呪われた彼女の追憶② / 絶対に譲れない一線
『こんな所で何してるの?』
木陰で一人本を読んでいた私に話しかけてきた彼の名前は、アルベルト・フィス・グレインバーグといった。
私とは違って、皆から慕われ、頼りにされる人気者のアルベルト……いつも一人で過ごしていた私の耳にも、彼が友人と楽しげに談笑する声が聞こえていたから、彼の存在は知っていた。
それでも、そんな彼が私に話しかけてくるとは夢にも思わなかったけれど。
最初は無視をした。
すぐに彼にも不幸が降りかかり、私から離れていってしまうことは分かっていたから。
私のぶしつけな対応にも、彼は一向に気を悪くした様子もなく、懲りずに何度も、何度も話しかけてきた。
『本を読んでるんだ、何を読んでるの?』『今日はお日様が気持ちいいね。この木陰にいると眠たくなってしまうよ』『今日は僕も本を持ってきたんだ、隣で読んでも良いかな?』『今日の霊術の実習、凄かったね。僕はそんなに霊術が上手くないから、コツを教えて欲しいぐらいだよ』……。
頑なに喋らず、視線すら合わせず、だんまりを決め込む私の隣で、彼は淡い笑顔を浮かべたまま、柔らかくて優しい言葉を紡いでくれる。まるで、お日様のような人だと思った。
そんな日が二十日近く続いた。
不思議なことに、その間、彼に不幸が降り注いだ様子はなかった。普通ならば、既に不幸が降り注いでいてもおかしくはなかったはずだ。
この人は御爺様と同じように、私の不幸の影響を受けないのではないか――少しでもそう考えてしまったのがいけなかった。
錆びついていた感情が色づき始め、孤独が鈍痛を発し始めた。
彼と話してみたいと……孤独の茨に蝕まれていた私の心が、そう叫び始めたのだ。
だから――
「あの……霊術、苦手なの……?」
声を発してみれば、自分でも驚くほどにかすれた、老人のような声が出た。風にかき消されてしまいそうな小さな声だったけれど、己の声に恥じ入って私は頬を染めて俯いた。
話しかけたことを後悔しはじめたが……彼は、そんな私を逃がしてはくれなかった。
「うん、だから、もしよければ教えてくれると嬉しいな」
彼は読んでいた本を閉じると、私の方を向いて満面の笑顔を浮かべてくれたのだった。
こうして、彼……アルベルト・フィス・グレインバーグと、私の交流が始まった。
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ラルフは、夕暮れの中を一人、鍛錬場へと向かっていた。
後頭部で手を組みながら、ぼんやりと空を見上げて先ほどまでのことを思い返す。
悪い子じゃないんだよ――遠ざかって行くセシリアの背中を見ながら、アルベルトはどこか悲しそうに笑いながらそう言った。
その特殊な……他人に問答無用で不幸を押し付ける体質は、現在では多少落ち着いているが、幼少時代は今の比ではなかったそうだ。疫病神のように扱われ、誰からも倦厭される日々の中で、彼女は自分自身に見切りをつけてしまったのだと言う。
「僕も……彼女の力になってあげることは、できなかったから……」
アルベルトはそう言って、自分の右目を――眼帯に覆われた目を押さえた。
その後、アルベルトはセシリアの後を追うように寮へと駆けて帰り、『怖いから一緒に寝て!』と駄々をこねるチェリルに付き合って、ティアとチェリルの二人はゆっくりと徒歩でマナマリオス寮へと帰って行った。
そして、ラルフは何となくもやもやした気持ちを発散するために鍛錬場へと足を向けていた。
「はぁ……」
思わず、大きなため息が漏れる。
少し前までは、戦うと決めれば、相手が誰であろうと無心になって戦えた。
だが、この学院に来て様々な人と出会い、そして、深入りしてゆく度に、誰もが何かを背負って生きているということを知った。
戦うという行為は、己の背負った譲れない何かを護るために行う行為なのだ。
それは自身の命だったり、欲望だったり、信念だったり、大切な誰かだったり……形は様々だ。ただ、それは一様にして本人にとっては掛け替えのない大切な物で。
戦いに勝利するということは、大なり小なり、相手の『掛け替えのない大切な物』を傷つけることに他ならない。
それを知ってしまったからこそ……ラルフはやるせない気持ちになる。
自身の意見を押し通しながらも、相手の意見も汲み取ることなど出来はしない。そもそも、相手の事情も全て背負い込むなど傲慢以外の何物でもない。
人は、誰もが器用に生きることなどできないのだ。
「複雑に考えるのは苦手なんだけどな……」
