ファーストインプレッション=ビンタ
「まずい、道に迷った」
地図はある。
コンパスもある。
入寮への手引きもある。
更にいえば、道に迷う人がいるであろうことを予想して、校舎内の目印にしやすいモノを懇切丁寧に書き込んである親切極まりない入学のシオリもある。
これだけあれば、普通に考えれば迷うことの方が難しいのだが――
「道に……迷った……」
ラルフは、雪山の中で道を見失った遭難者のように絶望的な表情で再度そう呟いた。
『超が付くほどの田舎から来た御上りさん』+『極度の方向音痴』の前ではいかに優秀な道具であろうともその性能を発揮することは叶わないようだ。
溌剌とした笑顔が似合うラルフだが……道に迷った今の彼は、どちらかと言うと雨の中に捨てられた子犬のようになんだか情けなかった。
ちなみにだが、十七と言う年齢にしてはかなり低めな身長であることも、そう思わせる一要因になっていたりする。
「ま、まいったな……なんでこんなに建物が多いんだ? 建物もでっかいから向こう側も見えないし。まるで迷路だ……」
ラルフの生まれ育った村は小さな漁村で、潮風に吹かれ過ぎて良く言えば渋い、悪く言えばボロボロの家が八つ軒を連ねているだけだった。
そんな村から来たラルフからすれば、右を見ても左を見ても、見上げないと天辺が見えないレンガ造りの建物が横にずっと伸びているこの現状は、まさに迷路と言っても過言ではない。
歩きやすいように石畳で整備された足元も、丁寧に剪定された木々に囲まれた陽光うららかな空間も、今のラルフにとってみれば居心地の悪いものにしか感じない。
「うぅ、ミリアともはぐれるし。道も分からないし。入学式で迷わないように下見に来たのに、俺、このまま餓死するんじゃないだろーか……」
ラルフはきょろきょろと左右を見回しながら、手元にある入学のシオリをひっくり返す。
そこには『フェイムダルト神装学院・入学のシオリ』と書かれている。
そう、ラルフはこのフェイムダルト神装学院と呼ばれる少々特殊な学院に入学するために、生まれてからずっと住んでいた村を出てきたのだ。
船に揺られること三日間、ようやくついた学院はラルフの常識を根っこからひっくり返すほどに巨大で、立派だった。
アーチ状になっている校門に引っ掛けられた、ピカピカに磨かれた『フェイムダルト神装学院』と掘られたプレートも、見るも美しいレンガ造りの建物も何もかも新鮮で……。
興奮のあまり同行者である幼馴染の傍を離れて、フラフラと歩きまわったのが運の尽きだった。
元々、極度の方向音痴のラルフは割とあっけなく迷子になってしまったのである。
「誰かに道を聞けばいいのかもだけど……」
無論、ここは学院の敷地内だ。
現在は長期休暇のため学生の姿を見ることはないが、それでもちらほらと人の姿を見ることはできる。
しかし……行き交う人の大半がラルフのことを見ると驚いたように目を見開き、何かを確認するように二度見してゆくのだ。
これではまるで、檻の中に入れられた珍獣だ。
「この学院ではヒューマニスは珍しがられるって、本当なんだなぁ。すごい話しかけにくいぞ」
ヒューマニス――この世界に存在する五種族の一つ。
その特徴をズバリ一言で言うと……特徴がないことである。
多少手先が器用な人が多い、と言う程度で何かに秀でた能力があるという訳ではない。
バランスよく能力が高いのかというとそうでもなく、見目が美しいわけでもない。
五種族の中で最も劣る種族などと、口の悪い人間は言うが……悲しいことに、実際に他の四種族に能力で劣っているのは事実だったりする。
ラルフもそんなヒューマニスの一人である。
どうやら、事前に聞いた話だと今年のヒューマニスの入学者は二人。
しかも、九年ぶりらしい。
なんでも、ヒューマニスは多種族に比べてほとんど神装を発現しないらしい。それは、学院の人間からすればそれは珍しかろう。
――いやでも、躊躇ってるわけにもいかないし……!
