第19話 梅雨明け宣言、拒絶宣告
そこかしこでジージーと鳴き出した蝉の声。
カッと照りつける日差しはすでに夏のもの。
昨日の雷雨が降り修めとなったのか、朝のニュースでようやく今朝、梅雨明け宣言がなされたと聞いた。
午前九時半すぎ――
衝撃と激突のレセプションから一夜が明けた今朝、いつものように葵は店までの道のりを自転車で走る。
昨日の衝突事故で派手に尻もちをついたためか、自転車の振動が響いて臀部が痛い。ちなみに懸念していた左脛の痛みは、ものの見事に立派な青痣と化していた。
晴れ渡った夏空と同じ心境……とは言い難いが、仕事は仕事、私事は私事。
緩やかに波打つ髪を風になびかせ、葵は力いっぱいペダルを踏む。
店に到着し自転車を引きながら裏に入ろうとする時、店前の小路周辺に小枝や木の葉が目立った。昨日の激しい雷雨のせいだろう。開店前に軽く掃いておこうかな、と、脳内のやることリストにメモっておく。
豪雨に閃光、雷鳴――今更ながらにふと思う。
昨日の、兄と上司の対面は、どうしてあんなに只ならぬ緊迫感を漂わせていたのだろう。
それでも、五分もかからないうちに葵の部屋へ上がってきた蓮は、困惑顔の葵に向かって何でもないように言ったのだ。
「ただ挨拶しただけだ。ほら」
出された兄の手にある名刺を見れば、
《クロカワフーズ 営業事業部 『Accolade』担当 黒河侑司》
お互いの名刺を交換しただけだという。
そう言われてしまえば、そうなんだと納得するしかなかった。
そもそも、昨日のあの時間に、蓮が一人でアパートへ来たというのも奇妙なことだった。
珍しく仕事が早く終わったので、差し入れでも持って行ってやろうと思った――蓮はそう言って、確かに手土産も渡されたのだけれど。
雨滴で濡れたビニール袋に入っていたのは、葵が昔から好きだった、実家近所の中華料理店の点心の詰め合わせと、カップに入った杏仁豆腐、そして缶ビール六本パック。
結局のところ、兄は車で来ており、葵もビールという気分にはなれず、二人で麦茶を片手に点心を食べた。
食べながら、火傷を負った経緯はきちんと説明した。余計なことを悟られぬよう、慎重に、注意深く。兄は知らなくてもいいこと、絶対に知られたくないことも、ある。
あまり食の進まない葵を、蓮は心配していたようだが、レセプションパーティーのヘルプでちょっと疲れた、という葵の言葉を信じてくれたのかどうか、それ以上深く詮索されることはなかった。
帰り際、蓮は「そのうち萩がまた、ここに泊まりに来るかもしれない」みたいなことを言っていた。特に驚くことでもなく、葵は了承しておいた。
弟の萩が突然アパートにやって来て、一緒に食事をしたり泊まっていったりすることは珍しくもない。それよりも、蓮が連絡なしに(実際は電話もメールもくれたらしいのだが)、しかも大した用事もないのに訪ねて来る方が奇妙だ。おそらく初めてだったのではないか。
蓮が帰ってからも、葵は何となく、心の奥がざわざわと落ち着かなかったけれど、それ以上突き詰めて考えることもせず、その夜は早々に布団の中へもぐり込んでしまった。
疲れた、と蓮に言った言葉は嘘ではなく、あまりにもいろんなことがあったその日一日を、早く睡眠でリセットしたかったのだ。
果たして、早寝は効果があったのか。
身体的な疲労はさておき、葵の心中は、上手く言葉にできないモヤモヤと渦巻くものが色濃く充満したままだった。
* * * * *
午後四時過ぎ――
何のトラブルもなく客足もまずまずだったランチタイムが終わり、葵は賄いの後、事務室のパソコンで来週のシフトを作っていた。
今日、マネージャーの姿はない。
姿はないが、朝イチで声は聞いている。葵が着替え終わったタイミングで店に侑司から電話があり、火傷の具合を尋ねられた。
直接耳に低く響く彼の声音を聞いただけで、葵の頬は瞬時に沸騰した。背後からぴったりと寄り添った彼の体温や触れた感触が、一気にボンッと甦ったからだ。
努めて平静な声で、まったく痛みはなくほとんど赤味は引いたことを告げると、彼は安心した様子で通話を終えた。……そりゃもう、呆気なく。
受話器を持ったまましばらくボケっと惚けていた葵は、すぐにドーンと重く沈み込み、自己嫌悪に陥りながら開店前の準備に取り掛かることとなった。
――ここ数か月の間、自分は彼に、迷惑ばかりかけていないか?
