裏1話 杉浦崇宏のセンチメンタルな夜
「裏○話」と言う表記は別視点の意で、レイティング制限がかかる意味ではありません。
都心から郊外に抜ける街道は、少々遅い帰宅ラッシュの名残なのか、テールライトが列をなしている。
渋滞とまではいかずとも時速四〇キロを超えることのない速度での走行は、寝不足の身体に更なる疲労が溜まっていくようだ……といっても運転しているのは自分ではない。
ちらと隣の運転席を見やれば、対向車のライトに仄暗く浮かび上がる無表情な横顔。
鬱屈感など微塵も見せず、前方を見据え片手でステアリングを操っている運転手に、杉浦は気怠げな溜息を吐きつつ、ぶつくさと続けた。
「……だからさー、見切り発車もいいとこなんだってー。まだ料理長だって決まってないんだぜ? 和史はやらないって我がまま言うし、他から引っ張って来るにしても、料理はほぼ和史がプロデュースだろー? 誰が名目だけの料理長になりたがるかっつーの」
隣の男がちらりとこちらへ視線を向けたのを感じつつ、さらに愚痴る。
「俺なんかさ、ディレクターだのスーパーヴァイザ―だの良いように言われてるけどさー、要は体のいい “何でも屋” だぜー? 徳さんや鶴さんが仕切ればいいものをさー、俺を責任者にするってことは、結局自分たちじゃ和史を説得できないから、その説得役を俺に押し付けたんだよー? ったく、あんな頑固者、俺に説得できるわけないじゃーん。くっそー。何でもかんでも俺に丸投げしやがってー」
段々と鼻息が荒くなる杉浦の様子に、隣の男が、ふ、と笑う気配がする。
お前はいいよなー、と杉浦は恨めしげな視線を送るが、男はまったく意に介さない顔だ。
平然としたいつもと変わらない顔をしているこの男も、今回の人事異動によって引き継ぎやその他諸々のクソ面倒くさい作業に追われているはずで、ここ数週間煩雑極まりない思いをしていることは、杉浦も十分わかっている。
それでも八つ当たりしたくなるほど、杉浦はうんざりしているのだ。
「お前からも和史に言っといてよ。言いだしっぺはお前なんだから責任持てってさー」
「……無理ですね」
「何だよ “弟” のくせにー」
三十路過ぎた男が、子供のように口を尖らせ文句を垂れる。そんな杉浦に呆れているのか慣れているのか……黒河侑司は黙ったまま、その瞳に連なる尾灯の赤光を映していた。
四月下旬、時刻はもう二十時を回る頃である。
杉浦は担当店舗の一つ、『アーコレード』慧徳学園前店の引き継ぎを済ませるために、新しく担当となる黒河侑司とともに、未だ交通量の多い夜の街道を走っていた。先週から『アーコレード』渋谷店、恵比寿店と順に引き継ぎを済ませ、残るは今日赴く慧徳学園前店だけだ。
先月末辺りから、杉浦の周辺は俄然、慌ただしくなってきている。
先日行われた総会議にて、正式に洋風割烹『紫櫻庵-SHIOUAN』の新業態展開が発表され、今やそれに伴う人事異動、引継ぎに各店舗がおおわらわであった。
『紫櫻庵』のオープン担当責任者に(ほぼ強制的に)任命された杉浦もその一人で、四月いっぱいで受け持つ担当店舗から事実上完全に離れ、その分『紫櫻庵』の準備にかかりきりとなる手筈となっているのだ。
クロカワフーズは老舗洋食屋『櫻華亭』を源として設立した会社で、その規模はまだまだ極小だが、社全体の売上高はここ数年上がり調子。新店舗も徐々に増えている中、利益も順調な伸び幅で――と、それはこのご時世至極ありがたいことなのだが、杉浦はとにかく声を大にして叫びたい。人員が足りなーいっ!……と。
人材確保に関して、当社が最善の努力を尽くしているのは承知の上だ。毎年新卒も採っているし、中途も随時募集している。だが、今の状況ではどうにもこうにも追いつかない。長く続く人間も多くいるのだが、残念ながら辞めていく人間も、少なくない現状であるからだ。
