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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第2部
57/114

第5話   隠れ家で、ドッキリ

 十月最初の定休日である。

 よく晴れた青い空の下、国道を南に向けてひた走るのは鈍色に光るグレーメタリックボディ。このSUVの助手席の座り心地も、いつしかお馴染みのものとなっている。

 ダークグレーで統一されたシンプルかつハイグレードな内装、身体の芯へ微かに伝わるエンジン音と加速感、そしてほのかに漂うミントブルーな香り。

 しかしながら、馴染みとなった居心地の良い空間に収まっても、とりわけ今日は落ち着かない。

 ――期待と不安、高揚と落胆、緊張と困惑、……入り交ざるカオスな心境。

 どうにも居た堪れない心地を持て余しながら、葵はちらりとステアリングを操る隣の上司を伺い見た。



『――一緒に行ってもらいたい場所がある』


 結婚披露パーティーの日、確かに侑司からそう告げられたはずなのだが、なんとそれから約一週間、彼からの連絡は全くなかった。おかげで葵は事あるごとに、あれは夢だったのか?と何度も首を傾げたくらいだ。

 ようやく連絡をもらえたのが昨夜の仕事終わり。指定された日の前日だ。

 夢じゃなかったと安堵したのもつかの間、迎えに来る時間だけ伝えられ、どこへ行くかなどの詳細は一言も知らされず、さっさと通話は切られてしまった。

 一体、何が目的でどこに連れていかれるのか、まったく見当がつかない。

 喜びも実感も湧かないまま眠りに就き、今朝は早々に目が覚めたにもかかわらず、服も髪型も持っていくバッグ一つでさえ、あれこれ悩む楽しさはなかった。


 彼が『アーコレード』の担当になって半年。

 この人の無機質な外皮に包まれた不器用な優しさと温かさ。葵はたぶんそういった部分に惹かれたのだ。好きになった強みとでもいおうか、わかりづらい彼の微弱な感情の変化も、ようやく感じ取れるようになったと思っていた。

 でもここ最近、彼の心情が全くわからない。

 いつから……? 九月に入った頃からだったろうか……いや、夏の終わり、過去との決別で感極まって泣いてしまったあの日。……あれが原因だったのかもしれない。

 造られた壁、避けられている感覚。

 やはり、過去の古傷を持つ自分など、関わりたくはないのだろうか。


 車内に流れるFMから、滑稽なほどのラブソングが流れ出した。つい泳いでしまう目線が、それとなく運転席へ向かう。

 今日の侑司はいつも見慣れたスーツ姿ではなく、黒のVネック七分袖Tシャツと黒のツイルチノパン、そして黒の革靴。見事に上下ブラック・オンリーで、黒以外の装飾と言えばチタンバンドの金属感あふれる腕時計くらいだ。

 ――そういえば黒河さんの私服って、初めて見たかも……

 仕事は休み、彼の私服、彼の車、二人だけのドライブ……状況だけ見れば、もっと心は弾み浮足立ってもいいのだけれど。

 そろりともう一度見上げた侑司は、わずかな波紋も見せない端然とした横顔を見せて、そこにどんな感情も見出すことはできない。

 侑司の瞳が反射しない()りガラスのように見えて、自分もそこには映らないような気がして、何だか悲しかった。



「……腹は、減ってるか?」

 唐突に聞かれたのは、窓の外に海が見えた頃だった。

 ぼんやりと、流れていく海沿いの街並みを眺めていた葵が慌てて目を上げれば、フロントを見据えていた侑司がこちらを向いて、目が合った。

「――は、はい! 腹、減っています!」

 思わず叫ぶように反応してしまい、どんだけ緊張っ?と脳内で自分をペシペシ叩く。

 侑司は「そうか」と答えてくれた。声音にほんのわずか、笑みが交じっていた気がする。

 たったそれだけの会話なのに、葵の胸はきゅう、と鳴った。


 目的地に着いたのは、それから十分もしないうちだ。

 南国感あふれる街路樹と白壁の建物が並ぶ海岸沿いの国道から細道に入り、住宅街を何度か曲がった先に、その場所はあった。

 細い路地に面したその一区画だけが、小さな森のようにもっさりと木々を茂らせており、グレーメタリックの車体は、木々の隙間にぽっかりと空いた仄暗い穴に吸い込まれるようにして内部に入る。鬱蒼たる木々の中は広く開けた敷地で、下草も生えっぱなしの空き地に数台の車が停まっていた。そして、その奥に重々しい雰囲気で佇むのは、五百ミリリットル入り牛乳パックをそのまま巨大化したような形の建物だった。