パソコン画面に向ったまま思考は上滑りし、つい溜息が漏れる。
昨日からの精神的疲れが抜けず身体が重い。
瞼を閉じると、矢継ぎ早に浮かんでは消え、消えては浮かぶ雑多な映像がうるさくて、昨晩はあまり良く眠れなかった。
目にした光景、出会った人々……交わした会話、受けた衝撃、感触……閃光、雷鳴……考えたくないのに、押し込めた隙間から入れ替わり立ち替わりするっと出てきてしまう。
ランチタイムの間中、気を逸らすな集中しろ、と己に言い聞かせ続けたため、尋常ではない精神力を使ってしまった。寝不足の重い身体に、さらなるGがかかった気分だ。
「――葵っ!」
突然、叩き割らんばかりの激しいドア音とともに大声が響いて、葵は飛び上らんばかりに驚く。
「ど……したの……遼平……びっくり、した……」
血相を変えて事務所の裏口から乱入してきた遼平は、真っ直ぐ葵の元へ駆け寄り、いきなり葵の腕を掴んでワイシャツの袖を捲りあげようとした。
「ちょっ……! 遼平! 何、いきなり!」
「火傷したのかっ? 大丈夫なのかっ?」
「ま、待って、ちょっと……落ち着いて! どうして遼平が知ってるの?」
遼平は今日、朝から学校だ。おそらく今しがた店に着いたはずで、昨日のことを知っているはずがない。腕に掴みかかる遼平を何とか押し止めて問えば、遼平はハッとしたように手を離し、ばつの悪そうな顔になる。
「さっき……そこで、チーフが」
「チーフが?」
葵が首を傾げると、ちょうどいいタイミングとばかりに、裏口から佐々木チーフ、続いて池谷が入ってくる。
店裏の喫煙スポットで、いつものように一服していたのだろう。池谷は吸わないが、時々佐々木チーフと世間話ついでに同伴することがある。
「チーフが遼平に話したんですか? ……昨日のこと」
煙草の小箱をデスクの引き出しにしまう佐々木に聞けば、「何だ遼平、聞いてたのか?」と、まるで気づいていなかった様子。
なるほど、裏口から入ろうとした遼平が、佐々木と池谷の会話を偶然耳にしてしまったということか。……ということは、池谷には喋ったんじゃないか!
軽く睨みを利かせる葵に、池谷がニヤリと口端を上げた。
「ずいぶん、ドラマチックなシチュエーションだったらしいじゃん? ねぇ、チーフ?」
厨房口で手を洗い始めた佐々木が、パチクリと瞬く。
「あ? 俺はただ人伝に聞いただけだぞ? 水奈瀬が大火傷を負って、侑坊が血相変えて抱えていった……ってな。ほら、アレだ…… “ヒメさんダッコ” っつーのか? それでガバッと――」
「だ、だだ、抱っこぉ……っ?」
衝撃的な発言に、葵はひっくり返りそうになった。――抱っこ? 抱っこって、何っ!?
「チーフ、それ、 “お姫様抱っこ” ってゆーの」
「同じじゃねーか?」
「わ、私っ、抱っこなんかされてませんっ!」
腰を浮かせ大声で喚き立てた葵は、そのままへなへなとデスクチェアに崩れ落ちる。
一体なんだってそんな話になっているんだ……
「テレんなよテンチョー。お姫様抱っこって女の夢なんだろ? 黒河マネージャーなら余裕でいけそうだよな」
「だからされてないってば! 何でそんな話になってるんですか……っ?」
泣きそうな顔で佐々木を見れば、悪びれのないきょとんとした顔。
「何だ、違うのか? 牧野や大久保がギャイギャイ騒いでたからてっきりそうなのかと思ったぞ? まぁ抱っこくらいいいじゃねぇか。減るもんじゃなし」
「だからっ、されてないんですっっ!!」
葵の叫びはまるっきり受け流し、佐々木はカカカと笑いながらペーパーで手を拭き上げる。
「よぉーっし、やるか。遼平ー、早く着替えてこーい」
厨房内へ入っていく佐々木のがっしりとした背中を見送った葵は、頭を抱え込んだ。
――こんなことが黒河さんの耳に入ったら……どうしよう……絶対、気を悪くする……
抱っこなんかされていない。自分の足でちゃんと歩いて(引きずられている感はあったが)給湯室まで行ったのだ。もちろん、送ってもらうために地下駐車場へ下りた時も。手さえ繋いでいない。
……と、そこまで考えて頬がぶぁっと熱くなる。
――あ、当たり前でしょ! 何考えてるの私ってば!
