焦り
それから一時間後。
継続して治療に当たっているティアの額には、玉のような汗が浮かび、眉間には深いしわが刻み込まれていた。
霊力の流れを繋ぎ合わせる治療は、言ってしまえば極細の管を一寸の誤差なくぴたりと合わせる精密作業だ。それを丸々一時間、一切気を抜くことなく集中して行えば、心身ともに疲弊して当然であった。
「ティア、そろそろ休もう」
「え、えぇ、ごめんなさい。そうさせてもらうわ」
ティアはそう言って霊力の放出を止めると、そのままパタリとベッドに倒れ込んだ。
相当に疲労したのだろう……たったの一時間で、顔色が若干悪くなっている。そんなティアの顔をのぞき込み、ラルフは何だか申し訳なくなった。
「大丈夫か、ティア?」
「大丈夫よ。このくらい、何ともないわよ」
ティアはそう言うと、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「それにね。私、すごく充実してるの。今まで、ずっとラルフに護られるだけで、何一つとして貴方の力になれなかったから……それが、すごく悔しかったの」
ティアは天井に向かって両手を伸ばすと、その手をグッと握った。
「でも、今は、私がこうしてラルフを支えてあげられる。それが本当に嬉しいの」
「うーん、そうかなぁ……?」
ラルフが首を傾げると、ティアが少しだけ悲しそうに眉を下げた。
「やっぱり力不足……?」
「ああいや、そうじゃなくってさ。たぶん、記憶を失う前から俺はティアに支えられてきたと思うんだ」
内から沸き上がってくる感情を、慎重に吟味しながら、ラルフはそれを言葉にしてゆく。
「こうして君が傍にいてくれるだけで、俺、すごく安心してるんだ。これって、俺がずっと君のことを頼りにして、信頼してたってことだと思う。信頼できる人が傍にいてくれるって、すごく贅沢なことなんじゃないかな? そう考えれば、ティアが俺の傍にいてくれた時点で、俺は君を支えに感じてたんだよ、きっと」
「…………」
ラルフが笑いながら言うと、ティアがむくりと無言で起き上がった。
そして、四つん這いでベッドの上を張って、ラルフに近づいてくると――
「どーん!」
「わ、ちょ、ティア!?」
全身でラルフに抱きついてきた。
柔らかい感触が腕の中一杯に広がり、ラルフの顔がみるみるうちに赤くなってゆく。対するティアは、どこか安堵したようにふにゃりと表情を緩め、全身を弛緩させている。
「ときめき機関が暴走しているので、沈静化するまでこのままね」
「なんだよそれ……」
ぶっきらぼうに言いながら、ラルフは視線を逸らす。
汗を掻いているからだろう……ふわりと、舞い上がったティアの匂いに、頭がくらくらしてくる。ちらりとティアを盗み見れば、彼女はまるで、ここが世界で一番安心できるところだと言わんばかりに、安堵しきった顔でラルフの腕の中で休んでいる。
――頼むから、男の前でそんな無防備な顔しないでくんないかなぁ……。
割と本気で思う。
「ねぇ、ラルフ」
「なんでしょーかー」
「キス、してみる?」
不覚にも、生唾を飲んでしまった。
艶やかで、ふっくらとしたティアの唇に無意識に視線が引き寄せられてしまったとして、誰がラルフを責められるというのか。
そんなラルフの視線に気がついているのだろう……ティアは、すっと目を細め、妖艶とも言える笑みを浮かべる。女は幾つもの顔を持っているとは言うが、本当なのだと改めて思い知らされる。
「ラルフは、したい?」
「……え、あの、その……」
微かに躊躇った後……ラルフは素直にこくんと頷いた。
あまりにも素直なラルフの反応に、ティアが小さく笑う。そして、彼女は両手を伸ばすとラルフの首へとゆるゆると巻き付け、まっすぐに瞳をのぞき込んでくる。
「じゃ、しよっか」
「お、おう」
ベッドの横にある棚の上で、アルティアが『やれやれ』と言わんばかりに翼で両目をふさいでいるのだが……完全に二人の世界に入ってしまったラルフとティアには見えない。
ラルフとティアの顔がゆっくりと近づき、そして、二人の唇が静かに重な――
「……ラルフ、いる? お姉ちゃんだよ。ちょっと用事があって来たよ」
「…………」
「…………」
トントンと、扉のノックされる音でぴたりと二人の動きが止まった。
見つめ合ったまま、完全に固まっていると、催促するように再びトントンと扉が叩かれる。
「……ラルフ、いないの? ティアとラルフ、二人分の気配はするよ? 不純異性交遊中なら、お姉ちゃん、扉を八つ裂きにするけどいい?」
「待って! 姉ちゃん待って! 分かったから! 開けるから!」
「むぅぅぅぅぅ……」
ラルフがそう答えて前を向くと、ティアが風船のように膨れ上がっていた。
