第28話 葵の傷と罪(罪編)
命の大切さを最初に教えてくれたのは、もちろん葵の両親だ。
動物にも虫にも、花にも木や草にも命はあるんだよ、という月並みな、けれども普遍的な、どの幼子にも刷り込まれるであろう最初の命の教え。
その後成長していく中で、命とはかけがえのない大切なもので決して疎かに、蔑ろにしていいものではない、というその意義を、世間一般並みに知っていった。
そして訪れた “父の死” ――命の終焉を目の当たりにした葵は、生命に対する概念を人一倍繊細に敏感に、人一倍深く理解していると思っていた。
――思っていたのだ……それまでは。
葵が自身の妊娠を知って、真っ先に頭に浮かんだのは “中絶” だった。
本当にどうしようもなかった。就職も決まって、さあこれからという時なのに、ましてその相手とは有耶無耶になったまま連絡も交わしていない。
それがイコール別れ、ということならば、葵はこの先、一人で新しい命を育てていかなければならないのだ。
その事実をどう、兄に知らせるべきか。それはとりもなおさず、どう母に知らせるか――そこに繋がる。
できれば母には知らせたくない……いや、知らせてはいけない。知ればきっと母は東京に戻ってこようとする。せっかく今、母は生まれ育った地で、充実し安定した穏やかな暮らしをしているのに、それを取り上げてしまうことになる。
そうして母のことだ、おそらく自分を責めるだろう。娘の側にいてやれなかった自分を責めて、それがストレスとなり、また病が再発するかもしれない。
それだけは絶対に嫌だ、母に心労をかけたくない。かけてはいけない。
――となれば、一人で誰の手も借りず育てるしかない。
けれども、たった一人で、誰にも知られず子供を産み育てるなんて、そんなことは出来っこない。知識も経験も、お金だってないのに。
――ならば、やはり、葬ってしまうしかないのか。
病院からの帰り道、うだるような夏の熱気が身体に纏わりつき、窒息させるかのようだった。
つわりによる怠さと気持ち悪さに加え、途方もない不安と焦りが一度に押し寄せて、まともに考えることもままならない。
自分の身体に宿ったかけがえのない生命に対して、まるで感慨も喜びも感じられず、葵はどこか無意識に、あたかも不要物のように、故意に消し去る選択までしようとしていた。
そんな追い詰められた葵を、やんわり軌道修正してくれたのは、やはり『敦房』の濱野夫妻であった。
その日の午後、夫婦二人で葵を迎え入れたあと、なんと店を臨時に閉めてしまい、二人は葵と向き合ってくれたのだ。
病院での診断結果だけは伝え、後は口を噤んでしまった葵のその胸の内を読んだように、美津子は「ダメよ」と、優しく言った。
「自分一人で答えを出そうとしてはダメ。これからどうするか、いろんな人に相談して助けてもらっていいの。……お母様には? ……話せない?」
俯いたまま大きく首を振る葵に、美津子はその背を撫でる。
「じゃあ、お兄さんは? ……そう。……じゃあ、せめてお腹の子の父親である彼には話さないと。それは最低限すべきことよ。葵ちゃんが話せないのなら、私が話をしてもいいわ。産むにしても産まないにしても、あなたが一人で背負ってはいけない。……わかるわね?」
「……はい……」
項垂れつつ小さく頷けば、それまで黙って聞いていた濱野哲矢がおもむろに口を開いた。
「……葵ちゃん、知っての通り僕たちには子がいない。だからと言ってはなんだが……君を本当の娘みたいに思っているんだ。……もし、その……事情があって、産むことを悩んでいるのなら……僕たちが力になれないだろうか。君さえよければ、ここで産んで、一緒に育てていくのも構わないんだよ」
そう、濱野氏がゆっくりと噛み含ませるように語りかければ、美津子も大きく頷く。
「そうよ、葵ちゃん。選択肢は一つじゃない。色々あるわ。……そしてあなたは、一人じゃない。一緒に考えましょう……ね?」
ポタリ、ポタリと零れおちる涙を、美津子が優しくタオルで拭いてくれた。
濱野夫妻の言葉で、葵の胸中にどす黒く渦巻く狂気じみた思考は、幾分薄まった気がした。
まだ、産むという強い覚悟はなかったが、少なくとも、自分の身体に宿った小さな命をかき出してしまおうという考えはなくなった。
そうして、葵はようやく、伊沢尚樹と連絡を取ろうと決心した。
