第11話 緊急事態、発生(フラッシュバック編)
梅雨入り間近の六月初旬、開店前の事務所に鳴り響く電話のコール音。
「――ありがとうございます。『アーコレード』慧徳学園ま……あ」
プツッと切れてしまった通話に、葵は首を傾げて受話器を戻す。ちょうど着替えて出てきた篠崎に、葵は尋ねた。
「ねえ、篠崎くん、最近無言電話って受けたことある?」
「いえ、僕は受けたことないですけれど……ああ、アルバイトで雇ってくれませんかっていう電話をこないだ亜美が受けていましたよ。でもその相手、高校生だったみたいでその場で断っていましたけどね」
「へえ……高校生が。珍しいね。……でも仕方ないね、うち高校生は雇えないもん」
「……さっきの、無言電話だったんですか?」
篠崎は蝶タイを付ける手を止める。心配そうに眉を寄せた篠崎に、葵は慌てて笑って「間違い電話か、イタズラかな」と返した。
実際、葵が受けたのは三回目だった。気にすることはないのかもしれないけれど……
「――何かあったのか」
「ぅわぁっ!」
背後から突然声をかけられて、葵の肩は面白いほどに揺れた。
「おはようございます、黒河マネージャー。今、店長が受けた電話が無言電話だったんですよ」
篠崎が如才なく答えると、黒河侑司は切れ長の瞳を鋭くこちらに向けて「無言電話?」と問うてくる。
「はい……あ、おはようございます。……いや、あの……たぶん間違いか、軽いイタズラ電話だと思います。気にすることは――」
「前にもあったのか?」
「私が受けたのは三回目です。篠崎は受けたことがないと言ってますし、他の子からもそういった話はまだ聞いていません」
隣で篠崎が頷くのを見て、侑司は「そうか」と少し眼光を弱めた。
「もし何度も続くようだったら知らせろよ」
そう言って、さっさと荷物を置き早速パソコンに向かう。
篠崎は「じゃあ、表の準備に入ります」と言ってフロアに出ていった。
葵は密かに、ほぉー……と息を吐きだす。
いったいどこから入ってきたんだ、あの人は……全然気がつかなかった……
余韻が後引く鼓動をそっと手で押さえて、葵は途中だった発注を済ませるため、発注ボードを片手にホールカウンター内にあるワインセラーへ向かった。
――宮崎から戻り、カレンダーはすぐ六月に入った。変わりなく店に立つ毎日である。
宮崎の伯父宅で過ごした夜、兄弟二人から申し渡されたことは、双方の間で一応保留となっている。
蓮はその後、あの話を蒸し返すことはなかったが、萩は事あるごとに「帰ってこいよ」としつこかった。対して葵は、避けて逃げてかわしまくった。どんなに言われても、今、実家マンションに帰る気はさらさらないのだ。
しかし、彼らが葵の心配をしてくれていることは痛いほどよくわかるので、葵としても強く拒否できないところが辛い。
理路整然な兄と、猪突猛進の弟……正反対の性質ながら、あの二人が結託すれば事は厄介だ。葵としてはこのまま有耶無耶にしてしまいたい。
――と、いうわけで。
あれから葵は、仕事の時短・効率UPを目指し精進中なのである。
夜遅くならなきゃ文句ないんでしょ!というのは子供じみた反論かもしれないが、それだけの理由で実家に連れ戻されるのは納得がいかないというもの。だったら、つけ入られる隙はできるだけ無くしておきたい。
店を閉めてからでなければ手がつけられない仕事も多々あるので、遅くなる日を完全になくすことは不可能なのだが、とりあえずは事務仕事を開店前に手掛けたり、客足が少ない時間はアルバイトに任せ自分は事務処理に回ったり……となるべく夜遅くなるのを避けるよう心掛けてはいる。
無駄な残業を減らすという意味でも、時短と効率UPはまだまだ改善すべき点があるかもしれない。
今更だが、今まで葵は超過勤務しがちであった。色々なことを全部自分で処理しようと気負いこんでいるからかもしれない。前担当マネージャーの杉浦にも再三注意されてきたことだ。
もちろん、無意味な残業は当然クロカワフーズでも許されないので、葵はどんなに超過しても規定勤務時間以上をつけたことはないが、これがバレれば間違いなく叱責を喰らうだろう。葵を直接叱るのは……おそらく現担当マネージャー。……それは避けたい。
