闇の中の暗殺者
漆黒の闇の中、ラルフは拳闘の構えを取りながら眼前のメイド……シエルと相対していた。
相手の戦力は未知数だが……少なくとも、ラルフとアルティアに一切気配を気取られずに近づいたその手腕は見事の一言に尽きる。
何よりもこの女性、以前聞いた話ではグレンに仕える前までは、暗殺者として生計を立ててきたんだとか……ならば、この隠密性も頷ける。
「あぁ、ラルフ様。先に一つ種明かしさせていただくと……先ほどのステルスはもう使えないのでご安心を。あれは私の神装の特殊能力で、『気配を限りなく薄くして認識されないようにする』もので、一度認識されてしまったら無意味ですから」
「……これから戦う相手にそんなことべらべら喋っていいんですか」
「期待に応えるのがメイドの存在意義ですので」
くるくると手の中でダガーを弄びながら、シエルが無表情で言い放つ。
――あの人が持ってるのは普通のダガーだけど……本当の神装はどれだ。
シエルは『神装』という言葉を出した……つまり、彼女は神装使いということだ。ならば、今手に持っているダガー以外にも、確実に獲物があるはずなのだ。
迂闊に踏み込めば、その瞬間首を掻っ切られてもおかしくはない。
「ラルフ様、警戒するのは良いですが時間が経てば経つほどに追い詰められるのは貴方ですよ? ミリア様が無力化された今……追撃隊が貴方を攻撃できない理由は失われたのですから」
「くっ」
そう、今まで追撃隊がラルフに攻撃を仕掛けてこなかったのは、ミリアの圧倒的な攻撃力と防御力を恐れてのこと……今、ミリアが気を失ってしまっている以上、彼等がラルフに攻撃を仕掛けない道理はない。
――仕掛けるしかない!
一分一秒が惜しい。
ラルフは意を決すると、膝を曲げて力を込め……地を蹴る。
足場の悪さは百も承知。だが、ラルフの得物が拳である関係上、相手の懐に踏み込まなければならない。
駆けるというよりも、目についた障害物を蹴って跳ぶようにして、ラルフはシエルに接近し――
「……いぃッ!?」
不意に、暗闇から放たれた矢に頭を射抜かれそうになった。
咄嗟に体を反転し、拳で矢を薙ぎ払ったが……明らかに体勢が崩れた。そして、それを見逃してくれるほど、相手は甘くない。
「お覚悟を」
肝が冷えるほどに鋭利な軌跡を描いて振るわれたダガーが、ラルフの首筋を掠めていく。あと少し身を反らすのが遅れていたら、頸動脈を掻っ切られていたかもしれない。
ラルフを生け捕りに来た……そう言っていたが、甘い考えは捨てるべきだ。少なくとも、目の前の女性は、ラルフを確実に殺しに来ている。
「甘い」
「がふっ!?」
スカートが翻る。
しなやかな足が鞭の如くしなり、ラルフの腹部に叩き込まれる。後方に吹き飛ばされ、しこたま地面に体を打ち付けたラルフは、体を起こそうとして……悲鳴を上げそうになった。
頭上からラルフの顔面目がけて、スパイクボールが唸りを上げて迫って来ていたのだ。
「ぐ、燃えろ!」
選択したのは回避ではなく迎撃。
腕に棘が刺さるのを覚悟して、拳を叩き込んだラルフは同時に発火。灼熱の炎で瞬時にスパイクボールを灰に変えることで、何とか事なきを得た。
「そうか、さっきの矢もこれと同じ……トラップか!」
「御名答」
接近してきたシエルが、足に巻いたナイフホルダーから、投擲用のスローインダガーを投げ放つ。ラルフはこれを殴り飛ばすと、一足飛びで横に飛び――そこで、盛大に転倒した。
「なっ、油!?」
「本当ならばここで火達磨にして差し上げたいのですが、ラルフ様には効かなそうですね」
そう言って、シエルはダガーを使って、傍にある空間を軽く薙ぐ。
すると、それに連動して……ラルフの頭上から投網が降って来るではないか。瞬時に飛びすさりたいところではあるが、油が滑って上手いように動けない。
「くっそ、アルティア、ごめん!」
『なに!? にゅぐぅ!』
ラルフは、頭の上に乗っかっているアルティアを、むんずとつかむと……投網に向かって全力で投球した。本来ならばラルフを捕えるはずだった投網は、アルティアを包み込むと入り口を閉じる……どうやら、対象を捕えると自動的に締め上げるようになっていたようだ。
『ぬおぉぉぉぉぉぉぉぉぉー!』
「ごめん、アルティア! それと、いい加減に……邪魔!」
同時にラルフは足元の油に向けて火を放つ。
