ボクにできる最善を
「ふ……う、あ……」
チェリルは大広間の隅に退避し、ラルフ達の戦う様子を見守っていた。
メンタルフィールドが存在しない空間での戦い――振るわれる攻撃の全てが、背筋が凍るほどの具体性を持った死として襲い掛かってくる。
ラルフは最前線でそれを全て紙一重で回避し、反撃しているのだ……尋常ではない精神力である。
少なくとも、こうしてミリアの服の裾を掴んで、震えることしか出来ないチェリルとは大違いだった。
ミリアの服の裾を握りしめ、小さな体をギュッと更に小さくする。
少しでも相手から自分の姿を隠すように、ミリアの後ろに隠れる。
自分の中にいる冷静な自分が嘲笑を浮かべている――お前はやはり臆病者の出来損ないだと。
ミリアもやはり自分をそのように見ているのだろうかと、チェリルは視線を上げ……そこで、言葉に詰まった。
祈るように両手を組み、眼前の戦いの一片すら見逃すまいと、ミリアは目を見開いていた。
いつでも回復できるように背には光の翼が展開してあり、視線はどこまでも真剣で、真摯で……そして、苦しそうで。
「なんでそんなに……苦しそうなの?」
気が付けば言葉が口について出ていた。
ミリアはそこで初めてチェリルの存在に気が付いたとばかりに顔を向け、目を細めた。
「……私は、無力ですから」
「え……」
ミリアは再び視線をラルフ達の方へと向ける。
「兄さんも、ティアさんも、自身の身を危険に晒して必死に戦っている。あの二人の双肩には自分以外の命の重さも圧し掛かっている。あそこに並べ立てない私は、二人に守ってもらってようやくここに立っているんです。それが……たまらなく歯がゆくて」
もしも、ラルフが倒れればティアが。
そして、ティアが倒れればその時は……ミリアとチェリルが死ぬことになるだろう。
ミリアもチェリルも、前線で戦う二人に生かされてここに立っている――そのことを、ミリアは強く理解していた。
唇を噛み切らんばかりに喰い絞めるミリア……その服の裾を、チェリルは更に強く掴んだ。
教室では誰を相手にしても表情を変えることなどないミリアが、こうも率直に慙愧の念を表に出していることが、チェリルの心を動かした。
「そ、そんなことないよ。だってミリアさんは回復の力……が……」
だが、その言葉も尻すぼみに小さくなってゆく。
ミリアには戦う力はないが、それでも自分自身が為すべきことを為すために、最善を尽くそうとしている。
なら……自分は何をしているのだろうか。
怯えて、小さくなって、両耳を塞いで、恐怖を言い訳にして、他人を盾にして、当然のようにラルフ達に護ってもらっている。
もちろん、チェリルはミリアとは違う。
危機に直面しても堂々としていられる勇気もないし、不測の事態に陥ってもそれをひっくり返せるだけの応用力もない。
友人を作るために他人に話しかける思い切りもなければ、他人の視線を毅然と受け止めるだけの強さもない。
ミリアは、コンプレックスの塊と言っても過言ではないチェリルが、欲しくて欲しくてしょうがない物をたくさん持っている。
ただ……今、この場所だけはその関係が逆転した。
ミリアが持っていなくて、チェリルが持っているモノ――それは、戦うための力。
「…………」
手が震える。
ミリアより前に出ることが怖い。
泥人形たちの矢面に立つことが恐ろしい。
それでも、この状況をひっくり返せるだけの力がチェリルにはある。
「ボクにできる……最善をッ! ……おいで。<ルヴェニ>」
暴れまわる心臓をなだめるように、チェリルは自分の左手と右手を虚空に掲げる。
掲げた左手と右手にそれぞれ光が集まり、それが一抱えもある球形へと収束してゆく。
そこには発現したのは金と銀を基調とした二つの球体だ。
これこそチェリルの神装<ルヴェニ>である。
つるりとした外観に不可思議な紋様が描かれた二つの球は、まるで意志を持つようにチェリルの周囲を浮遊する。
「ストレイトフリーズを撃つよ。金ちゃんは有効位相空間算出及び固定、銀ちゃんはボクを中心とした霊術陣の構築。各自作業が終わったら三重詠唱の準備……急いで」
チェリルの指示を受けた瞬間、金の球体はキュキュキュキュキュッ! と甲高い連続した音をたて始め、銀の球体は光の粉を内部から零しながら、チェリルを中心に複雑怪奇な紋様を地面に描いてゆく。
「レインフィールドさん……これは……」
「ごめん、ミリアさん。ちょっとだけ離れ……うぅん、あの……ちょっとだけで良いから……手を握っていて……欲しい……です……」
「えぇ、それぐらいなら」
恐る恐る差し出す手をミリアが躊躇いなく握る。
まともに物が握れないほど震えていた手が少しだけ落ち着きを取り戻す。
ただ、心臓が今にも口から出てきそうなほどに高鳴っているのは変わらないし、あまりの緊張に喉が渇いて頭痛がするのも相変わらずだ。
――早く、早く、早く、早く、早くッ!