目的地である学生寮まで自力で辿り着くのは恐らく絶望的だ。
翌日に控える大切な入学式を前にして、学院の中で野宿とか本気で勘弁して欲しい。
ラルフは大きく深呼吸をすると、ちょうど目の前を通り過ぎようとした女の子に声を掛けることにした。
「あ、あの、すみません!」
恐らく、手にした入学のシオリを見る限りラルフと同じく下見に来たのだろう……シオリに載っている地図を見ながら、きょろきょろと周囲を見回している。
ラルフに声を掛けられて顔を向けた彼女は、他の人々と同様に驚いたように目を見開いている。
ただ、驚いているのはラルフも同様で……。
――うわ、すごい美人。
黄金を織ったかのように煌めく金髪に、雨上りの空を連想させる透明感のある碧眼。
スッと通った鼻梁に、みずみずしい唇――勝気そうな釣り目が印象的な、ちょっとそこらではお目に掛かれないほどの美少女である。
腰まで伸びる金髪を大きめの赤いリボンでポニーテールにしており、青と白を基調としたこの学院の制服を身に着けている。
幼馴染が着ているのを見た時は、凝った制服だなー程度の感想しか抱かなかったが……この少女が身に着けていると、それだけで制服がドレスのように見えてしまうから不思議である。
そして、何よりも特徴的なのがその背から伸びる白と黒の二対の翼。
翼を持つ誇り高き種族――シルフェリス。
五種族の中で霊力適性が最も高く、その中でもさらに霊力に秀でたものはその翼を持って空を自由に駆けることができると言われる種族である。
空を飛ぶことができると言う自負からだろうか……全体的にプライドが高く、他種族を見下す傾向が強いシルフェリスは、付き合いにくい種族だと言われている。
だが、幸運にも目の前の少女はその傾向には当てはまらなかったようだ。
「えと、私に何か用?」
少し顔を強張らせながら少女が問い返してくる。
もしかしたら、彼女は他種族とこうして話すのは初めてで、緊張しているのかもしれない。
ただ……ラルフは少女の比ではないほどに緊張していた。
異性なんて腰の折れたお婆ちゃんばかり存在していた村から来たラルフだ。
異種族の、しかも、こんな美少女を前にして完全に上がってしまっていた。
「や、あの、そ、その、お、俺、道に迷ってて……え、と、君が新入生だったみたいだから、あの……み、道みょ尋ね!」
「……ふふ、ちょっと深呼吸してみたら?」
完全にパニックに陥っているラルフを見て逆に落ち着いたのだろう……赤面しながら必死に言葉を紡ごうとするラルフを見かねて、少女が小さく笑う。
何度も深呼吸を繰り返したラルフは、ようやく真っ直ぐに少女の瞳を見返しながら口を開く。
「えっと、俺、学院の下見に来てるんだけど、寮までの道が分からないんだ。だから、ちょっと道を聞きたいんだけど……」
「あ、それなら入学のシオリに地図が――」
「方向音痴でゴメン……」
「方向音痴なんだ」
もう一度小さく吹き出す少女。
居たたまれない気持ちになるラルフだが、おかげで少しだけ打ち解けられた気がした。
地図を手に小さくなっているラルフに近寄ってくると、少女は地図を広げてその一点を指差した。
「現在地が学院ってのはわかるわよね? ほらここ。フェイムダルト島の中心にあるフェイムダルト学院。そして、寮は学院の中央にあるトラム乗り場から東西南北に伸びるレールの先にあるの」
「トラムって、もしかして港から学院に来るまでに乗った、ゴトゴト走る木の箱みたいなやつ?」
「そうそう、それがトラム。歩いても行けるけれど、基本的に寮はそのトラムに乗って移動するのが基本みたい。北がシルフェリス。南がドミニオス。東がビースティス。西がマナマリオス……あれ、ヒューマニスの寮がないわね……?」
地図を指差しながら調子良く解説をしていた少女だったが、不意に首を傾げた。
たしかに、ヒューマニスの寮など地図には載っていない。
「あ、俺達はビースティスの寮にお世話になることになってるから」
「そうなんだ。なら、東に行けばいいわね。ま、どこの寮に行くにしろトラムには乗らないといけないから、トラム乗り場を目指せばいいわ」
「あの、その肝心のトラム乗り場がですね……」
「この道を真っ直ぐ行けば良いみたい。というか、こんな大通りに出てるのに迷えるなんて、ちょっとした才能じゃないかしら?」
「うぅ……」
くすくすと笑う少女の前でラルフは更に小さくなった。
自分が方向音痴であると言う自覚は今の今までなかっただけに恥ずかしさもひとしおだ。
ただ幸か不幸か……少女はそんなラルフに対して警戒を解いてくれたようだ。
言葉使いも大分砕けてきている。
ラルフは小さく嘆息して、笑いながらポリポリと頭を掻いた。
「何にせよ助かったよ。ありがとう。俺の名前はラルフ・ティファート。見ての通りヒューマニスだ。君は?」
