プロローグ――暗い森の中で
「はぁ……はぁ……はぁ……」
天には月、そして周囲は深く濃い闇に覆われている。
生い茂る緑の中を駆け抜け、『彼女』は全速力で目的の地を目指す。
だが……周囲は密林と言っても過言ではない程に植物が繁茂しており、地面から幾重にも根が顔を出している。控えめに見ても足回りは最悪だ。
しかも今は夜。
月は出ているものの、天を覆うように枝葉が伸びている森の中では気休めにもならない。
「ひゃうっ」
案の定、彼女は木の根に足を取られて、派手に地面に転倒した。
転倒の際に大きな怪我を負わなかったことだけは、幸いと言っても良いだろう。
「……っ、痛……」
ゆっくりと身を起こした『彼女』は注意深く周囲を見回す。
聞こえてくるのは、フクロウの鳴き声と、夜風が木々を揺らす音だけだ。
息を殺してその場にうずくまっていた彼女は、安堵の吐息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。
月明かりに照らされた彼女の体は、傷だらけだった。
頑丈な生地で造られた長ズボンと、若草色の上着に包まれたスレンダーな肢体には、無数の切り傷、擦り傷が刻まれており、傷がない所を見つける方が難しいという有様だ。
特に二の腕は大きく切り裂かれており、溢れた鮮血が彼女の右腕を真紅に染め上げていた。
「はやく……見つけないと……」
浅葱色の髪を揺らめかせながら、彼女は再び走り始めようとした……その時だった。
「みっつけたし!」
「みつけたねー」
上空から降り注いだ声に、ビクッと体を震わせ『彼女』は空を仰ぎ見る。
月を背景に浮かび上がるシルエットは、ドミニオスとシルフェリスのものだ。
だが……その二人が普通のシルフェリスと、ドミニオスではないことを『彼女』は痛いほどに知っている。
「……! 幻霧結界!」
『彼女』は急いで得意の結界を作動させ、その姿をくらませるが……次の瞬間、そんな事関係ないとばかりに、広範囲に渡って霊力の塊が降り注いだ。
周囲の木々が呆気なくへし折られ、地面が盛大に抉られる。
明らかに中級霊術以上の破壊力を秘めているにもかかわらず、一切の詠唱を必要としていない――世の霊術使いが見れば目を剥いたことだろう。
だが、『彼女』は彼らがこれでも本気ではないことを、よく理解している。
もしも、完全に捕捉されてしまえば、それこそ最大級の霊術を叩きつけられ、この地一帯、丸ごと消滅させられてしまうだろう。
「はぁ、はぁ、はぁ! く……!」
口を突いて出そうになる悲鳴を必死に抑え込み、『彼女』は走る。
誰も味方がいない闇の中、己の命を狙って追ってくる追撃者の目を掻い潜りながら、『彼女』は最も頼りとする者の名前を呼ぶ。
「はぁ、はぁ、アルティア……」
力強いアルティアの声を思い出しながら、彼女は目的の地を目指してただただ走り続ける……。