幸い、六月は売上こそ落ち込むが、その分いつもできないことを手掛けられる時間はある。もう一度自分の中で仕事の優先順位を整理し直して、もっと効率よくさらに合理的に、を目指せば、午前様必須の日も幾分減るかもしれない。
「……よし、これで来週末まではいけるはず」
チェックし終わり、セラーの扉を閉める。あとは新たに発注する分をパソコンで入力すればOKだ。
ワインを含むこれらリカー類の管理は、入社した当時から葵の苦手分野だった。
葵自身、アルコールにはかなり強い体質らしいが、強さと知識は比例しない。働き始めの頃はワインの銘柄や品質など何一つわからず、ワインオープナーの使い方さえ知らなかった。
そこを、杉浦や諸岡、時にはアルバイトの池谷(何故か超詳しい)にも散々教えを請うて、やっと最近、客のオーダーした料理や好みに合った一本をお勧めできるようになったのだ。
それでもまだまだ、素人の域を出てはいない。
だからこうして発注ひとつするにも、余計な時間がかかってしまう……勉励必須事項である。
ダスターでワインセラーのガラス扉を丁寧に拭いて、リカー類が収納してある隣のショーケースも温度チェックと拭き上げをしていく。
ガラス越しに多種多様なボトルが整然と並ぶ様を目に映し、ふと、先日買った宮崎産芋焼酎を思い出した。
佐々木チーフと黒河マネージャーにお土産として購入した限定酒の贈答用。そこまで高値ではないが、焼酎好きなら喜んでいただける一品だ。
実際に手渡したのは、宮崎から帰って来た翌日。侑司もタイミング良く店にやってきたので、なるべく自然な感じで渡してみた。
佐々木といえば「しばらくはコレのために頑張れんなぁ」とニマニマ上機嫌だったが、侑司は「わざわざ悪かったな」と言っただけで、特に嬉しそうでもなかった。とはいえ、特に嫌そうでもなかったのだが。
――やっぱり芋焼酎はイケてなかったかな……宮崎牛とか、太陽のタマゴとか……もっと高級感溢れるものの方が良かったかな……
「――店長、オープンしまーす」
篠崎の掛け声に葵はハッと我に返り、慌ててサロンと蝶タイを取りに事務室へ引っ込んだ。
* * * * *
この日の客足はまばらだった。先ほど、古坂律子夫人率いる常連の奥方四人組が入り、ようやく店内が賑やかな雰囲気になったところだ。
世間では “ニッパチ” と言って、一年の中でも二月と八月が売上ダウンとなる傾向にあるのだが、『アーコレード』では、大体二月と六月に売上が落ちる。
慧徳学園前店でも、三月、四月、五月はイベント続きで売上も前年比超えしたのだが、六月は今のところ目ぼしい客引き要素もなく、落ち着いた営業が続いている。
本格的に梅雨時期になれば、ますます客足が遠のくかも……と、窓から薄曇る戸外を見やり、ぼんやり考え込んでいると、
「黒河マネージャー、まだ裏にいらっしゃるんですか?」
篠崎がレジカウンターに立つ葵の隣にやってきた。
「うん、 “紫陽花御膳” の打ち合わせで、チーフとね。来週には始めると思うよ」
「そうか……もうそんな季節なんですね。今年は中身、なんだろう……」
首を傾げる篠崎は、やや鼻が大きな優しい顔立ちの青年で、慧徳のアルバイトの中では一番しっかりしていると評判だ。
「さっき仮案見せてもらったけど、なかなか豪華だったよ。メインはエビフライにカニコロでね、タルタルソースに刻んだ茄子のピクルスが入ってるの。だから少し紫が入って見た目も綺麗だったー。で、テリーヌがね、サーモンと梅紫蘇を使って、淡いピンクとパープルの小さなお花の形で、まさに “紫陽花” なんだよ。早く味見してみたいよねー」
その他にも、洋風懐石ともいえる色鮮やかな料理が細々と入っているのだ。うちのお客様たちにも間違いなく喜んでもらえそう、と葵もついニンマリしてしまう。
「店長って、本当にここの料理、好きですよね」
穏やかに微笑む篠崎に、葵はパチパチと目を瞬かせる。
「え? 篠崎くんだって好きでしょ?」
「はは、そうですね。うちの店の料理、嫌いなやつはいませんね」
「でしょー? あ、そーだ。早速、お得意様たちにお葉書出さなきゃ」
「ああ、あれ好評みたいですよ。普通のダイレクトメールっぽくなくて。うちの母も、『こんなお便りもステキね』って喜んでいました」
