第3話 無情なり、月会議(四月度)
「はああああ……」
溜息とも唸りともつかぬ声が思わず口を吐き、葵はテーブルにゴンと額をくっつけた。
――緊張した汗かいた疲れた膝震えた精根尽き果てた……
午前の総会議が終わり、これから休憩時間に入るため、周りではスーツ姿の人々がそれぞれ資料を片づけたり外に出て行ったりしている。
ざわつく広い大会議室は先ほどとは打って変わって、葵と同様に解放感と安堵感に満ちていた。
「アオーイちゃーん、そんなに緊張した? ちゃんとできてたよー?」
クククと笑う杉浦の声に葵はむくりと顔を上げ、「同情は要りません」と半眼で睨む。
そんな葵の頭をよしよしと撫でてくれるのは、隣の席に座っていた『アーコレード』渋谷店の店長、牧野女史だ。
「緊張したよねー。今日に限って総師いるし、顧問まで出てきちゃって物々しいったらありゃしない。よっぽど『紫櫻庵』に力入れてるんだろねー。杉浦くんメインプロデューサーでしょ? 大変ですねー」
牧野がからからと笑い、杉浦は顔をしかめる。
「ハルミちゃん、それを言うならプロデューサーじゃなくてディレクターにしといてよ。他人事だと思って余裕かましてると、旦那を麻布店にハリツケにしてやるからねー」
「え、それは勘弁です」
小気味良く返す牧野昭美は三十歳半ばのバイタリティあふれる、いかにもキャリアウーマン然とした女史だ。現在、『櫻華亭』麻布店のサブチーフを務めている夫の牧野晃治と共に、長年クロカワフーズにその身を捧げている。
杉浦より年は上だそうで、立場的に上司である杉浦を、一応は立てているらしい……が、長い付き合いともなれば、掛け合う様子も堂に入っていてお互い容赦ない。
そんな二人を、燃え尽きて頭の中が白炭となっている葵はボケッと眺めていたが、不意にぐいと腕を引っ張られた。
「さ、葵ちゃん、お昼行こ! しっかり食べとかないと、午後会議でまたエネルギー消耗するんだから」
牧野は葵の腕をとって無理矢理立たせ、「はい、ちゃっちゃと行こう!」と鞄やら何やらを葵の手に持たせた。
行ってらっしゃーい、と手を振る杉浦はマネージャー含む大御所陣とまだ打ち合わせがあるらしい。杉浦が戻っていった一団の中には、書類に目を通しながら本店の支配人と話している、新しい担当マネージャー、黒河侑司の姿もある。
葵は牧野に引っ張られて、人気も疎らになった本会議室をフラフラと後にした。
四月の第二水曜日、葵は朝からスーツに身を包み、『櫻華亭』本店の背後にそびえ立つクロカワフーズ本社ビルで行われる月定例会議に出席していた。
クロカワフーズの月定例会議は、大体その月の第二(もしくは第三)水曜日に行われる。これはホテル内店舗を除く、ほとんどの店舗が水曜日定休としているからでもある。
クロカワフーズの経営する店舗は、全部で十一店舗存在する。
メイン事業『櫻華亭』が本店、松濤店、麻布店、赤坂店、日比谷店、汐留店の六店舗。そのうち、後者三店舗が、ホテル内テナント店である。三つのホテルはすべて、シングラ―ホテル系列(米国のFiedeal & Cinglar International Corporation(FCIC)が親会社となる外資系ホテルグループ)だ。そして『アーコレード』が渋谷店、恵比寿店、慧徳学園前店の三店舗。副事業となるダイニング・バー『プルナス(Prunus)』が、表参道店と広尾店の二店舗ある。
定例会議は、これら十一店舗の役職者が一堂に会する場でもある。小さな会社であるが故に、全社員の三割以上が何らかの肩書を持つ役職者となっており、その面々は若手から大御所まで多種多様である。