 高さは三階建てほどであろうか、コンクリートそのままの壁面を上からも下からも褐緑色の蔓草が覆いつくし、その外観は古めかしくどこか不気味だ。周囲から枝を伸ばした木々たちの影が、壁面で陰鬱に揺れている。

 車から降りて、葵は思わず頭上を振り仰いだ。

 ――ついさっきまで、海と空が広がっていたのに……

 わっさりと生い茂る木々を見上げる葵に、侑司は「水奈瀬」と一声かけて、迷いなくコンクリートの箱へ向かっていく。葵は慌てて後に続いた。

 しかし、建物の裏側に回って見上げた瞬間、葵の瞳は「わぁ……」と驚きに見開かれることになる。


 ――ここは……カフェ?

 どうやら、こちら側が “表” になるらしい。四角い箱に見えたコンクリートの建物は見紛うことなく飲食店で、裏側と表側がはっきりとした陰と陽になっていた。

 その建物の一階部分はオープンカフェになっており、店の外にはいくつか木製のテーブルとチェアがランダムに配置されている。

 一組の外国人らしき老夫婦が、その中の一つで食事を楽しんでおり、足元には大きな犬が気持ちよさそうにその身体を伸ばしていた。

 ――すごい……まるで、隠れ家。

 木々の陰にひっそりと佇んでいるけれども、この店の内部は火を灯したように明るく華やかで、不気味めいた陰鬱さは少しも感じられない。

 開け放たれたエントランスから中に入れば、天井が高く手前半分ほどが吹き抜けになっている。アイボリーの壁は清純さに溢れ、海外のお洒落なカフェを思わせる情緒がある。

 実際、店内にいる数組の客のうち半分くらいは外国人のようだ。ギャルソン姿の背の高い男性が、侑司と葵に気づいて優雅に一礼する――なんとこちらも金髪碧眼。

 葵は興味津々の様を隠すことも忘れ、口は半開きのまま、あちらこちらを惹かれるままに見渡した。

 ――あ……そういえばこんな感じ……どこかで……


「――いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ」

 耳触りのいい滑らかな声がかかり、葵は再び目を見開いて驚いた。

「――西條マネージャー……!」

 目の前でにこやかな笑みを浮かべ立っているのは、西條マネージャー。クロカワフーズの副事業、ダイニングバー『プルナス』を担当するマネージャーだ。

 侑司が丁寧な一礼をしたので、葵も慌てて頭を下げる。

 オリーブ色が混じったような褐色の髪と淡く澄んだ複雑な色の瞳。三十代とも五十代とも見えるその面貌は彫りが深く、外国の血が混じっているのは一目瞭然なのだが、国籍も年齢も不詳で謎の人物だと、周りからは聞いている。

 葵は会議でしか顔を合わせることはないが、会えばにこやかに挨拶を返してくれるし、若輩な葵に対しても紳士的な態度を崩さない人なので、謎な人とはいえ好印象を持っていた。


 ――でも、どうして、こんな所に……?

 混乱する葵を面白がるような目で見て、西條はクスリと笑う。すらりと背の高い全身は完璧なギャルソンスタイルである。濃茶のロングサロンをしっかりと巻いた彼は、侑司に向かって「さぁどうぞ。こちらです」と優雅にエスコートした。

 どうやら向かうのは店の最奥にある木の扉、侑司も西條の後を戸惑いなくついていく。扉の前で侑司は止まり、葵を先に入れた。そして促されるままに、狭くわずかに軋む階段を上がり、葵はまたもや驚きで息をのんだ。

 ――階上にも、素敵な空間が広がっていた。

 階下が、「若く」て「清純」で「爽やかな」印象を受けるとすれば、二階は「古く」て「熟された」色合いの、「ヴィンテージ」を感じる空間であった。

 板張りの床も太い天井の梁も、テーブルも椅子も、艶やかな濃い色味の木材でできており、床を鳴らす靴音が深く響く。

 一方の壁際に古びたカウンターバーがあり、雑多な種類のワイン瓶が棚や木箱へ無造作に突っ込まれていて、本物なのかレプリカなのか大きな木樽まで置いてある。

 カウボーイブーツにウエスタンハットのおじさんが、拳銃お腰に出てきてもおかしくない……葵は茫然と思った。


「今日の昼のご予約は、あなた方だけなんですよ」

 誰もいないフロアの、中ほどのテーブルへ侑司と葵を案内した西條は、完璧なタイミングで葵の着席を補佐する。

 ……予約? ここを?