ラルフの放った火は油に引火し、直ちに炎と化してラルフの全身を飲み込むが……<フレイムハート>所有者であるラルフに、この程度の炎は意味をなさない。
「アルヤシェドの油は巻き付いてなかなか取れない優秀なトラップなんですが……まさか、そのような手で無効化されるとは思いもよりませんでした」
用心のためだろう……一度ラルフから距離を取ったシエルが、呆れたように呟くが、ラルフはそれどころではない。
――ここ一帯……トラップだらけってことかよ……。
シエルはなぜ、非常に優秀なステルス能力があるにもかかわらず、ラルフが寝ている時や、食事している時を狙わずに、中途半端な時に襲撃を仕掛けてきたのか……得心がいった。
もともと、彼女はこのフィールドに……もしくは、複数のフィールドに、事前に大量のトラップを仕掛けていたのだろう。そして、ラルフとミリアがそのフィールドに足を踏み入れた瞬間を狙って……襲撃したのだ。
「ラルフ様は随分とぐっすり眠っておいででしたからね。その間に、ゆっくりとトラップを仕掛けさせてもらいました」
「また、陰湿な戦い方をしますね……」
こうも視界が悪い上に、トラップだらけなのだ……何処に何があるのか判別するのは不可能に近い。完全に場を掌握されたと思っていいだろう。
ラルフの言葉に、シエルはダガーを弄びながら口を開く。
「いつの世も求められるのは過程ではなく結果です。私はどのような手を使っても、ラルフ様とミリア様をグレン様の元へとお連れしなければならないので。それがマジカルメイドの使命です」
「マジカル付ければ何でも許されると思ってませんか……」
「可愛いじゃないですか、マジカル。本気で狩ると書いてマジカル」
「ファンシーの欠片もねぇよ!!」
ラルフは小さくため息をつくと……右手の炎を灯らせた。
「でも、過程よりも結果が重要、その考え方はよく分かります。だからこそ……俺も過程をすっ飛ばして結果を取ることにします。はぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」
「……っ!?」
ドンッ! とラルフの体が瞬時に爆炎に覆われる。
自然界ではありえないレベルの発熱量に、周囲の水分が一気に吹き飛び空気が乾燥する。漆黒の闇を貫き、煌々と灯る炎を右手に宿らせたラルフは……それを無造作に一閃。
飛び散った炎は木々に燃え移り、まるで己の意志を持っているかのように、その勢いを増してゆく。瞬く間……という言葉がそっくり当てはまるように、火はラルフとシエルを囲むように燃え盛り、木々を巨大な松明へと変貌させる。
この光景を見ていたシエルは、小さく苦笑。
「なるほど、これは確かに後先考えていませんね」
「えぇ。ミリアを護るためですから。過程は問いません……例えこの森が灰になろうとも、貴女がこの場で火に巻かれようとも……俺は結果を取ります」
炎に巻かれ、シエルが仕掛けたトラップもまた、次々にその効果を失ってゆく。
ただ唯一……この場において、一切の炎が意味をなさないラルフだけが、平然と笑みを浮かべる。
「さて、シエルさん。時間が経てば経つほどに追い詰められるのは貴女ですよ? トラップが無力化された今……貴女に地の利はない」
投げかけられた言葉をそのまま投げ返す。
燃え盛る炎が闇を裂き、互いの姿をハッキリと浮き彫りにする中、シエルは強くダガーを握る。
「なるほど、それが貴方の『譲れない一線』なのですね。貴方の覚悟を見誤ったかもしれませんね。でも……それでも、勝たせてもらいますよ、ラルフ様――クアッド・アクセル」
スッとシエルが身を屈めた瞬間、まるで、バネが弾けるようにその体が躍動した。
魔術による身体強化込みだとしても、ラルフが目を見張るほどの瞬発力。彼女は不規則な軌道を描いて距離を詰めつつ、ナイフホルスターに仕込まれていた刃物を、投擲する。
これに対し、ラルフも拳で刃物を弾きながら、前進……待ちの一手はガラではない。
「しっ!」
シエルは至近距離で更にナイフの投擲。
これをラルフは体捌きのみで回避するが……その微かな隙に、シエルは狡猾に滑り込んでくる。鋭利な銀閃が弧を描く。力はないが、その軌跡は速く、鋭い。
「はぁぁッ!!」
両左右の銀弧を回避したラルフは、すぐさま拳を打ち出すが……捕えられたのは残像のみ。
――速い!
