甘えたがり
ゴルドの拠点から帰ってきたその翌日。
妹のお見舞いという名目で女子寮に入れてもらったラルフは、ミリアの部屋で腕を組んで唸っていた。
先ほど、ミリアに体温を測らせたのだが……水銀式の体温計が示す温度はかなり高い。
絶対安静が必要なレベルである。
「フィーネルさんは風邪じゃないとは言ったが、これは安静にしとかないとな」
「……不覚です」
ベッドで横になったミリアが、小さく鼻を鳴らす。
ラルフは、食堂でもらった氷を満載した桶の中に布を浸すと、ギュッと搾り、ミリアの額でぬるくなった布と取り換える。そのついでに、ミリアが頭を乗っけている氷枕を手で触り、内部の氷の状態を確認した。
「うん、氷枕はまだ交換しなくてよさそうだな」
「兄さん、看病とかしなくても……良いですから……」
「病人は大人しく甘えとけ」
控えめなミリアの抗議をすっぱりと切り捨て、ラルフはベッドの傍らにある椅子に腰かけた。
寮に帰って来てから、ラルフは普段の大雑把な言動からは想像もつかないほど、細やかにミリアの世話を焼いていた。
ラルフがこうも看病に慣れているのには理由があった。
ミリアは小さい頃、今よりも体が弱く、よく熱を出していたのである。
対して、極めて頑丈なラルフはほとんど風邪を引いたことがなく、病気そのものに無縁といっても過言ではなかった。
そのため、今までラルフは熱を出したミリアを何度も看病してきたのである。
こうして手馴れているのも、その経験が活きているからだ。
だが、昔ならいざ知らず、こうして年頃の男と女になった今、ミリアとしては異性の……しかも、心を寄せている男性に、無防備な姿を見られるということに抵抗があるようだ。
まぁ……そこらへんの機微をラルフに期待するだけ無駄なわけだが。
「ミリア、お腹減ったり、気持ち悪くなったり……とにかく、何かして欲しいことがあったらすぐに言えよ」
何気ないラルフの言葉に、ミリアが布団から顔半分だけ出してジッと視線を送ってくる。
まさに『物言いたげ』なミリアの視線に、ラルフは半眼を返す。
「いや、言いたいことがあるなら言えって。遠慮しなくていいから」
「本当に何でも言っていいんですか?」
「あぁ、病気の時は色々と億劫だろ。兄ちゃんにどんと任せておけ」
ラルフはそう言って自分の胸をドンッと叩く。
今までミリアの看病は何度もしてきたのだ……大抵のことはできる自信があった。
だが――
「なら、汗をかいて気持ちが悪いので、体を拭いて下さい……背中だけでいいので……」
「え゛?」
予想の斜め上を突き破ったお願いに、ラルフはひっくり返った声を出してしまった。
普段よりも微かに荒い吐息をつきながら、ミリアがじぃっとラルフを見詰めてくる。
「何でも……言っていいんですよね?」
「お……お、おぉ! 兄ちゃんに任せろ! そ、それぐらいなら別に、何も!」
必死に普段通りを装うラルフだったが……さすがにこのお願いを前にして動揺するなという方が難しい。
ラルフにとってミリアは可愛い妹であり、それ以上でもそれ以下でもない……が、同時にミリアは年頃の娘だ。
そんな娘の柔肌を、布越しとはいえ触れるという行為に、ラルフの心拍数は否が応でも上昇してしまう。
「え、ええっと、氷水……は、冷たすぎるから、お湯……そう、お湯の用意を! あ、アルティアを氷水に付けておけばお湯に……」
『ならん。とりあえず落ちつけ、ラルフ』
「お、おう、俺はいつでも冷静だ」
『冷静じゃ無い者は大抵そういう。とりあえず、食堂で鍋を借りて炎で湯を沸かすぞ』
「そ、そうだな。寸動鍋を使って……」
『ミリアをゆでる気か、お前は……』
そんなやり取りを経て、食堂で鍋を借りたラルフは炎で一気にお湯を作ると、再びミリアの部屋にやってきた。
ひと肌よりも少し熱いぐらいの湯を湛えた桶を、傍らの机に置くと、ラルフは咳払いを一つ。
「よし、準備できたぞ、ミリア」
「はい……じゃぁ、少しだけ後ろを向いててください」
「お、おう!」
ぎこちない動きでミリアに背を向けたラルフの耳に、衣擦れの音が触れる。
すぐ後ろで、ミリアが服を脱いでいるという事実が、予想以上に重さを伴ってラルフの意識を揺さぶってくる。
――いやいや、何を動揺してるんだよ……相手はミリアだぞ?
