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アーコレードへようこそ  作者: 松穂
第1部
3/114

第2話   打ち上げで、乾杯

 自ら宣言した通り、その日杉浦マネージャーは、夕方からのディナータイムにフロアスタッフとして入り、惜しげもなく華麗な接客技を見せた。


 『アーコレード』の接客スタッフ用制服は男女ともに、ピンタックカラーの白シャツと黒色スラックス、黒の蝶タイ、濃茶のセミロングサロンだが、店長、マネージャークラスになるとその上に黒ベストを着用する。『櫻華亭』のフロアスタッフが全員黒ジャケット着用必須なことを鑑みれば、こちらの制服は幾分カジュアル志向であろう。

 完璧なギャルソンスタイルで、「キラキラ」という音付きの笑みを(たた)えながら接客する杉浦は、実は常連の女性客の中にもファンが多い。彼も(わきま)えているのか、いつものチャラい口調は微塵も見せないのが小憎らしい(まぁ当たり前だ)。

 そんな上司の姿を横目に、あのギャップは何なんだろう……と葵が密かにため息を吐くのも、もはや日常風景となってしまった。


 忙しくも楽しいディナータイムは滞りなく過ぎていき、ようやく客が引ける頃、チーフの佐々木から杉浦へと、拒否不可の命が下る。

「終わったら飲むぞ。杉ぃ、お前も来い」

「えー、寝不足なんですけどー」

 こうなると、杉浦がどんなに渋っても結局は強制参加となる。ブーたれる杉浦に、アルバイトたちが自分たちも行きたいと同行をねだった。

 それならば、みんなで頑張った三周年感謝御礼企画の成功を祝して打ち上げをしよう、と葵が提案すれば、アルバイトたちは満場一致の賛成票。

 杉浦の恨めしげな視線に、葵はにんまりと笑った。



* * * * *



 駅を挟んで店とは反対側にある居酒屋『絆生里(はんなり)』は、葵たちの行きつけの店となっている。

 個人経営の小規模な店で、和風の肴はどれも美味しく酒の種類が豊富、値段はさほど高くない。酒無しの食事メニューも出しているので、学生アルバイトも酒飲みの佐々木も、双方満足できるとあってよく利用しているのだ。

 片付けを終えたアルバイトたちを先に行かせ、最後のクローズ業務を急ピッチで済ませた葵が、一足遅れて『絆生里』の暖簾をくぐると、顔見知りの従業員が威勢よく出迎えてくれる。

 挨拶を返し、案内された店奥の一つしかない座敷への格子戸を開ければ、既に集まったお馴染のメンバーが、飲み物片手に各々和んでいた。


「店長ぉー! こっち、こっち! ここ来てくださ~い!」

 座布団をバンッバンと叩いて葵を呼ぶのは、アルバイト歴一年フロア(接客)担当の斎藤亜美。

 座敷テーブルの最奥で佐々木と向かい合う杉浦の隣に座り、ふっくらとした頬が上気して桃色に染まっている。

 他には、同じくアルバイトでオープン当初からいるフロア担当の池谷夏輝、篠崎耕太の二人と、キッチン(厨房)担当の矢沢遼平、半年前に入ったばかりの吉田峻介がいて、各自のペースで飲んでいるようだ。

 そして、今日はバイトに入っていない笹本昌幸という厨房担当を加えた総勢六名が『アーコレード』慧徳学園店のアルバイトスタッフメンバーである。矢沢遼平以外は皆、近隣の大学生だ。

 ちなみに吉田がまだ十九歳で、飲んでいるのはノンアルコール(のはず)、あとは全員二十歳以上で飲酒OKである。


「亜美ちゃん大丈夫? もう酔っぱらった?」

 苦笑しつつ葵がとりあえず指し示された座布団に座ると、亜美は、「ぜーんぜん酔ってませんよぉ~」などという酔っ払い常套句を吐き、酒で潤んだ瞳をキラキラさせて葵に向き直った。

「てーんちょ! さっき杉浦さんから聞いたんですけど! 新しいマネージャーさんって、クロカワフーズの御曹司で超イケメンってホントですかっ?」

 掴みかからんばかりの勢いに、葵はうっ……と一瞬仰け反る。

 助けを求めて見回すと、杉浦がニヤニヤ笑っていた。

 ……何を吹き込んだんですか杉浦さん。

 葵は非難がましい眼を彼に向ける。大体、今時 “御曹司” なんて、仰々しい。


「亜美、まずは乾杯だろ。はいテンチョー、生チュー」

 葵の正面に座る池谷が、ドンッとジョッキを眼前に置いた。

「私、生チューって言ったっけ?」

「何飲んでも一緒じゃん。テンチョー、ザルなんだから」

 そういう池谷も、今日は珍しくいい感じにアルコールが回っているようだ。男のくせに繊細な縁取りをみせる目元が、ほんのり赤くなっていて、それが何となく色っぽい。いつも以上に。