『櫻華亭』の支配人と副支配人を筆頭に、『アーコレード』、『プルナス』それぞれの店長( “副店長” という役職はない)、各店の料理長、サブチーフ(いない店舗もある)、そしてマネージャー、GM(ジェネラル・マネージャー)、統括営業部長……場合によってはそれ以上の役職(社長、顧問ら)も出席する。
午前中に総会議として、社全体においての経営報告や業務連絡、業種別売上報告などを行い、午後からが店舗会議として、『櫻華亭』六店舗と、『アーコレード』プラス『プルナス』五店舗に分かれて、店舗ごとの月報告から来月の予算や企画、新メニューの起案などについて話し合う。
葵は店長になって二年、こういう会議にもそこそこ慣れてきたと思ってはいたのだが、今日はイレギュラーな事態があり、午前中だけで持っているエネルギーを全て使い果たした気分だった。
まず、今日は会議の初めから、通常とは異なっていた。
先ほど牧野女史が言っていた通り、滅多に会議には顔を出さない黒河紀生総料理長兼クロカワフーズ代表取締役である社長(一部には総師と呼ばれている)が、二名の顧問と一緒に会議開始数分前に入室してきた。そのすぐ後に黒河沙紀絵営業事業部統括部長が、スーツ姿の男子十数名を引きつれて入室。それだけで、場の雰囲気がピッと締まり緊張感を帯びる。
その重々しい雰囲気の中、洋風割烹『紫櫻庵-SHIOUAN』の七月プレオープンに向けて、スタッフ紹介、概要や連絡事項が伝えられた。以前、杉浦がグチグチと愚痴っていた例の新業態店舗である。
かなり急ごしらえの新業態計画であり、しかも老舗洋食屋の看板の元、何故に「割烹」なのか、洋風、とはどういうこっちゃ……と、関係者以外の誰もが大なり小なり感じていたことらしく、その議題の間中、場は隠しきれない困惑や戸惑いに満ちた雰囲気に包まれていた。
葵も、その馴染みない “洋風割烹” というスタイルを理解しようと真摯に耳を傾けた中の一人だ。
かくして、社長直々の言葉で締めくくられたその直後。
これで午前会議は終了か、と誰もが思ったところで、いきなり徳永GMから三月度の売上好成績店舗が数店舗挙げられ、順に企画報告を求められたのだ。
『アーコレード』慧徳学園前店もその中の一つにあり、店長として葵の名が高らかに挙げられた。
まとめてある報告書は事前に杉浦に見てもらっていたし、売上自体は黒字利益を出したこともあって何の気後れも差し障りもないのだが、いつもならこれは午後の店舗会議で報告するものである。それを重鎮が居並ぶ中、唐突に名指しされこの場で発表しろと言われて、しかも、ただでさえ重々しく張りつめた雰囲気であるのに、そこへ追い討ちをかけるように「慧徳はなかなかいい企画だったようね、水奈瀬さん?」と、玲瓏たる微笑を浮かべた黒河統括がプレッシャーをかけてきて……葵の頭の中が一瞬完全な “無” になったのは仕方がない事であろう。
それでもどうにかこうにか三周年企画の成果を噛むことなく報告できたのだ……我ながら本番だけは強いかも、と思ってしまった。
ただ緊張の余波で、その後の他店舗の報告を、葵は何一つ覚えていない。
* * * * *
『櫻華亭』本店のすぐ真後ろに構えるクロカワフーズ本社は、建てられてからまだ十年余りの小さな五階建てビルである。
この界隈はさすが「山の手」と呼ばれているだけあって、最寄りの地下鉄駅周辺に高級マンションが立ち並ぶ都心の一等地のひとつだ。近隣には某名門大学の広い敷地があり、また少し歩けば都内でも有名な緑地大公園もあるので、印象としては都会特有のゴミゴミした感じは全くない。
だからなのか、月一度、私鉄と地下鉄を乗り継いで都心へ出て来ることも、葵は割と苦ではない。
