第26話 修羅場!まさかの全員集合
荒い息を身体全体で吐きながら、ようやく葵は店の前、数メートルで足を止めた。
途中、葵に追いついた麻実も隣に並ぶ。葵のさらに上を行く運動神経と体力を持ち合わせている彼女も、さすがに肩で息をしていた。
外から見た店内は、下ろしたシェードスクリーンから淡い光が漏れている。
店の入り口と外壁にある外照明は落ちているので、中に客はいないということは察せられた。けれど、内部の明度を落とした淡い光は、まだ誰かが店内にいるということだ。
店の裏にまわろうかと一瞬考えたが、葵は只ならぬ気配を感じ、表の入り口に足を向ける。
突如、ガタガタッと音がした。声も聞こえる。店のフロアからだ。何を言っているのかは聞き取れないが、大きな声でまくし立てるような叫び声。
ロックがかかっていないことを願いつつ、葵が取っ手を掴んでひねり、ゆっくりとそれを引いた時、ドア上部にあるドアベルの音をかき消すような怒鳴り声が、響いた。
「――レイプ同然に犯して妊娠させたんだぞっ! てめぇはそんな葵を捨てたんだっ! 挙句に流産までして、葵がどれだけボロボロになったか、てめぇ知ってんのかっ?!」
「――え……?」
小さく漏れ出た声は、麻実の声。
それが合図だったかのように、その場にいた全員が一斉にこちらへ顔を向けた。
「――あ、葵……っ?!」
驚愕に見開かれた瞳、息を飲んだ音、天を仰ぐ者と苦悶に顔を歪める者――
そこには六人の男たちがいた。
フロアの中ほどで、テーブルと椅子が乱れている。クロスがずれ落ち、何脚かの椅子がひっくり返っている中で、萩が蓮と遼平の二人がかりで羽交い絞めにされている。仰向けに倒れて上体だけを起こした男は伊沢尚樹、その傍に屈みこむのは青柳伸悟だ。そして、少し離れたカウンターの近くに黒河侑司――
――黒河、さん……
蝶タイは外してあるが、白ワイシャツに黒ベスト、ロングサロンもそのままのギャルソン姿。
――……まだ、クローズ業務、終わってないのかな……
葵はぼんやり、そんなことを思う。
たゆとうような視線の中に、驚きに見開かれた侑司の眼が映る。その唇がほんの僅か動いた気がした。
誰もが凍りついたように固まる中、いち早く声を発したのは麻実だった。
「……今の、どういうこと? 妊娠、させた? 葵を? しかもレ、イプ……って……」
麻実の声が震えている。
問うように葵を見た麻実は、その瞳に何を見たのか、突然店の中につかつかと進んだ。――真っ直ぐ、床の上にいる伊沢尚樹の元へ。
誰が止める間もなく、麻実はその男の胸倉を掴み上げて殴りつけた――ガツッと拳で。
「ま、麻実っ! やめ……ろっ!」
ハッと我に返った伸悟が、二発目を振り被った麻実を寸前で抑えつける。
「――うっさいっ! 伸兄っ、離せッ! この男ッ、八つ裂きにしてくれるッ――!!」
「麻実っ! 落ち着けって……っ!」
「こんな男っ……! こいつの、せい、でっ、葵が――っ……どれだ……け……っ……離せぇぇっ!」
「――麻実さんっ! そんな奴、オレがやるって! ちょ……、遼平っ、離せよッ!」
「――萩……っ! 待てって……!」
「お前まで……っ、いい加減にしろっ!」
伸悟は暴れ回る麻実にてこずり、それを見た萩までがいきり立ったので遼平と蓮が再び羽交い絞めし直す。
殴られた伊沢尚樹は、女といえども渾身の力で殴りつけた麻実の拳は効いたらしく、痛々しげに手の甲で口元を拭っていたが、ゆっくりと身体を起こし、その顔を葵に向けた。
「あ、葵ちゃん……あ、会いたかったんだ……葵ちゃん……」
ゆらりと、ふらつきながらも立ち上がった伊沢尚樹の姿に、葵の身体が思わず一歩後ずさる。その瞬間、隙を突いて拘束から逃れた萩が、伊沢尚樹に飛びかかった。
「――てめぇっ! どの面下げて葵に声かけてんだよっ!」
「萩っ! ちょっと待てってっ!」
「――う、うわっ……あぶね……っ!」
「――伸兄、離せってばっ! この男、許せないぃぃっっ!」
「麻実っ! お前も待て……落ち着……イッテっ……暴れるな……っ!」
騒然となるフロアの中、、葵は縛られたようにその場に立ちつくす。
ドック、ドックと痛いくらいに心臓は早鐘を打ち、呼吸が苦しい。
指先が震える……声が出ない……やめて、やめて……お願いやめて……っ!