あの夜のことを思い返せば、まだ怖い気持ちはあるが、彼を嫌いになったわけではない。
別れてくれ、と言った電話越しの言葉と、好きだ好きなんだ、とうわ言のように繰り返された言葉……食い違う声音が葵の中でぐるぐると乱れ回っていたが、小さな命の父親は彼なのだから、と自分に言い聞かせ、絡みつく不安をどうにか振り払い続けた。
だが、彼の携帯電話は既に解約されてしまっていた。
勇気を振り絞って、彼の住んでいたマンションにも行ってみたが、エントランスに常勤する管理人の話によると、一か月以上も前に引っ越してしまったという。
今更ながら、葵の脳裏にあの夜聞いた留守番電話の声が甦った。
『――引越しの準備はどうですか?』
あの時あの女性はそう言っていた。
それでも、葵は一縷の望みを抱き、彼が勤める『御蔵屋百貨店』へ向かった。
彼に会って、責任を取ってくれなどと迫るつもりは微塵もない。ただ、この身に授かった命のことをちゃんと伝えなければ……それだけの思いだった。
銀座にある『御蔵屋百貨店』に着いた葵は、そこでひとしきり逡巡する。彼の勤める部署が “顧客外商サービス” とは聞いていたものの、それが百貨店内の何階にあるのかさえ知らなかった。
しばらく迷った結果、一階にある総合インフォメーションに尋ねることにした。
煌びやかな照明の下、受付カウンター内にいるのは二人の女性。そのうちの一人が別の客に接していたので、葵はもう一人に声をかけた。
「……あの、こちらの顧客外商サービスというところに、伊沢尚樹さんという方がいらっしゃると思うのですが……」
恐る恐る声をかければ、紺色の丸いブルトンハットを品良く被ったその女性は、綺麗な表情を一瞬怪訝に曇らせ、そして、にこやかに微笑んだ。
「失礼ですが、どういった……?」
僅かに小首を傾げる受付の女性に、葵は慌てて「あ……えっと……い、妹、なんですが……」と、咄嗟に嘘をついた。恋人です、とも言えない。
すると、驚くことにその受付の女性は、まぁ、と目を見開いて、カウンターから出てきたのだ。
「初めまして。私、尚樹さんの婚約者の、小島カオリと申します。今度の急な転勤で妹さんもビックリされたでしょう? でも安心して下さいな、私も今月末にはあちらへ住まいを移して一緒に住む予定なんです。尚樹さんをしっかり陰で支えますから、どうかご心配なさらずに。……この子も、一緒に、ね……」
不自然なほどなめらかな抑揚でそう言うと、彼女は真っ白な手袋で、その身の下腹部をそっと押さえた。
――瞬時に悟る、その言葉と仕草の意味。
婚約者、転勤、引っ越し……そして、この声。――あの、留守番電話の。
絶句したままの葵の前で、受付の女性はまだ何やら喋っていたようだが、その後の言葉は何一つ耳に入ってこなかった。気づけば葵は、静かに一礼してその場を後にしていた。
ああ、そうか……尚樹さんはもう、ここにはいないんだな、と他人事のように思った。
ピンと張っていた心の一線が、プツンと切れてしまったような心地だった。
その数日後、二度目に訪れた産婦人科医院での検診で、葵は総合病院での精密検診を勧められる。聞こえるはずの胎児の心拍が聞こえない――先生はそう言った。
その日のうちに、紹介状を持って『豊城総合病院』へ赴き、再び診てもらった結果は、 “稽留流産” ――母体の子宮内で、胎児は死んでしまったという。
担当の厳格な雰囲気漂う女医先生は、見た目に反する優しい穏やかな言葉で懇切丁寧に、妊娠初期において稀に見られる流産で、母体に問題があることはほとんどない、と説明してくれた。
ただ、まだ子宮内に胎児やその組織が残っていて、放置しておけば進行流産となる可能性が大きく、早めの子宮内除去手術が必要であることも説明された。
けれど、なるほどそうですか、とすんなり納得できる女性が、如何ほどいるというのか。
手術に関する様々な書類をもらい、葵はぼんやりしたまま一階のロビーへ降りた。
途中、何度も人にぶつかった気がする。総合病院の広いロビーはかなり混雑していたようだが、受け付けに呼ばれた記憶も、診察代金を払った記憶もない。『豊城総合病院』から、どうやって家に帰ったのかも、覚えていない。
葵はずっと、死んでしまった小さな命のことを考えていた。
――私のせい……? 妊娠を喜べなかったから? 堕ろすことなんか考えたから……? だから、あなたは、いなくなっちゃったの……?
