第1話 感謝御礼、三周年記念
この物語は完全なフィクションです。登場する人物や地名、団体名、イベントなど、たとえ同名であっても架空の作り物であることをご了承ください。
直接的具体的な性描写はありませんが、若干の凌辱表現、流血表現があります。R15としておりますが、15歳以上の方でも不快な思いをされる方は、閲覧をご遠慮願います。
詳しい前書きは活動報告にも書かせていただいております。そちらも併せて、ご覧いただけると幸いです。
郊外の私鉄沿線にある小さな学園町。
いまだ冷たい空気が残る三月末日の土曜日、桜前線満開宣言がなされたのはつい先日で、ここ慧徳学園前駅周辺の桜並木も、今やほぼ満開の開花状態である。
気の早い薄桃色が時折ひらひらと舞う桜の花道。そこを抜けた先に見えるのは、こぢんまりと佇む洋風建築――煉瓦と木材を組み合わせた明るい外観の、小さなレストラン。
軽やかなドアベルを鳴らしながら扉を開ければ、そこは食事を楽しむ客が集う、賑やかな空間が広がる。
「――じゃあ、ハンバーグとライスのランチセットで……ああ、食後はアイスコーヒーがいいな……」
「かしこまりました。では少々、お待ち下さいませ」
濃茶色のロングサロンと蝶ネクタイをつけた給仕人が行きかう。
「――それでね、私言ったのよ、それは違うんじゃないかしらって。そしたらなんて言ったと思う? ……あの方――あら、お料理が来たわ。んまぁ……美味しそう……」
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
光るシルバーのカトラリー、真っ白い洋食器。
「――あ、すみませーん、取り皿をもらってもいいですか? ……それからこのスープをもう一つ追加したいんですけど……コレすごーくおいしいですねー」
「ありがとうございます。すぐにお持ちいたしますね」
期待に満ちた顔、くつろぐ顔に満足そうな顔。
「――いやぁ、久しぶりだねぇ……ご家族はお元気かい? ……ああ、オーダーを先にしてしまおうか……いやね、ここのハンバーグは絶品なんだよ……」
『アーコレード(Accolade)』慧徳学園前店は、今日も昼のランチタイムで賑わっている。
木枠格子の窓に下ろされたシェードスクリーン越しに、爽やかな春の日差しが柔らかく差し込む店内。流れるBGMは七十~八十年代のアコースティックポップス。
テーブル席が五つ、カウンター席が六つの小さなフロアには、食欲をそそる芳しい匂いが溢れ、活気ある多様な喧騒がこの店の繁盛ぶりを大いに表している。
「お待たせいたしました。ハンバーグステーキでございます」
ふっくらとボリュームのあるハンバーグステーキは、『アーコレード』の看板メニューの一つである。オーダーを受けてから成形して焼き上げるので多少時間はかかるのだが、それを求める客は後を絶たない。
艶やかなドミグラスソースがたっぷりとかかり、何とも言えない芳香に食欲はそそられる。ひとたびナイフを入れれば、ここぞとばかりに溢れ出てくる肉汁。肉の柔らかい食感に、いくつもの香味野菜と赤ワインの香りが秘められた当店オリジナルのドミグラスソースが絶妙に絡まり合い、食した者の心を必ずや虜にしてしまうこと請け合いの逸品である。
目の前に置かれた五感をフルに刺激するその一皿に、客ははっきりとわかるほどの嬉色を満面に浮かべた。
こういう瞬間も、 “ギャルソン” 冥利に尽きる一コマだ。
「ごゆっくりどうぞ」
一言添えて席を離れると、奥のテーブルから「すみませ~ん」の声。
いち早く気づいたアルバイトスタッフが、こちらに目で合図をして素早く向かう。
時刻は13時35分――テーブル、カウンターともに満席、待ち三組……開店直後から待ち客が出た今日はいつになく客足が途切れず、この分だとランチタイムオーダー終了時刻を過ぎても客は引かないだろうと予測する。
目は滞りなく抜かりなく賑わう店内を見回しつつ、バックヤードの慌ただしさにも気をやりつつ、葵は、良い感じだな、と微笑んだ。
水奈瀬葵はこの『アーコレード』慧徳学園前店の店長を務めている。と言っても、店長に昇格してまだ二年の新米店長であり、この店自体も、先週で三周年を迎えたばかりの発展途上店である。