――と、眼前の光景が、消えた。
葵の目の前を遮った、広くて大きな逞しい背中。
「――やめろ」
低い静かな、それでいてよく通るその一声に、一瞬にしてその場が鎮まった。
「冷静な話し合いができないのならこの場所は貸せない。今日のところは、全員引き取ってもらおう」
誰にともなくそう言い渡すと、侑司は葵を振り返って小さな声で「大丈夫か?」と問うた。
見下ろす眼が思いのほか優しくて、葵は不意に泣きたくなる。
すると侑司の背後から、追いすがる触手のように、切羽詰まった声が伸びてきた。
「お、お願いだ……、彼女と話がしたいだけなんだ……ほんの少しでいい……あ、葵ちゃ……」
「――てめぇっ! まだそんなこ――」
「――彼女の心情は度外視か」
再び切り込まれた冷厳極まるその口調に、伊沢でなくとも口を噤む。
見上げれば侑司は、葵が今まで見たことのない射殺すような視線で、鋭く伊沢尚樹を見据えた。
「謝罪と懺悔をはき違えているようだな。いずれにせよ、押しつけた時点でそれはただのエゴだ」
粛然としながら、途轍もない厳しさと強さを秘めた言葉に、その場の誰もが押し黙る。
シンと凍りついたその場で、最初に動いたのは兄の蓮だ。
ようやく力を抜いたらしい萩を解放し一息つくと、青ざめた顔で項垂れている伊沢に改めて向き直った。
「――弟が……ああ、そこの彼女もだが……君に手を出したこと、それは謝る。……が、 “今後一切妹と関わるな” と言ったあの時の言葉を、今現在も撤回する気はない。さっきも言った通り、これ以上妹とコンタクトを取ろうとするなら、それ相応の、法的手段も踏まえた対応をさせてもらう――前にもそう言ったはずだ。即刻帰ってもらおう。……黒河、手間を取らせて悪かった。すぐに撤収する」
最後は侑司に向けてそう言うと、蓮はふと、その目を傍らの葵に移した。
葵はその時、どんな顔をしていたのだろう。兄は、一瞬痛みを堪えるように表情を歪めた。それでもすぐに葵から目を逸らし、萩や遼平を促して乱れたテーブルや椅子を元に戻し始めた。
その一方で、伸悟は麻実に向かって小さな声で何やら諌めていたが、突然麻実がポロポロと泣き出しので、ギョッとしてオロオロしている。
そして、一人茫然と立ち尽くしていた伊沢尚樹は、つと顔を上げて葵に縋るような目を向けたが、あたかも害獣から守ろうとその身体を盾にした侑司に阻まれ、結局何も言わず項垂れたまま、力ない足取りで店を出ていった。
「……大丈夫か?」
もう一度、低く囁くように問われて見上げれば、再びあの気遣わしげな瞳。
先ほどの、伊沢に放った射るような鋭い眼差しとは、まるで同じ眼と思えない。
「……そんなに、握りしめるな……」
そう言って、侑司は葵の左手を取り、ゆっくりとその大きな温かい手で解そうとする。
固く握り込まれて、開き方さえ忘れてしまったような葵の拳を包み込み、一本一本の指に魔法をかけていくように優しくさすった。
「……く、ろかわ、さん……」
ようやく出した声は、掠れていた。
「……黒河さん、私……」
さらに震えて喉につかえてしまった言葉を、侑司は静かに遮った。
「……水奈瀬、今日はもう遅い。……早く帰れ。……明日から休みだ。ゆっくりして来い。それから……十六日は、気が乗らなかったら無理に来なくていい」
「……じゅう……ろく、にち……?」
一瞬何のことだかわからず瞬いた葵に、侑司は小さく笑って「納涼会だ」と言った。
それからその場は解散となり、葵は伸悟が運転する車に乗せられた。万が一を考えて、慧徳のアパートには戻らず、兄と一緒に実家のマンションへ帰ることになった。
萩は遼平とその場に残って葵たちを見送っていた。おそらく、後からバイクでマンションに向かうのだろう。二人揃って、どこか憮然とした顔をしているのが、妙におかしかった。
道中、麻実がグズグズと鼻をすすりながら葵に謝っていた。
知らなくてごめん、こんなに辛い思いをしていたのに、まったく気づかずごめん……何度も謝られて、葵は、打ち明けられなかった自分の方こそ責められるべきなのに、とぼんやり思いながら、麻実の背を撫でる。
どこか非現実的な心地で、頭の中はうっすらと霧がかかったように不鮮明であった。