心の中で焦れながら、チェリルは逸らしそうになってしまう視線を、強引に前へ固定する。
最前線で戦う二人の消耗が激しい。特に、ラルフは息も上がっているし体もボロボロだ。
金色の炎で敵を焼き、それから拳によって破壊――という工程を繰り返しているようだが、背後の泥巨人が次々に新たな泥人形を生産しているため、全く追いついていない。
一対一という構図が、次第に一対複数で戦うことを余儀なくされてゆく。
四方八方から攻撃が飛んでくるため生傷が増える……しかし、ラルフがミリアに回復してもらうために下がれば、泥人形達はティアに殺到するだろう。
そして、ティアが倒れれば泥巨人の行動を阻害する要素が無くなり、今よりも大量の泥人形が生産される――完全なじり貧だ。
「お願い……早く……っ」
言葉には出していないものの、ミリアも同じ思いなのだろう。チェリルの手を握る強さが、痛いほどに強くなる。
その時、金と銀の球体がほぼ同時に作業を終了し、ふわりと浮かび上がるとチェリルの後方へと移動する。
「よし、完成……! ミリアさん、一歩も動かないでね」
「この足元の光る粉を踏むとまずいんですね」
「うん」
ミリアとチェリルを囲むように輝く粉で地面に円を描き、その内部に複雑な幾何学模様が埋めつくされている。
これは霊術陣と呼ばれる紋様であり、術者の意図したとおりに周囲の霊力を収束・変換するために必要とされる補助・増幅装置のようなものだ。
特に、上級以上の高位霊術を扱う際は必ず作成される。
目を閉じて一つ深呼吸をしたチェリルは、目を見開いて前方にそびえ立つ泥巨人を睨み据える。
そして、空いていた手を前に出すとゆるりと口を開く。
「「「地に満つるは刹那を永劫に呪縛する氷鎖・如何なる者も抗えず・逆らえず・逃げ出せず。汝の贖いの言葉は虚空へ溶け・何者にも届かず・断罪者は・其が罪に絶氷の刃を突き立て・抉り・切り裂き・穿ち・貫く」」」
独特の抑揚をつけて唱えられるチェリルの詠唱が、背後に浮いている<ルヴェニ>によって三重となって響き渡る。
それと同時に、地面に描かれた霊術陣の外縁部に等間隔で三つ光が灯る。
そして、その部分からチェリルに向かって霊術陣の幾何学模様が徐々に発光し始める。
まるで……霊術陣の周囲から力がチェリルに向かって流れ込むように。
「「「幾度となく繰り返される・断罪の刃。生命・意志・尊厳・存在・意義・汝を構成する全て・無慈悲に・苛烈に・凄絶に・裁かれよ――」」」
朗々と紡がれていたチェリルの言葉は、しかし、次の瞬間にピタリと止まった。
着実にチェリルに向かって収束していく霊力の流れに気が付いたのだろう――先ほどまでラルフを捉えていた泥巨人の視線が、ピタリとチェリルを捉えて止まった。
ぽっかりと空いた空虚な眼窩が二つ……ただそれだけにもかかわらず、どうしてこの視線はこうも生々しいのか。
無遠慮に体の中に手を突っ込まれ、かき回されているかのような不快感に、チェリルは悲鳴を上げそうになるが……何とか踏みとどまった。
だが、舌が痺れたように動かない。
詠唱が途中で停止し、チェリルに向かって輝く面積を広げていた霊術陣もまた、その動作を停止する。
体ごと向き直った泥巨人が、チェリルの方へとゆっくりと進んでくる。
『『歪な……極めて不安定…………作り直した……継ぎ接ぎの……魂……』』
ノイズ交じりの声が泥巨人の口から零れ落ちる。
言葉の意味はその場にいる誰一人として理解できなかったが……その言葉がチェリルに向けられていたということだけは理解できた。
顔から音を立てて血の気が引いてゆく。
もしも、この場から一歩でも後ろに下がれば……もしくは、詠唱と関係のない声を発すれば、今まで準備していた上級霊術はすべて無効となってしまう。
神装<ルヴェニ>を用いた三重詠唱――あとは結びの言葉で即席ではあるが上級霊術は完全に構築される。
泥巨人が襲ってくる前に完成させてしまえば良いのだが……。
世界が理屈で回っているのなら誰も苦悩しない。
悲鳴を上げずにその場に踏みとどまるだけでチェリルには精いっぱいであった。
大股で地面を踏みしめながら、着実に泥巨人が近づいてくる。
ティアが必死に霊術を足に当てて移動の阻害をしているが……とっくの昔に限界を迎えている彼女の貧弱な霊術では、泥巨人の足を止めるには至らない。
「レインフィールドさん! しっかりしてください!」
手を繋いでいるミリアが必死にチェリルに呼びかけるが……今の彼女にその声は届かない。
愚か/頭脳/理解が/とは/発展/進歩の/人類の/個の犠牲/
泥巨人の視線が――『誰か』の視線と重なる。
脳裏に聞き覚えのない声が響き渡り、チェリルの理性を木端微塵に打ち砕いてゆく。