洋食レストラン『アーコレード』は、知る人ぞ知る老舗洋食屋『櫻華亭』の母体、株式会社クロカワフーズの新業態だ。
洋食界においてカリスマ的存在の『櫻華亭』は、芸能人や各界の著名人はもとより、皇室関係者までをも顧客に持つ歴史ある老舗洋食屋であるが、いまや日本国内では最高級レストランの部類に入り、ほぼ完全予約制で客単価も桁外れに高い。よって、一般庶民が気軽に食事できる場所ではない。
そこで、なるべく本家に近い味をできるだけ低価格でより多くのお客様に、というコンセプトのもと誕生したのが『アーコレード』なのである。
『アーコレード』は、本家『櫻華亭』と比べて価格は手頃、雰囲気もカジュアルで、客層は主婦やサラリーマン、家族連れ、時には学生も訪れる「町の洋食レストラン」といったところだ。同じクロカワフーズ傘下であってもその格式は幾分下がる。
ゆえに『櫻華亭』のファンの中には、所詮『櫻華亭』の廉価版だろう、という上から目線もないわけではないが、言わせていただくなら、それは偏見というものである。
『アーコレード』のグランドメニューに載る料理は、すべて『櫻華亭』のレシピを上手く慎重にアレンジされたものであり、低コストながらその味は驚くほど本家と大差ない。
また、給仕サービスも本家『櫻華亭』が基準となっているので、もてなす心に妥協はない。
年々リピーターが増えている現状を鑑みても、『アーコレード』はそのコンセプト通り、多くの客に、価格以上の満足を提供できる店として、その評判を日々高めていると言えよう。
それが、店長である葵の誇りであり、日々の原動力にもなっているのだ。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
会計を済ませ帰っていく客を見送り、すぐに、待っている客を空いたテーブルへと案内する。お冷を出してオーダーを取り、すぐさま厨房へ。
「カウンタE番のサクラ、バーグ上がりぃ! ライスいっちょぉ!」
「3番、四名様入りまーす! サクラ、メンチ、カニコロ、シチュー、オールワンです!」
「はいよー、 遼平ー、A番のグラタン入れろぃ」
「亜美ちゃん、1番のアフターお願いー」
「はーい、ただ今! 店長、これB番にお願いしまーす」
「了解ー」
緩やかで穏やかなフロアの雰囲気とはガラリと変わる、掛け声と活気に溢れたバックヤード。
ランチタイムはディナータイムに比べて回転が速く、とにかく身体を動かさければならない。特に今日のような忙しさでは、もはやぶっ通しの有酸素運動みたいなものだ。こうなってくると身体も精神も妙な高揚感に包まれる。
――ランナーズハイ、ってやつかな。
葵はそんな感覚が好きだった。
* * * * *
「葵ちゃん、ご馳走さま~。美味しかったわ~」
常連客である主婦業のご夫人四名が、声高なお喋りはそのままに席を立ち帰り支度を始めたので、葵は片付けの手を止めてレジに入った。
「いつもありがとうございます。お会計、別々でよろしいですか?」
にこやかに対応しつつ素早く個別計算。ランチの値段は決まっているので瞬時にレシートまで個別に出す。
「桜御膳ランチのお客様が1400円、その他のお客様は1250円ですね」
あらやだ、誰か10円なぁい?などと騒ぎながら各自財布からお金を取り出す中、姦し四人衆の首長ともいえる古坂律子が、真っ先に1400円きっかりキャッシュトレイに置いた。
「やっぱり桜御膳、美味しいわぁ~、今度テイクアウトできないかしら? お花見に持って行きたいのよ~……あ、レシートちょうだい。……ありがと」
欠かさずレシートを要求するのもいつものことだ。
「もちろん承っております。……ただ、桜御膳は期間限定のメニューなので、四月半ばあたりで終了の予定なんです。もしご用命なら、早めのご予約がいいかと」
「あら、そうなのね。期間限定だなんて残念だわ~。でもお花見は間に合うわね。詳しい数が決まったらお願いするわ」
「ありがとうございます。お待ちしていますね」
