この約束は絶対に嘘じゃない!!
グレンの言葉には一切の容赦がなく……そして、同時にどうしようもなく正しかった。
――やっぱり、この人は世界を背負って立っているんだ……。
ドミニオスだけではない。
シルフェリスも、マナマリオスも、ヒューマニスも、ビースティスも……グレン・ロードは種族の垣根すらも越え、この世界に生きる全ての民を護ろうとしているのだ。だからこそ、その言葉は虚言ではなく、実感を伴った明確な輪郭がある。
ラルフは朦朧としている意識を叱咤し、口の中にある血を吐きだすと、まっすぐに立つ。
「俺には……そんな覚悟はありません」
きっと、ラルフは目の前で困っている人がいれば、反射的に手を伸ばしてしまうだろう。
救いを求める者がいれば、迷うことなく助けに行ってしまうだろう。
少なくとも、ミリアを助けるために、他を切り捨てることなどできはしない。
なぜならば、それは――
「だって、そんなことをしたら、きっとミリアは本気で怒って……そして、泣いてしまいますから」
ラルフはそう言って、小さく笑った。
「あの子は傷つくことの痛みを知っている。だから、本当は人の痛みにも人一倍敏感なんです。もしも、俺が大勢を切り捨ててミリアを護っても、本当の意味であの子を救ったことにはならない」
幼いころ、ラルフは大切な人が泣かなくて済むようにと、ただその一心で拳を握った。
だからこそ……ミリアの『命』を助けるために、ミリアの『笑顔』を殺すような方法を取ることなどできるはずがない。
「だから、俺は何も切り捨てません。ミリアが笑顔で戻ってこれるように……全部まとめて助けてみせます」
「そのような惰弱な考えで、本当に誰かを救えると思っているのか!!」
鋭いグレンの一喝が、静寂に満ちた夜を切り裂く。
「見損なったぞ、ラルフ! それは覚悟ではない――ただの夢想だ!! 妄想にすぎん! 何も切り捨てず、何も失わず、痛みも知らぬままに大切なものを救おうなどと片腹痛いわ!」
瞬間、グレンが再び加速する。
地を鳴動させる踏込みから派生する、裂帛の拳打。
ラルフは、歯を食いしばって体を捌くと、間一髪でそれを回避することに成功する。
「ぐぅ……!」
「そのような甘い考えが、現実を直視せぬ愚考が、結果的に全てを失う破滅の道に繋がっているのだとなぜ分からん!」
魔力が込められた拳打が炸裂する。
スカーレット・スティールを展開し、何とか防御に成功したラルフだが……それでも、大きく体が後ろに弾き飛ばされる。へし折れているのか、それともヒビが入っているのか……胸部がぎしりぎしりと不吉な軋みを上げている。
「確かに……俺の考え方はどうしようもなく甘いんだと思います。グレン先輩にとって唾棄すべき選択肢なんでしょう。多くの人々を救うために、私情を捨て去って小数を切り捨てる英断が出来る貴方は、どうしようもなく正しい」
グレンは非道なわけではない。小数を切り捨てることにラルフと同様に痛みを覚えているはずなのだ。
けれど、この男はそれでもその選択ができる――できてしまう。
そう、この世界の主人公は誰なのかと問われれば、それは、間違いなくグレン・ロードなのだろう。
若き英雄。人類の守護者。彗星のごとく現れた救世主……そのどれもが、グレン・ロードを指している。
ラルフ・ティファートは、決して英雄になることはできない。
けれど――
「…………約束、したんだ」
まっすぐに打ちこまれるグレンの剛拳。
これに対し……ラルフは、それを避けるでもなく、捌くでもなく、まっすぐに拳を打ち返した。
彼我の腕力差を考えるのならば、ラルフが殴り負けるはずだ。にもかかわらず……激音と共に、グレンの拳がピタリと止まった。
グレンも、これは完全に予想外だったのだろう……目を大きく見開いている。
「例え、俺がどうしようもなく間違えていても、貴方が限りなく正しかったとしても……俺は、誰からも疎まれ、蔑まれ、敬遠されていたミリアに、『護る』と約束したんだ」
そう、これは幼き日の焼き回しだ。
日曜学校で『白髪の化け物』と倦厭され、教室の中でたった一人、泣いていたミリア。
全ての人々から『純白の化け物』と恐怖され、世界の中でたった一人、泣くことすらできないミリア。
状況は何一つとして変わらない。ただ、その規模が大きくなっただけだ。
ならば、ラルフのやることなど一つしかないではないか。
「俺の考えが甘く、愚かであったとしても、貫き通す覚悟はここにある!! 本当に護るべき者が何なのか、これ以上ないぐらいはっきり見えている!!」
例え世界の全ての人々がミリアの死を望むなら、ラルフは誰よりもミリアの近くにいて希望の言葉を掛け続けよう。
この世界の英雄と呼ばれる男が、ラルフの判断を愚かだと断ずるのならば、その愚かさを誇り、胸を張ろう。
そして、立ちはだかるものがあるのならば――誓いと約束の拳を握りしめて、全てを打破してみせよう。