何度問いかけても、もちろんそこに答えなど返ってくるはずもなく。
葵は……何だか、途轍もなく、疲れていた――
そして、その二日後だ。
誰にも話せずぐずぐずしているうち、結局兄や弟に全てを知られ、さらに医者の懸念通り進行流産となった。
今まで感じたことのない気が遠くなりそうな痛みの中、無情にも、葵は運び込まれた手術室で麻酔を施されるまで、その意識を保っていた。
だから、全部、鮮明に覚えている。兄や弟のパニックも、吐き気を催すほどの痛みも、息が詰まる苦しさも、すべて。
あれは、自分に対する “罰” だったと、今でも思っている。
せっかくこの世に芽生えた命だったのに、誰からも祝福されず歓迎されなかった。母でさえ、その存在を亡きものにしようと考えていた。――そして、人知れずひっそりと命は尽きた。
もしかしたら最期に、その存在意義としてここまでの痛みを残していったのかもしれない……うずくまり必死に痛みを堪えながら、葵はそう思った。
――だが、本当の罰は、これからであった。
あっという間に手術が済んで、麻酔も短時間で切れて、一泊だけの経過観察入院となった。夜間完全看護の病院では兄と弟も付き添うことができず、葵はたった一人、病室で夜を明かすこととなった。
不思議なことに、手術後つわりはまったくなくなった。下腹部に鈍痛は残っているが、手術前の激痛に比べれば何でもない。
すっきりしすぎて、身体の中が空っぽになった気がしていた。
そんな葵が消灯後、ぼんやり横になっていると、ふと耳に微かな声が聞こえた。
猫が鳴いているような、赤ん坊が泣いているような、小さくて途切れ途切れではっきりとは聞こえないが、確かにどこかで泣いている。
初めは気にすることもないと、寝返りを打って目を閉じたが、それは一向に止む気配がない。
病室の外から、まるで風に煽られているかのように強弱をつけて、か細く震えるように、何かに縋りつくように、止めどなく聞こえてくる。
布団を頭からかぶって、葵は身を縮ませた。
その夜、葵は一睡もできなかった。
* * * * *
「――葵?」
不意にかけられた声で、葵の意識は目の前の現実に戻った。
マンションの和室を掃除していたのだが、いつの間にかぼーっとしてしまっていたらしい。
部屋を覗いた蓮は、珍しくスポーツカジュアルな恰好で、滲む汗をタオルで拭いている。
「蓮兄……あれ? 今日会社じゃなかったんだ?」
「ああ、休みなんだけどな、朝一でどうしても顔を出さなきゃならないイベントがあって、今帰って来たところだ。……お前、昼飯食ったのか?」
「……え? もうそんな時間?」
「外に食いに行くか?」
「……うーん、あるもので適当にすませよっかな。……蓮兄は? 何か作ろうか?」
「ああ、じゃあ頼む」
蓮はそう言って風呂場へ向かった。
外は灼熱の真夏日、締めきっていても、窓の外から微かに蝉の鳴き声が聞こえてくる。
お盆なのに完全な休みはほとんど取れない兄を気の毒に思いつつ、お昼は何にしようかと急いで考える。今日は萩も友達と会うとかで夜までおらず、昼食についてはまったく考えていなかったのだ。
――久しぶりに、アレかな。
「葵……、明日の納涼会には行くのか?」
「……うん、行こうかな、って、思ってる」
「そうか……」
昼食は、水奈瀬家ではお馴染の、簡単なぶっかけ冷やしうどん。
水奈瀬家では、夏の麺メニューの中でダントツに “うどん率” が高い。
ざるそばよりそうめんより冷やし中華より、ぶっかけ冷やしうどんが好まれ食卓に上がる。幼い頃からそうだった。
湯がいたうどんを冷水でしめ、具を乗せ、だしつゆをダポダポとかける。上に乗せる具材はその時々で違って、納豆キムチだったり青ネギと生卵だったり、天ぷらだったり肉味噌だったり。
今日はあり合わせで手早く作ったため、簡単にハムやキュウリ、トマト、錦糸卵で、冷やし中華風にしてみた。