牧野に引き連れられてやってきたのは、その本社ビルから徒歩数分で行けるチェーン店のカフェだ。すでに何度も訪れる馴染みの昼食処となりつつある。
途中で『櫻華亭』麻布店アテンド(副支配人)の大久保恵梨とも合流して、三人で窓際のテーブルに落ち着いた。大久保も牧野と同様に、葵が店長になりたての頃から何かと面倒を見てくれた良き先輩である。
クロカワフーズの会議出席者――すなわち役職者の中で、今現在、女性はこの三人だけだ。
加えて、葵は最年少店長でもあるので何かと気にかけてくれているのだろう、会議やその他のイベントなどで出会うごとに彼女らと親しくなり、葵も二人にはよく相談にのってもらっていた。
「そう言えば、葵ちゃんも黒河マネージャーとやるの初めてよね? うふふ、頑張ってね」
艶のある笑みを向ける牧野昭美に、大きな口でパニーニサンドにかぶりつこうとしていた葵はそのまま固まった。
先ほどの総会議で人事異動の詳細も述べられ、『アーコレード』三店舗は正式に、杉浦崇宏から黒河侑司へと担当が代わる旨が伝えられたのだ。
口元に持っていきかけていたパニーニを一旦引き戻す。
「あー……何か、特別頑張らねばならない要素があるとか、ですか……?」
「ふふ、そういうわけじゃないけど。……ほら、黒河くんってあんな感じだから、葵ちゃんビビらなければいいなーと思って」
「は、ぁ……」
若干引きつった顔の葵を見て、向かいに座る大久保恵梨が「もうビビってるー」と笑う。ショートボブの艶髪が軽く揺れた。
「なーんか、黒河マネージャーってコミュニケーション取りづらそうですよね。威圧感バリバリ感じるしサイボーグみたいってもっぱらの評判ですし。私、笑ってるところ見たことないですよ。イケメンなのにもったいない」
肩をすくめてエスプレッソを口に運ぶ大久保は、もうすぐ二十七歳の才女で『櫻華亭』麻布店に勤務している。アテンドになってからは二年半くらいだそうだが、すらりとしたその体躯から醸し出される雰囲気は毅然としつつもどことなく気品に満ちていて、さすが本店に次ぐ麻布店の “ギャルソン” だと、葵はいつも密かに憧れている。
そんな大久保よりもさらに経験値豊富な牧野女史は、うんうんとしたり顔で頷いた。
「確かに目力はあるわね。別にギョロってしている目ってわけじゃないのに。あの目からレーザービームが出るんだ、ってうちの旦那も言ってた」
「それ、ホントにサイボーグじゃないですか。……ねぇ牧さん、黒河マネージャーと本店で一緒だったことありますよね。昔っからあんな感じだったんですか?」
「わ、私も聞きたいです……!」
大久保の問いかけに、葵も思わず身を乗り出した。
杉浦から「侑司攻略法はハルミちゃんに聞くといいよー、あの子、昔ユージと一緒にやってるからさー」と言われていたのだ。攻略したいなどとは微塵も思わないが、せめてその人となりくらいは知っておきたい。……他の人は、 “彼” をどう思うのか。
真剣にすがるように見つめてくる後輩の様子に、牧野はちょっとビックリしたようだったが、一口コーヒーを飲んだ後、「そんな時代もあったわねぇ」と冗談めかしつつ話してくれた。
「もう五年も前かな。……彼が支配人をしていたのは二年くらいの短い間だったけどね。スゴかったのよ~、最初のうちは調理場との火花が耐えなくて。若干二十四、五歳の若造がいきなり支配人で、しかも総師と統括の息子でしょ? で、あの妙に達観した態度。どんなに的を射た指示でも海千山千の料理人たちは、はいそうですか、って素直に従えないわけ。本店は本店なりの意地もプライドもあるからね。それでよく衝突してた。何人かついていけなくて辞めちゃったしね。私もよく板挟みになって茂木さんに泣きついたなぁー」
