第31話 夏の夜の宴、閉幕
――女の子の名は、杉浦愛花、という。
なんと、杉浦崇宏の一人娘であった。
一歳を迎えて間もない杉浦の娘は、母親と一緒に、今日の納涼会に参加していたらしい。
しかし、そろそろ帰ろうかと支度を整える間、ほんの一瞬母親が目を離したすきに、娘は忽然と姿を消してしまったという。
焦りに焦った杉浦夫妻と、その場にいた酒に侵されていない正常な頭と身体を持つ数人が手分けして会場内を探しまわる中、捜索に加わっていた侑司と木戸が、機械室脇の細い通路にいる葵たちを見つけてやって来たというわけだ。
その後、葵たちのいる場所へ最初に駆けつけてきたのは、女の子の母親――つまり杉浦の妻――杉浦圭乃だ。
「まなかっ? まなかっ!」と叫びながら、血相を変えて飛び込んできた圭乃は、葵の詳しい説明と侑司の補足を聞いて、ようやく相好を崩した。
そうこうしているうちに、これまた必死の形相となった杉浦もやってきて、葵はもう一度経緯を説明する羽目になり、その結果、杉浦夫妻からダブルで手厚い感謝の意を受けることとなる。
元直属上司杉浦の、無駄に馴れ馴れしい大仰なスキンシップは葵にも免疫があるのだが、奥さんも、だとは思わなかった。
杉浦の妻圭乃は、身体こそ葵よりも小柄だけれど、醸し出すパワーというかその雰囲気は周りを圧倒する力があり、不思議な魅力にあふれた美しい女性であった。
何より、大きな瞳と緩やかに波打つ黒髪がエキゾチックな上、「ありがとう! ありがとう!」と葵の手を握りブンブン振りまわし、挙句には抱きつきながら「 Oh, my god ! Thank you so much ! 」とネイティブ発音で興奮したように繰り返すので、外国の人かと思ったほどだ。
聞けば、彼女は生まれも育ちも血統も純粋な日本人なのだが、海外での留学生活が長かったとか。ずいぶんと大げさなジェスチャーもその影響が抜けきらないせいらしい。
毛色こそ違うものの、似た者夫婦というべきか。……恐るべし杉浦夫妻、である。
ともかくも大事に至らなくて本当によかった、と誰もがホッと胸をなでおろし、これにて一件落着~、と、どこかで拍子木が鳴りそうな和やかな雰囲気の中、葵はハッと思い出すのだった。
「――ああっ! 亜美ちゃんのポーチッ!」
* * * * *
「あの、すみません……わざわざ……」
「いや、構わない」
素っ気なく返された言葉に恐縮しつつ、葵はそっとその横顔を盗み見た。
都心から郊外に下る街道は、お盆明けにも関わらずかなり空いている。軽快なスピードで夜の道を走るグレーメタリックのSUV……この車に乗って送ってもらうのは、もう何度目になるだろうか。
納涼会閉幕――
愛花ちゃん迷子騒動が落着し一行が会場に戻れば、ようやくあちらこちらで片付けが始まり出していた。
そんな中、愛娘を抱っこした杉浦が、何を思ったのか突然振り返って、嬉々として言いのけたのだ。
「アオイちゃん! 今日のお礼と言っちゃなんだけどさー、ユージがちゃーんとアパートまで送ってくからねー。というわけでユージくん、ボクの代わりにしっかりアオイちゃんを送り届けてくれたまえー。あっはっはー」
葵は慌てて「いえ、それには及びません」と首を振ったのだが、妻の圭乃まで「それは安心だわ~! 侑くん、よろしく~」と、歌うように言う。「 “侑くん” ?」と葵が聞き返せば、当の侑司がどこか憮然とした表情だったので、そこは深く突っ込むことができず。
それでもこっそり「大丈夫です、電車で帰りますから」と告げれば、侑司は「いい。送っていくから本店裏の駐車場で待ってろ」と唸るように言い、またもや振り返った杉浦が「うんうん、待っててやってー」と口を出して、何故か「ヒッ」と変な声を出して逃げていった。
そこで初めて葵は、木戸穂菜美の姿がいつの間にか見えなくなっていることに気づいたが、会場内は帰る人々や撤収作業に勤しむ人々でごった返し、とてもじゃないが見つけることはできず。
結局、有耶無耶のままバタバタと帰り支度を済ませ、まだ残っている顔見知りの社員たちに挨拶して回りながら、池谷たちアルバイト四人をタクシーに乗せたところで(なんと杉浦がタクシーを手配し料金まで支払ってくれた!)、降りてきた侑司に捕まり、やや強引にSUVへ乗せられてしまったのだった。