 思わず目の前の上司を見上げれば、彼は素知らぬ顔で店内を見回している。

 西條はクスクスと堪え切れぬように笑みをこぼした。

「どうぞ、お寛ぎください。今、担当コックを連れて参りますので」

「担当……コック、ですか……?」

 葵に向かって小さくウインクをした西條は、それ以上の説明をすることなくカウンターバーの柱の奥へ消えてしまった。


「あ、あの……ここは……」

 助けを求めるように侑司を見れば、葵を見ていたらしい彼はすっと目を伏せた。

「西條さんがプライベートでオーナーを務める店だ。……大学の時、俺がバイトをしていた店でもある」

「え……! ここで、ですか?」

「まぁ、主に一階担当だったんだが……ああ、下はカフェ、というかブラッスリーに近い。食事もできるし酒も飲める。もちろん喫茶だけでも楽しめる。テイストはフレンチに近いが、客の要望でメニューもころころ変わる。というより、グランドメニューに載っていない料理を出すことの方が常だった。……今はどうだかわからないが」

「そう、なんですね……素敵なお店……」

 唖然としたまま呟いた葵の言葉を、侑司は何気なく拾ってくれる。

「ここは元々、西條さんの親しい人たちだけのために開いた店なんだそうだ。それでも口コミで広がってずいぶん客層は広がっているようだな。……俺がいた頃より、繁盛しているらしい」

 静かな声で淡々と話す侑司の表情が、どことなく柔らかい。きっと学生時代のアルバイトは懐かしくも貴重な経験だったのだろうと思えた。葵にも同じような経験があるので、その感覚はよくわかる。


「この二階も下と同じなんですか? ずいぶん雰囲気は違って見えますけれど……」

「ああ……ここは、また少しニュアンスを変えていて――」


 ――とその時、コツ、コツと、のんびりした足音をさせて、その人は姿を現した。


「――やぁ、久しぶりだなー。侑司くん、葵ちゃん。よく来たね」


 散々驚かされた挙句の、これ以上ないほどの驚き。

 懐かしい真っ白なコック着姿を目にした瞬間、葵は思わず椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がってしまう。

 ――ドッキリ、じゃないよね……?


「おやおや、ビックリさせてしまったかい? 葵ちゃん、ずいぶん大人びたなー」

「……濱野さん……」

「そんな泣きそうな顔をするなよ。幽霊じゃないぞ?」


 悪戯っぽくキラキラとした瞳も、小粋に見える口髭もそのままに、かつてお世話になった濱野哲矢がそこにいた。

 ずいぶん痩せたな、と感じた。前よりかなり短く刈り込んだ髪は、以前は一本も見られなかった白髪がだいぶ増えている。それでも、濱野哲矢は昔とまったく変わらない優しげな笑みを浮かべていた。


「ほらほら葵ちゃん、座って座って。君は今日、僕のお客様なんだ。まずは腹ごしらえをしてもらうよ。……侑司くん、ここのシステムは教えたのかい?」

「いえ、まだ。濱野さんにお任せしますよ」

「はは、何とも “お優しい” ゲストだな。では、葵ちゃん。何かご要望はあるかな?」

「え? えっと……?」

 訳の分らぬまま混乱しきりの葵に、ちょうどお冷とおしぼりをサーヴしに来た西條が心得たように説明する。

「この “二階(プレミア)” にはメニューがないんです。担当コックがお客様だけのために、世界で唯一の料理を作ります。何か食べたい料理や食材がありましたら遠慮なくお申し付けください」

「あまり豪勢なものを期待されちゃあ困るんだけどね」


 楽しげに笑うコック濱野氏と、穏やかに微笑するギャルソン西條氏。

 葵はクラクラめまいを感じつつ、「お、お任せします……」と答えるのに精一杯であった。

「そう言うと思ったよ。では、僕にお任せあれ」

 白いコックコート姿の濱野氏は、おどけるように丁寧にお辞儀をして、笑った。



 それから、侑司と二人っきりの食事が始まった。

 最初にドリンクがサーヴされ、侑司は炭酸水を、葵は食前酒を振舞われた。

 カクテルグラスのその一杯は、鮮やかなピンク色をしており、口に含むと馴染みのない甘酸っぱさが広がる。が、ふわりと鼻に抜ける独特の香りがどこか懐かしい気もする。

 不思議な味にまじまじとグラスを覗き込んでいると、侑司が貸してみろというように手を出すのでグラスを手渡した。侑司はグラスをすっと鼻先に近付けただけで、すぐに葵へ返し「……焼酎、じゃないか?」と言った。

