第20話 暗闇ハザード、明滅
「……いらっしゃいませ」
「んだよ、その顔。オレ、客なんだけど? あ、今日は連れもいるから。全部で六人ね。席空いてる? おぁ? もしかしてオレたち一番乗り?」
首を伸ばして店奥の方を覗き込む萩の背後から、「どーもー」「お邪魔しまーす」とドヤドヤ入ってきた若者五人。男子が三人に女子が二人、いずれも萩の専門学校仲間らしい。
「いらっしゃいませ。今、テーブルをつけてご用意しますね。少々お待ちください」
萩の後ろの五人だけに笑顔を向けて、葵は店内一番奥のテーブルへ向かう。ディナーオープン間もない時刻で、まだ他の来店客がいなかったのが幸いだ。
すっと近寄ってきた池谷が、手を貸してくれる。
「久しぶりじゃん、弟くん」
「ごめんね、うるさくて」
「今日も大量オーダー、かな」
くっつけたテーブルに椅子を配置しながら、池谷がフフンと笑う。
かもね……と苦笑いしつつ、葵も手早くクロスを整えた。
――水奈瀬萩御一行六名様、ご案内である。
* * * * *
「バーグ、ツー、メンチ、ワン、チキン、ワン、コロッケ、ワン、グラタン、ワン、ハヤシ、ツー、オムライス、ワン、コンビ、ツー、ライス、フォーでオールラージ……」
ディナーオープンから待機姿勢で構える厨房に、いきなり入るこの注文数。
オーダーを通す亜美の声が延々と続き、佐々木の「すげぇな」という苦笑いもいたたまれず、葵は誰にともなく、「すみません……」と小さく謝っておく。
萩が友達を連れてこの『アーコレード』慧徳学園前店に来店したのは、もう五、六回目となるだろうか、いつ来ても誰と来ても、その食べっぷりは半端ない。
アルコールは一切なし、まどろっこしく順々に出てくるコースではなく、いつもアラカルト(単品)オーダー。今日は珍しく女の子も二人交じっているようだが、注文の量は相変わらずだ。
売上貢献ということではありがたく、身内の来店となれば少々気恥ずかしい。
今でこそ勝手知ったる行きつけの店、と言わんばかりの萩だが、その昔、彼は最初にこの店を訪れた時、「オレ、カレーライス!」と大声で叫んで、周囲を失笑させた経験がある。……萩が高校三年の頃、葵がここで働き出して数か月目のことだ。
あの頃、母は宮崎へ移住して久しく、蓮も葵も仕事で忙しかった。家庭料理から遠ざかっていた萩にとって、 “ラーメン・牛丼・カレーライス” は、三種の神器(?)であった。
だから、洋食といえばカレーライス……の思考も仕方なかったのだが、あいにく『アーコレード』ではカレーライスを取り扱っていない。葵は恥ずかしさで冷や汗を噴き出しながら “ハヤシライス” を勧めた。
「ハヤシライス? 腹いっぱいになんの? それ」と、いささか葵がカチンとくるような戯言を吐いたその数分後、萩は人生初といってもいい至極の味に驚愕することとなる。
じっくり炒めた玉ネギと大きめにカットされた牛ロース肉が、オリジナルのドミグラスソースに煮込まれる深い味わい……赤ワインもふんだんに使っているが、『アーコレード』のハヤシライスは、年齢を問わず大半の客に好まれている。肉や野菜にしっかり下準備をし、洋食の出汁となるブイヨンで旨みを思う存分に引き出すため、とろりと舌に柔らかく優しい味わいなのだ。
初めて食した “本物の” ハヤシライスに感激し、萩はものの数分で完食した。この時、『アーコレード』のハヤシライスは 、“質より量” であった彼の食事に対する概念に、大いなる革命を起したのだ。(と葵は主張する!)