 葵は「はいはいそーですね」とジョッキを受け取り、さっさと乾杯の音頭を取ることにする。

 店長である葵が乾杯の音頭を取るのは、慧徳学園前店の恒例事項だ。どんなに葵が遅れて来ても、先にみんながどれだけ飲んでいても、こうして一度仕切り直させてくれるのは、何だかんだ言っても皆が、葵を店長として立ててくれるからであろう。


「はい、ではお待たせしました。えーと、三周年感謝御礼企画、お疲れ様でした! お陰さまで今月は前年比114%と、かなりいい数字が出ました! お客様にもたくさんいいお言葉をもらっています。これもみんなが頑張ってくれたおかげです。本当にありがとうございました。また明日から気を引き締めて頑張っていきましょう! お疲れ様でした! カンパーイ!」

「カンパーーーーイ!」

 高々とジョッキを掲げ、みんなの声に合わせて葵は半分ほどを一気に飲み干す。食道から胃にかけてカッと伝わる炭酸の刺激が堪らない。


「水奈瀬はなんつーか……顔に似合わず気風が良いよな」

 葵がふはぁーと息を吐いたところで佐々木が呆れたように苦笑した。

「キップ? 電車の切符ですか?」

「チゲーよ! 意外に男気があるってことだよ」

「それは暗に “女らしくない” と仰ってるんですかね?」

「アオイちゃ~ん、君は可愛いよー? 佐々木さんはね、アオイちゃんのギャップに “萌えて” いるんだよ」

 ニヤニヤと笑う杉浦に「馬鹿かお前は」と突っ込む佐々木。

「ギャップ、と言うなら杉浦さんじゃないですか。あんな接客するなんて詐欺ですよ。いつか “杉浦ファン” のお客様に、普段の杉浦さんを洗いざらい暴露ってやろうと思ってるんですよね~。この人、羽毛より軽いんですよー、って」

「ちょっとアオイちゃーん。俺は気高く堂々たるジェントルマンだよ? 吹けば飛んでく、みたいな言い方は心外だなー。ねー、アミちゃん?」

「そーですねー、杉浦さんはジェントルジェントルー」

「アミちゃん……ソレ嘘っぽいねぇー」

 苦笑する杉浦は、ちびちびと焼酎をロックで飲んでいるようだ。焼酎好きの佐々木に付き合わされているのだろう。たまにこうして杉浦とも酒を飲む機会があるが、弱くはないらしい。ただ慢性寝不足のため、いつも後半は眠たげにしている。

 今日は帰ることを諦めたのかな……と、上司に同情しつつ、再びジョッキを口元に近づけた時。


「そ、れ、よ、り、もっ! 新しいマネージャーさんのことですよ! 三十歳にして独身らしいじゃないですか! 店長、アタックしてみたらどうですかっ?」

「あのね、亜美ちゃん……」

 葵は亜美を押しとどめようとするが、彼女は酒の勢いもあるのかいつも以上にまくし立てる。

「店長! もったいないですよ! そんなにキレーでカワイーのに男っ気ゼロですもん。二十代なんかあっという間ですよ! その先は枯れていくばっかりなんですよ! 女は仕事ばかりじゃダメなんです! 恋をしないと恋をっ!!」

「コ、コイ……?」

 いつになく迫力大の亜美に、葵は四十五度ほど後方へ仰け反った。

「……ち、近いよ亜美ちゃん。あ、あのね、いつも言っている通り、私にそーゆー暇はな……」

「時間は自ら作るんですっ!!」

 ぴしゃんと言い放った亜美に、勘弁して、と内心ため息を吐く。

 亜美は明るく元気で人懐っこく、葵から見ても非常に可愛らしい。仕事もよく頑張ってくれるし良い子なのだが、何故か度々こうして葵に “恋愛” を勧めてくる。それはもう求人情報誌の営業マン以上のしつこさだ。