常連の顧客というのは、勝手知ったる我が家のような感覚があるのか、いつもと同じ流れが妨げられるのを嫌う特性がある。葵は如才なく受け答えをしながらも、残り三名のお会計を待たせることなく速やかにこなした。
「あ、これ三周年記念のお菓子です。今後ともよろしくお願いします」
四人にそれぞれ、マホガニー色のシンプルな包装紙で包まれた小箱を手渡す。中は店オリジナルの小さな焼き菓子だ。二週にわたる期間限定企画で、訪れた客全員に三周年記念品として配っているものである。
「これ頂けるのも今日で終わりね~」
「うふふ、私三個目」
「あら、律子さんなんて既に六個は貰ってるわよ~」
「ん~、主人の分を合わせると十個は貰ったかしら」
アハハハ、オホホホと身体を揺らし合う奥様方四人に、葵もつい微笑んだ。
じゃあ、また来るわね~ご馳走さま~、と四人が入り口へと向かったその時、ちょうどカランコロン、とドアベルが鳴り、一人の中年男性がひょっこりと顔を出す。
「――あら、あなた」
そう反応したのは古坂律子だ。そして「おや、来てたのか」とふらり店内へ入ってきた小柄な中年男性が古坂孝文……律子の夫であり、彼もまたこの店の常連客であった。
「まだ大丈夫かい、葵ちゃん」
「いらっしゃいませ、どうぞ。カウンターでよろしいですか?」
きゃらきゃらと笑い合いながら「じゃあお先に~」と出ていく妻たちを苦笑しながら見送り、古坂氏は葵の案内でカウンター奥の席へ着いた。
「今日は何になさいますか?」
お冷を出して声をかけると、古坂は少し身体をよじって店内を見回し「ん~」と考えるそぶりを見せたが、すぐに「いつものにするよ」と言ってにっこり笑う。
著名な小説家であり自宅で執筆活動を行っているという古坂氏は、同じ年代の会社員とは違ってどこか悠々としているな、と葵はいつも思う。
「では、タンシチューをランチセットで。お食事の後にコーヒーをお持ちいたしますね」
葵が確認を取り下がろうとした時、「葵ちゃん」と古坂が呼び止めた。
「……とても良い店になってきたね、葵ちゃん。濱野さんも、喜ぶだろうな」
そう言って優しげに笑う古坂に、葵は思わず眼を見開く。
「古坂さん……」
この古坂氏と先ほどの古坂夫人は夫婦共々、この店がオープンした当初から通い詰めてくれる生粋の常連客である。さらに言うと、『アーコレード』慧徳学園前店の “前身” をも知っている稀少な顧客でもある。
葵がピヨピヨの新入社員の頃はもちろん、入社一年目にして問答無用とばかりに店長へ昇格させられ、無我夢中で突き進んできたこれまでを、ずっと温かい眼で見守ってくれた、陰ながらの援護者と言っても過言ではない。
「……ありがとうございます」
我知らず喉の奥にぐっと込み上げてくるものを感じて、葵は深く深く、頭を下げた。
* * * * *
「おっ疲れ~、アオーイちゃーん、どーお? 調子は~」
ランチタイムを終えれば、店の中ではつかの間の賄いと休憩時間、そして17時30分からのディナータイム準備へと入る。
賄いを食べ終わった葵が、裏の事務室兼休憩室でパソコンに向かっていると、すこぶる上機嫌で入ってきた人物が背後に立ち、葵の両肩をガシッと掴んでぐいぐいと揉みほぐした。
「……イタタッ……イッタイですよ杉浦さんっ! お疲れ様ですっ」
「なーにアオイちゃーん、トラフグみたいな顔しちゃってー、ツレナイなぁー。三周年のイベントも今日でラストじゃーん。売上良かったんでしょー? あ、俺がランチ来られなかったから拗ねてるのー? そんな顔しないでよー、ディナーは入るからさー」
恐ろしく軽い口調で葵をいなしながらも、杉浦の眼は画面上の時間帯売上を素早くチェックしていく。……侮れない。
部下である葵を “アオイちゃーん” と慣れ慣れしく呼ぶこの男性は、杉浦崇宏三十五歳……このクロカワフーズ内で中堅の部類に入る彼は、現在三店舗ある『アーコレード』を担当するマネージャーであり、葵にとっていわば直属の上司だ。
慧徳学園前店がオープンした当初から担当していて、店舗経営に関しては全くの素人だった葵に、一からそのノウハウを叩き込んだ人物である。
