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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第1部
32/114

裏8話   水奈瀬蓮、偶然と必然が重なる時

 水奈瀬蓮と黒河侑司が、ようやくサシで向かい合える都合がついたのは、七月の終わり――弟の萩が警察に連行されるという騒動から数日経った、その週の金曜の夜だった。

 外野を交えずじっくり話がしたいと思ったはいいが、蓮が立て込んだ仕事になかなか目途がつけられない一方で、黒河侑司もここしばらく、抱え込んだ仕事はMAXレベルだったらしい。

 奇跡的ともいえるタイミングで、金曜の夜なら、と双方の空き時間が重なった時、蓮は柄にもなくシステム手帳の金曜の日付を大きく丸で囲んだ。



 その晩、ほぼ同時刻に待ち合わせ場所へ到着した二人の男――背格好がよく似た見目の好い二人は、連れ立って一軒の店の中へ入る。その寸前、通りを行きかういくつかの好奇な視線を浴びたような気がしたが、気のせいということにしておく。

 乃木坂の裏小路にあるこの小さなダイニングバーは、この界隈では密かに有名らしい。なんでもワインやリカーの種類が極めて国際色豊富に取り揃えてあるそうで、通好みの客のみならず、海外からの渡航者や居住外国人などのリピーターが後を絶たないという。


 黒河侑司の先導で入った店内は、特別大仰でも奇抜でもないのに、不思議なほど外界を忘れてしまいそうな異空間であった。

 窯変(ようへん)煉瓦をあしらった壁面と木目も鮮やかなウォールナットの床面。広さの割にはテーブル数が少なく、テーブルごとの間隔が広い。計算された間接照明が作り出す光と影が、どこか中世を思わせるような幻想的で重厚感ある雰囲気を醸し出しており、壁にかかった絵画や品良く施された黒のドレープカーテンがさりげなくそれを助長している。

 フロアの最奥いっぱいに広がる大きなカウンターの壁棚には、びっしりと秩序よく並べられた大小色とりどりのリカーの瓶。その中で一人、白髪交じりの長髪を後ろでくくった初老の男性が、柔らかな手つきでアルコールを作りだしている。バーテンダーというより、古きヨーロッパで使われていた “バーマン” という呼称の方がしっくりくる、深い重みを感じる存在感があった。

 金曜の夜だからか、少ないテーブル席はほとんど埋まっていた。中には数名外国人も交じっている。だが、そこには猥雑な喧騒さや浮き足だった空気が微塵も感じられない。

 ドレープカーテンと仕切り壁で隔たれた、半個室のテーブルに着くまでのわずかな間にそれだけを観察した蓮は、なかなかいい店だ、と好評価を下した。


 座り心地の良い革張りの独り掛けソファに腰を落ち着け、 “マッカラン” の十五年をダブルで注文した。自分で思う以上に気分が良かったのかもしれない。

 この店への印象を感じたままに述べれば、斜め向かいに座った男はその賛辞を淡々と受け取る。好奇心に満ちた蓮の質問に、彼が抑揚少なく答える中で、実に興味深い裏話が聞けた。


 クロカワフーズの副事業に『プルナス』というダイニングバーが二店舗あるらしいのだが、その開業モデルとなったのが、今いるこの店なのだそうだ。

 ここのオーナーは、国内のリカー流通業界に顔が利く特殊な立場の人物らしく、彼の伝手により、クロカワフーズ傘下の店はどこも、品質の確かな極上のリカーやワインを優先的に入手できるようになったという。そういった背景から、そのオーナーなる人物は異例的にクロカワフーズのマネジメントにも参加しているらしい。

 畑は違えども、自分も同じようにマーケティングに関わる仕事だ。どの業界でも、人のつながりは肝要で時に奇異で、それが面白い。

 聞きながら、いずれ機会があれば、広尾と表参道にあるらしいその『プルナス』にも足を運んでみようか、と思ったりもした。


 注文した飲み物がきて、蓮はまず、深い濃麦色の芳醇な香りを楽しんだ。その向かいで、黒河侑司は無表情のまま、水のドンぺリと言われる “シャテルドン” をグラスに注いでいる。

