第31話 そして、店は開く
無意識に後ずさる葵の腕を、侑司が掴む。
「……水奈瀬、頼む。一緒に戻ってくれ」
厳しい声。けれど、見上げた顔は、どこか痛みを堪えるような……
急に賑やかで騒々しい声が押し寄せてきた。団体客だろうか。
フライト遅延のアナウンスが入る。旗を持ったガイドの声、騒めく人々、にこやかに応対するカウンタースタッフ。
侑司が葵の腕を引いて足早に動いた。
腕を掴まれたまま、葵は搭乗手続きを済ませた。
それから侑司は、手荷物を預ける時も保安検査を抜ける時も搭乗口で待つ間も、葵にピタリと寄り添い離れることがなかった。
二度ほど電話を受けていたのは、本社からだろうか。低い声でごく短く答えていたので、その内容はよく分からない。けれど、侑司の表情はずっと厳しいままであった。
葵がいない間にクロカワフーズで何が起きたのか――ようやく詳しい説明がされたのは、飛行機に搭乗し、十数分遅れの離陸後、シートベルト着用サインが消えた後である。
橘ちひろの公式SNSに、先日慧徳で催したドラマの打ち上げパーティーの記事が更新されたのだが、そこに “大人のお子様ランチ” の画像や『アーコレード』慧徳学園前店を紹介するような内容があり、昨日から問い合わせの電話が殺到しているということ。
緊急会議の結果、三月からやる予定だった “大人のお子様ランチフェア” を急遽二月から決行することになり、社長の意向で、慧徳だけでなく渋谷店と恵比寿店でも同時に開催すると決定されたこと。
反響の大きさから鑑みて相当の来客があるだろうと予測し、食材から人員の確保まで、『櫻華亭』や『紫櫻庵』、『プルナス』にも協力を仰ぎ、昨日から社内総出でイベントの準備に当たっていること。
クロカワフーズのHPには正式にイベント開始日を載せたのだが、先ほども言った通り、思った以上に問い合わせが多く、慧徳店のみ一日前倒しで――すなわち今日から――イベント決行となったこと。
「客のためにも、スタッフ皆のためにも、前回の模擬販売でノウハウがわかっているお前の力が、どうしても必要だ」
要領よく順序立てて説明した侑司は、最後にそう説いた。
しかし、項垂れてしまった葵の頭は上がらない。自分が必要だと言われてもなお、胸の奥が重く息苦しい。
“大人のお子様ランチ” ――それは、叶わなかった願掛け、である。
濱野氏との思い出深いあの場所で、いやでも濱野氏を思い出すようなイベントだ。今の自分にできるのだろうか……あろうことか客の前で泣いてしまった自分に。
悲痛な面持ちで俯く葵に、侑司はそれ以上何も言わなかった。
けれど静かに葵の左手を取り、しっかりと握った。羽田に到着するまで、侑司は葵の手を握り続けた――まるで怖気づく葵を、逃がすまいとしているかのように思えた。
三日ぶりの東京は、滅多に見ることのない雪景色だった。
空港駐車場に停めてある侑司のSUVまで、再び手を取られ引かれて、有無を言わさず助手席に乗せられ、そのまま二人は慧徳へ向かう。
幸い積雪量は公共交通網、及び主要道路が完全麻痺するほどではなかったようだが、それでも羽田から続く高速は渋滞が酷い。運転する侑司の視線は何度となくフロントパネルのデジタル時計に走り、ピリピリと張り詰めた気配が途切れることはなかった。
息詰まる車中、緊張とも不安とも恐れともつかない何かが、自分でも戸惑うくらいどんどん膨らんでいく。車内の暖房のせいか、手先は冷たいのに顔が妙に火照る。身体中どこもかしこも重苦しい。
このまま店に直行しても、ランチオープンに間に合うかどうかギリギリのところだ。心の準備もままならないというのに、自分は “大人のお子様ランチ” のイベントを采配しなければならない。
――この自分が? こんな気持ちのまま?
笑顔で客を迎えられるのか。客の元へお子様ランチを運ぶたびに、濱野氏を思い出すかもしれない。せり上がる情動を抑えきれず、また泣いてしまったら。動揺するあまり取り返しのつかない大きなミスに繋がったら。
店への距離が縮まるにつれて、思考は転がる石のごとく深みに落ちていき、被害妄想はいや増しに大きくなっていく。
――それだけじゃない……また、良からぬ客が異物混入を訴えてきたら。……いや、SNSの評判に期待した客の反応こそ怖れるべきではないか。……期待して損した、とがっかりした客が、失望感をそのままネットに載せてしまったら……?