それ以来、萩はここへ食べに来るたびハヤシライスを必ず注文する。バイトを始めて自分のお金で支払いができるようになった今では、それに加えてもう一品、肉料理を頼むことも多い。ここ最近は、チキンカツレツやポークカツレツが気に入っているようだ。
「ノンアルか? んじゃ、まとめていくか。遼平、グラタン先入れとけ」
「はい。バーグはメンチと一緒でいいですか」
「そだな。吉田ー、サラダは後出しでいいぞ。オーブン見とけ」
「はい!」
慌ただしく動き出す厨房内をあとに、葵はフロアに戻る。
カランコロンと鳴るドアベル。来店するお客様。ディナータイムはこれからが本番だ。
* * * * *
「――弟くん、やるね」
店内は満席になり、ほんの僅かな手すきの間、不意に背後からかけられた池谷の声に振り返ると、彼は店奥の若者六名に目を向けている。
「やるって、何が?」
「右側の彼女……デニムのショートパンツの方さ、弟くんのこと好きでしょ、どう見ても」
クイ、と顎で軽く示されて、葵も思わず凝視してしまう。
二つのテーブルをくっつけたその卓では、あらかた食事も終わったらしく、六人は楽しそうに歓談していた。
「え、そうなのかな……まさか、つき合ってる、とか?」
こそっと池谷に聞けば、呆れた様子で「俺に聞くなよ」返される。
「でも、あれは違うな。弟くんは彼女の気持ちにまったく気づいてない感じじゃん? つーかさ、毎日毎晩、姉の送り迎えしてて彼女どころじゃねーだろ。……テンチョーのところって兄弟そろってシスコンだよな」
ちらりと意味ありげな流し目をくれた池谷に、どう説明したものか、口ごもってしまう。
「シスコン、って……そんなんじゃない、けど……」
そもそも、葵だってよくわからない。
遼平の不可解な言動に得体の知れない “何か” を感じたあの夜。妙な胸騒ぎに急かされるまま、アパートに帰るなり萩に電話した。
いつの間に遼平と知り合っていたのか、遼平の言っていた送り迎えとはどういうことなのか、息継ぎもそこそこに問い質したのだが、萩はそれらをことごとく無視した挙句、「来週から、葵のアパートに泊まり込むからさ」などとふざけたことを言う。
――泊まり込む? 込む、って何よ? 何のため? 意味がわからない、ちゃんと説明して!
葵の抗議もむなしく、「葵のアパートからの方がバイト先に近いしさ」という、いかにもウソ臭い理由で締めくくられ、一方的に通話は切れてしまった。
憤慨した葵は、すぐさま兄の蓮にも電話して事の次第を訴えたが、「まぁいいんじゃないか? しばらく相手してやってくれ」と流される始末。
とはいうものの、闇雲に拒絶したり真意を深く追及したりすれば、こちらの懐も探られることになりそうで怖い。
――心奥に蠢く怖れや不安を、決して悟られてはいけない。
あれこれと思い惑ううちに、萩の計画は滞りなく遂行されてしまった。
そして今現在、萩は葵のアパートに寝泊まりして、ここから学校に通っている。
試験も終わり、あと幾日もすれば夏休み。バイトのみの生活になるから不便はないのだという。
至って平然とした、むしろどこか意気揚々とした弟を同居人に迎え、葵の生活は誠に奇妙なものへと変化してしまっていた。
朝は必ず、萩が葵を仕事場まで送る。(葵が2ケツは絶対にイヤだと言い張ったため、バイクは店に駐輪している)萩はそのままバイクで学校へ行き、夜はバイトが早く終われば店に寄って葵を待つし、遅くなりそうなら代わりに今度は遼平が、心得たとばかりに葵を待っている。
そして萩も遼平も、自転車で五分、徒歩にしてもわずか十五分程度の道のりを、警戒心ビンビンにして葵に付き添い歩くのだ。
こんな奇妙な二人の行動はすぐに『アーコレード』の皆に知れることとなり、色んな視線が色んな意味で痛い。しかし、もうどうとでもしてくれ、といった気分だった。
というのも、頭を悩ませる事態が他にも発生し、不可解な弟たちにかまけてばかりはいられなかったのだ。
まず一つめは、先週あたりから、店にかかってくる無言電話の件数が激増したことだ。
