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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第2部
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第3話   パーティーへ、GO!

 九月の最終水曜日――高い青空に薄く刷いたような筋雲、気持ちのいいすっきりとした秋晴れである。

 今日の良き日に行われるのは、クロカワフーズの『紫櫻庵』現料理長、黒河和史と、経理の宇佐美奈々の結婚披露パーティー。只今時刻は午後三時……もうすでに開宴し、宴たけなわ、といったところだろうか。

 差し込む陽光を眩しそうに反射する遠くのビルを車窓より眺めながら、葵はハフと大きく息を吐いた。


 平日水曜日に行われる結婚披露パーティーは、今日が定休日でない『櫻華亭』ホテル店舗の従業員も時間差で出席できるよう、パーティー開始が二時、お開きは六時頃、と一般的な宴会時間よりも長く設定されている。

 ランチタイムに出勤してからパーティー会場入りする者と、パーティーを楽しんでからディナータイムに出勤する者を分けて上手くシフトを組めば、ホテル店舗の社員も分け隔てなく楽しめる、というわけだ。ホテル店舗ではない『櫻華亭』本店や松濤店、麻布店からも多少のヘルプを回すらしく、ここまでくると結婚披露パーティーへの参加はほぼ強制、ともとれる手回しの良さであった。

 ともあれ、葵の属する『アーコレード』にはヘルプ要請もなく、開宴からお開きまで好きなだけパーティーを楽しんでいい立場だったのだが、なんと前日になってアクシデントが発生し、今こうしてやむなく遅刻せざるを得ない事態に見舞われているのである。


「――しかし、タイミングが悪かったな。いきなり故障なんて」

「でしょう? もう、何でよりによって昨日の夜なんだろ……しかも電気屋さんってば、今日の昼過ぎからしか伺えません、とか言うし……ホント参った」

 溜息交じりで葵が言えば、運転席でステアリングを操る兄、水奈瀬蓮は、前方を向いたままくつくつと喉の奥で笑う。

「で? 明日からの業務に差し支えはあるのか?」

「うーん、とりあえずアイスクリームの最終仕込みが二日前で、シャーベットが昨日の朝だから、少なくとももって三日から一週間、ってところかな……氷菓の注文はまだまだ多いしね。……コースのデセールはムースでいけるんだけど、単品オーダーが入ったら出さないわけにはいかないし……」

「修復の見込みは?」

「電気屋さんがいうには、あれ、イタリア製で、部品とか中のモーターみたいなものも日本の物とは規格が違うんだって。修理をするなら、製品の販売会社か直接メーカーに問い合わせるしかないって。……まぁそりゃそうなんだろうけど。保証期間なんかとっくに過ぎてるし、もしかしたら新しいのを買った方が安くつくかも」

 葵はこれで何度目になるのか、大きな溜息を吐く。


 昨夜の突然のアクシデントは、アイスクリームメーカーの故障。アイスクリームとシャーベットの氷菓が製造できる、業務用の厨房小型機器だ。

 特に乱暴な使い方をしていたわけではないが、このアイスクリームメーカーは慧徳学園前店がオープンする時、渋谷店のおさがりをいただいたものなので、いい加減寿命が来ていたのかもしれない。昨日の朝から調子の悪かったアイスクリームメーカーは、その夜、変な音だけを出しながら全く回転しなくなってしまった。

 『アーコレード』で出す氷菓は、『櫻華亭』で出されているものとほぼ変わりがない。季節ごとに変わるレシピは『櫻華亭』本店のみにいる専属のパティシエが練案し、その都度『アーコレード』にレシピが下ろされて、コストや作業工程の調整をした後、店舗ごとに仕込みを行うのだ。

 十月に入れば、栗の実をふんだんに使ったマロン・アイスクリームを予定しているので、ここでアイスクリームメーカーの故障は痛い。

 よって葵はすぐ昨夜のうちに、懇意にしている電気屋へ連絡したのだが、なんとその電気屋の都合で伺うのは今日の昼過ぎ以降になるという。パーティー遅刻も仕方あるまいと、その時間でお願いしたはいいが、結局は修復の目処も立たぬまま――、……溜息も吐きたくなる。


