに目を細めた。
「……だがな、そのしんどさを知ってるからこそ、和坊も侑坊も水に打たれる奴を馬鹿にはしねぇ。……わかるか? 俺の言いてぇことは、そこだ」
佐々木は煙草を挟んだ指を葵に向ける。
「若かろうが短大出だろうが、ましてや男だろうが女だろうが、あいつらが偏見で物や人間を見ることはねぇ。そういう目で見られてきたあいつらは、それらをぶち壊すために実力でのし上がったんだ。誰にも文句言わせねぇよう、お天道様の下に出しても恥ずかしくない結果を出す――それが、先代が理想としたクロカワフーズってものの姿だ」
「 “理想” の……クロカワフーズの、姿……」
「ああそうだ。年功序列じゃねぇ、年齢や性別も、出自や学歴も関係ねぇ、実力あるやつだけが上に行ける、そんな会社だ。……まぁそりゃ、ある程度は年功も必要だな。知識や経験が物言う世界だ。……だが、体裁や矜持に囚われて向上しようとしねぇ奴は、ずぅっとそのままだ。……俺ぁ、デカい組織のことなんざ語れねぇが、一戸の店のことならわかる。そんな凝り固まった保守的な奴ばっかりじゃ、店は腐って潰れちまう。そうさせねぇためにも、ガチの実力勝負に挑んで結果を出した奴だけが上へ上がっていくんだよ」
いつになく力のこもった佐々木の言葉に、葵はシュンと口を噤む。正直、葵の手の届かない別世界を示唆された気分だ。
そもそも、葵の中に出世しようなどという意思は一欠けらもない。実力だとか勝負だとか、そういったモチベーションを持ち合わせるレベルにも到達していない。一日一日の業務を、丁寧に懸命にこなすだけで精いっぱいなのだから。
「――わかってるよ、お前にそんな “野望” がねぇことくらい」
佐々木は、葵の心を読んだように苦笑して、短くなった吸い差しをひときわ強く吸い込んだ。名残惜しそうに吸い差しを空き缶に投げ入れ、腰をぐっと伸ばす。
「――ま、気にするこたぁねぇさ。……そうだな、あいつのダメ出しなんかに凹むヒマがあんなら逆に利用してやれぃ。あいつらマネージャーは、いわば本部のスパイってぇとこだろ? だぶる・おー・せぶん、てな。……なんだ? 知らねぇのか? ボンドだよ、ジェームズ・ボンドだ。今どきの若ぇもんは世紀の大スパイを知らねぇのか……ま、つまりだ……脛に傷持つ奴なら話は別だが、お前はそのスパイを正々堂々利用すりゃいい。甘えて頼って、それで結果が出せるなら万々歳じゃねぇか? 歴代のボンドガールを見てみろ。女にゃ強かさも必要だぞ。わかるか? し、た、た、か、さ、だ。十回言ってみろ?」
「したた、か、さ……」
「そうだ。ほれあと九回」
何となくすっきりしない思いを持て余しながらも、葵は「したたかさ、したさかさ、しさたかさ……」と繰り返しつつ、先ほどの話を反芻してみる。
佐々木の言いたいことは、理解できる。
実際本気で、黒河侑司が自分を馬鹿にしているとは思っていないし、偏見で人間を差別するような人ではないこともちゃんとわかっているのだ。彼は事細かにダメ出しするけれど、その当人個人の人間性を否定するような批判は絶対にしない。
わかっている……わかっては、いるのだ。
結局は、自分の “心” の問題なのだ、と思う。
前任の杉浦とはあまりにも違うタイプだから戸惑っているだけ。冷淡さやそっけなさだって、さっさと慣れて気にしなければいい。そんなことよりお客様のこと、この店の利益を上げること、それだけを考える……それだけのこと、なのだ。
――でもなぁ……。
葵も人間だ……冷たい態度と威圧するような視線に会えば、やはりテンションは下がる。
どうしたって、凹むのだ。
何故だろう……仕事上のダメ出しなんて、杉浦や諸岡から散々されてきたのに。
黒河侑司が繰り出す言葉は、鋭い剣先で急所を突かれるように痛く響く。
半ば投げやりに「しさかささしささささ……」と変化してきた葵に「舌噛むなよ」と笑って、佐々木はさっさと店の裏口から中に戻っていく。
後に続こうと踏み出した時「……お、電話鳴ってるぞー」という佐々木の声に慌てて裏口ドアを開けた。その瞬間、事務室の中から聞こえてくる電話のコール音はすぐ切れたので、きっと表にいる誰かが子機で取ったのだろう。
デスクに煙草の箱をしまう佐々木の背中を見やりながら、葵はふと疑問に思う。
「チーフ、……黒河マネージャーって厨房経験あるんですか?」
以前からいやに、厨房の人的配置や流れに詳しく突っ込んだ指摘をしてくるな、と思っていた。また、厨房側から見たフロア担当側への要求もよくわかっている。
知識だけじゃなく、実際に経験していたんじゃないか、と思うことが何度かあったのだ。
「ああ、そうみてぇだな……学生ん頃、どっかの厨房でバイトしたらしいぞ。『櫻華亭』じゃねぇがな。入社してからは接客専門だ。少なくとも俺はあいつのコック着姿は見たことがない」
「そうなんですか……どうして、接客を選んだんだろう……」
……父親と兄は、稀代のコックなのに。
「さあな……あいつにも色々考えがあったんだろ。和史は高校卒業後、調理師学校へ行ったが、侑坊は大学を選んだ。経営関係の勉強をしたってぇ聞いたぞ。端っからコックになるつもりはなかったみてぇだな。でも、時々受け持ってる店舗で人が足りなければ裏に入ることもあるらしい。うちでもお願いするか」
佐々木は呑気にカカカと笑い、厨房入り口にある手洗い場で手を洗い始めた。
葵はそれを見るともなしに見ていたが、不意にフロアに続く事務室のドアがノックされる。振り向くと、篠崎が「すみません、店長。予約の電話です」と言って入って来た。レジに設置した子機で受けたのだろう、その子機を持った篠崎は、困惑気に眉を寄せている。
「ん? どした?」
「それが……アヤメの特注だそうです。六十五個。数が多いので一応、お待ちいただいてますが……どうしますか?」
手を洗っていた佐々木と、思わず顔を見合わせる。
葵は小さく頷いて、デスク上の点滅ランプが灯る親機を見やり、まさかね、と思いつつも受話器を手に取り保留ボタンを押した。
「――お待たせいたしました、店長の水奈瀬でございます……はい、ご予約ありがとうございます……菖蒲御膳六十五個と承りましたが……はい……はい、かしこまりました。……それで、御注文の日にちは……五月一日……朝十時、ですね」
葵は、佐々木が苦笑しつつも頷くのを確認する。
「――はい大丈夫です。喜んで承ります。……では、お届けのご住所を……」
――五月一日。黒河侑司と揉めに揉めて、シフトラインを削った日である。
やれやれ、と呟く佐々木の声が背後で聞こえた。