「病院……行ったのか?」
ぼそっと放たれた声にハッと顔を上げると、遼平が眉根をぐっと寄せたまま葵を見下ろしている。
真っ直ぐ向けられた濁りのない綺麗な瞳。こんなに近くで遼平と目を合わすのは久しぶりだ。
「病院は……行ってないよ。行くほどのことじゃないもん。もう痛くもなんともないし、赤味もだいぶ引いたの。心配しなくていいよ」
そう言って葵が力なく笑えば、遼平の顔が、少しだけ苦しそうに歪んだ気がした。
「……わかった。……今日、送ってくから」
「え? 何で?」
問い返した葵には答えず、遼平は更衣室へと行ってしまう。
何でまたここで、送っていくという話になるんだ……?
遼平と気まずくなった数か月前のやり取りを思い出し、葵は再度頭を抱え込んだ。
* * * * *
午後十時半すぎ――
今日のディナータイムは予約が一件もなく、九時半のラストオーダーを迎えると、残っていた客は次々に帰ってしまう。ランチの客足はまずまずだったのだが、ディナーでずいぶん落ちてしまい、結果として、一日トータルの売上的にはあまり良くなかった。
ま、こんな日もあるよね、と独りごちながらレジ締めを行っている葵の耳に、開けはなったレジ裏の扉の向こうから何やら賑やかな声が聞こえてくる。
あの声は……と思いつつ、手早くレジ締め業務を終わらせ事務室に戻れば、そこには案の定、一足先にクローズ業務を終えて蝶タイを外しただけの池谷・篠崎と、私服姿の斎藤亜美が楽しそうに話をしていた。
「亜美ちゃん、どうしたの? 何か忘れ物?」
亜美は今日一日、シフトに入ってはいなかったのだ。
「あ、店長ぉー! お疲れさまでーす! あたし、納涼会に行けることになったので知らせに来ましたー!」
「ホント? わざわざありがと。電話してくれてもよかったのに」
葵がそう言うと、「えへへ、そうなんですけどー」と笑う亜美。とっても可愛い。
どこかへ出掛けてきた帰りなのか、実に女の子らしい明るい色味のふわりとしたワンピース、バイト時はしていない小さなピアスが耳元でチチ、と揺れている。
「でも亜美ちゃん、お盆は家族で旅行するんじゃなかった? 大丈夫なの?」
「そうなんですけど、日にちをずらしてもらっちゃいました。お盆は道路も混むし、お姉ちゃんもその方が都合が良いって。だからぜーんぜんOKです!」
「ったく……亜美の父親もメチャクチャ娘には甘いよな。どうせ『パパお願ぁ~い』とか言ってしな垂れかかったんだろ」
「そ、そんなことしてませんー! い、池さんだって、どっかのオネエサマにしな垂れかかってるんじゃないっ? 年上キラーとか、女傑崩しとか、いろんな噂聞いてるんだからっ! ね、篠さんっ!」
「うーんと、女傑崩し、は……聞いたことないけどね」
篠崎は苦笑し、池谷は「何だよそれ」と渋い顔をする。
「じゃあ、納涼会出席のアルバイトさんは、池谷くんと篠崎くん、吉田くん……そして亜美ちゃん。この四人だね。あとで黒河さんに伝えておくね」
葵が付箋メモに記しておこうとデスクに行きかけた時、亜美が「え……?」と小さく声を上げた。
「四人だけ、なんですか? 他の……人……」
「ああ、笹本くんは親戚の法事って言ってたかな。……遼平も、ちょっと無理みたいで……」
説明したものかどうか、葵が少々言葉を濁すと、ちょうど厨房入り口から遼平が、脱いだコック帽と白サロンを手に事務室へ入ってくる。
「あ、お疲れ、遼平。終わった?」
少し疲れた様子の遼平は、ちらりとこちらを見て小さく頷くと、デスク脇にかけてある厨房用の日報を手に取りチェックを入れていく。
今日は佐々木がどうしても北千住の自宅に戻る用事があるため、ラストオーダーの時刻とともに先に上がった。いくら暇なディナータイムだったとはいえ、一人で片付けるのは大変だっただろう。
「ねぇ、遼平くん! 納涼会行かないの? 料理とかお酒もタダなんだって! 一緒に行こうよ、夏休みでしょ? 何か用事あるの?」