「あ、あの、二十四、五歳って……」
「うふふ、今の葵ちゃんと同じ歳かな? あの当時は史上最年少支配人就任者、って騒がれたものよ。でも今は葵ちゃんもそこに並んだからねー」
「い、いやいや、全っ然違います! そもそもカテゴリーが違います!」
慌てて身体全部を使ってぶんぶんと否定する葵を見て、牧野と大久保は声を上げて笑った。
確かに、葵も入社三年目にして一店舗の “店長” という肩書をいただいてしまったが、大体『アーコレード』と『櫻華亭』を、しかもその “本店” とを、比べること自体が間違っている。
『櫻華亭』の中でも “本店” というのは “別格” であり、クロカワフーズの “総本山” なのだ。そこと同等に並べることはしないでほしい。
恥ずかしさと居た堪れなさを誤魔化すように、食べかけのパニーニサンドへかぶりつく葵の傍ら、牧野の “黒河侑司情報” は、次第に “黒河侑司武勇伝” へと様相を変えていった。
大学卒業と同時にクロカワフーズに就職した黒河侑司は、当時料理人として既に勤務していた兄――その名を黒河和史――と異なり、最初から給仕担当だったという。それには周囲も意外だったようだが、全てにおいて完璧な仕事ぶりで、最高級の接客技術が求められる『櫻華亭』本店においても、配属当初からまるで遜色なくこなしていったらしい。そんな彼の有能さは、とある一部の思惑や感情はさて置くとしても、異論なく真っ当に評価され認められるものであった。
そうして、黒河侑司は入社後三年もたたないうちに『櫻華亭』本店支配人という座に就いたそうだ。
その何年も前から、クロカワフーズでは有能な人間をより早く現場からマネジメントへ引き上げる風潮が強かった。企業として飛躍的な事業拡大を見せるその陰で、組織連携の骨組みは弱くなかなか整わず、どうしても本部と現場の連携役となるマネジメント管理者の存在が必要となったためだ。
今現在でも『櫻華亭』本店では、前途有望な若い人材を敢えて支配人やアテンドといった役職に就け、その成長をより飛躍的に(半ば強制的に)促すといった傾向にある。その先のマネージャー昇格を見越しての人事なのだ。今の本店支配人もまだ二十代の若い男性である。
だが、いかに有能な人間であっても、若輩に相対する『櫻華亭』本店の矜持は高く、なかなかに苦難を強いるものであったそうだ。
最初のうちはとにかく、厨房のコック陣との意見対立が絶えなかった。厨房の社会性というものは、フロアのそれと同等ではなく独立している。独自の世界があり序列があり、そして給仕人以上のプライドがある。いわば “職人” なのだ。
利益のために、サービス効率化のために、と言われても、曲げられないことは絶対に曲げられない。
その頃アテンドとして黒河侑司の補佐的立場にいた牧野は、そんな両者の間に立って何度も流したくない涙を流したらしい。
「……黒河くんってあんまり感情を外に出す人じゃないけど、やっぱりあの当時はだいぶ参っていたと思うなー。……なーんて、あの頃は私も自分のことで精いっぱいで、黒河くんの精神状態まで気が回らなかったけどね。でも、ちゃんとわかってくれる人はいるものなのね……、国武さんとか……ほら、葵ちゃんとこの佐々木さんとか。あの辺のベテランコックが黒河くんの言い分をきちんと聞いてくれてね。あとは……茂木さん。あの人は……本当に黒河くんのことを信頼してくれていたなー」
茂木さん、とは、現在クロカワフーズの顧問というポジションにいる人で、もう数十年来本店に尽くしてきた、いわゆる『櫻華亭』の生き字引のような男性だ。通常本店に勤務していて、若き支配人を陰ながら支える穏やかな老紳士である。葵も本店研修時に出会い、ずいぶんよくしてもらった覚えがある。
