アルベルトの追想② / 幕間 アレットの魂の色
最初、セシリーは全く口をきいてくれなかった。それどころか、僕が近づいていくと迷惑そうに顔をしかめる始末だった。
ただ……僕はそれでもめげずに、毎日彼女が読書している大樹へと通い、その日にあった他愛もない話題を語りかけ続けた。
本当に彼女が迷惑だと感じていたのなら僕も途中で止めたと思う。けれど……僕のおしゃべりを聞いている時の彼女の横顔は、何となく穏やかで。僕が話している間も彼女の視線は本に釘付けだったけれど……よくよく見てみれば、ページをめくる手は止まっていて。
この子も僕とのおしゃべりを楽しんでくれているんだ――そんな確信が生まれると、何だかとても嬉しかった。だから、どれだけ無視されようとも、僕はセシリーの傍に行くのが楽しかったし、隣に座れば胸がドキドキした。
そんな日が……二十日ぐらい続いた頃だろうか。僕はその日、自分も本を手にしながら、霊術の実技で失敗してしまったことを、愚痴っぽくならないように気を遣いながら話していた。
当時の僕は霊術の収束工程から先が苦手だった。先生からもらったアドバイスもいまいち要領を得なくて、どうしたらいいのかよく分かっていなかった。
だから、どうしたらいいんだろう――そう独り言のように呟いた、その時だった。
「あの……霊術、苦手なの……?」
一瞬、聞き違いかと思った。
唖然として振り向けば、そこには本から視線を外し、どこかオドオドとした様子で僕に上目遣いを寄越す彼女の姿があった。
だから僕も、満面の笑顔を浮かべてこう答えたんだ。
「うん、だから、もしよければ教えてくれると嬉しいな」
これが……僕とセシリーが初めて言葉を交わした瞬間だった……。
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「…………」
私室の窓枠に腰かけ、アレット・クロフォードは夜の闇に沈む海岸をぼんやりと眺めていた。
月光に照らされた彼女の蒼銀の髪が艶やかに煌めき、並外れて整った横顔を壮麗に彩る。いっそ、女神と言っても過言ではないほどに美しい横顔は……けれど、どこか憂いを帯びている。
まぁ……着ている服が学院指定の芋ジャージなので、色々と台無しだが。
『アレットさん、どうしたんですか?』
そんなアレットを心配したのだろう。
この部屋に居候することになった創生獣の一柱――翠風のフィーネルが控えめに蹄を鳴らしながら、アレットに近づいてくる。
手のひらサイズの小鹿が、心配そうに見上げてくるのを確認して、アレットはうっすらと笑みを浮かべる。
「……このままじゃ、ダメだなって」
アレット・クロフォード――フェイムダルト神装学院の三年生にして『煌』クラス筆頭。文武両道・才色兼備にして、シルフェリス顔負けのレベルで霊術を駆使する才媛。
文句なしに、百年に一度のレベルの天才だ。このまま努力を続ければ、いずれは父であるフェリオ・クロフォードすらも超えてしまえるだろう。
だが……例えどれだけ優れていたとしても、言い換えればそれは、『人』の枠内での話だ。人外の力を得た者の前では、十把一絡げでしかない。
例えば――世界中の神装者が一斉に掛かってなお甚大な被害をもたらす大型終世獣を、単身で撃破してしまうほどの力を身につけた神装者、ラルフ・ティファート。
例えば――霊術一つで天を断ち、地を割り、海を裂く、無限の霊術を使いこなすインフィニティーであり、同時に神装者という規格外の霊術師、ティア・フローレス。
例えば――大型終世獣だけではなく、創生獣ですらも瞬く間に消滅させる程に圧倒的な力を有する純白のドラゴン、ミリア・オルレット。
面倒を見ていたはずの後輩たちは、気が付けばアレットが手を伸ばしても到底届くはずのない高みへと進んでいた。
今のアレットでは、どれだけ必死に戦おうとも彼らの足を引っ張ることしかできない。
「…………それは、もう、夏休みの時に分かってたのにな」
アレットが見ている海岸……そう、そこは夏季長期休暇中に、初めてアレットが創生獣である『悠久のレニス』と『蒼海のマーレ』と戦った場所だ。
あの時、アレットは為す術もなくレニスとマーレの術に追い詰められた。もしも、ラルフの体に憑依していた過去の英雄クラウド・アティアスが助けてくれなかったら、その時点でアレットは死んでいたことだろう。
そう……アレット・クロフォードがどれだけ才媛の持て囃されようと、創生獣との戦いに身を投じるラルフ達と比べれば、あまりにも無力なのだ。
大切な大切な弟、妹、後輩が必死に今を足掻き、未来を切り開こうとしている姿を……アレットは、傍観することしかできない。
「……もっと、強くなりたい」
堅実な努力では埋めることのできない圧倒的な……理不尽とも言っていいほどの力の差。それを前にして、アレットは小さくため息をついて沈み込む。