 夏の宵にもかかわらず、びしっとスーツジャケットを着込んだ彼は一筋の汗も流しておらず、その無愛想さえ涼しげだ。

 蓮もスポーツメーカーといえ本社勤務なので、そう砕けた服装ではない。が、さすがにクールビズを推奨する世の流れに則り、夏場は半袖シャツとスラックスという軽装だ。ノータイでも問題はない。

 しかし、目の前の男はしっかりスーツ上下を着こんだ上に、ネクタイまで結んでいる。光沢のある濃紺の幾何学模様が、品良く知性的に感じられた。

「車か?」

「ああ」

「悪いな、俺だけ」

「いや、構わない」

 お互いに軽くグラスを掲げると、黒河侑司はその透明の炭酸水を半分ほど一気に飲みほした。超硬水かつ強炭酸のそれを、普通の水のように飲み干すとは。内心苦笑しつつ、蓮も熟した果実のような深い味わいと、長く残る馥郁(ふくいく)とした余韻を楽しんだ。


「……ずいぶん、泳ぎ込んでいるんだろう?」

 濃麦色の液体に浮かぶ、完璧な透明度の氷山のような氷。ゆっくりまわすと、カラ、と軽い音を立てる。片手でタンブラーを弄びつつ、蓮はゆったりとソファに背を預けた。

「その身体、マシンだけじゃないはずだ」

「……兄妹そろって、同じようなことを言うんだな」

 表情こそ大きく変えないものの、口調だけはどこか憮然と聞こえる。そんな彼が妙に可笑しくて、緩む口元を隠すように、蓮はもう一度タンブラーに口をつけた。


「うちの死んだ親父は理学療法士だったんだよ。大学病院でリハビリ専門医をこなす傍ら、時々スポーツ選手のリハビリトレーナーとして呼ばれることもあったんだ。だから人間の身体組成に関しては詳しくて……その影響だろうな、スポーツ観戦していても家族全員が勝敗そっちのけで、アスリートの骨格や筋肉談議に夢中だった。水奈瀬家は全員、ちょっとした骨格筋フェチ、だ」


 およそプロと呼ばれるスポーツ選手は、個人差こそあるにしても、そのスポーツに見合ったそれ相応の体格を持っている。走ることが多いスポーツ、腕を使うスポーツ、腰を使うスポーツ……競技によって発達する部位は大きく異なる。

 同じ陸上競技選手でも、長距離選手と短距離選手ではその骨格筋がまるで違い、同じ野球選手でも、投手と捕手ではその体格に差がある。競泳選手でさえ選択する種目によって体型は違ってくるのだ。しかも、鍛錬に費やした時間が長ければ長いほど、その相違は顕著でそれが面白い。