ひとつには、クロカワフーズの社員育成が相当に厳しいことが挙げられるだろう。
一流のコックと一流のギャルソン、そして一流の経営陣(自分も含めて)が揃っていると業界内でも有名なクロカワフーズである。レベルの高さゆえに個人に求められることも多く、上下関係や規律も厳しく、ベテランの域に到達するのは相当の気力と体力、そして耐力も必要となり、しかも一朝一夕にはいかない。
つまりは、職人意識――コックだけではなくギャルソンにおいても――が強く、その育成法はいわば “修業” に近いものがあると言えるだろう。だから、ついて行けない人間は脱落する。
『アーコレード』は、まだアルバイトを雇っているだけ雰囲気的にも若干緩い感はあるが、それでも社員に対してはクロカワフーズの規範をしっかりと叩き込ませるのがセオリーであり、そこに妥協は一切ない。
クロカワフーズで働く以上、『櫻華亭』という老舗の歴史を受け継いでいく一員として、その誇りと自覚は絶対に欠かしてはならない……そうだ。(杉浦自身、その辺はあまり深く考えず仕事をしている)
しかしながら、ただ厳しいからという理由だけで、ポンポン辞めていくわけないじゃん?というのが、杉浦の密やかな持論である。
残念なことに、こんな小さな会社にも色々あるのだ……しつこく根差す陰湿な蟠り、ほんの一部の人間に蔓延る妬みや嫉み、保身絡みの苛めや裏工作。
せっかく夢や希望を抱いて入社しても、くだらない争いに感化され巻き込まれ、嫌気がさし辞めていった若人も、一人や二人ではないのだ。
人事を司る黒河統括や徳永GMの、厳正かつ鋭敏な人選眼によって、それなりに見込みのある人間が入って来ているのは事実だが、それでもやはり人材不足はなかなか解消されない、ぶっちゃけ厳しい現状なのである。
――労働条件も待遇も悪くはないんだけどねー……近頃の若いモンは堪え性がないっつーかさー……だから俺っちがあちこち駆り出されるんだしー……ったく、ボーナスは弾んでくれなきゃやってられないぜー……ぶつぶつ。
三十五歳という、その場に応じて “若手” にも “古株” にも変化する微妙なお年頃の杉浦は、こうして溜息交じりにグチグチ愚痴ることも多くなった。
デキる男はつらいよ……、ってなもんである。
「あ、そう言えばさー、和史のやつ結婚すんだってー。お前、知ってた?」
「……三日前に統括から」
「え? 和史から直接話ないのー?」
「最近会っていないので」
淡々と答える侑司に、「はは……あっさりしてんねー」と杉浦は呆れた笑いを漏らす。
「和史も淡々としてたよー。昨日偶然本社で会ってさー、超久しぶりだってのに開口一番『結婚するから』ってさらっと言うんだよねー。『今日早番だから』とか『発注済んだから』みたいな感じでサララーっと。別に結婚してもいいけどさー、実際あいつの口から聞くと “結婚” っつー二文字が摩訶不思議な言葉に聞こえるんだよねー」
和史こと黒河和史――侑司の兄である――のお相手は、本社事務経理担当の宇佐美奈々。
杉浦もたまに会えば「ウサちゃん」と呼んで親しくしており、少々天然が入っているが芯の通った可愛らしい女性である。
「大体さー、何もこの時期に結婚しなくてもよくなーい? 『紫櫻庵』オープンまではメニュー考案にかかりっきりだろうしさ、オープンしたらしたで当分家にも帰れなくなると思うよー? 結婚式とか挙げるつもりなのかねー」
「当人たちが何と言おうと、させるみたいです……統括は」
「はは、あの人らしいー」
豪腕と呼ばれる統括部長の頑なさと、実の母親を役職名で呼ぶ隣の男のドライさに、杉浦は苦笑を漏らす。
「結婚式ね……いったいいつするんだろ。ウサちゃん……大丈夫かぁはぁわふ……」
最後は欠伸まじりとなり、杉浦は潤んだ目をしばしばさせた。