……ちなみに、亜美の化粧ポーチは見つかった。初めに亜美たちが飲んでいたテーブルに寂しくポツネンと置き去りにされていたのを、篠崎が帰る直前に気づいた……というオチである。
サイドガラスに流れていく街灯と対向車のフロントライト。まるで光が生きているみたいに長く尾を引いて飛んでいく。
わざわざ送ってもらうことに申し訳なさは拭えなかったが、こうして侑司の車のシートにすっぽりと収まり、電子線のような光の中をひた走るスピード感がとても心地よくて、葵は完全に身体の力を抜いていた。
「なんか、色んなことがありましたけど、今日は参加してよかったです」
「……そうか」
こうして応えてくれる低い声にも、何故か心が浮き立つ。
「愛花ちゃん……可愛かったですね。杉浦さんのパパぶりも見ることができましたし、奥さんにも初めてお会いできましたし。……あ、黒河さんと杉浦さんの奥さんって、お知り合いだったんですか?」
――と、隣を見上げれば、侑司もちらりと見返し、またフロントに視線を戻す。
「えっと……あの、 “侑くん” って、仰ってたので」と付け加えると、侑司は無表情のまま「はとこだ」と言った。
「はとこ……」
「うちの祖母と、彼女の祖父が兄妹だ。お互い親戚が少ない家系で、住んでいる場所も近かったからな、又従姉と言っても姉弟みたいに育った」
「なるほど……と言うことは……黒河さんと杉浦さんは、親戚になるんですか?」
「広い意味では、そうなるな」
そう言った侑司の横顔が、ほんの少しだけ不満気に見えて、葵は思わず笑ってしまった。
SUVは街道から脇道に入る。住宅街を通りぬけて河を一本越えれば、葵の実家マンションがある妙光台はすぐだ。
今日は実家マンションに送ってもらうようお願いしてある。荷物も置きっぱなしであるし、蓮も萩も葵の帰りを待っているだろう。明日はマンションから店へ出勤するつもりだった。
見覚えのある地元周辺に差し掛かったところで、葵は運転席に向き直った。
「黒河さん。……私、あの人と、会ってみようと思います」
自分でも意外なほど、きっぱりと言い切れた。侑司の肩が僅かに揺れた気がする。が、彼は真っ直ぐ前を向いたままで、SUVはぐん、とスピードを上げた。
シートに押しつけられた身体を起こして、葵は、街灯の光が撫でていく彼の硬質な横顔を見つめた。
「今更会ったところで、過去は変わりません。……でも、きちんと向き合って、話してみようと思います。たぶん、私が知らなかったこともたくさんあって、それは、私が知らなきゃいけないことのような気がするんです。……それに、私も、彼に謝らなきゃならないことがあるから」
一言一言、自分自身に言い聞かせるようにして、葵は告げた。
伊沢尚樹と会う――唐突に明かしたこの意志は、たった今、決めたことだ。決心がついた、というような大袈裟なものではない。するりと自然に、口から滑り出たと言ってもいい。
だからといって、この場の気分だけで軽く口にしたわけではない。
どこに置くべきかずっと迷っていた気持ちが、ストンとあるべき場所へ納まったような気がする。きっと今日、色々あった出来事が大きく背中を押したのかもしれない。
誰にも言えなかった荒唐無稽な幻聴の話を、初めて人に打ち明けることができて、笑われることなく真摯に聞いてもらえた。さらにその後、近寄ることも、姿を見ることさえ怖れをなした幼い子と、触れ合うことができた。
葵にしてみれば劇的な変化だ。驚くべき奇跡に等しい。いつの間にか、自分はここまで変わることができた。
「――ちゃんと会って話をして、引っ掛かったまま置き去りにしてきたものを全部、終わりにしたいんです」
――今なら、きちんとしたクリアな心で、終わらせることができると思う。
すると、不意にSUVのスピードが落ちた。そのまま車は道路の端にすっと停車する。
よく見れば、そこはマンションの近くにある小さな公園の脇だった。葵も子供の頃、よくここで遊んだものだ。今は誰もいない夜の公園に、点在する外灯の光がスポットライトのように落ちている。
侑司は車のエンジンを切った。
ヘッドライトも切ってしまえば、車内は静寂と仄暗さに包まれる。
暗がりの中で、離れた光源に照らされた侑司の稜線がこちらを向いた。