 水奈瀬家では、家族団欒と言えば、そういった骨格筋談議に突入するのが必然だった。

  “鍛錬を積まれた肉体はどんな形でも美しい” ――父はよくそう言っていた。男女問わず、競泳選手でも陸上選手でも、ボディービルダーでも関取でも、だ。

 つまるところ、努力した分の成果は必ず身につく、という父なりの教訓だったのかもしれない。その教えは見事に三兄妹弟へ浸透していると、この歳になって思う。

 ただ、女である葵の、無邪気に異性の身体を分析する習性には、正直ヒヤヒヤしているところだ。誤解を与えかねない発言は止めろと、再三、釘をさしてはいるのだが。


「……なるほどな」

 黒河侑司は静かに相槌を打つ。

 あまり他人にすることのない家族の話は、語ってしまうとそれなりに面映ゆさがある。蓮はさりげなく話筋を変えた。

「それはそうと……俺のこと、よく覚えてたな。特に話したこともなかったはずだが」

定埠(じょうふ)高校の青柳と水奈瀬、大友や東海林辺りは有名だった。SCジュニアの頃も『アオヤギ・スイミング』は目立っていたからな」

 懐かしい旧友たちの名が出て、蓮は苦笑する。

「はは……そうか。確かに悪目立ちしてた感はある。黒河は確か『KSS東京』……だったか」

「……小学生の頃だけだ」

「名誉なことじゃないか。伝手と金と、ずば抜けた素質がなきゃ入れるところじゃないんだろう?」

 日本代表選手を何人も輩出してきた、都内でも有名な老舗スイミングスクールだ。からかい半分の問いかけに、黒河侑司は答えることなく、グラスを傾けた。


 ――訪れる沈黙。

 フロアからさりげなく隔離されたこのテーブルは、耳に柔らかく緩やかなBGMのおかげもあって、他の客の存在を上手く遮断している。

 蓮は、相手の手元にあるグラスの小さな気泡から、真正面の男に視線を上げた。


「……なぁ、何故辞めたか(、、、、、、)、訊いてもいいか」

 その瞬間、動かない侑司の、双眼だけが熱を宿した気がした。

 同い年にしてそれぞれ競泳を続け、様々な大会で顔を合わせてきた。仲良く言葉を交わした覚えはないが、記録を競い合うだけにお互いの名は必然的に覚える。

 数か月前、葵の口からその名を聞かされるまで、蓮は確かに、この男の存在を忘れてはいたのだ。しかしあの頃からずっと、心の奥のどこかに引っ掛かっていたような気がする。

 当時高校二年、インハイもインカレも、五輪選考にも行ける素質を持った記録保持者が、とある日を境に競泳部から姿を消した。――どうして。


「あの支部大会の騒動(、、、、、、、)が原因か? お前が慧徳の競泳部を辞めてしまったのは、あの事件(、、、、)の後だよな。でも黒河……お前は、被害者(、、、)だったはずだ」

 侑司に向ける視線が、彼のそれとぶつかった。静かで無機質だが、途轍もない熱を秘める双眸。がしかし、彼はその瞳を静かに伏せた。

「……色々事情が重なっただけだ。……別にプロを目指していたわけでもないし、競泳に執着していたわけでもない」

「俺にはそう見えなかったけどな。少なくとも、あの前の年のインハイ予選、俺はお前に負けている」

「……話があるんじゃなかったのか? “妹” のことで」


 涼しい顔のくせに、やはり眼だけが剣呑なエネルギーを孕んでいる。まるで中枢回路に侵入する外敵に向けて、超高熱のパルスレーザーでも発射しそうな眼だ。

 ――禁忌(タブー)、か。

 蓮は小さく肩をすくめた。別に、根掘り葉掘り穿(ほじく)り返したいわけじゃない。

 せっかくの酒の味を台無しにするような下賤な真似は、慎んだ方が良さそうだ。


「……そうだな。訊きたいことがあると言ったのは、嘘じゃない」

 こうして、この男とサシで向かい合う本来の目的を、もちろん忘れていたわけではない。

「まずは改めて、うちの弟が暴走した件について謝る。悪かったよ。葵を病院に連れていってくれたことも礼を言う。ずいぶん迷惑をかけたな」

「……いや、それはいい」

 呟くように言って、侑司は残りの炭酸水を飲み干した。

 蓮はそれとなく様子を見ながら、注意深く言葉を選ぶ。あれこれ詮索されたくないのは、こちらも同じなのだ。


「……詳しく訊きたかったのは、例の、無言電話の件だよ。実は、先々週くらいか……弟がその話をどこからか聞いてきて、わぁわぁとうるさく騒ぎだしてな。……葵が、変なヤツのストーカー被害でも受けているんじゃないか……と言いだした。……ああ、いや、弟はシスコンってわけじゃないんだが……死んだ父親の代わりを、と気負っているのか、どうも葵の周辺には過敏になってしまう節があるらしい。そういった思い込みと無鉄砲な性分もあって、こないだの夜も、よく確かめもせず、あの少年を追っかけてしまったんだな」

 正直、高校生を “あの男” だと思い込む萩の盲進には、呆れ果てて弁解する気にもなれないのだが、そこは “出来の悪い可愛い弟を持つ兄” テイストで擁護(ようご)しておく。