ここへ来て過去の騒動や事件が思い返される。それらの記憶がさらに途方もない脅威を孕み、また再び葵の目の前に襲い掛かってくるような気がしてしまう。
強張る頬がそそけ立つ。耳鳴りに似た拍動が消えない。
時折こちらに視線を向ける侑司がどんな顔をしていたのか、それさえも気づけなかった。
SUVは慧徳学園前駅近くのコインパーキングに停まった。
大きな荷物はそのままに車から降ろされた葵は、侑司に手を引かれて白く凍りつく冬枯れの並木道を足早に抜ける。しかし、店が目に入った時、葵の足は完全に竦んだ。
――どうしよう……、こんなに……
店の玄関から店前の小さな駐車場の方に伸びる人の列――すでに客が並んでいる。
「……水奈瀬?」
「……あの、……私……」
まだ開店前のはずなのに、店の玄関前に並んだ人々……十数人ほどいるだろうか。ざっと見るところ若い人が多そうだが、中には年配の夫婦らしき二人組や、中年女性のグループもいるようだ。
郊外であるこの界隈は、都心に比べて積もった雪の量も多い。当然寒さもキンと突き刺さるようだ。にもかかわらず、コートやマフラーなどで防寒した人々が、店のオープンを待って並んでいる。
――楽しみにしているのだ。あの “お子様ランチ” を。あれは濱野さんの……
ぐらりと揺らぎそうになる身体を、侑司が支えた。
「水奈瀬。とにかく、店へ」
蒼ざめ強張る葵の肩を抱えるようにして、侑司は店裏に続く小路へ向かう。
目に映る店の外観が、どこか余所余所しく見えた。しばらく店から離れてしまったせいか、葵自身を頑なに拒んでいるような気がしてならない。
侑司と共に裏口に回った葵は、またもや足が止まることとなる。
「――おう、間に合ったじゃねーか」
二人に気づき声を上げたのは、指に煙草を挟んだ佐々木だ。ランチオープンまでのわずかな時間、いつもの吸い溜めタイムなのだろう。コック着の上に厚手のジャンバーを着込んでいるが、陽が陰る店の裏手はさらに雪が多く残っており、いかにも寒そうな喫煙場所だ。
だが、葵の目が釘付けとなったのは、声をかけた佐々木より、その隣にいるもう一人。
「これで役者がそろったってぇわけだな」
濁声でニヤリと笑い、短くなった吸いさしを吸殻専用の錆びた缶に投げ入れたのは、どこぞのソッチ系もビビるだろう悪人面。こちらもコック着の上に黒いジャンバーを羽織っている。その左右の胸元に何やら派手な刺繍が……龍か。
唖然と固まる葵の代わりに、侑司が呆れたような声を出した。
「国武チーフ、本店は大丈夫なんですか」
『櫻華亭』本店料理長の国武は、傲然と腕を組んで仁王立ちのまま言う。
「あっちは、黒河総料理長様が久方ぶりに腕を振ってくれるってぇんでなぁ、心置きなく慧徳さんを加勢できるってぇもんだ。――おぅ、水奈瀬ぇ。時間がねぇぞ。とっとと着替えて準備しな」
――どうして、国武チーフが、慧徳に?
意気揚々と裏口から入っていく国武に次いで、煙草の吸いさしを空き缶に投げ入れた佐々木は、苦笑しつつ葵と侑司に向かって顎をしゃくった。
「寒ぃしな、まぁ、中に入れや」
二人の料理長の後に続き、(国武のジャンバーの背中にはもう一匹大きな龍がいた)葵が事務室内に入ると、デスクの前で椅子にも座らず前屈みになってパソコンを操作する柏木がいた。
振り返り葵と侑司の姿を認めた彼は、明らかにホッと安堵の息を吐いたが、すぐに咳払いで誤魔化しツーポイントフレームを指で押し上げる。
「間に合いましたね水奈瀬さん。休暇中に呼び戻すような真似をして申し訳ありませんでしたが、不測の事態はよくあることです。イベントは急遽、本日から決行となりました。前回行ったシミュレーションの経験を元に準備はほぼ万全といえ――、」
「――てんちょー!」
柏木のロボット口調は、フロアに続くドアから飛び込んできた嬉声にぶった切られた。
「亜美ちゃん……」
「よかった、戻ってきてくれてー!」
跳ね飛んできた亜美は、そのまま葵に飛びついた。
戸惑う葵が抱きつかれたまま目を彷徨わせれば、同じドアから続いて姿を現す二人の青年。
「――店長!」
「お帰り、テンチョー」
「篠崎くん、池谷くん……」