昔はホテルマンだったところを、若くして『櫻華亭』へ引き抜かれたという彼は、クロカワフーズ上層部も一目置くほどの強者だ。現場においては貴公子然とした物腰と頬笑みで接客をし、経営面においても練達した手腕で担当する店舗を次々に軌道へ乗せ、極めて有能で優秀な人材である……らしい。
ここでいま一つ断定しかねる理由は、非常に残念なことに――チャラい。
もちろん、葵は彼を上司として尊敬しているのだが、尊敬フィルターを無理矢理かけたとしても、彼のチャラさ加減は消えることがない。
周りには “昔のアイドル顔” とよく揶揄されていて、確かに実年齢よりは若く見えるようだが、すでに妻帯者で、昨年子供も産まれたと聞いている。なのに、誰彼かまわず愛称で呼び鳴らし(女性はほぼチャン付け)、肩や頭に触れるくらいのスキンシップは日常茶飯事。フレンドリーと言えば聞こえはいいが、一歩間違えれば軽々しくて馴れ馴れしい。
セクハラで訴えられやしないのか……と思わないでもないが、実際に訴えられたという話は今のところ聞かないので、心配するには及ばないのか。
「おー、杉ぃー、来てたのか。夜は入るんだろ?」
コック帽を脱いだ佐々木辰雄が白髪交じりの短髪をガシガシ掻きながら事務室に入ってきて、デスクの引き出しに隠してある(つもりらしい)煙草を出し一本銜える。
佐々木は慧徳学園前店のチーフ――料理長である。
「佐々木さーん、没収ー」
杉浦は、ピッと佐々木の銜えた煙草を抜き取ると、デスク上のペンスタンドに差し込んだ。
「おいー、ここで吸うわけじゃねんだから……」
「ダーメ。仕込み途中じゃないのー?」
「今日は遼平がいるからいいんだよ」
「おーおー、できた弟子を持つと師匠はラクちんですなー。ラクしすぎてボケないで下さいよー?」
ベテランシェフの佐々木でさえ杉浦には敵わない。葵は苦笑してデスクチェアを杉浦に譲り背後に下がった。
「あー、サクラがよく出てんね―。いいじゃん、やっぱ、もうちょっと期間を延ばしますー?」
パソコンを手慣れた様子で操作しながら、杉浦はここ数日の売り上げ動向を探っている。
「原価率がたけぇからな、手間はかかるし早々にやめてーけど……人気があんだろ?」
自分に向いた問いかけに葵は頷いた。
「今日も常連の古坂さんが褒めてくださって。今度、お花見用にお持ち帰りしたいそうです」
「お花見弁当ねー。いいよそれー。アオイちゃーん、じゃんっじゃん予約取っちゃってー」
「杉、十個以上入ったらお前も “詰め” に入れよ。いや入れる」
「え~、俺っち、表の人間だしぃー」
そう言ってくるりとデスクチェアを回転させ、葵の方を向いた杉浦は、「あ、そうそう、ここのマネさん変わるからー」と事もなげに言い放った。
「えぇっ?」
目を見張る葵に、杉浦はさらりと重大な事実を告げる。
「俺、新店舗オープンに駆り出されちゃってさー。ほら、前から揉めてた洋風割烹の店、七月に決まったんだよ。内装立ち会いもオペレーション立ち上げもスタッフ教育も、ぜ~んぶ俺がやれっつーんだよー、いくらこの杉さんが出来る男だからっていってもさー、どんだけ鬼だよって話ー。あー俺、過労死するかもー」
クネクネしながら嘆いている杉浦のセリフは、佐々木に九割方スルーされる。
「やっぱ総師が仕切るんか?」
「いや、和史が仕切るでしょー、言いだしっぺなんですからー。黒河総料理長は高みの見物って感じですよー。当面はマッキーに麻布店を任して、和史がとりあえず寄せ集めたメンバーまとめるって。佐々木チーフもヘルプで呼ばれるかもしれませんねー?」
「勘弁してくれぃ……」
げんなりした様子で顎をさする佐々木は、元は『櫻華亭』本店のコックである。このレストラン業界で名の知らぬ者はいないといわれる『櫻華亭』総料理長、黒河紀生の下で長年腕をふるってきた。
老舗洋食屋の厨房というのは特異な世界であり、それ相当の峻厳たる社会性があるのだろうが、葵にはその辺がまだよくわからない。目下の心配事は――、
「あの……杉浦さんの後、ここの担当……誰がいらっしゃるんですか……?」
「んー、ユージ」
「ユウジ……?」
「ほぉ、侑坊か。忙しくなるな、あいつも」
――ユウジ……ユウボウ? ……そんな人いたっけ?