まるで、水中で魚を捕まえようとしているかのようだ。
シエルはラルフの拳打によって生じた死角に、するりと滑り込み、再びダガーを振るう。狙ってくるのは人体急所のみ……一撃で相手を仕留められる場所だけだ。
直撃はそのまま死を意味する。
――ならば!
「気力、解放!!」
「っ!?」
シエルが大きく眼を開く。突如としてラルフの動きが格段に速くなったためだ。
ダガーの動きを見切って右肘を打ち下ろし、相手に向かって体を入れながら、その動き連動して、左の拳打を打ち込む。
「つっ!」
みしっ、という音とともに、左拳打がシエルの右腕に叩き込まれる。
「次!」
ラルフは一歩、前進。
地を揺るがす震脚と共に、右の拳打が唸りを上げるが……それが直撃するよりも早く、シエルが後ろに飛んだ。素早くラルフと距離を取ったシエルは、地面に着地すると同時に……そこに埋めてあったナイフを取り上げ、ラルフに向かって投げ放つ。
「そんな所にも!? くっ!」
完全に機先を制されたラルフは、追撃を諦めて後退……再び、ラルフとシエルは距離を取って対峙する。
「さすがはグレン様と引き分けただけのことはある。魔術を使っているにもかかわらず、打ち負けるなんて……ラルフ様の近接戦闘におけるセンスには舌を巻きますね。学生の身分で、まさかここまで強いとは」
「こっちも、伊達に修羅場を潜ってはいないんで」
そう言いながら、ラルフ自身も背筋を走る寒気を堪えられずにいた。
シエル自身からは感情のうねりというものが全く感じられないというのに……無機物である刃先には、これでもかと殺意を乗っている。彼女の攻撃はまさに一撃必殺と呼ぶにふさわしい代物だった。
少なくとも、ラルフが今までに戦ったことがないタイプの相手だ。
「左手が動かなくなったものの……まぁ、仕込みはこの程度でいいでしょう。では、次で決着を付けさせていただきます。このままでは、炎に巻かれてしまいそうですからね」
「……仕込み?」
ラルフの疑問に答えることなく、再びナイフの投擲を織り交ぜながら、シエルが突っ込んでくる。ラルフは脳裏をよぎった疑問を脇に置くと、拳を握って駆け出す。
双方の彼我の距離が零に詰まった瞬間、ラルフはコンパクトに構えを取って拳を打ち込むが……シエルは地面を強く蹴って跳躍。ラルフの頭上を飛び越え、背後に回り込んだ。
「てぁッ!!」
「しッ!」
ラルフは上体を回転させ、背後に向けて裏拳を打ち込む。
空気を抉り抜いて迫りくる裏拳を、シエルは地に伏せるかのごとく体勢を低くして回避し……跳ね上がるようにしてラルフへと刃を向けてくる。
だが……ここまでで何度もシエルとは近接戦を繰り広げてきたのだ。使用しているダガーの間合いを、すでにラルフは読み切っていた。
必要最小限の動作で回避行動を取り、反撃の一撃を狙おうとした……だが。
だからこそ、シエルの術中に嵌ってしまった。