連日の寝不足で身体は睡眠を欲しているが、こんな惰性的会話が妙に心地よい。助手席の限られたスペースで、杉浦は腰をのばしコキコキと首を鳴らした。
「あーあー……ウサちゃんもいよいよ人妻かぁ……ウサちゃぁん……ああっ! 籍入れたらもう “ウサちゃん” じゃなくなんじゃんっ!」
しつこく「ウサちゃん」を連発する杉浦に、隣の侑司は僅かに眉を寄せる。
いい歳した大人が、いくらただの同僚とはいえ、ところ構わず “チャンづけ” で呼ぶことに、この生真面目な男は良い感情を持っていない。
不快そうなわずかな色を横目でちらりと確認し、杉浦はフフンと鼻で笑う。
「いーじゃん別にー。俺なりのコミュニケーション法なんだからさー。あ、うらやましい? ユージも呼べばいいじゃーん、アオイちゃ、──ぅおっと!」
――ガックン、と結構な衝撃とともに、シートベルトで縫い付けられた身体が前後に揺さぶられる。
どうやら赤信号らしい。無表情の運転手は素知らぬ顔だ。
――わざとだな。
こんなわかりやすい反応が、この上なく面白い。
杉浦と黒河家の兄弟――和史、侑司との付き合いはかなり古い。
杉浦が小学校三年の頃、同じクラスになった黒河和史の存在を知り、こいつは面白い人間だ、と杉浦にしては珍しく “好意的な” 興味を持ったのが始まりで、それから高等部卒業まで、黒河和史との付き合いは続いた(杉浦が一歩的に付きまとった、とも言う)。その中で彼の弟、黒河侑司とも知り合ったのだ。
高校卒業後、一旦疎遠になったものの、結局三人が同じ会社に勤めるという腐れ縁(杉浦は大学卒業後、別のホテルに就職したにもかかわらず、辞めてクロカワフーズに引き抜かれたという経緯がある)には呆れた。しかも、杉浦の結婚によってこの黒河兄弟と遠縁の親戚になってしまったのだから、もはや奇縁としか言いようがない。
この黒河兄弟は実に興味深い。
歴史ある由緒正しき老舗洋食屋『櫻華亭』を創り上げ守り続けた黒河一家。戦前から戦後の動乱期を乗り越えた曽祖父に始まり、日本経済急成長の波に乗りクロカワフーズという企業を起こした祖父。そして現在、洋食界において一躍その名をカリスマへと伸し上げた父親と、実質経営の采配を一手に担う母親。
実を言えば、黒河家は代々女系が続き、和史侑司の祖父も父親も黒河家の血筋ではない。入り婿にして破格の才能と手腕を惜しみなく発揮できた、いわば非凡人なのである。
そんな傑物らの軌跡を否が応にも辿ることになった、黒河家待望の男子たち。
一部には同族経営だとやっかみや敬遠があるようだが、実際そこには甘さも妥協も一切存在しない。身内だからこその厳しい環境の元、和史も侑司も育ってきた。
兄弟なのに全く違う性分と、やはり血筋かと思わせるような共通する性分。出会ってもう二十年以上経つのに、今でも杉浦は黒河兄弟に “飽きない” 。
観察対象でしかない人間に、興味を持つことはあっても執着は滅多にしない杉浦にとって、黒河兄弟とは、数少ない “友人” と呼べる間柄だった。
ここ数年は、弟の侑司と仕事上の絡みが増えたため、彼と行動を共にすることが多い。侑司の有能な仕事ぶりを目の当たりにするのは、杉浦にとっても小気味よいものだ。もはや “後輩” というよりも、可愛い “弟” として見ている感も否めない。
……そう、黒河侑司はとても、 “可愛い” のだ。
――ほーら、今だって。あーんな顔、滅多に見られないしー。
端正で無機質な横顔に、心なしか憮然とした色を滲ませた隣の男。……ふつふつと湧きあがる杉浦の悪戯心。
黒河侑司という男は、普段、滅多なことで感情を表に出さない。口数も少ないし、目付きは鋭いし身体もデカけりゃ態度も威圧的、おまけに超人的な体力……まるでTがつく某サイボーグじゃん、と、常々思うほど、彼は人間臭さを出さない。
しかし杉浦は、彼が張りめぐらした堅牢な壁の内側を、知っている。