「ティア・フローレス。見ての通りシルフェリスよ。他種族ってどんな感じなんだろって緊張してたけれど……貴方と話せて少し肩の力が抜けたわ」
「ん、異種族って言っても結構大差ないもんだよ? 俺の知り合いがそこらへん無頓着なだけかもしれないけれど」
「あんな緊張してたくせに?」
「ぐぬぬ……」
言葉に詰まるラルフをティアは楽しそうに見ている。
そんな彼女の笑顔に釣られて能天気に笑うラルフだったが……この出会いが幸運以外の何物でもないことに、彼は気が付いていない。
ヒューマニスが他種族に比べて能力的に劣っていることは前述したとおりだが、それを理由に高圧的に接してくる者も多いのである。
最悪の場合、道案内をしてもらうどころか、謂れのない嘲笑や侮蔑を投げつけられていた可能性すらあったのだ。
「おいおい……そこにいるのは汚らわしい黒翼のティア・フローレスじゃないか?」
そう――まさにこのように。
まるで刃物のような、明確な攻撃の意志が込められた言葉が、ラルフとティアの間にあった柔らかい雰囲気を一刀両断にした。
『黒翼』……その単語が出た瞬間、ティアは見て分かるほどに顔を強張らせた。
ラルフが彼女の目線を追って振り返れば、そこには同じ制服を着た五人のシルフェリスがニヤニヤと笑いながら立っていた。
手に持っている入学のシオリや、下ろし立てでノリのきいた制服を見るに恐らくは同じ新入生だろう。
ただ……彼らはティアと違い、お世辞にも友好的とは言い難い態度であった。
「そんな穢れた翼を白昼堂々晒して、よくもこの学院に来れたものだな」
「…………別に。アンタに迷惑はかけてないでしょ、ダスティン」
「見るだけで不快になるのが分からないのか?」
その集団の中でもリーダー格と思われる男子生徒――ダスティン・バルハウスが一歩前にでて、メガネのツルを人差し指で押し上げた。
茶髪に碧眼の青年だ……細面で目つきが悪いためどこか神経質そうな印象を受ける。
そして、彼らが嘲笑を浮かべる先にいるのは……ティアだ。
より正確に言うならばティアの背にある翼。
男子学生の翼は全員が白なのだが、ティアの翼だけは片方が黒色に染まっているのだ。
シルフェリスのことを良く知らないラルフからすれば、それがどうした、という程度の事なのだが……どうやら、彼等の中では違うようだ。
「失せろよ、シルフェリスの面汚しが。お前と同じ種族だと思われるだけで怖気が走る」
「…………」
「おい、聞こえているのかよ! 何か言って――」
「もうそれぐらいで止めとけよ」
一歩、前へ。
翼の色のことをラルフは良く知らない。
けれど、今、こうして目の前で心無い言葉で傷ついている人がいることだけは確かで。
そして、傷つきながらも何も言い返せずに俯く彼女を放っておけないと思う自分がいることも事実。
あまりにも予想外の相手が出てきて驚いたのだろう。
ダスティンを初めとする男子学生たちは一様に目を丸くし……次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。
「あ……あははははは! おい見ろ! 山猿がいるぞ! 今年の入学者にはヒューマニスがいるとは聞いていたが、本当だったんだな!」
「どうやってこの学園に入り込んだんだよ! さっさとお山に戻った方が良いぞ!」
「それよりもお前、黒翼の男か! 随分といい趣味してるな!」
背後を振り返れば、ギリッと歯を食いしばる音が聞こえてきそうな表情をしたティアの姿。
ラルフは次々に投げつけられる心無い言葉を前にして小さくため息をつくと、両手を腰に当てて肩を落とした。
「ぽっぽーぽっぽー煩いぞ。ハトみたいな羽してるくせに」
「…………貴様、今なんて言った?」
場の空気が一気に冷え込んだ。だが、一方的に言われ続けているよりもよっぽど良い。
ラルフはニッと口の端を釣り上げると、笑顔を浮かべて相手の翼を指差した。
「それそれ。その翼がハトみたいだって言ってるんだよ。俺、シルフェリスのことはよく分かんないんだけどさ。随分とパチモンみたいな翼してるのな。なんか、イメージと違ってがっかりだよ」
「どうやら、随分と賢しいサルのようだ」
「そりゃすいません、ウッキー」
こういった手合いは自分が優位に立っているからこそ、自分の行動を顧みずに相手を罵倒できるのだ。
だからこそ、全く同じ趣旨の言葉を投げ返してやればいい。
言葉のキャッチボールだ。
投げ返されれば、どれだけ自分が悪送球をしていたのかよく分かるというものだろう。
「随分と生意気な口をきくな、お前」
ダスティンを中心にしてジリジリとラルフを取り巻くように、男子学生たちが動く。