この篠崎青年の母親も、実はこの店のお得意様だ。特に “洋風御膳” の特注で御贔屓にしていただいている。そういった常連の顧客宛てに、葵は時折葉書を出している。内容は新商品のご案内が中心のダイレクトメールだが、なるべく自分の言葉で書くようにしている。こうして反響の言葉がもらえると嬉しいものだ。
「母の書道サークル内でもここの洋風御膳は人気みたいです。展覧会だのなんだのであちこち動き回っているので、せいぜいこれからも宣伝してもらいますよ」
「ふふ、有りがたいことです。私も張り切って宣伝しなきゃ」
くすくすと二人で小さく笑い合った時、カランとドアベルが鳴って、葵はすかさず笑顔で出迎える。
「いらっしゃいま、せ……」
ゆったりとしたシルエットの小花柄ワンピースを来た女性が、店内を窺うように入って来る。
――大きなお腹を、守るように手を添えて。
「――姉さん!」
一瞬出遅れた葵の脇から、篠崎が驚いたように叫んで彼女に近づいた。
「耕ちゃん! よかった、バイト入っててー。朝起きたらいないんだもん、一緒に連れてきてもらおうと思ってたのに」
そう言ってニコニコ笑う彼女を、篠崎が困ったように笑って紹介した。
「店長、僕の姉です。今、出産で実家に帰って来ていて」
「こんにちわ。いつも耕太がお世話になっています。一度、弟の働くレストランで食べてみたいなーと思って、今日伺ったんですけど……」
篠崎とよく似た、優しげで黒目がちな瞳で興味深く見つめられて、葵も笑顔を向ける。
「店長の水奈瀬です。こちらこそ、篠崎くんにはいつも助けられているんですよ。お一人様ですか? ……じゃあ、奥のテーブル席にご案内してあげて?」
最後は篠崎に向かって言えば、「あ、カウンターでいいですよ」と彼女は慌てた。
葵は笑顔を保ったまま、篠崎にメニューを手渡す。
「カウンターの椅子は少し高さがあるんです。たぶんテーブル席の椅子の方が楽だと思いますから。それに……今日はお客様が少なくて、テーブル席がたくさん空いているんです」
悪戯っぽく葵が微笑むと、篠崎の姉も「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って篠崎について行く。
張り出した下腹部に手を添えて、ゆっくりと歩く彼女の後姿から、葵はそっと目を逸らした。
現在妊娠十か月だという篠崎の姉は、出産予定日まであと二週間もないという。夫と共に都心のマンション住まいだそうだが、ひと月ほど前からここ慧徳学園近くの高級住宅街にある実家に出産里帰りをしているらしく、今日はかねてから来てみたいと思っていた弟のアルバイト先へ、散歩がてら食事しに来た、というわけだ。
彼女がオーダーしたのはオムライスのランチセットだった。大好物だというその一皿が目の前に出されると、彼女は瞳を輝かせてスプーンを取り上げた。
『アーコレード』のオムライスは、今流行りの半熟トロトロ卵ではなく、一枚の薄焼き卵で形よくチキンライスをくるんだタイプのものである。
チキンライスにしっかりとした味がついているので、ケチャップソースはかかっていないが、客の要望でドミグラスソースを別添えにもできる。
このオムライス、一見シンプルに見えるが、実は仕上げが物凄く難しいのだ。
フライパンの上に流した卵が固まり切らないうちに、チキンライスを素早くなじませ、一切の焦げ目を付けずに、黄色も鮮やかに、そして艶やかに形よく包み込んで仕上げなければならない。
料理長佐々木はものの見事に、まるで作り物の食品サンプルのような艶やかなオムライスに仕上げるが、遼平などはまだまだ苦戦している。
そんなオムライスは、特に女性や家族連れの子供たちに人気の一品なのである。
篠崎の姉は、嬉しそうにオムライスとランチに付くミニサラダを食していたが、半分も食べないうちに、隣のテーブルにいた例の奥様方四人に目をつけられてしまった。
勝手知ったる四人衆は、食後のドリンク片手に椅子をガタガタと移動させ若き妊婦を取り囲み、嬉々として質問攻めにしている。
酸いも甘いも噛み分けたご夫人方にとって、年若い妊婦、というのは格好の “エサ” らしい。
彼女を前にして、自分たちの出産、子育てエピソード、果ては誰それの孫が入ったどこぞの幼稚園の評判は……などなど、話は尽きない。