クマ顔の篠崎は葵を見て嬉しそうに目を細め、相変わらず気怠そうな池谷が葵にくっつく亜美を引きはがす。彼らはすでに制服を着ており、蝶タイとロングサロンも装着済みで準備万端だ。
そこへさらに、厨房口からひょっこりと顔を出すコック着の若者。
「店長! おかえりなさい! 待ってたッス!」
「お疲れ様です店長! ――遼平さん! 店長、戻ってきましたよ!」
「吉田くん、笹本くん」
ニカっと笑う吉田の隣で、厨房奥に向かい手招きする笹本。
そこへ彼らの後ろから遼平が顔を出した。葵と目が合うと遼平は淡く微笑む。その笑みがどこか寂しそうに見えたのは気のせいか。
しかし深く考える間もなく、もう一人、遼平たちの隙間からずいっと上半身を覗かせた人物。
「水奈瀬さーん、お邪魔してるよー」
「な……、どうして牧野さんまで……」
あんぐりと口を開けた葵に、牧野女史の夫であり『櫻華亭』麻布店現チーフである牧野晃治がひらひらと手を振った。
「とりあえずランチは俺ねー。また後から誰か来ると思うよ。何だかんだ言って、みんなお祭り騒ぎが大好きだからさ」
言った途端、その背後で手を洗う国武にギロリと目を剥かれて、牧野晃治は「おっとっと」と肩をすくめ、すぐに厨房奥へ引っ込んだ。
そこへさらに追加される新たな声。
「オープンまであと十分です――、あ、水奈瀬さん! お疲れ様です!」
「つ、坪井くん……っ?」
『櫻華亭』松濤店アテンドの坪井だ。こちらもかっちりギャルソンスタイル、『櫻華亭』仕様で黒ジャケット着用だ。
「大久保さんも慧徳に来たがってたんですけど、明日恵比寿に入る予定なので今日はその準備だそうです。渋谷には小野寺さんたちが行くんですって。……ていうか、ビックリするのはまだ早いですけどねー」
まだ早い、って……?
問う間もなく坪井は、「柏木さーん、ステレオミキサーのスイッチってどこですかー?」と柏木をフロアに引っ張っていく。
もう、何が何だかわからない。イベント初日とはいえ、こんなにヘルプを借りてしまって他の店は大丈夫なのだろうか。大体、この小さな店にこれだけのスタッフが集まること自体、前代未聞なのだ。新規オープンの時でさえ、総スタッフ人数はヘルプを含めても十名いなかったのに。
開けた口をパクパクさせる葵の肩を、大きく叩いたのは佐々木だった。
「ありがてぇことに助っ人が盛りだくさんだ。狭い厨房で生産性が落ちなきゃいいんだがな」
完全パニック状態の葵とは逆に、鷹揚な足取りで厨房口に向かう佐々木は、国武を押しのけて手を洗い始める。ぺーパータオルを乱暴に引き抜いた国武が、手を拭きながら極悪顔で凄んだ。
「ケッ、ナマなことヌカしてんじゃねぇぞ。この俺様が出張ってきたからにぁ、一人としてムダなママゴトはさせねぇぜ?」
「おめぇの空回りを心配してんだよ」
「んだとぅ?」
「――おやめ下さい! 国武チーフも佐々木チーフも! 時間がないのです!」
ちょうど表から戻ってきた柏木が、小競り合う猛獣二人の間に慌てて入り、電子音みたいな声で喚いている。
「待ち客、二十名を超えたらしいよ」
「さっさと予備のテーブル出そうぜ」
「柏木さーん、コーヒーってどれくらい落としときます?」
事務室内に集まっていた皆が散り散りに、フロアへ、バックエリアへと向かう。
同じく厨房でも、国武の「おっしゃ! 者どもぉ、気合い入れろやぁ!」というドス濁声を皮切りに、コックたちがそれぞれの配置につき始めた。
「牧野と遼平ー、お前らは焼き場を回せー。 笹本ー、オーブンは任せるからな。――吉田ぁ、デシャップフォローだ。お前が一番忙しくなるぞー」
「――は、はいっ!」
――店に、生気が漲る。客を迎え入れるために身動ぎしている。間口を広げ開け放ち、店全体が大きく息を吸い込むような、膨れ上がるような感覚。
この感覚を、葵はもう何度も、数えきれないくらい体感してきた。だからわかる。
――店が、動き出す。
「怖いか?」
「黒河さん……」
侑司はすぐ傍にいた。見上げた彼の瞳は深海の色だ。すべてを包括する深い色に己を映し、葵は正直、よくわからなくなってきた。
――怖い。自信がない。集中できなかったら? ミスをしたら? 緊急事態に見舞われたら?