「明日……黒河さんにちゃんと謝ろうと思って。私、あの人に迷惑かけっぱなしなんだ。……ただでさえ忙しい人なのに、いつもいつも迷惑かけて、おまけに……全部知られちゃったし、ね。……いい加減うんざりしてるかも」
自嘲気味に笑って、葵はうどんをすする。
向かいで同じくうどんをかき込む蓮が顔を上げた。
「葵……、あいつは、知ってたぞ」
「……え? 知ってた、って……」
「前に一度、黒河と飲んだ。……その時、色々話をしてな。四年前、お前に会ったことがあると、黒河は言っていた。妊娠のことも薄々気づいていたらしい」
「……う、そ……」
目を見張った葵をちらと見て、再び蓮はうどんに視線を落とした。
「詳しいことはあいつから聞け。俺が話すことじゃないからな」
「う、うん……わかった……」
「黒河に、痛いトコを突かれたよ。このまま、お前を守るだけでいいのかってな。大事に守って囲って、一生向き合わせないでいるつもりか……なんて、あまりにもズバッと突かれたから思わず手が出そうになった」
蓮は事もなげにそう言って葵をギョッとさせる。が、すぐに「さすがに殴りはしなかったがな」と首を振った。
「……自分のしてきたことを後悔する気はない。葵に黙って相手の男を探したこと、その男に会いに行ったこと……あの時は本当にそうする他なかった。どうしても有耶無耶にすることが許せなかった。……この四年間、それとなくあの男の動向を探り続けたことも、二度と葵に関わって欲しくなかった、それ故だ。……まあ、結果的には全部裏目に出た形となったけどな。……俺は今後もあの男を許すつもりはないし、お前にも二度と会って欲しくない。そう思っている」
「……うん……」
「でもな、お前が会いたいと言うなら……反対は、しない」
「……え……」
「葵の中で、まだ終わっていないのなら……何かを終わらせたいのなら、会ってあの男の口から直接話を聞くのも、有りなのかもしれない。……そう、思えるようには、なった。今のお前なら、過去の傷と向き合えるんじゃないか……と、思う」
そう言って、蓮は麦茶のグラスを手に取り、ごくごくと半分ほど飲んで、一息ついた。そして箸が止まったままの葵を、真っ直ぐ見据える。
「もちろん、会うならそれ相応の条件を出す。二人だけで会うのは当然却下、同席は無理でも近くに待機させてもらう。会話を全て記録させてもらうことも厭わない。少しでも向こうに怪しい素振り、気配が感じられたならその場で即刻中断、以後二度と近寄らないよう弁護士とも相談して――」
「蓮兄、大げさだよ」
本気とも冗談とも取れない言葉に葵が突っ込めば、蓮はフンと鼻を鳴らして再びうどんをかき込み始めた。
「……色々ありがと、蓮兄。ホントに感謝してる。……ごめんね。……いっぱい、心配させたよね、私」
「もう、謝るな。……お前は、ちゃんと乗り越えてきたんだから」
「……うん。……あのね、私……考えてみる。……伊沢さんと、会うこと」
「……」
「……蓮兄?」
「……萩には黙っとけよ。何をしでかすかわからない」
「ふふ……そだね」
一瞬の葛藤は感じられたが、蓮はそれ以上何も言わず、うどんに箸を戻す。
葵も止まっていた箸を再び動かした。
葵自身、伊沢尚樹と会うべきなのかどうか、複雑な感情が絡み合って判断もつかなければ決心もついていない。
ただここ数日間、静かな環境でゆっくりと過ごし、大きく揺れていた心はだいぶ落ち着いた。
過ぎ去ったことは、もう、変えられない。
葵が負った傷も、罪も、消せない事実だ。
ならばもう、向き合ってしっかりと見据え、前に進みたい。
そういう気持ちになれたのは――、きっと、黒河さんが――、
葵は真っ赤なトマトを箸で掴む。
――黒河さんが……、
唐突に心臓の近くがキュウッと締めつけられるような感覚を覚えて、葵は慌ててトマトを口に放り込んだ。……何だか顔が、熱い。
そんな葵をちらと見て、蓮がほんの少し妙な顔をした。