「焼酎……ああ、この香り……!」

 そこへ再び、タイミングよく前菜を運んできた西條が「わかりましたか?」とにこやかにほほ笑んだ。

「本来は胡麻焼酎で作るカクテルなんだそうです。けれど、水奈瀬さんが大の “芋好き” と聞きまして、僕なりに芋焼酎でアレンジしてみました。甘すぎませんか?」

「はい、すごくさっぱりして美味しいです。焼酎ってこんな飲み方もできるんですね」

 感心する葵の様子に、何故か西條は嬉しそうに侑司を見る。侑司はむっつりとフォークを手に取り、低く唸るような声で「いただきます」と言った。


 前菜は、ジャガイモのキッシュと魚介のマリネサラダ。

 侑司が大ぶりのエビをしばし眺めて口に放り込んだのを見て、葵も「いただきます」とさっそく、白い小さな船型ココットにフォークを差し入れた。

 卵とチーズとジャガイモ……懐かしい味。

 これは……と、葵が味覚の記憶を引き出そうとすれば、侑司がぼそりと呟いた。


「……濱野さんとは昔からの知り合いで、ずいぶんお世話になった……高校の時、少しだけだが『敦房』でアルバイトをさせてもらったこともある」

 ぐふっ、とジャガイモがのどに詰まりそうになった。

「――『敦房』で、アルバイト、ですか……っ? 黒河さんが……?」

「ちなみに、濱野さんは若い頃、『櫻華亭』でコックをしていたことがある。――うちの父親と同期だそうだ」

「……そ、んなことって……」


 今日は一体、どれだけ驚かされればいいのだろう。

 唖然と固まる葵の目の前で、侑司はよどみなくフォークを操りながら、ぽつぽつと話を続けた。


 若かりし頃――まだ、クロカワフーズ設立前の頃――『櫻華亭』のコックとして腕をふるっていた濱野哲矢氏は、三十歳になる前に自分の店『敦房』を開くため『櫻華亭』を辞めたが、それからも侑司の父である黒河紀生とは何かと交流があり、侑司も幼い頃、オープン間もない『敦房』に連れてきてもらったことがあるそうだ。

 そんな縁もあって、高校二年の途中から卒業するまで、『敦房』の調理補助をさせてもらった。大学進学後のバイト先に、ここ『Mélanger(メランジール)』を紹介してくれたのも濱野氏だった。

 その後、ずいぶんご無沙汰となってしまったがつい最近再会し、ちょうどここのコックが一人辞めたことを知っていた侑司は、体調さえ悪くなければ『メランジール』でリハビリしてみてはどうか、と勧めたという。


 初めて知る驚きの事実に、葵のフォークは完全に止まってしまった。

 ――まさか自分がアルバイトでお世話になった『敦房』で、この上司もアルバイトをしていたことがあったなんて。

 ――その『敦房』のオーナーである濱野哲矢氏が、かつて『櫻華亭』で働いていたことがあったなんて。

 アルバイトをしていた頃はもちろん、店をたたみクロカワフーズに売却することが決まってからも、葵はそんな話を聞いたことがない。葵の就職先がクロカワフーズに決まった時も、濱野氏はクロカワフーズや『櫻華亭』について、詳しい説明をしなかった。

 驚きと混乱のあまり声も出ない葵に、侑司はさりげなく言い添えた。

「別に隠していたわけじゃないと思う。濱野さんが『櫻華亭』を辞めたのはずいぶん昔だ。時代が変われば会社も変わる……余計な先入観を与えて、水奈瀬を混乱させたくはなかったんだろう」

 侑司の言葉に、お世話になった濱野氏の人柄が思い返される。

 優しく思いやりに満ちた人だった。葵が病んだ時も、美津子夫人とともに温かい手を差し伸べてくれた。自分のことより、葵や遼平の行く先を親身になって考えてくれた。

 侑司の言う通り、葵のためにあえて言わなかったことは容易に想像できる。

「……そう、ですよね……そう思います。……私、濱野さんに会うの、本当に久しぶりなんです。何年振りだろう……遼平から退院したことは聞いていたのに、ずいぶん不義理をしちゃいました。……あ、うちのりょ、矢沢は、濱野さんの甥っ子なんです」

