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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第1部
35/114

裏10話  仇討目前、水奈瀬萩

 その夜、萩の携帯が鳴ったのは、バイトを終えて、さぁ、慧徳まで飛ばすか、と外に停めたバイクに向かう時だった。


「おぅ遼平、どーした?」

 相棒タッグを組んでからというもの、事務的メッセージ――《今日はバイトが遅番だから葵の送り頼む》とか、《葵今日LO上がりに変更》とか――のやり取りは時々していた萩と遼平であるが、こうして電話をかけてくるのは珍しい。

 何かあったのか、と萩の野性動物的な第六感がピクンと反応する。

 果たして、端末から耳に入る、周りを(はばか)るようにひそめた遼平の声は、ついに避けられない事態の到来を告げた。


『――萩、来た……今さっき店の前にいた。俺、声かけられたんだ。……ここに、水奈瀬葵さんという方が働いていないか、って。すぐにあいつだってわかって、それで俺、思わず……』

「ちょ……っ、ちょっと待てっ! お前……あいつが(、、、、)来たのか? 店に、あいつが来たんだな? あ、葵は……っ」

『それは、たぶん大丈夫だ。……まだ裏で事務処理中。気づかれてないと思う』

「……そうか。……で、あいつは? まさか、まだそこにいんのか?」

『いや、帰った。……ていうか、追っ払った。……でもあいつ、また来るって……』

「……わかった。とにかく、すぐそっちに向かう。お前そこで待ってられるか? 二十分で行く。……ああ、じゃあな」


 通話を切るや否や、萩はバイクに飛びついて、そのエンジンを轟かせる。

 メットを被った萩の両眼が、鋭く光った。



* * * * *



 二十分を大幅に切る時間で、慧徳学園前にある『アーコレード』の店前にたどり着くと、客用駐車場の隅にバイクを停めて、萩と遼平は植え込みの陰に小さく屈み込む。そこで二人は顔を突き合わせ、事の次第を共有し合った。


 今日はラストオーダー後に残った客が少々長居をしたため、厨房の後片付けを終えた遼平は、葵たちフロアスタッフに先駆けて上がりとなったらしい。

 萩が葵を迎えに来るのは知っていたので、今日はこのまま早めに帰ろうと、遼平が店裏から表の通りに出たその時、宵闇の中に不審な人影を見つけた。

 かれこれ一か月近くも警戒心むき出しにして、まさかの時を懸念していた遼平は、もしや……という思いから、原付にまたがったままその不審人物を凝視する。

 ところが、見られていることに気づいたその人物は、逃げるどころか遼平に近寄って来た。

 そして、その男は遼平に声をかけたのだ。

『――君……ここの従業員さん? ……ちょっとお尋ねしたいんだけど、ここに……水奈瀬葵、っていう女性が、働いていないかな……』

 近寄ってきたその男の顔が近くの街灯ではっきり浮かび上がり、遼平は確信を得た―― “あの男” だ、と。

 瞬間、遼平は思わず叫んだ。

『……今更、葵に何の用だ……あんた、自分が葵に何したのかわかっているのか? 帰れよっ! 二度とここへ来るなっ!』

 怒鳴りつけられたその男は、相当驚いた様子でしばし固まったらしいが、それでも、『会いたいんだ、会って謝りたい。頼むから彼女に伝えてくれないか』と、しつこかったらしい。

 しかし、遼平が断固として突っぱね、警察を呼ぶぞと脅したところ、男は渋々帰っていったという。

 ――名刺を一枚、遼平に渡して。


 見せてもらった小さな紙片は、遼平が一度は手の中に握りつぶしたのだろう、しわくちゃだったが、その名前と肩書は嫌でもわかる。


《御蔵屋百貨店銀座支店 顧客外商サービス 伊沢尚樹》


 見るのも腹立たしいその名に、萩はギリと奥歯を噛みしめた。

 ……ちっ、携番まで走り書きしてやがる……!