そう思い込むことで必死に動揺を抑えつけようとするが、その度に、背後から聞こえてくる布がこすれ合う音が集中をぶち壊す。
ラルフが、気まずさと気恥ずかしさが複雑に絡まり合った感情に翻弄されていると、再びミリアの声が聞こえてくる。
「……いいですよ、兄さん」
「お、おう!」
自身に喝を入れるように声を張り上げて振り返り――ラルフは思わず息をのんだ。
そこにいたのは幼馴染でもなく、妹でもなく、ただ一人の女性だった。
一体いつの間にこんなに成長したのか……肩から腰に掛けて露出させたそのラインは、細くありながらも、女性的な柔らかさに富んでおり、いっそのこと蠱惑的ですらあった。
大理石のように滑らかなその肌はうっすらと朱に色づき、表面に微かに汗を浮かべている。
両手で服を寄せて胸元を隠してはいるが、逆にその動作が男の「もっと暴いてしまいたい」という欲求をそそるということを、この少女は分かっていないのだろう。
なにより、肩越しに潤んだ瞳を向けてくるというその構図が、誘っているようにすら見えてしまう。
円熟を前にした、まるで花開く瞬間を待ち望む蕾のような、妖艶と可憐を絶妙な配分で同居させたその体は、この歳の少女にのみ許される特権だろう。
汗が玉になってミリアの背筋をゆっくりと伝い落ちてゆく様を見て、ラルフは無意識のうちに生唾を飲み込んでしまい……そこで、ハッと我に返った。
そして、パンパンと赤くなるほど強く己の頬を叩くと、湯に浸けた布を片手にミリアに近づいてゆく。
「よ、よよよし、拭くぞ!」
「はい、お願いします……」
手が微妙に震えているような気がするが、ラルフはそれを黙殺すると布をミリアの背に触れ――
「ん……」
「おわぉうっ!? え、痛かった!?」
「そんなに取り乱さないでください、兄さん。大丈夫ですから」
「お、おう」
『鼻息が荒いぞ、ラルフ』
「うっさい!」
ミリアの言葉に何とか冷静さを取り戻したラルフは、今度こそゆっくりとミリアの背中を拭いてゆく。
ほっそりとしたその背中は、けれど、確固とした手ごたえを布越しにラルフに伝えてくる。
その感触に意識を持っていかれないように、無我無心の境地でラルフはミリアの背中を拭いてゆく。
時間にすればほんの少しだっただろうが……何とかミリアの背中を拭き終えたラルフは、ごっそりと消耗していた。心なしか頬がこけて見えるのは、恐らく気のせいではない。
ミリアが前を拭き終えるのを待って、ラルフが向き直ると、ミリアは少しいたずらっぽい笑みを浮かべてラルフを見ていた。
「お疲れ様です、兄さん」
「いや、大丈夫……これぐらい、楽勝楽勝……」
「なら、また頼んでも良いですか?」
「え!? あ、いや、もう一度頼むときは、アレット姉ちゃんとか、同性の方がいいんじゃないかって兄ちゃん思うんだ!」
『遊ばれているぞ、ラルフ』
頭の上でアルティアが大きくため息をつく。ラルフとしてはほっといてほしかった。
ラルフの方を見てくすくす笑っていたミリアは、優しく目を細めると、人差し指を立てた。
「なら兄さん、最後にもう一つだけわがままを聞いてもらっていいですか?」
「覚悟はできた! よし、来い!」
「そんなに構えなくても良いですから」
ミリアはそう苦笑して、そっと手を差し出してきた。
「私が寝るまで……手を繋いでいてください」
まるで、幼い頃に戻ったかのように、ミリアはそう言って屈託のない笑顔を浮かべたのであった。