「ああ、聞いている。矢沢の母親が濱野さんの妹さん、なんだってな」

 静かに答える侑司を見て、そう言えば、いつだったか遼平を見て「濱野さんに似てるな」と言っていたことがあったのを思い出した。そっか、知っていたのか……


「元気になってくれたんですよね……良かった……」

 だいぶ痩せてしまったように見えるけれど、キラキラと悪戯っぽく光る瞳も、穏やかで包み込むような笑みも昔のまま。白いコック着に白いサロンを巻いてコック帽を被り、またフライパンを握っているのだ。

 驚きが少しずつ薄れれば、胸中に広がるのは晴れやかな安堵感。

 葵は、持っていたフォークを置いて、きちんと座りなおした。

「……あの、黒河さん。ありがとうございます。……今日ここに、連れてきてくれて」

 たぶんこの人は、葵がどれだけ濱野夫妻に心配をかけたか、そして葵がどれだけ濱野夫妻を慕ってきたか、ちゃんと知っている。――だから、連れてきてくれたのだ。

 侑司は、ほんの少しだけ眉をピクリと上げて、そして透明の気泡が上がるコリンズグラスの中身を一気に飲み干した。

「……しっかり味わえよ」

 不機嫌そうな声が何だかこそばゆくて、葵はくふふと忍び笑った。


 前菜の次に出てきたのは、カリカリのチーズラスクが添えられた熱々のコンソメスープ。どこか懐かしさを感じる奥深い味を堪能し、次いで出てきたメインディッシュに、葵は思わず「きゃあ!」と飛び上がりそうになった。

 大きめの白く丸いプレートにお行儀良く盛られた、馴染み深い大好きなアイテムたち……艶やかなドミグラスソースがかかったミニハンバーグ、高く盛られたトマトソースパスタに大ぶりの海老フライが立てかけられて、真ん中にはミニトマトとマッシュポテトで作られた小人が、ウインナーとウズラ卵で作ったライオンと仲良く寄り添っている。


「―― “大人の” お子様ランチ、でございます」

 西條マネージャーは、三ツ星フレンチレストランのメインをサーヴするかのように、(うやうや)しくその一皿を置いた。

 興奮と感激のまま侑司を見上げて、葵は息をのむ。

 目の前に置かれた皿を心底驚いたように凝視している侑司が、葵の見ている前で、ふわりと溶けた――

 柔らかく笑んだ彼の表情に、何故か、締め付けられるような切なさを覚える。

「……黒河さん……」

「……ああ、すごいな。……いただこう」

 そして、二人は “大人のお子様ランチ” を味わった。


 侑司と葵は、黙々と食べ進めた。

 ふっくらとしたハンバーグの一片を口に入れた時、葵は侑司の切ない笑みがわかる気がした。

 だって、この味は『敦房』の味、濱野さんの味だ――

 思えば、前菜に出たキッシュも、チーズラスク付コンソメスープも、『敦房』ではお馴染のメニューだった。お子様ランチは正式なメニューになかったけれど、子供連れが来ると濱野シェフはよく作っていたものだ。必ずミニトマトの小人を添えて。

 侑司が、パセリをあしらったバターライスの小山の頂上から、《Mélanger》とカリグラフィックに書かれた小さな旗を抜いた。


「……昔、まだ小学生にもならない頃……『敦房』に初めて連れてこられて、出されたのが “お子様ランチ” だった」

 長い指で小さな旗を皿の端に置き、侑司はバターライスの山にスプーンを差し入れる。

「……今まで食べたどんな高級料理より、美味いと、思った」

 そう言って、侑司はバターライスを頬張った。

 その瞬間、目の前の端然とした偉丈夫が、無垢で繊細な少年に見えた。

 老舗洋食屋の息子……天才と呼ばれた祖父、父、そして、兄。――期待とプレッシャー、偏見と重圧の中で、それを一心に乗り越えてきた人。

 この人にとっても『敦房』の味は、忘れることのできない “大切な味” なのだ。


「あの、私も……濱野さんの料理が、大好きでした」

 言ってすぐに、こんなことしか言えない自分が情けなく思えた。

 それでも、目の前の侑司は、小さく笑ってくれた。





 

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