そんな老巧達者な人々に恵まれておかげもあって、次第に侑司の高いマネジメント能力や徹底したスタッフの意識改革、柔軟かつ確固とした経営方針が認められ、少しずつ厨房との関係も緩和、好転していったという。
そうしてそれから、わずか二年弱の間に『櫻華亭』本店は低迷気味だった売上を少しずつ、だが着実に伸ばし、また様々な試みを積極的に為して新たな客層獲得の実現も成果を見せ始めたのだ。
牧野女史は言う――あの時初めて、「黒河」という偏見的ネームバリューを抜きにした、彼の経営手腕が、本当の意味で認められたのだ、と。
「……私が『アーコレード』の渋谷店に異動になって、その後すぐに黒河さんもマネージャーへ昇格したのよね。だから彼、そんなに支配人歴は長くないはずだけど、まぁ色んな意味ですごい人だったなー。 “黒河“ 姓に甘やかされたお坊ちゃんと思ったら大間違い」
懐かしむ目をして牧野はふふ、と笑った。
一方、頬杖をついた大久保はどこか思案顔だ。
「私……黒河マネージャーって “今田派” かもしれない、って聞いたことがあるんですけど」
「――えぇっ? ないない、それはない! だって総師と統括の息子よ? 第一、黒河くんは茂木さんを尊敬しているはず。あの狸につくなんて考えられない」
「まぁ、そうですよね。別に私も本気でそう思ったわけじゃなくて、諸岡がそんなこと言ってたからどうなんだろうって思っただけですよ」
「まったくあのアルパカ男め……策士のわりに小心なんだから。……はぁ、結構 “黒河一族” への偏見って、未だになってもあちこちにあるのよね……」
溜息交じりに牧野が漏らした言葉は、葵の心臓をドキンと鳴らした。
牧野と大久保の話に出た “~派” 云々は、入社数年の葵には正直まだピンとこない。『櫻華亭』のどこかに所属していれば、そのようなお家事情話に触れる機会もあるのだろうが、あいにく葵は『アーコレード』で、しかも慧徳学園前という郊外にある “離れ小島店舗” 勤務だ。会議の時だけしか顔を合わすことのない上層部の派閥など、聞いたところでよくわからないというのが正直なところである。
ただ、 “黒河一族” への偏見、というのは耳に痛い。
――正しくは “黒河侑司” への偏見……なのだが……
「あらら、葵ちゃん? そんな顔して……まったく、大久保が変な話を出すから葵ちゃん沈んじゃってるじゃない! 大丈夫よ。黒河さん、ああ見えて人の話はちゃんと聞くし、投げれば返してくれる人よ。葵ちゃんは変なとこで度胸があるから、何だかんだでうまくやっていけると思うなー」
既に三人とも食事は終えて、葵はすっかり冷めたコーヒーをちびちび飲んでいた。牧野の優しい言葉に「そうだといいんですけど」と力なく返す。
カップにあるカフェのロゴをぼんやり目に映しながらも、葵の脳裏にあるのは、今日会議室で重鎮メンバーが集まる一角に端然と座っていた黒河侑司の姿。そして、流れ弾に当たったかのようなあの一言の衝撃――
葵は今まで直接、黒河侑司と関わりを持ったことはない。が、彼に対して苦手意識を持ったのは、実はもう三年も前のことだ。
クロカワフーズへの正社員雇用が決まり、『アーコレード』慧徳学園前店への配属が決定し、それに先駆けて葵は一か月間ほど、『櫻華亭』本店に研修に来たことがある。まだ短大の卒業式を先に控えた、二月の半ば頃だった。
ちょうどその頃、本店の支配人は黒河侑司から柏木という若い人材に変わったばかりだったらしい。黒河侑司は三つの『櫻華亭』ホテル店舗を受け持つマネージャーになっていたため、葵が本店で彼を見かけることは全くなかったのだが、たった一度だけ、何の用事か彼が本店に顔を出したことがある。その時、紹介されて葵も挨拶だけはしたように思う……その辺はあまりよく覚えていない。