「例え俺がどれほど愚かであったとしても、この約束は絶対に嘘なんかじゃないッ!!」
微かな拮抗の後、ラルフの拳がグレンの拳を弾き返した。
ラルフの咆哮が空気を震わせる。そして、次の瞬間、ラルフの踏みしめた大地を割って、猛烈な火柱が立ち上がった。天を焦がさんばかりに吹き上がる業火に、グレンが瞠目し、瞬時の判断でバックステップを踏んで後方に下がった……その時。
目の前に、ラルフがいた。
否……グレンの動体視力すらも越える速度で、踏み込んできた。
「なに!?」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
燃え盛る拳が唸りを上げて迫る。
完全に不意を突かれた形になったグレンだが……それでも、瞬時にガードを固めることができたのは、さすがという他ない。ラルフのパワーであれば、クリティカルヒットをさせない限り、グレンに致命打を与えることは不可能だ。
そう……そのはずだった。
「爆ぜろぉぉぉぉぉッ!!」
「ぬぅッ!? 馬鹿な!?」
グレンのガードにラルフの拳が突き刺さった瞬間、赤熱化した拳が爆発した。
ラルフの拳打に合わせ、さらに衝撃と爆風が加算されてグレンに襲い掛かる。不意を打たれたどころではない……完全に意表を突いた攻撃だった。
グレンのガードが崩れ、懐が無防備になった瞬間、目を疑わんばかりの速度でラルフが踏み込んでくる。攻防の際に生まれる一瞬の停滞と静寂が、世界をスローに見せる。
「はあぁぁぁぁぁぁ!!」
ラルフの灼熱の拳打が、グレンの腹に突き刺さり――炸裂。爆音とともに、不倒を誇ったグレンの体が盛大に吹き飛んだ。
それを見ながら、ラルフは荒く息をつく。
今までとは比較にならないほどの身体能力の向上、自分が思う通りに<フレイムハート>が応えてくれる感触……そして、尋常ではないほどの体力の消耗。
ラルフ自身は気が付いていなかったが……もしも、この場に父であるゴルド・ティファートがいたのならば、思わず声を出していたことだろう。
肉体の限界を超越することで会得することができる『気力法』――そして、ラルフが今立っている境地こそが、さらにその先にあるもの。
魂の限界を超越することで発現することができる『烈魂法』だ。
過去、ラルフが気力法を習得したばかりの頃……ルディガー・バルクニル戦の最終局面において、敗北必至の一撃を放たれた時、一瞬だけラルフはこの烈魂法に目覚めたことがある。
だが、それも一瞬だけのこと。それ以降は、一度としてその境地に至ったことはなかった。
それはそうだろう……この烈魂法を体得するため、S級冒険者であるゴルドですら、死にかけたのだ。それほどに、この烈魂法は常軌を逸した代物なのだ。
事実、この烈魂法は存在こそ知られているものの、体得した者はゴルドを除いて誰もいない。それほどまでに、魂の限界を超えるということは難しいのだ。
だが……このラルフ・ティファートという男、生と死を掛けた極限の死闘の中で、決して譲れない信念を貫き通すため、その限界を強引に踏み越えた。
絶対に負けられない戦いの中で、明らかの自分よりも格上の相手に勝利するため、己の魂の限界すらも超越したのだ。
『俺の考えが甘く、愚かであったとしても、貫き通す覚悟はここにある』――その言葉には、一切の虚言も驕りもないという何よりの証拠であった。
「そうか……それが噂に名高い烈魂法か、なるほど。ラルフよ、お前の覚悟を甘いと言ったことを詫びよう。確かにお前は、愚かであってもそれを貫き通そうという、覚悟を持っているようだ」
そして、それはグレン・ロードにもしっかりと伝わっていた。
口からこぼれる血を強引に拭い去ると、グレンは己の拳を握りしめ立ち上がる。
総身には紫紺の魔力。可視化できるほどに濃密なそれが、まるでラルフを威圧するかのように立ち上っていた。
「しかし……譲れぬのは我とて同じよ」
「そうですね。覚悟を見せた程度で貴方が引いてくれるとは思っていません」
もはや、言葉で語ることに何の意味もない。
双方、共に譲れぬ一線を背に負っているのだ。互いに両極端にある信念だ……どれだけ問答を重ねようとも、決して妥協点など見つかりはしないだろう。
ラルフ・ティファートの拳には、幼い頃から今までラルフを支え続けてきたミリアとの約束が。
グレン・ロードの拳には、この世界で暮らす民達の安寧と平和が。
故にこそ――
「引けぬ覚悟があるというのならば、もはや万の言葉も千の理屈も無用の長物にすぎん! 後は拳で語るのみよ!! 己が信念を貫きたくば、死力を尽くして超えてみせろ!」
「グレン先輩がこの世界を救う英雄であったとしても、俺は貴方を倒す! この信念がどれだけ愚かであったとしても、俺はもう一度ミリアの笑顔を取り戻すんだ!!」
互いに譲れぬ想いを双肩に乗せ、二人は更に激しく拳を交わす――