遼平の傍に駆け寄り、亜美はコック着の袖をくいくいと小さく引っ張った。
「あ、亜美ちゃん? ちょうどお盆時期だし……これは強制じゃないんだよ?」
「亜美、無理強いはやめとけよ。ヒマなお前と違ってみんな色々忙しいんだ」
葵と池谷の制止も効かず、亜美はかぁっと頬を赤らめて憤慨する。
「あ、あたしだって忙しいもん! でも予定ずらして出席決めたんだよ! みんなと一緒に行きたいから! そう思うことは悪いこと?!」
「亜美ちゃん……」
「……必死過ぎだっつーの……」
池谷が、顔を背けて吐き出すように呟いた。
「亜美の気持ちはわかるけど、これ以上言ったら我儘になっちゃうよ。みんなで飲みたいなら、仕事終わりにいつでも行けるんだし」
柔らかい口調で優しく諭す篠崎にも、亜美はプイと顔を背けて、もう一度遼平に向き直る。
「遼平くん、どうしてもダメ? お店が休みの時にみんなで会うチャンスなんて滅多にないし、きっとほかのお店の人とかもいて楽しいよ? もし用事があるなら、事前準備はパスして夕方から飲み会だけ参加すればいいんだし。ね、店長!」
「あ……うん、でも……」
「ほら、ね? 一緒に行こう? 店長はきっと社員さん同士で飲むんだろうし、あたしたちと一緒に飲めないでしょ? だったら仲間がたくさんいた方が寂しくないも――」
「――ほっといてくれっ!!」
放たれた怒号に、その場は一瞬で静まった。
遼平は、普段あまり変化させないその表情を苦悶に歪めて、握った拳を震わせた。
「……これ以上、俺に構うなっ!」
鋭い一瞥を亜美に投げつけ、遼平は持っていたボードを叩きつけるようにデスクへ置き、葵たちの間を足音荒くすり抜け裏口に向う。
「ちょっ……待ちなさいっ! 遼平……っ!」
葵の声にも振り向かず、遼平はコック着のまま、裏口から出ていってしまった。
しん、と気まずい空気が事務室内を重く漂う。
葵でさえ、遼平が声を荒げて怒鳴るところなど、今まで一度も見たことがなかったのだ。他の三人もショックを受けたように唖然としていた。
「バカ亜美……だから言っただろ……人には事情ってもんがあるんだよ……」
溜息とともに池谷が呟けば、篠崎も困った顔を亜美に向ける。
「……遼平さ、親父さんの墓参りに行くんだ……毎年お盆は、お母さんと一緒に。……命日はちょうど、納涼会の日、なんだよ」
そう……遼平の父親の命日は、八月十六日なのだ。
父方の故郷、静岡に墓があり、矢沢母子は毎年お盆になると泊まりがけで墓参りに行く。
母親とうまくいっていなかった中学・高校時代も、遼平は母子一緒の墓参りだけは欠かしたことがない。
「気にしなくていいよ、亜美ちゃん。知らなかったんだし、亜美ちゃんの心遣いはわかってると思う。あんなヒドい言い方した遼平も悪い……あ、亜美ちゃんっ……」
立ちつくす亜美に、葵は慌てて駆け寄った。
大きな瞳から、ポロポロと零れてくる涙の滴……震える唇から、小さく「どうしよぅ……」と漏れた。ヒクッ、としゃくり上げた亜美は、両手で顔を覆ってうずくまってしまう。
「……亜美ちゃん……」
「……い、っしょに……ぃきたか、たの……」
か細い声音で、嗚咽とともに漏らした亜美の言葉は、葵の脳の一部をピン、と弾いた。
――亜美ちゃん、遼平のことが……
何十枚ものうろこが、目からパラパラと落ちていく。
どうして今まで気づかなかったんだろう……「遼平くん!」と嬉しそうに声をかける亜美の笑顔が、この店のあちこちで咲いていたのに。
床にうずくまって小さく泣き続ける亜美の背中をさすりながら、葵は痛ましい気持ちで視線を彷徨わせた。
――今頃気づいたのかよ……ふとかち合った池谷の眼が、そう言っていた。
* * * * *
午後十一時半過ぎ――
その後、泣き腫らした目で項垂れた亜美を、篠崎が自宅まで送っていくことになった。