その日、葵が休憩から戻る時、黒河侑司と柏木支配人の会話をたまたま偶然耳にしたのだ。
何について話していたのかはわからない。休憩室から出てフロアに戻る途中、備品在庫が収納してある倉庫の隅で二人話しているのが、通りすがる際に聞こえただけだ。
しかし、その会話の中の一言が、妙に、耳についた。
『――ついて来れない奴は容赦なく、切れ』
侑司の氷剣のような鋭い声音が、まさか自分に関しての言葉だったのではないかと不安と怖れにかられ、さぁっと血の気が引いた感覚を今でも思い出す。
『櫻華亭』本店での研修は、たかが町の小さなレストランでのアルバイト経験だけでは到底賄えないほど、カルチャーショックの連続だった。店の雰囲気も料理もスタッフも、そして顧客までもがすべて高水準過ぎて、覚えることも膨大にあり、自身の接客仕様において直さなくてはいけない癖もたくさんあった。
やっていけるだろうか、と自信を失いかけていた時の、偶然耳に入ったあの冷淡な言葉は、その後も何故か葵の胸中奥深くに残ることになる。
しかし、だからと言って逃げるわけにはいかない。葵は必死で研修をこなした。
その甲斐あってか、怖れていた “切られる” 事態にもならず、何とか無事に一か月間の研修を終え、最後には本店のスタッフみんなから労いの言葉をかけてもらうこともできた。
今思い返せば、あの時の侑司の言葉は、葵のことを言ったのではないのかもしれない。しかし何故か、あの低く冷たい声音は今でもクリアに思い出せるほど耳に残っている。
あの時刻み込まれた強烈な印象によって、その当時から葵の中で、黒河侑司という人物に対して苦手意識が根付いてしまった。
正式に社員となり店長になってからも、彼とは月会議で何度か顔を合わせる程度だったが、その度に、変な緊張感を強いられながら挨拶を交わしてきたように思う。
向こうは、葵のことなど歯牙にもかけていない、と思うのだが。
「――でも牧さん、二年も一緒にやって、黒河マネージャーにクラッと来たりしなかったんですか? 年下とはいえかなりの高スペックだし、見た目もいい感じに整ってるし?」
大久保がにやりと笑って長い足を組み直した。
葵がぼんやりと昔の記憶をなぞっている間に、少々話筋がずれてきている。
「ふふーん、私は当時からずっと晃治くん一筋ですからー。まぁ、それは置いとくとしても、何か黒河くんって、こう……壁みたいなのがあって、そっちの方は全くの謎だったのよ。女と歩いてたー、みたいな話は聞いたことがあるけど、彼本人はプライベートに関して全くこれっぽっちも見せなかったなー。……あ、でも確かにモテるかもね。こないだも赤坂のお客様が黒河マネージャーにゾッコン、何度も指名して呼び出してるらしいわよ? 杉浦くんが騒いでた」
「ゾッコン、ってまた古い言葉を……いや、何でもないです……へぇ、お客がねぇ。黒河マネージャー、いくらなんでも客に手を出したりしませんよね」
すごみのある声で眉をひそめる大久保は、なかなかの辛辣家なのだ。
「まさか、そんなわけないでしょ」と牧野は苦笑して「ねぇ?」と葵に同意を求める。「はぁ」と曖昧に返事する葵を横目に、大久保は肩をすくめた。
「まー、他人の恋路は邪魔しませんけどね。……ああ、そう言えばうちのチーフ……黒河兄の方は結婚間近らしいって噂ですよ。経理の宇佐美さんと」
「うっそ? とうとう決めたのっ? ……宇佐ちゃん、大丈夫かしら……」
牧野は驚きに目を見開いた後、心配そうに眉を寄せた。