冷たいようで義理固いところもあるし、完璧に見えて生真面目すぎる故の不器用さもある。眼力が強すぎて余計な敵も作りやすいが、一度腹を割って付き合えば、その情と懐の深さを慕う人間も多いだろう。
そんなTのつくサイボーグ―― “Tボーグ侑司” が、ここ数年前からほんの少しずつではあるが、小さな変化が見えてきた。
杉浦のわざとらしくえげつない下世話なからかいに、一見自然に見えそうな不自然さで反応するようになったのだ……ある特定のネタ限定で。
それが面白くてたまらない。
……俺の観察眼と洞察力を甘く見るなよ、ユージくん。
横目で運転手の表情を窺いながら、杉浦の口角はにんまりと上がる。
「いやいや、コミュニケーションは大事だよー、ユージくん。その人となりを見極めるためには、その人間にしっかりと向き合うことが重要なんだなー。ああ、そうそう、この俺が鋭い観察力で分析した上で太鼓判ものの、カッワイイ~部下がいるんだけどねぇー? 真っ直ぐで一生懸命で、飲み込みも早くて要領もよくてさー。裏表がないから上からも下からも慕われるタイプなんだよねー。女性らしく気配りは細やかだし、考え方も柔軟で順応も早いしー、それに何と言っても根性あるしー? 人材日照りの昨今にあって、実にこれからが楽しみな若人なわけよー。わかるー?」
自分でもイラッとしそうなくらいネチっこく言えば、フロントガラスに向いている侑司の眉が不愉快そうに寄っていくのがわかる。
――崩れた。
杉浦は我知らずほくそ笑む。
「まだ聞きたいー? しょうがないなー、俺のとっておき情報教えちゃうー。その子ってばさー、可愛い顔して男前な所もあるんだよねー。十キロの粉袋を平気で抱えたりー、完徹で飲み続けたり―、銀蝿を素手で叩き潰したりー? そうゆうギャップがたまらなく萌えるよねー。仕事できる上に性格良くて顔良くてスタイル良くて……となれば、これはもう鎖つけてでも縛りつけちゃいたいーみたいなー? でも、ちょっと素直すぎるところがネックでさー、こないだなんかどっかの朴念仁に無視されてショック受け――、っおぉわっとっ!」
突然の減速なし左折で、運転席側に飛び出そうとした杉浦の身体がシートベルトに引き戻される。
「ちょっ……あ、あぶねーよっっ! 殺す気かっ?」
その衝撃は先ほどの急ブレーキの比ではなく、さすがに心臓が縮む心地で隣の男を見れば、至極平然とした顔。
「おっ前……今、こっちのタイヤ浮いたぞ……」
「抜け道入ります」
「――入る前に言えって!」
街道から逸れたSUVはぐんと加速して、右へ左へと住宅街を抜け、街道を走っていた時よりも軽快に進んでいく。
ふぅ、と背を落ち着けて、杉浦は内心苦笑した。
そう――ここ数年、これが彼にとっての唯一のウィーク・ポイント。微細な過剰反応、そこを突く得も言われぬ痛快さ。
人間の外皮を被った “Tボーグ” 黒河侑司が、稀に起こすほんの小さなバグ。それによって垣間見える “人間らしさ” 。
──あー楽し。萌え萌えー。
緩む口元を隠すように、杉浦は窓外のぽつぽつと灯る遠くの街灯に目をやる。
このまま快適なスピードで進めば、あと数分もしないうちに睡魔が襲ってくるだろう。侑司の運転は、基本、紳士的でスマートだ(さっきのような例外もあるが)。
目を閉じた杉浦は、心地よく伝わる車体振動に身を委ねた。
――あーあ、『アーコレード』担当、外れたくないなー。渋谷も恵比寿も……慧徳も……楽しい奴ら多かったもんなー……これからだって、ぜぇったいに、楽しめるはずなのに……。
うつらうつらと睡魔に身を浸しながら、柄にもなく感傷的な切なさが湧き上がっていた杉浦であった。
※ 急ブレーキ・急発進は大変危険です。安全運転を心がけましょう。また右折・左折時はきちんと減速もしくは停車して、対向車や歩行者の有無をしっかり確かめましょう。