完全に囲まれた形になるのだが……ラルフはそんな男子学生を冷めた目で観察する。
「今この場で詫びろ。地面に額をこすりつけてな。そうすれば見逃してやる」
「いやいや、見逃してもらう必要もないよ」
「お前、今の自分の立場が――」
「だからさ」
相手の言葉を切って、ラルフは真正面……ダスティンの瞳を睨み据えながらゆっくりと拳を握りしめた。
「そういう煩わしいの、いらないって」
自然と呼気が絞り込まれ、浮き立っていた心が闘争へとシフトする。
意識から一切の無駄が排除され、研ぎ澄まされてゆく。
「やるなら早く掛かってこい。やらないなら失せろ」
体を半身に、右手を引きつつ、左手を前へ。
打撃を主眼とし、直撃の瞬間にインパクトを込められるように拳の握りには軽く余裕を持たせておく。
戦闘の予兆に高ぶり、歓喜する四肢を抑え込みながら、ラルフは自然と低くなる声でダスティンに問いかける。
「粋がるだけならこちらから仕掛ける」
「…………っ。野蛮な猿が! もういい、行くぞ!」
ラルフの言葉に本気を感じ取ったのだろう。ダスティンは舌打ちを一つすると、取り巻きを引きつれて身を翻してトラム乗り場とは逆の方向へと去ってゆく。
どうやら、本気で暴力でことに及ぶつもりはなかったのだろう。
ラルフは大きく深呼吸をして心を切り替えるとクルッと後ろを振り返る。
そこには先ほどとは打って変わって、俯き、沈みきった表情のティア。
どちらかと言えばダスティンのような手合いの方が慣れているラルフとしては、これからどうやってティアを励ませばいいのか全く分からなかった。
「え、えぇっと、その……あんまり気にしない方が良いよ。うん」
「あ……あはは、別にそんな気にしてないから。大丈夫……」
うつむきながら小さく浮かべた、無理に無理を重ねたような痛々しい笑顔。
胸の底を抉られたような気持ちになったラルフは、彼女を励ますために必死で頭を回転させて――
「大丈夫大丈夫! その、俺はシルフェリスのことはあんまり分からないけれど、翼の色なんて大した問題じゃないって!」
致命的な失敗を犯した。
ラルフの言葉が引き金となって、彼女は弾かれたように顔を上げる。
怒りとか悲しみとかいろんな感情がごちゃ混ぜになった瞳を前にして、ラルフは完全に硬直してしまった。
そして、ようやく自分が彼女の中にある決定的なモノを傷つけたのだと理解した。
「何も……何も知らないくせにッ!!」
悲鳴のような叫び声をあげて、彼女は大きく手を振り上げた。
あまりにも突然のことに、ラルフは目の前の光景を他人事のように見つめていた。
――なるほど、ビンタってのはこんなにも迫力があるんだなぁ。
先ほどの堂に入った構えを見ても分かる通り、ラルフは殴って殴られにはかなり慣れているという、何の自慢にもならない自負があった。
幼少時代なんか、日曜学校で複数人を相手取って飽きるほど喧嘩していたし、父親から拳術を教わるようになってからは毎日のように生傷だらけだった。
『ほれほれ、踏み込みが甘いぞー』と満面の笑顔で放たれた父親の裏拳を眉間に食らって三日ぐらい意識不明になったこともあれば、『おっと、足元がお留守だ』と軽く足払いを喰らって勢いよく斜面を転がった挙句、断崖絶壁から海に向かって命綱なしでダイブしたこともある。
あとちょっと横にずれていたら突き出した岩肌に激突してエライことになっていただろう。
だが……よくよく考えてみれば、女子に頬を張られた経験と言うのは不思議なぐらいなかった。
幼馴染の女の子に踵で爪先を踏み抜かれたり、笑顔で頸動脈を締め上げられたりはしたことはあるが……こうも『女の子らしい』直接的な攻撃はなかった。
なによりも、目の前の女の子が今にも泣きだしそうな表情をしているのがラルフを戸惑わせた。
この子がこんな表情をする原因を作ったのは……ラルフ自身だ。
攻撃の予兆を感じ取った体が無意識のうちに回避からカウンターへ繋げる動作を実行しようとするが、ラルフはそれをあえて抑え込んだ。
そして、激情に駆られた少女の目をじっと見据え、襲い掛かってくるであろう衝撃に備えて歯を食いしばった……のだが。
「…………ッ!」
少女は大きく手を振りかぶったまま、その動きを止めた。
何かをこらえるように唇を噛み、眉を寄せて……それはまるで、泣き出すのを堪えるようで。
「助けてくれて……ありがとう」
今まで見たことがないぐらい綺麗な碧眼にうっすらと涙を浮かべて、少女は言葉を振り絞ると、ラルフに背を向けて足早に去って行った。
遠ざかってゆく少女の姿を見送ったラルフは、一時の間息を止めていたが、両肩を落とすと大きくため息をついた。
――うあぁぁぁ……やらかしたぁぁぁぁ……!!
ラルフは荒っぽく頭を掻きながら、心の中で絶叫したのであった……。