亜美の自宅も篠崎と同様、慧徳学園前の高級住宅地の区画にあり、彼と帰る方向が途中まで一緒なのだ。二人とも実は、いいトコのお坊っちゃんお嬢ちゃんなのである。
池谷も二人と一緒に店を出て帰途につき、葵も帰り支度を済ませて、さて、着替えぬまま出ていってしまった遼平をどうするか……と時計を確認した時、ふらりと彼は戻ってきた。
目を合わせぬまま更衣室へ入っていった遼平。葵は黙って着替え終わるのを待つ。
送る送らないでまた揉めるのかと、つい数時間前まで懸念していた葵だったが、今日だけは送ってもらおうと決める。
どうしても一言、言ってやりたかった。
「――何であんな言い方したの? いきなり怒鳴るなんて。しかも女の子相手に。あれはないよ?」
いつかのように、二人並んで葵のアパートに向いながら、葵は早速詰問する。
今日は葵も自転車を引いて歩き、原付を引きずる隣の遼平に歩調を合わせた。
スルスルスル……チチチチチ……原付を引く音と自転車のチェーンの音が重なって、夜の静寂の中に縒り合わされていく。
遼平の返事は、ない。
「……亜美ちゃんは遼平の事情を知らなかっただけで、悪気はなかったの。それは遼平だってわかってるでしょ? 明日、亜美ちゃんシフトに入ってるから、一言謝ってあげて。お願い」
隣を見やれば、唇を引き結んだまま真っ直ぐ前を見据える横顔。
それでも、葵にはちゃんとわかる。遼平は今絶対に、何か言いたいことがあるのだ。なのに、ダンマリを決め込んで口を開かない。葵は何だか無性にイライラしてきた。
「――遼平? 聞いてる?」
思わず足は止まり、口調も強くなってしまう。
すると、遼平はゆっくりと振り返り、ひたと葵を見つめた。そして、静かに、まるで挑むかのような声音で言う。
「……葵、明日から毎日送ってく。朝は無理だけど、夜は必ず送ってくから」
「何の話? 今そんなこと関係ないでしょ! 私が言ってるのは亜美ちゃ――」
「来週からは、葵の弟と交代で送るから。朝もあいつが一緒に店まで来てくれる」
「弟? ……って、萩のこと? どうして今ここに萩が出てくるの?」
人の話を聞かない上に、いきなり送るとか、弟の萩とか、一体何なんだ?
そもそも二人に接点なんてあったのか? 遼平の前で萩の話をしたことはあったかもしれないが、二人に面識があるなんて聞いたこともない。それとも自分の知らないどこかで何かを――、
――ドクンと心臓が大きく鳴った。
突然、脳裏をかすめた、不吉な影。
再び背を向けて歩き出した遼平を、慌てて追いかける。
「――ねぇ、遼平、どういうこと? 萩と何を話したの? 萩に、何を言われたの?」
矢継ぎ早に詰問する葵に、遼平はもう一度歩みを止めた。
立ち止まった二人の間を、生ぬるい夜風が通り過ぎていく。
遼平は素早く原付のスタンドを立てて葵に向き合い、自転車のハンドルを握った葵の左腕をおもむろに持ち上げた。
「少し、痕が残ってる」
半袖パーカーの袖から伸びた葵の前腕……街灯の仄暗い明かりの下で、薄い赤褐色になっている箇所を凝視する遼平は、まるで自分が火傷を負ったかのような顔だ。
「遼平……ちゃんと、答えて」
腕を掴まれたまま、葵は遼平を見上げる。
火傷の痕なんてどうでもいい。そんなことより……何だろう、この不意に湧いた、得体の知れない……
「……葵のこと、絶対に、守るから」
「……え? 守る……って……?」
遼平は明らかにギリ、と歯噛みしていた。そして腕を離し、再び歩き出す。
「行こう……遅くなる」
……守るって……何から……?
先ほど脳裏を過った何かの影が、嘲笑うかのように高速でザッピングされていく。
――これは……何? まさか……いやでも……そんなはず、ない。
そう、遼平は知らないはず。
萩だって、蓮兄だって、何も知らないはず。
……偶然? いや、そんなことあるわけない。
あるわけが、ない――