 ただラッキーだったのは、昨夜帰宅後たまたま兄から電話があり、赫々(かくかく)云々(しかじか)と事の顛末を語った葵に、『明日、会場まで送ってやろうか?』と嬉しいお言葉をいただいたことだ。

 偶然にもパーティー会場のレストランは、蓮が勤める『SIGMA SPORTS』本社ビルと同じ、東京湾岸エリアにある。今日は朝から小売店への顔出しだとか何とかで、本社へは午後出勤するつもりだった兄にとっては、葵を会場まで送り届けることくらい造作もないことらしかった。

 時間的に間に合わないのは諦めたが、()いた気分で電車を乗り継ぎ会場に向かうことを考えれば、この申し出はありがたい。まして、パーティー用に装った非活動的な格好なのだから尚更だ。

 かくして、昼過ぎに店へやってきた電気屋に(華々しい格好の葵を見て電気屋のおじさんはギョッとしていたが)、アイスクリームメーカーを診てもらった後、店まで迎えに来てくれた蓮の運転するステーションワゴンにこうして乗りこむこととなったのだ。


「――で、あいつには連絡したのか?」

「あいつ?」

「お前の上司(、、)だよ。店の異常事態を上司に報告するのは当然だろう?」

 イヤーな感じで口端を上げた兄の横顔に、葵は「一応、した、けど……」と口の中だけで返す。すると、「そうか。ホウ・レン・ソウ、は重要だもんな」などと如何にも意味ありげに言う。

 途端に居心地の悪くなった助手席で、葵は結い上げた髪の後れ毛を気にするかのようにして兄から顔をそむけた。

 やっぱり……葵は心中で冷や汗を吹き出しながら頭を抱える。

 たぶん、おそらく、十中八九……いや100%、蓮は気づいている。

 ――葵の中に芽生えた、恋心に。


 先日、久しぶりに旧友の青柳麻実と充実した楽しい休日を過ごした葵だが、そこで麻実から聞かされたいくつかの情報――伸兄は葵の気持ちに気づいてたっぽいよ、とか、それなら蓮さんも気づいてないわけないよね、とか――に、葵は当初「まさかね」と半信半疑であった。

 だが、どうやらそれは楽観視し過ぎだったようだ。

 葵自身、ようやく自覚したばかりの恋心である。当然誰にも(麻実を除く)明かしたつもりはない。兄はいつどこでどう気づいたのだろう、さっぱりわからない。

 しかし、自分からそういった恋バナ的な話題を振るのはどうにも苦手で、 “知られていることに気づかないフリ” をしてしまう。

 できることならそっとしておいてほしい……自分はやっとのことで立ち上がったばかりなのだから。


「……へぇ、この辺はよく知らなかったな。意外と商業施設も揃っているじゃないか。……この道の向こう側なんか居住地区だもんな」

 ソワソワ悶々と落ち着かない葵の隣で、いっそ呑気なほどに蓮はステアリングを操り、ちらちらとカーナビを確認しながら、迷うことなく幹線道路から細い脇道へと車を入れる。

 会場のレストランは最寄りの駅から徒歩数十分の場所にあって、少しわかりにくいと聞いていたがどうやら迷うこともなさそうだ。……兄様、カーナビ様、である。

 入り組んだ住宅区画を右へ左へ曲がりながら、程なくして、白いステーションワゴンは緩やかな坂を上り切った場所で停まった。

 目に映ったのは四角い箱のようなモダンな外装の建物。一見、レストランには見えない建造物だったが、門の前に着飾った女性が立っているのが見えた。どうやら会場はここで間違いなさそうだ。