「まぁ、それはさて置き、だ。あまりにも弟が騒ぐもんだから、俺も多少気になってな。……それで、何か詳しい確かな情報が得られれば、と、黒河に連絡したんだ。――だがそれも、こないだの騒動で解決できたな。慧徳学園の男子高校生が無言電話の犯人だったんだろう? まったく……あいつの早とちりや猪突猛進さは今に始まったことじゃないんだが……今回ばかりは心底呆れたよ」

 そして、萩の野性的第六感――兄の自分から見ても目を見張る的中率を誇る――も、今回ばかりは外れたということだ。そういうことも稀にある。


 蓮が無言電話の話を聞いたのは、図らずも、黒河侑司と何年かぶりに再会した、あの雷雨の日の夜だ。

 矢沢遼平から入手したというその情報を、萩は得意気に披露し、その犯人を “あの男” だと睨んでいたようだが、蓮自身は聞いてすぐに、違うと思った。

 蓮は “あの男” に直接会いに行き、わずかな時間であったが、そこで彼の人間性を見た。だから、確信がある。

 許せない男、軽蔑に値する男、二度と関わり合いたくない男――四年たった今も、 “あの男” に対する心情はまったく変わらないが、それでも、無言電話という行為と “あの男” は結びつかなかった。

 仮に、こうした己の論理的思考に基づく主観を差し引いたとしても、やはり萩の説には納得しかねる部分がある。

 萩が主張するように、妹とヨリを戻したいがためというなら、何度も執拗に正体を明かさないまま無言電話などかける必要があるのか、と思った。さっさと姿を現し、自分の存在をアピールしたいのが、未練のある男の心情だろう。

 あるいは狂気に走り、ストーカーじみた思考から無言電話を続けるのであっても、葵の携帯ではなく店にかけるのならば、葵自身に、標的はお前だと気づかせたいのが、一般的なストーカー心理なのではないか。

 店長である葵は、おそらく何度もその電話に出たはずなのだが、徹底して “非通知” で “誰が出てもすぐに切れてしまう” という正体不明さが、蓮は解せなかった。

 しかもだ。その無言電話が始まったのは、 “一か月くらい前から” だという。つまり、それは六月初め頃から、ということだ。

 蓮は、『御蔵屋百貨店』に勤める青柳伸悟を介して、“あの男” の周辺を密かに探らせている。それこそ “あの男” が東京に戻ってきた四月当初からだ。しかし、不審な動きを示す報告はそれまで一度も来ていない。

 伸悟は今まで培った人脈を駆使して、百貨店内に蜘蛛の巣のような情報網を張り巡らせている。もしも、 “あの男” が一か月以上も不審な迷惑行為を続けていたとしたら、その網に引っ掛からないはずはないのだ。


 ――無言電話は、 “あの男” の仕業ではない。

 それが、蓮の論理的思考の出した結論であり、果たして、それは正しかったと証明された。


 若干薄まったモルトウイスキーで口内を潤してから、蓮は続ける。

「あの少年に関する大まかな事情は、葵からの電話で聞いたよ。被害届は出さない、と言っていたがな。……あいつの欠点はそういうところなんだ。他者に対して甘すぎる。女としてなら、それは優しさの一言で片づけられるが、一つの店を任される管理責任者としては、その甘さが大きな失態を招く呼び水にもなりかねない。常日頃からもっと危機管理意識を持て、と言ってはいるんだが、なかなか――、」


「――犯人は……水奈瀬を、妊娠させた男(、、、、、、)、だと思ったか」


 カラ、と手に持ったタンブラーの氷が大きく動く。

 今まで黙って聞いていた男は、たった一言で蓮を驚愕に凍りつかせた。

 完全に不意を突かれ固まった蓮だが、それでも脳内は電光石火の速さで回転させる。

「――今、何て言った……?」

「聞こえたはずだ」

「……黒河……お前、誰から――」

「誰かから聞いたわけじゃない。……が、おそらく大体は、知っている(、、、、、)

 ――知っている(、、、、、)……? 何を(、、)どこまで(、、、、)……?