「同感です。何ていうか……宇佐美さんが気の毒ですよね。黒河チーフ、今でさえあれだけ仕事に時間拘束されてて、『紫櫻庵』の料理監修じゃますます忙しくなるじゃないですか。結婚なんて意味あるのかな……飲食業の男とは結婚するもんじゃないと思いますけどね」
「そうねぇ……って、悪かったわね! 結婚しちまったわよ!」
「ご愁傷様です。あ、葵ちゃんは同業者と結婚しちゃだめだよ。牧さんち、旦那と顔合わせるの週イチらしいから」
「そこまで少なくないわよ! 葵ちゃん! 愛があればどんな壁でも乗り越えられるのよ!」
「夫婦の営みが週イチでもね」
「うるさいよっ大久保!」
ギャイギャイと言い合う二人の傍で、葵はどうにも居心地の悪さを覚える。
――やっぱり、女同志だとこういう話になるよなー……。
葵は内心の憂いを気づかれぬよう、小さく笑ってみせた。
* * * * *
休憩から戻り、午後の店舗別会議のため大久保と別れた葵と牧野は、小会議室に移動した。
小会議室に通じる廊下を進んでいると、「アオイちゃんハルミちゃんお帰りー」と軽い口調で声がかかり、振り向くと杉浦がビジネスバッグを片手に近づいてくる。
いかにも帰り支度といった格好に、葵が「お帰りなんですか?」と聞けば、『紫櫻庵』の打ち合わせでマネージャー陣全員も強制出席とのこと、これから別場所へ移動するらしい。
見れば奥のエレベーターホールに、午前の会議に出ていた『紫櫻庵』のメンバーたちが何人か集まっている。彼らも交えて “軍略会議” といったところか。
「ごめんねー、午後会議出られなくてー。でも資料は全部モロちゃんに託してきたから……あ、ユージ!」
杉浦の声に視線を転じると、ちょうど大会議室から出てきたらしい黒河侑司が、荷物を持ってこちらにやって来る。長い脚で颯爽と向かってくるその様に、葵はあれ?と首を傾げた。今まで気づかなかったことだが、彼の姿がとある人物と重なる。
――背もあのくらいだったっけ……。
うーん、似てるかも……と、ぼんやり見つめる葵の前に、侑司はやってきた。
葵も牧野も決して背は低くないのだが、目の前に立った侑司からは何か圧するオーラが放たれ、上から見下されているような気分になる……いや、実際見下ろされているのだけれども。
「アオイちゃん、来月からこいつが慧徳の……いや、アオイちゃんの、サポートするからさ。よろしくねー」
ニコニコと愛想よく紹介する杉浦とは対照的に、その杉浦に肩を抱かれ微かに眉をひそめている黒河侑司。
若干の気遅れを感じつつも、葵は慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
そこで、お互いの目が合い、「こちらこそ」とでも返ってくるか、と思いきや。
侑司はすっと目を逸らし、隣の牧野に向かって淡々と言い放った。
「牧野さん、五月の予算案と店舗別のデータ分析表を出してあります。諸岡と牧野さんで進めてください。……杉浦さん、時間がないので」
そう言ってさっさとエレベーターホールに向かって行ってしまった。
「え? あ、ちょっと? ユージ? ユージくん? ――あ、ハルミちゃんアオイちゃん、あとよろしくねー!」
侑司の後をあたふたと追いかけていく杉浦を、葵と牧野は唖然と見送る。
――私、何か、した……?
いわゆる “無視” された事実に、ただただビックリショックの葵の耳には「おっまえ、何でそう冷たいのさー」という杉浦の遠い声と、「うーん……ナニかしら……」という牧野女史の困惑しきりの声が、かろうじて届いていた。
※ ハリツケ……トラブルなど何らかの事情で、帰宅できずに店に寝泊まりせざるを得ない状態。クロカワフーズで使われている隠語。