もっと、可愛い後輩たちの力になってあげたい。けれど、正直言えば今のアレットが事態に介入したところで、足手まといになるのは目に見えている。
アレットだけが、完全に蚊帳の外に押し出されてしまった形になる。
憂鬱そうな顔で黙り込んでしまったアレットだったが、そのすぐ傍までやってきたフィーネルが、じぃぃっとアレットの顔を覗きこむ。
『アレットさん、貴女の神装を見せてもらっても良いですか?』
「……? 良いけれど」
アレットが手をかざしてその姿を脳裏に浮かべた瞬間、慣れた感触が発現する。
一切の汚れなき純白の刀身を有する刀型神装<白桜>――アレットが子供の頃から親しみ馴染んできた神装である。
<白桜>を右手に握り、月にその刀身をかざす。刀身に刻み込まれた桜の花びらのような紋様が、月光を受けて濡れたように輝く。
アレットの<白桜>を見て、フィーネルは目を細める。
『何物にも染められていない純白……神装は魂を映す鏡のようなもの。つまり、その神装はアレットさんの魂そのものと言っても過言ではありません』
「……私の……魂」
吟味するように呟いたアレットに、フィーネルは頷いて返す。
『何物にも染まっていないということは、逆に言えば、アレットさんがその気になれば、何色にもなることができるということです』
白は全てを受け入れる色。
どのような色であってもその身の内に受け入れ、自身を変容させることができる。つまり、アレットの魂は、どのような変化であってもそれを受け入れ、柔軟に自身の有り様を変えることができるということを意味している。
それを踏まえた上で、フィーネルは正面からアレットの瞳を見据えてくる。
『だから、この神装なら……私の力を乗せることができるはずです』
「……フィーネルの力?」
『そうです。手っ取り早く言っちゃえば、アルティアと<フレイムハート>との関係ですね。アルティアは、神装<フレイムハート>を媒介として己の力を増大し、それをラルフさんと共有しています。それと同じことをしようと思います』
「……そんなこと、できるの? <フレイムハート>は特別製って聞いてるけど」
アレットの純粋な疑問に、フィーネルは小さく苦笑を浮かべる。
『もちろん、<フレイムハート>ほど完全な同調は期待できません。でも、前大戦で大怪我を負って力の大半を失っているアルティアに比べ、今の私はまだ力の大半をこの身に宿しています。それを考えれば、ラルフさんほどの力は見込めずとも……大型終生獣と渡り合えるぐらいの力は発揮できるはずです』
そこで一度言葉を切ると、フィーネルは少し言いにくそうに言葉を続ける。
『ただ……例えアレットさんの魂が全てを受け入れる白だと言っても、人間の器に二つの魂を受け入れるのは非情に困難なことであることには変わりありません。完全な同調に至るためには、とても辛く、厳しい鍛錬が必要に――』
「……やる」
フィーネルがその全てを言い終えるよりも先に、アレットは断言する。
全く躊躇いのない返答に目を丸くしたフィーネルに、アレットは己の<白桜>へと視線を転じた。
「……辛く厳しい鍛錬なら望むところ。それで、あの子達の手助けをできるだけの力が手に入るなら、私は躊躇わない」
『アレットさん……』
「……世界は今、大きく動いてる。たぶん、この世界の行く末を決める分岐点は目前まで迫っているんだと思う。だから、こんなことで迷ってる暇なんてない」
それは時流を読むことができる者ならば誰でも予感していたことだ。
まるで、何かを急ぐように目的を持って迫り来る大型終生獣の連続襲撃――その先にあるものが、人にとって幸いとなるものであるはずがない。
アレットはそう言うと、窓枠から飛び降りて大きく伸びをした。
「……今から始めよう」
『え、今からですか!?』
会話が終わったら就寝モードに突入しようとしていたのだろう……フィーネルが半オクターブ上がった変な声を上げた。
『あの、今日はぐっすり眠って、明日の早朝から始めるという……』
「……鉄は熱い内に打つのが良い。今晩特訓を開始して、明日も早朝から特訓する。大丈夫、三時間ぐらい寝れば体は動く」
『私、八時間ぐらい寝ないと調子がでな――』
「……さぁ、行こう」
『あ、やぁぁぁぁぁ、鷲掴みしないでぇぇぇぇぇぇぇ…………』
むんずと掴まれたフィーネルがジタバタと暴れるが……抵抗空しく連行されてゆく。
辛く厳しい鍛錬――それは、アレットよりもむしろ、フィーネルの方に当てはまることになるのだが、まぁ、些細な違いである。
第246話から、「エクセナ・フィオ・ミリオラ女史が発表した論文によって、インフィニティーの特性は魂ではなく肉体に依拠すると分かりましたからね。それなら、インフィニティーであるオルフィ女王の複製体を作った方が手っ取り早いと考えたのでしょう」の記述を削除しました。すでに読んでくださった方には大変ご迷惑をおかけしました。この場をお借りしてお詫び申し上げます……。