今までコンスタントに週三、四回程度だったのが、今週に入り、多い時で一日十数回にも及んでいた。
相変わらず、こちらが出た途端に切れてしまうのだが、ここまで回数が増えてしまっては店内業務にも差し支えが出てくる。よって、佐々木チーフや黒河マネージャーに相談して話し合った結果、無言電話の着信拒否設定を行うこととなった。
手続きの際、加入プランの変更などで少々時間はかかったが、ようやく昨日、着信拒否の設定が完了したところだ。それから一度もかかって来ていないので、とりあえずこの件は留保なのだが……このまま何事も起こらず終わってほしい、と、葵は何となく残る不安を感じつつもそう願う。
そして二つめの懸念事項は。
亜美と遼平の間にあるぎくしゃくした雰囲気。あれから一向に解消されない。
あの夜から十日ほど経つが、亜美は目に見えて元気がないままだ。仕事中は辛うじて笑顔を貼り付けて接客しているものの、無理に笑っているのは誰の目にも明らかで、一旦客の前から退けば、その脆い笑顔は一瞬にして思い詰めたような表情に変わってしまう。
加えて、遼平に対してまるで腫れものにでも触るように、必要以上の気遣いを見せているのが痛々しい。オーダーでさえ申し訳なさそうに通すので、佐々木が一度注意したほどだ。
対する遼平の方はというと、相変わらずの素っ気なさ。それがいっそ腹立たしいくらいだ。元々不愛想で多くを語らないので、亜美に対する態度が特別悪いとは思わないが、もう少し愛想良くすればいいのに、と葵は歯噛みしたくなる。
大体、先日のことを謝ったのかどうかさえわからない。一度だけそれとなく尋ねてはみたが完全にスルーされてしまった。葵としてはもう、これ以上どうしたらいいのか見当もつかない。
あの夜の経緯を知る池谷と篠崎、そして葵は、何事もなかったように振る舞いつつも、つい目線で会話することが多くなった。どうしよう、とSOSを求める葵に、篠崎は困ったように眉尻を下げ、池谷はほっとけ、と言わんばかりに目を眇める。日に何度となく交わされるお馴染のやり取りだ。
周りがあれこれ茶々を入れるべきことではない、こういったことは本人たちに任せるしかない……それはわかっているのだが。
亜美の薄らと赤味を帯びた大きな瞳から、今にも涙滴が落ちそうなのに、葵はただそれを、見守るしかなかった。
季節はいよいよ夏本番――近隣の学校はほぼ夏休みに入り、『アーコレード』慧徳学園前店には家族連れの客が増えて大人数の予約も多くなった。
夏季限定のヴィシソワーズスープ、冷製オードブル、夏のデセールなど新規メニューも目白押しで、やることは山積みだ。はっきり言って、頭を悩ませる諸々のことに、頭を悩ませている余裕さえないのだ。
なのに、あのレセプションの後、マネージャーが慧徳に来たのはたったの二度だけで……
「メンチ上がるぞー。吉田、ライスいっちょ」
「はい!」
「店長、2番のデセール出しますね。ドリンクお願いします」
亜美の声に、葵はハッと我に返る。
「了解ー。アイスコーヒー、アイスティ、出しまーす」
カウンター裏でドリンクを手早く準備し、トレーに乗せる。
集中集中……意識から無理矢理、余計なことを追いやる。マネージャーがいなくたって、店は回していかなければならない。
――私は、店長、なのだから。
* * * * *
「……サーモン、ワン、ナポリタン、ワン……全部出来次第でお願いします。ラストオーダー、以上でーす」
葵の声に「ぇーい」と厨房メンバーの返事が返ってくる。なかなか忙しかったディナータイムも、そろそろ終盤だ。
フロアの亜美はすでに上がっており、厨房の吉田もL.O.上がりになったようだ。
葵は、店内残り二組になった時点でフロアを池谷に任せ、バックヤードの片付けに取りかかった。
「うんせ……重……」
使用済みのセルベットやクロスを抱え、ダストカートへドサドサと入れ込んだ葵は、何気なく事務室内を覗いてその目を見開いた。
デスクのパソコンに向かう人は、久しぶりに目にする上司。
「……黒河さん」
「ああ、お疲れ」