 仕事場なら何かを口実にかわすこともできるが、こういう席では逃れようがない。誰か助けて!とばかりに、葵はSOSな視線を周りに発するのだが。


「まー確かに、飲食業は拘束時間長いしなー、出会いもなさそーだし? 店の客とどうこうなるより、新しいマネージャーさんとの方が可能性あんじゃね?」

 したり顔で語る色気顔池谷に、その隣でうんうんと頷くクマ顔篠崎。

 そして「まぁ、侑坊もいい歳だしなぁ」と、のんびり煙草を吹かす佐々木。「いーんじゃなぁい? うちは社内恋愛禁止じゃないしー」と、ニヤニヤする杉浦。

 そしてそして、一人手羽先と格闘する吉田に、無表情でビールを飲む遼平。

 ……誰も助けてくれず。

「でしょっでしょっ? あたし、断然協力しますから! テンチョっ頑張りましょっ! ねっねっ!」

 今や亜美は、葵の両手首を物凄い力で握りしめブンブン振り回すので地味に痛い。可愛い顔してこの握力は何なんだ……?

 葵は亜美のブンブンを何とか抑え込み、「おー、頑張れ頑張れー」と他人事のように野次る杉浦をギッと睨んだ。

「頑張りませんっ! 私のことはいいんです! ホントにそんな余裕ないんですってば! 亜美ちゃんも余計なこと黒河マネージャーに言わないでよ? 失礼でしょ、ね? ――あ、ほら、鳴ってる鳴ってる。ハイハイちょっと電話来たからゴメンねー」

 なんとタイミング良く、脇に置いた葵のバッグの中からバイブ音。葵は今だ!と亜美の拘束から逃れ、素早く携帯を掴んでその場を逃げ出した。


 最近特に、亜美の押しは強くなる一方だ。

 女の子だからそういう話題を好むのはわかるのだが……葵は本当に困るのだ―― ”恋愛“ 話を振られるのは。



 座敷から出て壁際の隅に行き、急いで携帯を耳に当てれば、聞き慣れた声。

『出るのおせーよ』

 開口一番文句を垂れるのは葵の三つ年下の弟、(しゅう)だ。

「ごめん、飲んでた」

 へへ、と笑って謝る葵に、愛弟はイラついた口調を隠しもしない。

『来月休み取れんの? 蓮兄(れんにい)が休み合わせるから連絡くれって、何度もメールしてるらしいけど?』

「あ、ごめん。忘れてた……」

『てめー』

 事情があって現在宮崎県に住んでいる母に会いに行くため、その日程について六つ上の兄から何度かメールがきていたのだが、ここ最近の忙しさで後回しにしてしまっていた。

『……で、いつ? 蓮兄は四月か五月かだけでも決めて欲しーんだと』

 呆れたような溜息とともに響く萩の不機嫌な声が、耳に痛い。

 来月……四月は……と、素早く思いつく予定を頭の中に羅列してみる。

 新年度……季節メニュー切り替え、三周年企画の報告書まとめて月会議、大型連休前のシフト調整と棚卸し……そして、マネージャー異動(チェンジ)。……ダメだ。


「うーん、たぶん四月は無理だ……取れてゴールデンウィーク明け、かなぁ……」

『わかった、蓮兄に伝えとく。休み決まったらすぐに教えろよ。オレも行けたら一緒に行く』

 そう言う萩は、三月のお彼岸休みにも一人で宮崎に行ったはずだ。

 医療系の専門学校へ通う萩は、何だかんだと口実をつけては足繁く宮崎を訪れる。バイト代のほとんどがその運賃に消えているのではないだろうか。

 葵は萩と二人で今年のお正月に行ったのだが、その時は兄の蓮が仕事の関係上どうしても休みが取れなかった。三人揃って母に会いに行ったのは……もうずいぶん前になる。


「ねえ、萩……母さん、元気かな?」

『……ああ、こないだ会った時は元気だったよ。花屋、順調みたいだったし体調もいいって』

「そっか」

『忙しいのはわかるけどさ、電話ぐらいしてやれば』

「……うん、そうだね。電話、するよ」

『あー……そっちは何か、変わったこと……なかったか?』

「ん? 変わったこと? 特にないけど……」

『ふ~ん……そ。ならいい。飲み過ぎて腹壊すなよ』

「ふふ……大丈夫だよ」

 葵が笑うと、「じゃあな」という声を最後に通話は切れた。

 通話終了画面を少し見つめて一息を吐き、葵は座敷に続く上がり(かまち)に腰かける。

 宮崎には亡くなった父の墓がある。日帰りでも行けなくはないが、ゆっくり墓参りもしたいし、母がお世話になっている伯父夫婦にも挨拶したい。

 そう考えると、やっぱり連休を取る必要がある。

 宮崎は遠いなぁ……小さな呟きがため息とともに漏れ出た。


「葵」

 ふと眼前に立ちはだかるブルージーンズの脚。顔を上げれば、そこに立つのはアルバイトの矢沢遼平。

「遼平、どしたの? トイレ?」

 見上げる葵の隣に、遼平は物憂げな動きで腰を下ろす。

 ぼそっと「飲みすぎた」と呟く彼の色白な顔は、おおよそ酔っているとは思えないほど、いつもの通り変わらない。

 遼平は四月から専門学生三年、都内のかなりハイレベルな調理師学校に通っていて、その傍ら『アーコレード』で働いている。今はまだアルバイトだが、チーフの佐々木にもその腕を見込まれていて、卒業後はクロカワフーズへの就職を打診されている、将来有望なコック見習いである。