まるで夢の中にいるかのようで……迫りくる泥巨人の威容を前にしても、どこか現実感がない。
――あぁ、ボク、死んじゃうんだ。
泥巨人が固めた拳を大きく振りかぶる姿を見ても、他人事のように思うだけ。
全身が流動する泥で構成されているにもかかわらず、その拳だけはまるで鉄のように硬質な輝きを放っている。
恐らく……直撃すれば跡も残らない。
唯一、チェリルの左手を握っているミリアの感触だけは鮮明で……その事に安心する。
眼前にそびえる圧倒的な死。
何故かそのことに既視感を覚えながら、チェリルがその運命を受け入れようとした時……不意に、目の前に『赤』が立ちふさがった。
泥巨人に比べればソレはあまりにも小さくて。頼りなくて。矮小で。
真っ赤な髪に、青と白を基調とした制服を自身の血で真紅に染め上げたソレは――まるで、チェリルの横面を張り飛ばすように咆える。
いい加減に目を覚ませ、と。
「やらせるかぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
泥巨人の拳に比べれば豆粒のような小さな拳を振り上げ、ソレは――ラルフ・ティファートは馬鹿正直に、真っ向から泥巨人の拳に向かって拳を叩き込んだ。
「割り砕けろッ!! ブレイズインパクトォォォォォォォォォォォ!!」
拳と拳が激突する。
ラルフの小さな拳は、泥巨人の巨大な拳に瞬く間に呑みこまれ――否、そうではない。
ラルフの拳が泥巨人の拳を食い破っているのだ。
小さな体に秘めた<フレイムハート>により、ラルフの拳を介して増幅させられた衝撃と熱量が、泥巨人の拳を突き破り内側から破壊しているのである。
虚空に紅蓮の華が咲き、泥巨人の拳が腕ごと木端微塵に砕け散る。
さすがにこれは効いたのだろう……泥巨人が泥人形を巻き込みながら一歩二歩と後退する。
「ミリア! チェリル! 怪我はないか!」
この場の誰よりも怪我をしているラルフの言葉と視線を身に受けた瞬間、チェリルの体を縛っていた拘束が溶けてゆくのを感じた。
やはり、この少年の真紅の瞳はどこかで見たことがある。
前もどこかで……チェリルに救いの手を差し伸べてくれたのだと、心が形のない確信を得る。
それが一体なんだったのか……詳細は思い出せないが、今はそれで良い。
チェリルはミリアの手をぎゅっと握りしめると、右手を泥人形と泥巨人に向けて差し向ける。その動作を合図として足元の霊術陣が眩いばかりの光を放つ。
洞窟を含む一帯の霊力が、霊術陣へ収束・変換されチェリルに供給される。
すでに前準備はすべて完了している。
後は――結びの言葉を紡ぐだけ。
「「「無間の辛苦に彩られし久遠の氷獄。ストレイトブリザード」」」
泥巨人と泥人形達が集まっている空間が白く霞み始める。
急激に温度が下がることにより結露した水分が凍結し白く見えているのだと……そう気づいた時にはもう遅い。
金の<ルヴェニ>によって位相を固定された場所限定で、空気が凍結する。
軽々とマイナスを下回り続ける凍気が泥巨人を中心にして、螺旋を描くようにして超高速で回転。
更に、結露した水分と泥巨人達から剥離した水分が混ざり巨大化、氷でできた無数の刃と化す。
「う、うわ……」
へたり込んでいるティアが呆然と声をこぼす。
通常ではありえない超低温で動きを止められた上で、無尽蔵に生成される氷の刃で滅多切りにするのだ……この凄絶な空間に捕えられて生きていられる者などいない。
凍結した泥人形と泥巨人を切り刻む単音が、数限りなく連なることで長音と化す。
恐らく、内部では泥巨人が、気が遠くなるほどの斬撃を貰っているのだろう。
そして――誰もが言葉を失う中、白一色に染め上げられた空間が解除される。
固定された位相の床や壁面は完全に凍りつき、泥人形はもはや跡形もないほどに砕かれている。
だが……それでも、泥巨人だけは完全に凍結しながらも原形を留めていた。
両手両足は切り落とされ、無残な切り傷を晒しながらも、胴体と首は未だ繋がったままだ。
ストレイトブリザードの中で高速で再生を続けていたのだろう……原形を留めているというだけでも驚異的である。
『『フレイム……ハ……ト……アル……ティア……いつか……この手……で……』』
その口からこぼれる怨念めいた言葉は、背筋が粟立つほどの深い憎悪に染まっていた。
けれど……その言葉に真っ向から挑むように、真紅の髪を持つ少年は地を駆け抜ける。
「決着……つきましたね」
チェリルの隣で、ミリアがそう呟く。
地面を蹴りつけて大跳躍したラルフが、咆哮を放ちながら、その拳に灼熱の炎を顕現させる。
そして、落下の勢いを乗せた渾身の一撃を、泥巨人の額に叩き込んだ。
氷の世界で豪火が暴れまわる中――泥巨人は澄んだ音を立てて打ち砕かれたのであった……。