「あ……、あれ、木戸さんだ」

 ふわりとした薄桃色の後ろ姿は、見知った女性のもの。

「ん? 知っている人か?」

「うん、同僚の人。蓮兄ありがと、助かった」

 蓮がシートベルトを外してくれたので、ショールを羽織り直す。

「帰りはいいのか? ……って言っても、俺も夜は遅くなりそうなんだけどな」

「うん、大丈夫。ちゃんと電車で帰るから」

「わかった、気をつけてな。――ああ、葵」


 助手席から降りてドアを閉めようとした時、呼び止められた。忘れ物?と、葵が車内を覗き込めば、ステアリングに手をかけたまま兄はすっと目を細める。

「我が妹ながら、なかなかいい女っぷりだ。そのドレス、似合ってるよ」

「! ……からかってるの?」

 柄にもない甘いセリフに、これまた柄にもなく反応してしまって、赤らんだ頬を誤魔化すように兄を睨む。

 今日着てきたドレスは、麻実と一緒に出掛けたショッピングモールで見つけたものだ。モカ色のスリーブレスワンピースで、肌触りのいい光沢のある生地が気に入って購入した。さすがにこの時期の肩むき出しは寒々しいので、薄地のストールを羽織っている。

 そりゃあ、滅多に着飾る機会もない自分としては、朝早くから美容院でヘアセットまでしてもらい頑張ったつもりだ。しかし、兄から “いい女” 認定されるほどのものではないことくらいわかっている。

 美辞麗句が不服な様子の妹に、蓮はさもおかしさを堪え切れないようにくつくつと笑う。


「男はな、そういういつもと違う姿にソソられるもんなんだよ。ま、お前には難解すぎる話か。……じゃ、黒河によろしくな(、、、、、、、、)

「……っ!」

 渾身の力を込めてドアを思いっきり閉めれば、その横顔を高笑の形にしたまま蓮は車を発車させた。

 ふんと背を向け足取りも荒く、葵はレストラン会場の敷地内へと向かう。

 ――何アレ何アレっ! あの口ぶり、あの笑い……!

 葵の気持ちを知りながら、あえて真っ向から突っ込んでくることはせず、小さく脇から(つつ)いてその反応を楽しんでいる。

 我が兄ながら、何て性格の悪い……!

 着飾った淑女とは思えないヒール音を、アスファルトに叩き付けながら門まで進めば、一人ぽつんと佇み建物を見上げる木戸穂菜美が振り返った。

「……あ……」

 迷子の子犬のような彼女の表情に、葵の怒りは瞬く間に蒸発する。

「――木戸さん! お疲れ様です!」

「……水奈瀬さん……」

 葵とわかるなりホッとした彼女は、どうやら一人で中へ入るのに躊躇していたらしい。

「木戸さん、今いらっしゃったんですか?」

「……ええ。ランチだけ、出勤で……」

「大変でしたね。お疲れ様です。……わぁ、そのドレス、すっごく素敵です。木戸さんにバッチリ似合っていて、お姫さまみたい」

 にっこりと笑った葵に、木戸はぎこちない笑みを返した。

 グランド・シングラー赤坂のアテンド、木戸穂菜美は葵の二つ年上なのだが、社歴で言うと葵の方が一年先輩になる。どこか危うい弱さというか(もろ)さを、絶えず身にまとっているような女性で、普段から面と向かっても彼女の瞳はたじろぐように彷徨い、あまり葵のそれとしっかり合わない。だからなのか、いつも自信がなく暗い印象がある。

 今日の彼女は、薄いピンク色のふわりとしたレース感たっぷりのドレスで装っており、まるで絵本から抜け出してきたプリンセスのように可愛らしい。

 こんなに可愛らしく綺麗な人なのに、ちょっと勿体ないな……と思う。陰鬱さを消して笑顔になれば、もっともっと魅力的なのに。


「さ、木戸さん、中に入りましょう」

 そんな木戸穂菜美を促して、葵は外門の中へと足を踏み入れた。

 四角い箱のようなそのレストランは、入口正面から見るとエントランス部分以外はのっぺりとした一面の濃グレー色の壁だ。海外にある小さな美術館のようなモダンを感じさせながら、どこか閉鎖的な印象もある。駅や大通り、繁華街からも相当離れており、ここを目的として来なければ、ここがレストランだとは一見わからないだろう。外観のどこにも、レストラン名が掲げられていない。