「いつ、いらっしゃってたんですか?」
「一時間ほど前」
「そうですか」
加速する心拍を無理矢理落ち着かせながら、何気なく更衣室前に視線を移した葵は、ギョッとさらに大きく目を剥いた。
「……ちょ、ちょっとっ、萩! どうしてアンタがそこにいるの!」
「おお、葵、お疲れー。終わった?」
カーテンで仕切られた狭い更衣室の真ん前で、小さな簡易チェアに座ってバイク雑誌を呑気にめくるのは紛うことなき我が弟。食事をした後、仲間と解散して店を出たのは二時間近くも前だったはず。
葵はツツと詰め寄り、声をひそめて捲し立てた。
「帰ったんじゃなかったのっ……? 何でここにいるの……!」
「また出てくんのメンドクセーし。店の中で待ってるよりはここの方がいいだろ?」
「よくない! ものすごく邪魔でしょ! 私、あと一時間は終わらないし、先帰ってて!」
「んなの、一緒に帰らなきゃ意味ねーじゃん。オレ、お仕事のジャマしないよ? ねー、クロカワサン? ここで待っててもいいっすよねー?」
ひょいと伸び上がって葵の背後に声をかける萩。問いかけられた侑司は少しだけ首を回す。
「……別に構わないが」
「で、でもっ……!」
「ほーら、マネージャーさんもいいって言ってんだからさ。オレにはお構いなく。さっさとお仕事終わらせれば?」
ニタリと勝ち誇ったような笑みで見上げてくる萩に、葵はくぅ、と歯噛みしながらも、すぐに侑司へすみません、と頭を下げた。
いつもと変わらず、無表情にパソコン画面へ向かい、黙々とデータをチェックしていくその横顔……ん? いつもと、変わら、ず?
葵が微かな違和感を覚えて、侑司の横顔を覗き込もうとした時。
「おぉーい、水奈瀬ー、ちょっくら裏のブレーカー見てきてくれぃ。まーた冷蔵庫の電源が落ちてるみてーだ」
佐々木がひょっこりと厨房口から顔を出した。
「あ、はいっ、わかりました! すぐ行きます!」
葵は返事をして「……黒河さん、ちょっと失礼しますね。懐中電灯、っと」デスクの一番下の引き出しを開けた。
「冷蔵庫、調子が悪いのか?」
葵が懐中電灯を取り出すと、侑司が怪訝な顔で尋ねてくる。
「いえ、冷蔵庫というか……最近、勝手にブレーカーが落ちちゃうみたいなんです。メインじゃなくてこっち側の……冷蔵庫とかオーブンとかに繋がってる電源部分だけです。漏電しているようでもないし、こないだの雷が原因でどっかの配線がやられたんじゃないかって、チーフは話してるんですけど……あ、じゃ、ちょっと見てきますね」
腑に落ちないような顔の侑司をそのままに、葵は素早く外へ出て裏口左へ進んだ。
この店のブレーカーは屋外に設置してあり、夜は懐中電灯が必須である。店の外壁と、敷地を仕切るフェンスの間の狭い隙間を照らしながら、ちょうど厨房裏に当たる箇所まで移動する。外壁の隅に設置された分電盤の扉を開けて、中を照らせば一つ下に向いている小さなスイッチ。葵は指でそれを押し上げた。
「一回、電気屋さんに来てもらった方がいいかな……」
溜息とともに呟いて、分電盤の扉を閉めた時――、唐突に人の声が耳に入ってきた。
はっきりとは聞きとれない声だが、妙な気配が葵の注意を引く。
ボソボソと遠くから聞こえるその声は、何か言い争っているようだ。
懐中電灯の光を護身にして慎重な足取りで裏口まで戻る――と、にわかにその声がはっきりと飛んできた。
「……あ、あなたに、関係ないでしょ……っ!」
「――なんでだよっ! 何であんな奴に……っ!」
「ちょ……っ! やめっ、て! 離してっ!」
――自転車置き場の方だ!
只ならぬ様子に葵は駆け出し、裏口右手にある角を曲がると手に持った懐中電灯を向けて、おぼろげな人影を照らした。
「あ、あんな奴のどこがいいんだよ! あなたは、騙されてるんだっ!」
「や、やだっ! 離してっ! 離してってば!」
「――亜美ちゃんっ?」
割り込んだ葵の叫びに、ピタッと動きを止めこちらを向いた二人のうち、小柄な方は亜美だった。
「どうしたの亜美ちゃん! こんな所で……あれ? あなた、確か……」