真夜中の街道に流れていく街灯の光を見つめながら、葵は侑司を思っていた。
もう、帰ったかな……こんな夜遅くまで付き合わされて。
彼はまったく関係ないのに、また迷惑をかけてしまった。
どうして、あんなに優しく、笑ってくれたんだろう。
全部、聞いていたはずなのに……全部、知られてしまったのに。
……これから、どんな顔をして向き合えばいいんだろう……
取りとめなく浮かんでくる想いに抗わず、ただ、ぼんやりと侑司を思った。
大丈夫か、と問うた低い声、気遣うような優しい瞳。握り込んだ拳を解してくれた手のひら。全部、まだ確かな感触のまま、この身に残っている。
ゆらゆらと歪んで覚束ない感覚の中、その余韻だけが拠り所であった。
伊沢尚樹のことは、あまり考えなかった。
頭の中を占めているのは、温かくて大きな手を持った上司のことばかり、だった。
* * * * *
次の日から数日、葵は実家マンションで過ごした。
蓮や萩が、そう強く勧めてきたからというのもあるが、葵自身、慧徳の地から少し離れたい気分だったというのもある。当然、萩もマンションに戻ってきた。
服や身の回りのものは、マンションに残してあった物で代用したり近場で買いそろえたり、萩がアパートに取りに行ってくれたりもした。
家の中で掃除や洗濯などの家事をこなし、兄と弟のため食事を用意した。時々散歩がてら近所に買い物へ出る以外、ほとんど家にいた。仕事は幸か不幸か夏休み、今年は宮崎へ行く予定がない分、色々と出掛ける計画を練っていたはずなのに、その一切が頭から消えていた。
蓮と萩は、そんな葵を心配そうに見ていたが、比較的きちんと食事も取り、夜も眠っているとわかれば、それほどうるさく干渉はしなかった。
何日目かの夜、ようやく兄妹弟三人は向き合って、これまでのことを打ち明け合った。
蓮は四年前、葵に黙って、つき合っていた男の正体を突き止めたこと、正体が判明するや否や名古屋まで会いに行ったことも明かした。
伊沢尚樹にたどり着くまでには、青柳伸悟や矢沢遼平の助力があったこと、けれど彼らは決して興味半分で首を突っ込んだりしていないことも、きちんと説明してくれた。
伸悟と遼平二人ともが、葵の事情をすべて知っていたことには少なからずショックを覚えたが、今まで何も言わず聞かず、普通に接してくれたことを思えば、逆に申し訳なさが募った。
一方萩も、伊沢尚樹が戻ってきたことを機に、色んな意味で警戒心を強めてしまい、結果、大きな勘違いから、警官に見咎められるほど大騒ぎしてしまったことを、モソモソと弁解した。
ただ、伊沢尚樹については「葵が何も気にすることはない、会う必要も話を聞く必要もない、完全に忘れろあんな男」と語気荒く憤慨していた。
その隣で、蓮は複雑な色を浮かべた眼をして何かを考えていたが、それでも「母さんには一切漏らしていないから安心しろ」と断言してくれた。
麻実とは電話で一度話をした。
葵が休みに入ると同時に麻実の方は仕事が立て込み忙しくなって、今、会えないことを悔しがっていたが、落ち着いたらまた会おうと約束した。葵が思いの外元気そうなので安心したようだった。
伊沢についてはあまり話さなかったが、麻実が萩と同じように、彼に対し憤りと拒絶の感情しか持っていないのは明らかであった。
『――会おうなんて思っちゃ、ダメだよ』
最後にそう言った麻実の言葉が、蓮や萩の言葉と一緒になって、葵の心中をぐるぐると渦巻いた。
葵自身、どうしたいのかよくわからなかった。
伊沢尚樹が、今更自分と何を話したいのか……謝罪云々と言っていたから、おそらくそういう話なのだろうが、謝られたからといって何がどう変わるわけでもない。正直困惑するだけだ。
逆に、謝罪しなければいけないのは、自分の方なのかもしれない。
葵は……二人の間にできた一つの命を、死なせてしまったのだ。
葵のせいではない、母体に問題はなかった……と、産婦人科の先生は言った。
それでも、自分の中にある罪悪感はなくならない。
だって、喜べなかった。
大切だと思えなかった。
だから、消えてしまった。
消えたと知った時、身体中の力が抜けた。
……そう、確かに自分は、ホッとしたのだ。
――この罪は一生、自分についてくる。