 しかし、エントランスから一歩内部へ足を踏み入れた瞬間、その印象はがらりと変わる。

 四角い箱のようだと思われた建物は、実はコの字型の造りらしい。建物の凹の部分が大きな中庭となっているようで、そこに面する壁はすべてガラス張りだ。上階もあるようだが一部を除きすべて吹き抜けになっているので、内部は驚くほどの解放感である。高い天井から大小さまざまな形の電球が、高低さまざまに吊るされており、陽が落ちればさぞかし幻想的な雰囲気が演出できるのだろうと思わせた。

 その広い店内は今、相当の人でごった返している。華やかに着飾った女性や、びしっとフォーマルスーツに身を包んだ男性の中にも、見知った顔がちらほらと見受けられた。


「えっと……まずは受付をしなきゃ、ですよね。受付って牧野さんなのかな……、どこにいるか……」

 エントランス付近の人混みを抜けつつ、葵は亀のように首をのばして巡らせる。すると目を見張るような艶やかさの女性が、小走りに葵たちのもとへやってきた。

「――葵ちゃん! やっと来た!」

 よく通る声を響かせたのは牧野昭美(はるみ)――『アーコレード』渋谷店の店長で葵の良き姉にして良き相談役、尊敬する大先輩である。

 彼女が身にまとっているのは極薄の黒生地が重なり合ったロングドレスなのだが、太腿あたりから薄らと御美脚(おみあし)の色が透けて何ともセクシーだ。緩く巻いた長い黒髪をゴージャスにアップしている。


「まぁ! 葵ちゃんたらいいドレス選んだじゃない! すごく似合ってる。今、みんなで心配していたところよ。迷わず来れてよかったわ。木戸さんも素敵ね、とっても可愛いわ。二人とも今日はお疲れさまね。……さ、いらっしゃい。受付はこっちなの」

 今日のパーティーの幹事は、牧野夫婦である。(牧野昭美の夫は『櫻華亭』麻布店の現チーフだ)

 てっきり新郎と付き合いの長い杉浦崇宏が請け合うのかと思っていたのだが、彼は親戚枠として出席するため、その大任を牧野夫婦に託した(押し付けた)らしい。

 ただ、幹事と言っても司会進行役は他に用意され、店の手配や事前準備はほとんど会社側が受け持ってくれたので、それほど忙しいことはないと言う。

 エントランスと店内の境に設置された受付台まで二人を促し、牧野女史は葵と木戸から受け取った会費を受付係の女性に渡した。

「葵ちゃん大変だったわね、アイスクリームメーカーが故障だなんて。それって渋谷(うち)のお古でしょう? あげた時はそんなに使い古した感じではなかったんだけど……結構ガタがきていたのかしら」

 出席者名簿にチェックが入れられるのを確認しながら、牧野は申し訳なさそうな声を出す。葵は慌てて首を振った。 

「そんなことないです。今までは何の問題もなく使ってたんですから。今年の夏はかなり氷菓のオーダーが多かったので、アイスクリームメーカーにも限界が来ちゃったんですよ、きっと」

「あっはは……そうね、機械だって疲れるわよね。――さぁ、行きましょう。一通りスピーチも終わって、ちょうど今はご歓談タイムなの。今日のパーティーは全然かたっ苦しくなくて自由な雰囲気よ。新郎新婦も勝手気ままに動き回ってるわ」


 牧野女史にパーティーの流れを簡単に説明してもらいながら、葵は及び腰の木戸の手を引き、店内へと足を進めた。

 多くの人で賑わう広い店内は、中央にいくつかの料理テーブルが配置しており、色鮮やかな花と料理が美しく華やかに咲き乱れている。立食スタイルなので、ゲストは思い思いの場所で飲食を楽しんでいるようだ。レストラン内側にある中庭へと続く背の高いガラス窓はすべて開け放たれて、中庭にも人が賑わっているのが見える。