「……状況はわかった。遼平があいつの顔を知ってたおかげで助かったな。何にも知らない奴ならまんまと葵ンとこに案内してたはずだし。……会わずにすんだだけでもヨシとするか」

「……ああ」

 言葉少なに目を伏せる遼平を見つつ、萩はこれからのことを考える。

 遼平が追い払ってくれたおかげで今日のところは難を逃れたが、ここに葵がいることはバレてしまった。おそらく知ったからにはまた来るだろう。

 遼平がシラを切っていれば、ここに葵はいないと思わせることもできたんじゃないか……萩はちらりと頭の片隅で思うが、どっちにしろ時間の問題だったな、と思い直す。逆に自分が遼平の立場だったら、あの男を無傷で帰せたかどうかわからない。

 

「……あいつ……時間がない、って言ってたんだ……」

「あ? 時間?」

「ああ……よくわかんないけど。……なぁ、どうする? ……あいつ、また来るぞ。たぶんすぐに。そんな感じがした」

「ちっ……ストーカー野郎め! ……いや待てよ、明日はここ定休だろ? もしあいつが懲りずにやって来たとしても葵と会うことはない。んで、葵は金曜から夏休みって言ってた。ってことは、とりあえず明後日の木曜が要注意か。十分警戒しとかなきゃな。……ってオレ、明後日遅番じゃん……くそっ! 遼平、お前明後日のシフトは?」

「朝から通しだ」

「よっしゃ、じゃ、昼間はお前に任せる。オレ、早番と代わってもらうわ。んで終わったら即行こっちに戻る。何かあったらすぐに連絡して」

「……お前んとこのバイト、わりと自由なんだな」

 呆れたような遼平に、萩は唸る。

「そうじゃねーから休めねんだろ」


 伊沢尚樹が、葵に会いたくて営業時間中、店の中に入って来る可能性は確かにある。でも、あの男にだって仕事があるはず。ここに来るのは夜の可能性が高い。

 ――その時は絶対、今度こそオレが。


 萩が拳を握り固めた時、こちらに向かってくる単調な足音がした。萩と遼平が揃ってハッと身構えると同時に、「……何してんの、こんな所で」という冷ややかな声がかかる。

「遼平、帰ったんじゃなかったっけ? ……弟くんは、テンチョーのお迎えかな?」

 人を喰ったような話し方をするその青年――池谷夏輝が、僅かに首を傾げてその口元に微笑を浮かべている。男にしては線が細く美形といえる顔立ちだが、その口調はちょいちょい萩の(かん)に障るものだ。