 蓮の射るような視線を受けて、侑司は同じような鋭い視線を返してきた。


「俺も話したいことがある、と言ったな。水奈瀬の兄であるお前には、話しておいた方がいいと思った。……水奈瀬本人、ではなく」

 そこで一旦言葉を区切り、黒河侑司はほんの僅かに、その表情を歪めた。一瞬だけ見せた、その “苦悶” とも取れる表情の意味は――?

 ――と、蓮がその先深く考える余裕を与えず、侑司は強固な眼差しで蓮を見据え、再び蓮が凍りつくような一語をその口から発した。


「…… “イサワ” という男に、心当たりはあるか?」

 ―― “イサワ” だと?

「歳は二十代半ばから後半……『御蔵屋百貨店』に勤めているらしい」


 ――『御蔵屋百貨店』銀座支店、顧客外商サービス、伊沢(、、)尚樹(、、)――


 瞠目したまま二の句が継げない蓮に、黒河侑司はスキャニングするような双眸を向けた。

「――心当たりが、あるようだな」



* * * * *



 店を出て、黒河侑司と別れた。時刻はもう、夜十一時を回っている。

 蓮はタクシーを捕まえるべく小路を抜け、この時間でも人通りの絶えない大通りへと歩を進めた。何かに追われるように。

 ここへ来た時は、少なからず気分が高揚していた。

 嗜好を満足させる上質の店、不思議と興味を惹かれる黒河侑司という人物――申し分のない酒肴に、つい多弁になった自覚さえある。

 それが今、暗澹たる後悔と歯軋りしたくなるような煩悶に、身が蝕まれていく気分であった。


 ――まさか、あの二人が(、、、、、)再会する(、、、、)ことなど、あり得ないと思っていた。

 可能性はゼロでないとわかっていても、よもや向こうが会いに来るわけはない、まして、偶然出会う確率など(ことごと)くゼロに近いだろう――そう、高を括っていたのだ。

 にもかかわらず、その偶然が、起こってしまうとは。


『――あの日、一度本社に戻ったんだが、そこで気になる話を聞いた。……俺の先輩からだ。もちろん、信用していい。……彼が言うには、会場の撤収作業がほぼ終わった頃、一人の男性が会場入り口付近をうろついていたらしい。……声をかけたところ、 “こちらの会社にみな……” と言いかけたそうだ。その時、もう一人の連れがその男を呼びに来た。 “イサワ、何やっているんだ?” ……と』

 ――そんな、馬鹿なことが。


『――結局、そのまま立ち去ったというが、その二人、『御蔵屋百貨店』の関係者である可能性が高い。その日、別会場で『御蔵屋百貨店』の特別招待会があったことを、先輩が確認している。……そして、その若い方の男が言いかけたのは “水奈瀬” だったんじゃないか、と先輩は言っている』

 ――今更、そんな偶然が?


『――それから、水奈瀬と同じ持ち場を担当していた責任者にも、後日話を聞いた。……あの日、彼女は昼過ぎ頃休憩に入ったんだが、戻ってきた後、少し様子がおかしかったらしい。……ちょうどパーティーが終盤に差し掛かり忙しい時だったから、気になりながらも声をかけることができなかった、と言っていた。そうこうしているうちに、裏で衝突事故が起こってしまい……』

 ――しかし、現実は疑いようもなく。


『――設営準備の段階で、俺は水奈瀬と言葉を交わしたが、その時彼女におかしな様子はなかった。持ち場についてからも、特に変わることなく仕事をしていたと聞く。……つまり、昼食休憩で彼女が会場を離れたその間に、何かがあった……そう考えざるを得ない』