けれど、それとは別に、葵の奥深いところから滾々と湧き上がるエネルギー。怖気づいた頭で理屈をこねまわしていても、身体は無意識に反応する。
感じる店の息遣い。伝わってくるスタッフの気勢。高揚。士気。蓄電されつつある大いなるパワー。
――オープンを待つ、たくさんの客。
侑司が、葵の右手をそっと取った。
「水奈瀬。このイベントで出すのは、濱野さんの料理じゃない」
「え……?」
「『アーコレード』に来店した客をもてなすのは、水奈瀬とここのスタッフ全員の手で作った『アーコレード』の料理とサービスだ。それ以外にない」
「あ……」
葵の手に、厳かに置かれたもの。
「濱野さんに見せてやろう。『アーコレード』の “お子様ランチ” を。水奈瀬が皆と一緒に創ってきた、『アーコレード』のもてなしを」
――それは、一枚の写真。古びて色褪せた、集合写真。
一目ですぐにわかる。
格段に若くても、茂木顧問と今田顧問はそれぞれの持つ雰囲気が今と全く変わらない。佐々木や国武など目を疑うような初々しさだが、一目瞭然だ。美津子夫人がいる。黒河紀生社長も。そして、お日様のような眩しい笑顔――
――ああ、濱野さん……
「どうしても辛かったら言ってくれ。皆が……俺が、全力でフォローする」
「黒河さん……」
目が潤む。鼻の奥がツンとする。
「――オープン五分前です」
篠崎がドアから顔だけ覗かせた。
その後ろから、亜美が背伸びして更衣室の方を指さす。
「てんちょ。クリーニング上がりの制服、ちゃあんとありますからね?」
葵は、小さく鼻を啜って笑った。
「亜美ちゃん……ありがと」
ギュッと強く目を閉じ、涙を押し込める。顔を上げる。大きく息を吸う。
葵は侑司を見上げて、告げた。
「黒河さん、私、――着替えてきます」
クリーニング上がりの制服一式をひっつかんで更衣室に飛び込み、葵は着ているものを引きはがす勢いで着替えた。髪を結んでベストを着込んで、サロンを絞めて蝶タイをつけながらフロアに走り出る。その時点でオープンまで残り一分弱。
ドアを開けた先のレジカウンターに、坪井青年と並んで立つさらなる意外な、強力な助っ人の姿を認めた時、葵は驚いたものの、もう狼狽えることはしなかった。
「――茂木さん……」
完璧な黒服仕様で静かに佇む彼は、中世欧羅巴の老貴族紳士を思わせた。にっこりと穏やかに微笑み、茂木顧問は葵に向かって大きく頷く。
「微力ながら、お手伝いさせていただきますよ、水奈瀬さん。……さあ、時間です。オープンしましょう」
「はい!」
池谷と篠崎がカウンター裏から軽く片手を上げて合図した。亜美が「OKです!」とお冷のピッチャーを大きく掲げる。柏木がレジカウンターにあるデジタル時計を見て、「ジャスト十一時です!」と歯切れのいい声を出した。
葵は小走りに玄関へ向かい、一瞬だけサロンのポケットに――密かに忍ばせた写真に――手を当てた後、ドアの取っ手に手をかける。
――濱野さん、見ていて下さい。みんなで創った『アーコレード』慧徳学園前店を。
カランコロンと鳴るドアベル、吸い込む冷たい外気、待ち望んだ人々の期待に満ちた顔――
「――いらっしゃいませ! お待たせいたしました! 『アーコレード』、只今オープンいたします!」
* * * * *
洋食レストラン『アーコレード』の期間限定イベントメニュー。
お好きな料理を自由に選んで組み合わせる、貴方だけのオリジナルお子様ランチ。
どこか懐かしくて、なぜか心が浮き立つ “大人のお子様ランチ” ――
その日一日、待ち客は店の外に長蛇の列を作り続けた。昼過ぎから天候が急速に回復したおかげもあるのだろう。
ランチラストオーダーとなる二時半になっても客足は衰えず、侑司と柏木は本社に報告し許可を得た上で、ディナータイムまでクローズなしの営業続行を決めた。
イレギュラーな事態に皆のテンションは上がり、交替で休憩を回し、賄いを取った。午後になって新たに松濤の綿貫チーフと日比谷の若いコック二人がヘルプに加わり、ランチのみで帰るはずだった牧野晃治は残って、裏方に回った侑司と共に翌日分の仕込みに手を貸し、ディナータイム中盤には鶴岡、杉浦両マネージャーも駆けつけた。慧徳の店はスタッフも客も、どこか熱に浮かされような高揚状態のまま、閉店時刻を迎えた。
――イベント初日の売上額、過去最高を記録。
興奮冷めやらぬ顔があちこちで喜び合い、お互いを労う中、葵はオーバーヒートしたような感覚の中に漂いながら、サロンのポケットに秘めておいた写真を取り出す。
濱野哲矢の若かりし笑顔が、潤んだようにぼやけた。
パチリパチリとゆっくり瞬きをした時、目の前の視界が急速に狭く暗くなり、身体がぐらりと傾く。けれどそれは、恍惚に似た不思議な心地で――
五感すべてが途切れる寸前、葵を呼ぶ切羽詰まった侑司の声が、聞こえた気がした。