「電話……誰?」

「あ? うん、萩……弟からだった。宮崎行き、いつにするかって」

「ふーん」

 相変わらずのそっけなさだが、彼のそういうところも微笑ましい。

 実際、弟の萩と同い年ということもあり、愛想がないところもどこか憎めないのだ。

「そだ。今日古坂さんの旦那さんがいらっしゃったんだけど、褒めてくれたよー。いい店になってきたねって。私、泣きそうになっちゃった。嬉しいもんだね~」

 ふふ、と笑う葵に、遼平は「ああ」とひと言返しただけだったが、不愛想な顔がほんの少し柔らかくなっているのがわかる。

 葵は、彼が高校生の時から知っている。無口で人付き合いが得意ではないが、仕事に対しては誰よりも一生懸命なことは長く見てきたからよく知っていた。

 ふと、遼平がこちらを見た。

「……先週、伯父さんに会った」

「ホント? 元気だった? 身体の具合は?」

 ぴょこんと身体を跳ねさせ、勢い込んで尋ねる葵に、遼平はボソボソと答える。

「最近ずっと調子がいい、って言ってた。今は週に一回通院だって。少し痩せてたけど元気だった。……店に来たいって。『アーコレード』の味、確かめてみたいって言ってた」

「……そっか。元気でよかったぁ……。お店来てほしいな。まだまだ、だけど。濱野さんに見てもらいたい」

 葵は、ここ二年ほど会っていない、かつての雇い主に思いを馳せる。



 葵が大学生になって生まれて初めてアルバイトをしたのが、遼平の伯父、濱野哲矢の店『敦房(とんぽう)』だ。それこそ典型的な「町の洋食レストラン」で、葵が通う短大の隣町――すなわち慧徳学園前――にあった。

 中学、高校時代は部活に明け暮れアルバイトをしたことがなかったため、働くこと自体が初体験の葵だったが、『敦房』でのアルバイトは何もかも新鮮でやりがいもあって、また濱野夫妻の人柄にも助けられ、すぐに馴染んでいった。

 遼平と出会ったのは、葵がアルバイトを始めてから半年ほどたった頃である。

 それまで、アルバイトで雇われていたのは葵一人だったのだが、葵の短大一年目の夏が終わる頃、当時高校生一年だった矢沢遼平が加わった。

 遼平の母は濱野哲矢の妹である。彼女は早くに夫を亡くし、看護師をしながら一人息子の遼平を育てていたが、なかなか息子との時間が取れず、年を追うごとに母子の仲はすれ違うばかりだったという。

 思春期真っ只中の遼平は、当時なかなか集団に馴染めず、高校もさぼりがちだったらしい。そんな時、昼間から一人ふらついているところを「ブラブラほっつき歩いてんなら店を手伝え」と、濱野に拾われて店の厨房に放り込まれたのだ。

 ところが、意外にも “調理” は遼平の気質に合っていたらしく、彼は瞬く間に濱野氏の教えを吸収していった。

「高校を辞めて店に入る」という甥っ子の発心を、「高校だけは卒業しろ」と濱野夫妻が必死に押しとどめ、彼は学校に通いながら、朝の仕込みと夕方からの調理補佐を一心にこなした。

 一方、葵も短大生とあって授業も課題レポートもそれなりに大変だったが、かなりの頻度で店に入ったと思う。

 接客自体が楽しかったし、何より濱野夫妻がいる『敦房』は居心地が良かったのだ。

 カウンター数席とテーブル数卓、そして十種類ほどしかないメニュー。小さなレストランだったがその一皿はどれも絶品で、地元住民を中心にそこそこ繁盛していたように思う。

 個人経営の難しい所で、繁忙時と閑暇時の差は激しくなかなか売上利益も安定しなかったようだが、それでも『敦房』は地元地域の常連客に愛され、これからも繁栄していくはずだった。