「……知って傷つく事実も、ある。知らなければよかったと、思うかもしれない」
「覚悟しています。それでも、私は知らなければならないんです。……いい加減、現実を自分の眼で見て、自分の耳で聞かないと。……黒河さんが、そう教えてくれました」
「……俺が?」
「覚えてませんか? 『守られてばかりじゃ前に進めない』って、厳しいお言葉」
今となっては懐かしささえ覚える台詞だ。思い返せば笑みがこぼれる。
痛いところを突くようなあの言葉が発せられたのは、まだ侑司が担当になって間もないゴールデンウィーク前のことだった。彼はお店のことに関して言ったのだろうが、あの時どうしてか、自分自身のことを指摘されたのだと強く感じた。
今はもっと素直に、さらに身に染みて、そう思う。
「……私、今までずっと兄や弟に守られてきたんですよね。それはすごくありがたくて、感謝しているんですけど、本当は、私自身が向き合わなきゃいけなかったんです。だから……逃げて隠れて見ないふりをするのは、もう止めにしないと」
すす、と微かに衣擦れの音がした。何も言わない侑司は、フロントガラス越しに何を見ているのだろう。どんなことを思っているのだろう。
馬鹿なヤツだと呆れているかもしれないし、俺には関係のないことだとうんざりしているのかもしれない。でも葵は、どうしても、この思いを侑司に伝えたかった。
思えば、いつもすぐそばに、彼がいた。
店で破水騒動が起こった時、フラッシュバックを起こして一歩も動けなかった自分を、引き戻し叱ってくれたのは彼だ。
伊沢を偶然見かけて動揺した挙句、アクシデントで火傷を負った時も、いち早く気づき手当してくれたのは彼。
深夜の病院でパニックを起こしそうになった時も傍にいてくれた。先日、伊沢が絡む店での乱闘騒動でも、ショックで動けなくなった葵をその背に庇ってくれた。
ここ数か月、葵の周りで立て続けに様々な騒動が勃発したが、何かあるたびに侑司は葵の傍にいた。
当然、恥ずかしいところも情けない部分も見られてしまった。むしろ、四年前から葵を知っていたという。――妊娠のことも、流産したことも。
けれど、彼に対する居た堪れなさよりも、妙に吹っ切れた清々しさの方が強い。たぶん、こうありたいという確固とした輪郭が、自分の中にはっきりと見えるようになったからだと思う。
強くなりたい。凛と顔を上げて、自分の力で前に進みたい。――彼のように。
すべての想いは、そこからなのかもしれない。
過去と向き合ったところで、自分の傷や罪が消えるとは思わない。もしかしたら新たな痛みが追加されるかもしれない。けれど、肝心なことを何も知らないまま、ぶり返す古傷の痛みに怯えるよりかはずっといい。少なくとも、今までより強く真っ直ぐな心で生きていけるような気がする。
葵は今、切実にそうありたいと思う。
「……そのことを、お前の兄貴や弟には言ったのか?」
不意に、侑司が沈黙を破った。葵は大きくゆっくり頭を振る。
「まだ、会う決心がついたことは言ってませんけど、兄は、私が会うと決めたなら反対はしない、と言ってくれました。今の私なら、ちゃんと向き合えるんじゃないかって。弟は……絶対に会うな、って言い張ってたから、たぶん反対でしょうね。でも……今日帰ったら、話してみます」
「萩には黙っておけよ」と兄には言われたが、あれだけ心配されながら、黙って会おうとするのはフェアじゃない気がする。正直に話したところですんなり納得してもらえるとは思わないが。
「……そうか」
侑司の影はそう言ったまま、真っ直ぐ前方を見据えている。動かないそのシルエットを、葵は目を凝らして見つめた。
世界から隔離されたような静寂を、秋虫の鳴き声が遠巻きに囲んでいる。まだまだ先だと思っている夏の終わりは、意外とすぐ近くまで来ているのかもしれない。
「――水奈瀬」
侑司は何かを振り切るように、ギュインとエンジンをかけて言った。
「場所は、俺が提供する」
「――え?」
ぱちくりと瞬いた葵に、侑司はもう一度、どこか不機嫌な口調で言った。
「日時だけ決めろ。決まったらすぐ教えてくれ。あの男と会う場所は、俺が手配する」
そう言うなり、侑司はシフトレバーを下げて車は発進した。
――会う場所を……? 黒河さんが……? えっと……どうしてだろう。
パチクリパチクリ。葵はもう一度瞬いた。