 萩は最近の送り迎えで店に出入りすることも増え、池谷夏輝とも既に顔見知りではあったが、どうにもこの男は苦手であった。

 黙ったままの萩と遼平に、池谷はニヤリと不快な笑みをして見せた。

「もうすぐテンチョー来るよ。やっと客も帰ったし片付けは早かったから。毎日毎日お姫様の送り迎え、よくやるね」

 これには萩もいささかカチンとし、しゃがみこんでいたその場からぬぉっと立ち上がる。するとそこへもう一つの声が割り込んだ。

「――あれー? 萩? 何してるの、そんなところで……って、遼平もいるの? ……池谷くんまで、どうしたの?」

 私服に着替え帰り支度を済ませた姉が、怪訝な顔でこちらに向かってくる。萩は強張った身体の緊張を無理矢理解いた。


「じゃ、俺は帰りますんで。お疲れしたー」

 不敵な笑みはそのままに、池谷は背を向けて去っていく。妙な空気が残り香のように漂う中、萩と遼平は小さく目線を交わした。

 そして遼平の乗った原付も夜の道のかなたに小さくなり、見送っていた姉が、ぽつりと呟く。

「……んか……変な感じ……」

「あ? 何か言ったか?」

「ああ、ううん、何でもない。さ、帰ろー」

 くるっと背を向け、池谷や遼平の行った方と逆の方へ歩き出す葵に、萩も慌てて放置状態であったバイクに向かった。



* * * * *



「お先ー。葵、どーぞー、……葵?」

 バスタオルで頭を拭き拭き狭いユニットバスから出れば、ひんやりとした冷房の空気が萩を包む。

 そんな中で葵は、部屋の中央にあるローテーブルに肘を突き、どこかぼんやりしていた。

 もう一度、葵?と呼びかけると、ようやく我に返ったように瞳の焦点を合わせる。

「あ、ああ……上がった? じゃあ、私も入ろっかな」

 立ち上がってバスルームに向かう姉の後ろ姿。

 昔からすっとしたスタイルで太ってなどいなかったが、姉が学生だったころはもっと筋肉が張って溌剌とした感があった。

 四年前の災厄によって激痩せした姉は、体重こそ元に戻りつつあるのだろうが、背も肩の線も腕や足も、妙にほっそりしてしまった気がする。


 萩は、葵が座っていた場所に胡坐をかいて座り込んだ。

 あの華奢な背に、萩はかつて、一過の災厄の元凶となった禍々しい痕跡を、確かに見たのだ。なのに、その重大さにこれっぽっちも気づかず、まんまと見過ごしてしまった。

 いまだ後引く後悔の念、痛恨の極み――



 当時、萩は高校二年……遅ればせながらも、思春期特有の世間に対する反抗心が、悶々としたエネルギーとなって発散場所を探していた。

 身近に吐き出せる親の存在があれば、また違ったのかもしれない。

 しかし萩が中学三年の頃、突然父は身まかり、その一年後、母まで病んでしまい転地療養を余儀なくされた。

 残された兄姉弟(きょうだい)三人で力を合わせて……と言えば聞こえはいいが、長兄の蓮は朝から晩まで働き詰めでろくに顔を合わせることもなく、短大とバイト生活で忙しい姉とも辛うじて朝晩の僅かな時間に顔を合わせる程度。それでも努めて明るく、何かと世話を焼いてくる姉に、萩の鬱憤が向かった。


 元々手際も要領もいい姉は、母の不在に泣き言も言わず、短大に通いバイトにも精を出す傍ら、懸命に家事をこなしていた。

 しかし萩は、掃除、洗濯、食事の準備などをすべて姉に任せておきながら、ろくに手伝おうともせず、挙句、わざと連絡もせず外泊をしたり学校をさぼったり、喧嘩交じりの騒ぎに首を突っ込んで心配させたりと、ずいぶん勝手し放題の日々であった。

 今、言い訳できるなら、あれは寂しさと無力感の裏返しだった、と思う。

 三兄姉弟の末っ子、今まで何の不安もなく傍にはいつも誰かがいたのに、相次いで両親が萩の傍から離れて行き、取り残された萩を置いて、兄も姉も(せわ)しなく前へ進んでいってしまう。

 萩もアルバイトを始めてはいたが、学業をおろそかにするほどの労働は兄から固く禁止されていたし、高校生のバイトなど稼げる額もたかが知れている。己の劣等感を慰めるには至らなかった。

 ガラリと変わった家族の形、自分だけが忘れ去られているような孤独感、そして、水奈瀬家を守ろうと忙しく立ち回る兄姉へのコンプレックスも相まって、萩のフラストレーションは日ごと膨らんでいき、抑えられなくなった苛立ちは、何かにつけて姉の葵に向かっていた。


 ――そんなある日。

 季節は夏前、じめじめとした梅雨空が続く夜のことだった。

 バイト先の友人とファミレスで夕食を済ませて帰って来た萩は、風呂へ入ろうと脱衣所のドアを開け、そこで姉とはち合わせた。

「――ああ、わりぃ」

 同じ屋根の下で暮らしていれば、こんなこともたまにはある。

 何の感慨もなく、むしろ、タイミングわりーな、と舌打ちまじりにドアを閉めようとして、萩はこちらに背を向けた姉の背中に、視線が止まった。

 シャンプーやボディソープの香りを含んだ熱蒸気を漂わせ、風呂から上がったばかりだろう姉は、上半身に薄いキャミソールを着ていた。

 その肩甲骨の上あたりにある、決して小さいとは言えない大きさの醜い青(あざ)

 白い肌に、青と茶と黄褐色のインクを乱雑にかき混ぜ染み込ませたような、不快な痛々しさがあった。

 さすがに無視できず、萩は思わず声をかけた。

「なにその痣。すっげーイタそー」

「えっ……あ、ああ……これは……」

 その時の葵は、あからさまに狼狽(うろた)えた。――今なら絶対、見逃せないほどに。

 が、すぐさまその狼狽を隠しこんで、葵は洗濯機の上にあったTシャツを素早く着込み、何でもないように笑った。

「こないだ友達とスカッシュしに行ってね、その友達のラケットが当たったの。酷いでしょ? 力任せに振るんだもん。その子もテニス部だったんだよ? なのに空振りもいいトコ。さすがにこれは痛かったなー」

 不自然なほど饒舌にまくし立てる姉の様子に、どうしてあの時、おかしいと思わなかったのだろう。

 いや、確かに違和感を覚えていたはずなのだ。それなのに、あの当時の萩は、自分の中に巣食った屈折感情からその眼は曇り、不自然な姉の様子にも煩わしさだけが突出して見えるだけであった。その結果、自らその凶兆を見逃した。