 ――がしかし。

 濱野哲矢に病気が見つかった、と聞いたのは、葵が短大二年の秋だ。

「店を売ろうと思う」――濱野のこの言葉が、どれほどの苦渋の決断だったのか、葵には計り知れない。だが、己の病状を鑑みた上での決断だったのだろう。

 濱野はその年が終わる頃、『敦房』を閉めた。

 そして、店とその土地を丸ごと引き受けたのが “クロカワフーズ” で――つまるところ、今ある『アーコレード』慧徳学園前店は、『敦房』を改築改装してできた店なのである。

 ちなみに今日来店してくれた古坂夫妻は、『敦房』の頃からの常連客だ。数少なくはあるけれど、そういった『敦房』時代からの常連客も何人かいる。

 『敦房』閉店後、色々な事情と経緯を経て、濱野夫妻の後押しを受けつつ、結局、葵は正社員として、遼平はアルバイトとして『アーコレード』で働くこととなり、今に至っている。

 思えば――、葵の短大生活は『敦房』中心で回っていた。『敦房』で始まり『敦房』で終わったと言っても過言ではない。

 あの場所で働く楽しさを覚えた。空いた時間は店でレポートや試験勉強もさせてもらった。友人を集め食事会をさせてもらったこともある。

 そして、生まれて初めて恋人ができたのも、『敦房』がきっかけだった――



「……葵?」

 ずくりと心の古傷を疼かせる痛みは、遼平の呼びかけによって、シュッと胸の奥深くに姿を消す。

「――ああっ! 私まだジョッキ半分しか飲んでないー! さ、遼平、早く戻ろ? あ、トイレは?」

 素早く立ち上がると、遼平もつられて立ち上がったが、どこか気遣わしげな眼差しを向けてくる。綺麗な二重の瞳は、やはりどことなく彼の伯父に似ている、と葵は思う。

「葵……大丈夫か?」

「ん? 私? まだまったく酔ってないよ?」

「じゃなくて……その、まだ……」

 ――と、遼平が言いにくそうに眼を伏せた時、バンッと襖が開いて甲高い声が響き渡った。

「あーっ! いたー! てんちょっ、遼平くんっ、何してんのーっ! ほらこれ見て下さいよ―! 杉浦さんのお子さん! 愛花(まなか)ちゃーんでーすっ!」

 ダダッと走り寄ってくる亜美の手には黒い携帯が握られていて、開いた画面がずい、と二人の間に差し出された。

「かぁわいいーでしょう! 今八か月で、もうハイハイもするんですってー! なんてゆーか、オムツのCMに出てそうなくらい可愛いですよねー。杉浦さん、デレデレなんですもーん!」

 杉浦の携帯を拝借して(奪って)きたのだろう、画面にはなるほど可愛らしい幼児が写っている。ぱっちりとした瞳に落ちそうな頬、ぷっくり桜色の小さな口、きょとんとした表情で視線をこちらに向けている姿はまるで天使だ。

「……っ」

 葵の口から、思わず声にならない悲鳴が漏れそうになる。

 引っ込んだはずの痛みが、ズクンズクンと再び這い出てきて、慌てて葵はぎゅっと目を閉じた。


 ――……ァ……ァァ……


 ――微かに聞こえてくる、小さくか細い――……


「……てんちょ?」

 覗き込まれる気配に、葵はパッと顔を上げた。

「……あ、亜美ちゃん! 杉浦さんの携帯返さないとまたギャーギャー騒ぎ出すよ。さ、戻ろ戻ろ~。私まだ全然飲んでないしー」

「えー、もうみんなお開きにするとか言ってますけどぉー」

「うそっ! ヒドイ! 私まだジョッキ半分しか……」

「はいはい、じゃあ待ってますから一気に飲んじゃってくださーい」

 キャッキャと笑う亜美の背を押しつつ、葵は座敷に戻る。


 ――ダイジョウブ、ダイジョウブ……

 ……暗示のように、葵の心中で繰り返されるその呪文。


 飲みの場は他愛もない話で盛り上がり、飲み物はもう数杯、追加された。

 葵はビールを飲み続けながら、皆に合わせてたくさん笑う。

 笑いながら、無意識に脳内で呪文を繰り返し唱えた。


 ――ダイジョウブ、ダイジョウブ……


 日付が変わって、『絆生里』が閉店時刻を迎えたころ、ついに杉浦がギブアップした。

「……眠い……帰る……タクシー……いや、代行……」

 佐々木に小突かれても目が開かなくなった杉浦を見て、ようやく場がお開きとなった。


 何か言いたげだった遼平は、結局、何も葵に言ってくることはなかった。





 

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