呑気な佐々木の隣で、葵は名前を聞いてもその人物の姿形がパッと出てこない。
「今あっちこっちゴタついてるからねー、俺も四月はあんまし来れないなー。ユージもこっちに来るのはシングラーを後釜に引き継いでからになるだろうし、引き継ぎは遅くなるかもー。まーったく、見切り発車もいいとこでさー。ポンポン店舗を増やす前に人員を増やせってんだよなー」
愚痴る杉浦の言葉で、やっと葵の脳内に出てきた一人の男性。
「もしかして……黒河マネージャー、ですか……?」
「そ~、黒河総理長と黒河統括の次男坊、ユージおぼっちゃまですよー。あれー? なぁにアオイちゃーん、その、『ワタシちょっと苦手なんだよなー』って顔はー」
「あ……はは……そんなこと、ない、ですけど」
ニヤリと図星ど真ん中を刺されて、誤魔化し笑いが引きつる。
「ま、パッと見、サイボーグみたいなやつだけどさー、可愛らしい奴だよー? 来月あたりはバタバタするかもしんないけど、なるべく早めに引き継ぎするからー。よろしく頼むね~」
杉浦はひらひらと手を振り、またパソコンの画面に向き直った。
黒河侑司――現在『櫻華亭』のホテル内テナント店舗を担当しているマネージャーである。
クロカワフーズにおいてマネージャーという役職は現在五名いるが、そのうち最も年若のマネージャーで、史上最年少マネージャー昇格を果たした人物でもある。
彼とは今まで仕事上直接の接点がなく、挨拶程度しか交わしたことがないが、おおよそ “可愛らしい” とは程遠い人物だと、葵の中ではインプットされている。
先入観もあるのだろうが、厳格で威圧的で冷たい印象があり、ずっと一緒にやってきた杉浦とは全く違うタイプだ。
記憶にある件の彼を思い浮かべると……何となく、鳩尾あたりが重たくなってくるのは気のせいか。
『――ついて来れない奴は容赦なく、切れ』
すっかり忘れていた氷剣のような言葉。今もってはっきりと耳に残っていることも驚きだ。
『櫻華亭』という老舗がその道を長く歩んできたとはいえ、会社としてのクロカワフーズは歴史がまだ浅い。よって、年々着実に利益を伸ばし成長していく一方で常に人員が不足しており、人事異動もわりと頻繁に行われる。
――でも、よりによって……
突然湧き上がった担当マネージャーの異動……、後任が “あの人” とは……
「――つーか、最近、胃の調子がおかしくってー。これって働き過ぎだと思うんですよねー」
「そりゃ、老化現象だな。あれだ、胃酸過多」
「うへー、なーんかオッサン臭い症状ー。あー、そういえばチーフって、腰痛持ちでしょ」
「こりゃあ、職業病だ。名誉の負傷だ」
「……自分だけ気取っちゃってー」
杉浦と佐々木のどうでもいい会話が耳を通り抜け、葵の思考はふらふらとあらぬ方向へ彷徨っていく。
――うーん……気が重くなってきた……どうしてだろう……
ようやく上り調子で軌道に乗ってきている今の時期、 “変化” というものに怖気づいているのだろうか。
――それとも……?
※ ギャルソン……フランス語でgarçon。少年・男の子の意。英語などの他言語においては給仕を指し示す言葉となっている。本来は男性給仕を指すので女性には使われませんが、クロカワフーズではどの店舗でも、男女関係なく “一流の” という意味を込めて、この語を使うようです。