当の篠崎姉も、ニコニコと楽しそうに輪に加わっているので、迷惑というわけではないのだろう。給仕する篠崎も、時々その輪の中に捕まっている。姉弟だということが知られてしまったようだ。
並んで見ると、本当に良く似ていると思う。クマ顔の篠崎に比べて、姉の方はあどけないコアラのような愛らしさがあった。
気がつけば他の客は帰り、ランチのラストオーダーの時間も近い。
おば様パワーに気押されつつ、困ったような顔で戻って来る篠崎の様子に苦笑しながらも、葵はレジ締め準備に入った。
事件は、その数分後に起こる――
「――あらやだ、もうこんな時間! 長居しちゃったわ~」
「お姉さん、ごめんなさいね~、うるさく騒いじゃって」
「元気な子、産みなさいよ~」
「はい、ありがとうございます。こちらこそ、楽しかったです」
そんなやり取りが聞こえて、再び賑やかに椅子の音が鳴る。
「葵ちゃん、遅くまで悪いわね~。今日も美味しかったわ~」
真っ先にレジにやってきた古坂律子の会計を「いえいえ」と笑って済ませるうちに、次々に連れの三人もやって来た。
いつものように玄関口でキャラキャラとはしゃぐ夫人たちの声を聞きながら、手早くそれぞれの会計を済ませている葵の視界の端に、伝票を手にしてゆっくりと椅子から立ち上がる、篠崎の姉の姿がある。
「ありがとうございました。また、お待ちしております」
「は~い、また来るわね~。ご馳走さま~」
背を向けた四人の後ろ姿から、視線をすっと、こちらへ向かってきた篠崎の姉に移した時、それは起こった。
レジまであと三、四メートル……突然「あ……」と、か細い声が聞こえたと同時に、彼女はその場にふわりと――まるで、スローモーションのように――崩れ落ちた。
実際は “しゃがみ込んだ” のだが、葵の目には、突然彼女が倒れ込んだように見えたのだ――貧血か何かで。しかしすぐに、その思い違いに気づく。
「あぁ……」ともう一度、小さく声を上げた篠崎の姉の足元……しゃがみこんだ床の板目が、見る見るうちに濡れ広がっていく。
「……姉さん? ――姉さんっ!?」
バックヤードから出てきた篠崎の叫び声で、葵の目に映るすべてのものが、ぐらり、と揺れた――
『――……葵っ!』
「ちょっ……どうしたんだよ! ――姉さんっ!!」
『――……な……何だよこれ……っ! 葵! 葵っ!』
「姉さんっ! 大丈夫か?! ……痛いのかっ?」
『――萩っ! 動かすなっ! 痛いのか? 痛いのか、葵!』
「……耕ちゃん……どうしよう……」
『――……蓮……にぃ……いっ……た……ぃ……』
「まあ! ちょっと大変っ! 破水だわ! あなた大丈夫っ!?」
「姉さんっ!」
『――しっかりしろ、葵! ――萩! 救急車呼べっ!』
『――……わない……で……』
「待って! むやみに動いちゃだめよ! ……葵ちゃん! 何か……清潔なタオル! タオルちょうだいな! お姉さん、大丈夫よ! 気を確かに持ちなさい! 痛みは? まだ無いのね?」
『――待てっ萩っ、車の方が早い! キー持ってこい! ……い、いや、こっちで葵を支えてろっ!』
『――……ねがい……いわ……いで……』
『――あ、葵、しっかりしてくれ……何だってこんな……っ……』
「――何だ? どうした……おい、篠、どしたよ」
「チ、チーフ……っ! 姉が……っ」
途方に暮れたような姉の傍らで必死に問いかける篠崎、帰りかけていた四人の夫人達は慌てて駆け寄り、騒ぎが耳に入ったのか裏から佐々木や笹本も姿を現した。
みんながわらわらと篠崎の姉を取り囲む中、葵は一歩も動けない。
ドクンドクン……
震える両手だけが無意識にそろそろと、自身の下腹部へと下りていく。
ドクンドクンドクン……
まるで耳に脱脂綿を詰められたように、くぐもって聞こえる周りの喧騒。
ドクンドクンドクンドクン……
身体中に大きく響く、嫌な鼓動。
――鮮明に甦る、過去のフラッシュバック……――
『――……母さんには、言わないで……っ!』
※太陽のタマゴ……宮崎産の完熟マンゴーの中でも品位、階級、糖度ともに最高級のものに名づけられたブランドマンゴー。高いものは二個で一万円以上するそうです。某元宮崎知事さんのおかげでずいぶん有名になりました。