「あ、そ」

 そう言い捨てて、萩は素っ気なくドアを閉めた。ろくに姉の顔を見ないまま。


 それから、その出来事は萩の中ですっかり記憶の奥底に沈んでしまった。

 もしあの時、萩が事の重大さに勘づいて姉を問いただしていたなら、事態は何か変わっただろうか。

 せめてあの時、見たままをすぐに兄へと伝えていたなら、最悪の事態を免れただろうか。


 結局、姉に刻まれた禍々しい痕跡は、すでにあの災厄の種が植え付けられていたことの証しでもあり、あの時萩が何かのアクションを起こしていても、結果は同じだったかもしれない。

 それでも、後悔の念は消えることがない。

 萩はその数か月後、あの青痣が何を意味するのか、嫌でも思い知らされることになる。――最悪の形で、これ以上ない痛苦の叫びとともに。



「あれ? 珍しいね、飲んでないなんて。ビール、冷蔵庫に入ってなかった?」

 いつの間にか、葵がバスルームから出てきていた。

 ぼーっと座り込んでいた萩は、さっきと逆だな、と苦笑する。

「あー……何か、眠くなってさ。もう寝るわ」

 立ち上がってロフトへの梯子(はしご)に足をかけた萩は、バスタオルで長い髪をワシャワシャと掻き交ぜている姉を振り返る。

「……葵」

「ん? 何?」

「……あ、いや、……ああ、明日休みだろ? どっか行くの?」

「んー……明日はうちで仕事しようかなーと思って。お盆前にお客様へのDMも出したいし……会議資料もまとめておきたいし。萩はバイトでしょ? 夕飯何か用意しとこうか?」

「あ、いや、たぶんいらない。バイトの後、フットサルのやつらと会う約束があってさ、飲みに行くと思うんだよな。――葵もあんまり外、出歩くなよ」

「え? 何で?」

 壁掛け鏡の前で髪を拭きながら、葵は不思議そうにこちらを見やる。

 萩は内心ヤベ、と慌てつつ、必死に言葉を探した。

「あー……ほら、外、アチィじゃん。熱中症とか流行ってるし? それに……アレだ、日に焼けたらシミになるんだろ?」

「……ふふ、変なの。萩がそんなことに気を回すなんて」

 葵の口元が、小さく笑みの形を作った。

 が、すぐに鏡に向き直って髪を拭き始める。頭からすっぽり被ったバスタオルのせいで、葵の表情が見えなくなった。

「……ねぇ、萩」

「あ?」

「迷惑かけて、ごめんね」

「――は? ……ナニ、突然……」

 思わず声が上ずった。

 反して、葵はバスタオルを被ったまま、静かな声で続ける。

「だって……私、半ば強引に一人暮らし始めちゃったでしょ? ……蓮兄は仕事忙しくてなかなか家のことできないっていうのに、萩を置いて出てきちゃったから。……今まで面倒な思い、させちゃったなぁって。こうして一緒に暮らしてみて、なんか、改めてそう思った」

「んなの……どうってことねーよ。オレだって、飯ぐらい何とかできるし。ほら、炊飯器の水加減とかタイマーセットとか、もうカンペキだし」

「ふふ……。でもさ……私がもっと強ければ……蓮兄や萩をあんなに心配させることもなかったんだよね。ホントに、ごめんね」

「葵……?」


 何だか雲行きが怪しい。どうして今、このタイミングでそれを言う?

 ……まさか。

 いや、あり得ない。

 でも、まさか。


「おやすみ、萩。目覚まし、ちゃんとかけときなよ?」

 バスタオルを外した葵の表情は、いつもと変わらない……ように見える、けど。

 部屋の蛍光灯が消された。次いで部屋の隅にある、小さなフロアライトが点けられる。やんわりとした温かみのある光の中で、葵は書類を広げ始めた。

 萩は、それ以上かけるべき言葉が見つからず、仕方なくのっそりとロフトへの梯子を上がる。


 ――不吉な予感がする。なんか、ヤベんじゃねーか? ……この感じ。


 折りたたんであった客用布団を広げ、萩はその身を転がした。


 ――まさか……葵……気づいてねーよ、な……?


 もしやの予感に胸はざわつくが、でも、もう止められない。ここで葵に全てを打ち明けるわけにはいかないのだ。

 気取られてないことを祈り、そして気取られぬうちに処理することを胸に誓う。


 それが、葵の幸せのためなのだ――そう、萩は信じて疑わなかった。





 

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