 時おり同じ会社の顔見知りに声をかけられ、挨拶を返しながら進んでいけば、壁際に沿ったソファの一角から再び「あー! 葵ちゃんだ!」という声が上がった。

 そこにいたのはいつものメンバー、諸岡や大久保、小野寺兄弟だ。


「――おお! 葵ちゃん、すっげーそそるぅー!」 ――カシャ。

「葵ちゃんてばスタイル、チョーいいねー! 激写—!」 ――カシャ。

 『プルナス』広尾店、表参道店の両店長、小野寺双子兄弟がヒューと口笛を鳴らし、同時に葵に向けた携帯端末のカメラシャッターも、鳴らした。

「こら! いきなりピンクい夫婦みたいなことしないっ!」

「ピンクい夫婦ー? 何それー」

「牧野さん、怒った顔もセクシー」

 叱られても全く応えない怖いもの知らずな双子兄弟は、牧野女史にもレンズを向けてシャッター音を鳴らしている。

 どれだけツインズぶりを主張したいのか、今日も二人そろってほぼ同じスタイル……違うのは、胸ポケットのチーフの色とネクタイの色だけだ。


「水奈瀬、心配してたんだよ。店の方は大丈夫だった?」

「よりによってこんな時に、ツイてなかったね、葵ちゃん」

 一方『アーコレード』恵比寿店店長の諸岡良晃と『櫻華亭』麻布店のアテンド大久保恵梨も、口々に労いの言葉をかけて迎えてくれた。

 細身のカジュアルスーツを着た諸岡は、いつもと違う色味がどこかのアーティストっぽく個性的でとても似合っている。隣の大久保は一見シンプルな黒のパンツスタイルではあるが、ホルターネックのトップスは大胆に大きく背中が空いており、目に眩しい。

 職業柄数多くのパーティーを間近で見てはきたが、こうしてゲストとして出席するのは初めてだ。葵は少々面映ゆさを感じながら「ご心配おかけしました」と頭を下げた。

 ――と、小野寺兄弟が二人そろって、葵の背後を覗き込んだ。

「あれー、木戸さんだ。もしかしてランチ出勤だったのー?」

「大変だったねー、ホテル店舗も水曜定休にすればいいのにー」

 小野寺兄弟の、いささかわざとらしく素っ頓狂な声音をかけられて、葵のやや後方にいた木戸は「え、ええ……」と小さく頷いた。

 その時、わずかに変化したその場の空気を察知して葵は、あれ?と内心首を傾げる。が、すぐに大久保が葵の腕を取って促した。

「葵ちゃん、お腹空いたでしょ? 一緒に料理取りに行こう!」

「え、大久保、まだ食べるの?」

「いいじゃん。会費制なんだから元取んなきゃ! あ、坪っち! シャンパンあった?」


 ドリンクカウンターがあるフロア奥の方から、トレーにワイングラスをいくつも乗せてやってくる『櫻華亭』松濤店アテンドの坪井青年。さすがにギャルソンだけあってその所作に危うさはないが、その顔は何とも情けない顔をしている。

「え、ワインじゃないんですか?」「バッカやろう、シャンパンが飲みたいって私は確かに言った」というやり取りで、二人の関係性が偲ばれる。

 葵は振り返り、依然として不安げな様子の木戸に笑いかけた。

「木戸さんも料理、取りに行きましょう?」

「あ……あの、私……ちょっと……」

 瞳を泳がせ、怯えるようにじりじりとその場を後ずさっていく木戸を、背後に回った牧野が、ポンと両肩を叩いて止めた。

「葵ちゃんと木戸さん。先に新郎新婦のところへ挨拶しに行ってらっしゃい。さっきはうちのオヤジどもに囲まれていたけど、もう解放されたでしょ。――大久保は坪っちと一緒に、この二人の料理を適当に見繕ってきてくれる?」

 ほら早く、行った行った!と促され、大久保は一瞬だけキュッと眉根を寄せたが、すぐに小さく肩をすくめて「行くよ、坪っち」と言って顎をしゃくった。坪井青年が慌てたようにその後を追っていく。 

 牧野女史が「さ、葵ちゃんたちも。行っておいで」と優しく促す。

 ふと視線が合った諸岡が、糸目を困ったように下げていた。





 

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