 蓮は思わず立ち止まり、目を閉じる。

 黒河侑司が容赦なく並べ立てた非情な事実。存在自体信じていなかったパズルのピースが次々に()め込まれ、見たくもない忌々しい絵柄が、嫌でも眼前で完成されていく。

 どのような状況下で二人が再会したかはわからない。言葉を交わしたのか、お互いに姿を認めただけなのか、蓮には判断のしようがない。

 しかし確実なのは、 “あの男” ―― “伊沢尚樹” と会ってしまったという、その不運。


 恥ずべき失態だ。油断以外の何物でもない。ギリと歯噛みした途端、不意に笑いだしたくなる。

 ――萩の勘は、当たったな。まさに、目を見張る的中率だ。

 だが、論理的根拠のない弟の第六感を、蓮は笑えない。漠然と感じていた不穏な予感は、他でもない自分の中にも、あったのだから。

 実のところ、蓮が再会したばかりの黒河侑司に連絡を取った真の理由は、無言電話の件などではない。あの日、葵がおかしかった(、、、、、、)からだ。


 あの雷雨の日、てっきり休みだとばかり思って会いに行った葵は、朝から仕事だったらしい。

 よほど疲れたのか、どこか上の空で、土産に買っていった『香苑』の点心にもあまり箸が進まなかった。嬉々として好物を頬張る妹の笑顔を、心のどこかで楽しみしていたのだが。

 腕に負ったという火傷が酷く痛むのかと思ったが、見たところそこまで痛がっている様子はなかった。

 しかし顔色は悪い。時々手を擦り合わせるような不自然な仕草も気になった。……だが。

 大丈夫だから、と力なく微笑む妹は、兄のそれ以上の詮索を拒んでいた。

 四年前の災厄から、葵と自分の間に現れるようになった眼に見えない壁。普段は感じなくても、ふとした瞬間、それは透明なガラスを張り巡らせたように蓮を拒む。まるでこの先は踏み込まないで、と懇願するかのように。こうなると蓮にはどうしようもできない。

 結局、釈然としないままアパートを後にするしかなかった。

 萩から無言電話の話を聞いたのは、その帰宅後すぐだ。

 弟の主張する説に対し、いや違うあり得ない、と否定する論理的思考の裏で、湧いて出る不穏な予感は拭えなかった。その日見た、いつもと違う葵の様子が小さな小骨のように引っ掛かってすっきりしない。

 萩とは違い、説明できない曖昧で不確かなものは、蓮の最も苦手とするところだ。

 だからあの夜、再会したばかりの黒河侑司に連絡した。妹の上司である彼から何らかの情報を聞き出し、確固とした理論や根拠で、判然としない己の思考をきっちり裏付けしたかった。


 ――裏付けはされた。最悪の形で。


 大きく息を吐き出し、蓮は再び足早に夜の道を歩き出した。対向する乗用車のヘッドライトが、蓮の沈鬱な面貌を浮き上がらせる。

 驚くべき重大な事実をいくつももたらした黒河侑司は、一貫して淡々と事務的であった。

 妹が昔の男と再会したかもしれない、というだけでここまで大袈裟に動揺する男など、普通なら滑稽の一言に尽きるだろう。だが、彼は蓮を(いぶか)ることも(さげす)むこともしなかった。

 四年前から(、、、、、)葵を知っていた(、、、、、、、)という彼は、その経緯を、自らの記憶回路にある取るに足らない雑多な記憶の中の一つでしかない、とでもいうように、ただ端然とした口調で語った。


『――たまたま偶然が重なり彼女を知った。それだけだ。俺が知っているということを、彼女は知らない。この先も、教えるつもりはない』


 しかもだ。黒河侑司は、蓮が触れられたくない心の奥の隙間を、容赦なくダイレクトに突いた。

 今、蓮を煩悶させているのは、もしかしたら、伊沢尚樹が妹に接近しつつある事実よりも、黒河侑司に突きつけられた正論(、、)の方、なのかもしれない。


『……このまま、遠ざけておくつもりか? 壊れもののように囲って守って、一生、彼女自身に向き合わせないつもりなのか?』


 わかったような口を利くな、とその時は振り払った。しかし、その声はまるで質量を持たなかっただろう。

 黒河侑司の警告は、それきりであった。


『――伝えるべきことはすべて伝えた。秘密厳守は固く約束しよう。……俺はこの先、何も関与しない』


 気がつけば、都道との交差点まで来ていた。タクシーが列をなして通り過ぎていく。首筋を生温い夜風が撫でて、滲んだ嫌な汗が一筋流れた。

 冷徹な面貌のくせに、途轍もない熱を孕ませたあの両眼が、今この瞬間も、蓮を責め続けているようであった。





 

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