「えーっと……ごめん?」
「不問に処す……」
何だかよく分からずに謝ったラルフに、ティアはふて腐れたようにそう言ったのであった……。
――――――――――――――――――――――――――――
リビングにある大きめの机に付いているのは、ラルフ、ティア、アルティア、そして、部屋に招き入れたアレット……と、ここまでなら普段の面子だ。
しかし、本日は、ここに普段は見慣れないモノが混ざっていた。
机の上――そこには手のひらサイズの大きさにまで縮んだ、新緑の体毛を持つ雌鹿……創生獣である『翠風のフィーネル』が乗っかっていた。彼女はしゅんと頭を垂れており、陰鬱な雰囲気を纏っている。
そして、フィーネルの対面に鎮座していたアルティアもまた、何とも不景気そうな表情でため息をついている。
『そうか……予想以上に絶無結界が破られるのが早かったな……』
『ごめんなさい、アルティア……』
『お前だけの責任でもあるまい。元はと言えば、レニスの目論見を見破れなかった私にも非はある。そう落ち込むな』
苦々しい声色で、アルティアがフィーネルを励ます。
卓上でやり取りを繰り返す創生獣二柱を見ながら、ラルフは顔を上げてアレットに問う。
「えーっとつまり……絶無結界が破壊され、力の大半を失ったフィーネルさんは、何とかその場を離脱して、アレット姉ちゃんの部屋に辿り着いたと……」
「……そうみたい。私もよく話が分からないから、ここに連れてきた」
ジャージにナイトキャップを被ったアレットは、ラルフの言葉に頷いた。まぁ、確かにアレットからすれば寝耳に水であったろう。
ラルフは虚空を睨み据えながら、唸り声を上げた。
「しかし、そっか……てことは、神光のリュミエールの肉体はレニスに奪われたと思っていいんだな、アルティア」
『うむ……最悪の事態になったな。まさか、インフィニティーを取り込んだバハムートが、これほどの力を有していたとは。まぁ、デッドマテリアルを取り除くのにもう少し掛かるだろうが……』
ラルフは腕を組んで目を閉じた。
フィーネルの話では、バハムートの隣には純白の龍――ミリアの姿もあったらしい。ロディンの証言にもあったが、これでミリアがレニスの傀儡になっているのが確定的になった。
――どうする。どうする……。
刻々と迫ってくるタイムリミットを前にして、ラルフは焦りに歯噛みする。
ただ……もしも、今、<フレイムハート>が治ったとしても、果たしてラルフ一人で立ち向かうことができるのだろうか。
過去、最盛期のアルティアと、二つの神装を操る英雄クラウドが挑み……そして、打倒したリュミエールが復活したわけだが、今回はそこに、第Ⅹ終世獣バハムート、第Ⅷ終世獣ヨルムンガンド、そして、悠久のレニスが加わるのだ。
不完全なアルティアと、絶不調なラルフが挑んだとして、勝てるとは思えない。
――八方塞だ……。
過去の大戦のように、多くの人々が集まり、力を合わせることができればいいのだが……ラルフには、そこまでの求心力も権力も人脈もない。
そもそも、浮遊大陸エア・クリアや、暗黒大陸シャドルの襲撃を受け、世界は大型終世獣の影に怯え、迎撃どころではないのだ。助力を期待するどころの話ではない。
だとすれば――
「怖い顔してる」
「んぐ?」
ひんやりとした両手で両頬を包み込まれ、ラルフは目を丸くする。
視線の先、そこには心配そうに眉をひそめたティアの顔があった。どうやら、よほど難しい顔をして考え込んでしまったようだ。
「ごめん、ちょっと色々と考え込んでしまって……」
「これは別にラルフ一人の問題じゃないんだから。何もかも、貴方一人で抱え込む必要なんてないんだからね」
「あはは、分かってるよ。分かってるんだけどね」
確かにこの問題はラルフ一人の問題ではない。
だが、神をも殺すことできる神装<フレイムハート>を持つ者として、ラルフはこの問題に向き合う必要があるのは事実だ。
ティアの手をやんわりと押しのけながら、ラルフは笑うが……その笑みはどこからどう見ても引きつっていた。そんなラルフを前にして、ティアは遣る瀬無さそうな表情を浮かべる。
「……ラルフ、<フレイムハート>はまだ治らないの?」
お通夜ムードに陥りそうになるその寸前に、アレットが声を掛けてきた。
「うん。てか、ティアの話では以前よりも悪化してるって」
「……? 学院長から治療を受けてたはずじゃ?」
「そのはずなんだけどね……何か、よく分からんことになってる」
ラルフの言葉に、ふむーん、とアレットが顎に手を当てて何かを考え込むと……おもむろに口を開いた。
「……<フレイムハート>を早く治す方法、あるけど、やってみる?」