もともと、頭を使うのはあまり得意ではない。こういう時は、目いっぱい体を動かしてスッキリするに限るのだ。
鍛錬場に到着したラルフは、メンタルフィールドの中に入りながら神装<フレイムハート>を発現し……そこで、妙に人が少ないことに気が付いた。
普段ならば、この夕暮れの時間帯には、割とたくさんの人が鍛錬場を利用しているはずだ。
なぜなのか……その理由は簡単に分かった。
鍛錬場のちょうど中心――腕から肘までを覆う漆黒のガントレット型神装<アビス>を纏ったグレン・ロードが目を閉じて静かにたたずんでいた。
ただ、静かなのはそのたたずまいのみ。
総身より発せられる凄まじいまでの威圧が、鍛錬場の空気を何十倍にも重くしている。
恐らくは近くに迫ったリンクフェスティバルに向けて、精神集中をしているのだろうが……なるほど、このような空気の中で、平然と鍛錬をすることができるほど肝の据わった者など、この学院にはおるまい。
本来なら、この場は公共の場なのだが……グレンが神装を発現して立っているだけで、まるで今、この瞬間にも死闘が始まりそうな錯覚を抱いてしまう。
ラルフが入り口で突っ立って、引くか進むか迷っていると、グレンから発せられる威圧がフッと消え去った。
「そんな所で突っ立っていないで、入ると良い」
「し、失礼します!」
ラルフは頭を下げると、足早にグレンの傍へと駆け寄る。
「お前もリンクフェスティバルに向けて鍛錬か?」
「えぇっと……まぁ、似たようなもんです」
何と言って良いものかと曖昧な返事をすると、グレンは腕を組んで眉をひそめた。
「何だ、煮え切らんな。何かあったか」
「その、セシリア先輩関連でちょっと色々と」
ラルフがそう言うと、グレンはふむ、と小さく頷いた。
「セシリア・ベルリ・グラハンエルクか。色々といわくつきの人物とは聞いているが……ラルフよ、お前はつくづくそういった手合いと縁があるな」
「何でですかねぇ」
あはは、と笑いながら返答するしかない。
笑い終えた後、肺の中の空気を吐き出すように嘆息し……ラルフは顔を上げた。
「何で、人間同士で争わないといけないんでしょうね」
意図して出た言葉ではない。
グレンの持つ包容力を前にして、今まで心に秘して表に出さなかった澱のような濁った感情が、口をついて出てしまったのだ。
ラルフは慌てて口を塞ぐが……すでに形にしてしまった言葉を取り消すことなどできない。
グレンはその言葉を受けて、目を閉じて虚空を見上げ……ラルフに問う。
「戦い続けることが嫌になったか?」
「いえ……戦うこと自体は好きです。ただ、戦うことで、自分の考えを押し通すために誰かを傷つけなきゃならないのが何となく割り切れなくて……」
「随分と甘い考えだ」
まさに一刀両断。
う゛、と言葉に詰まるラルフにグレンは苦笑を返す。
「お前らしいと言えばお前らしいのかもしれないがな。だがな、ラルフ。他人を思いやるのは良いが、『これだけは絶対に譲れない一線』はしっかりともっておけ」
「これだけは絶対に譲れない一線……」
「そうだ。例え相手の理想や信念を潰そうとも、例え相手の命を奪うようなことになったとしても……それでも、戦って、護り抜かなければならないモノだ。そういうものが、お前にはあるか?」
「…………あります」
「そうか。考える事は悪いことではない。だが、見誤るなよ」
「グレン先輩には……あるんですか?」
ラルフの譲れないモノ……それは、自分の傍に居る大切な人達だ。
彼らが笑っていてくれること、それこそがラルフにとって掛け替えのない何よりも大切なことだ。同時に、グレンの譲れないモノとはなんなのか……気になったラルフは、そう問い掛けていた。
ラルフの問い掛けに対し、グレンは一寸も迷わなかった。
「理想だ」
「理想……」
ラルフが繰り返しつぶやくと、グレンは大きく頷いた。
「この世界は広い。ヒューマニスの大陸『ガイア』、ビースティスの大陸『ナイル』、シルフェリスの大陸『エア・クリア』、ドミニオスの大陸『シャドル』、マナマリオスの大陸『ソフィア』――そして、これらの大陸をすべて合わせたよりもなお広大な未踏大陸『ファンタズ・アル・シエル』」
一息。
「ファンタズ・アル・シエルの開拓は順調というが、それでも開拓された地は大陸の一割にも満たない。きっと、残り九割には手つかずの資源と土地、そして、両手で抱えきれぬほどの謎があるのだろう。終世獣を駆逐し、残りの広大な地を開拓すれば、誰もが個々で土地を所有し、豊かで実りある生活を送ることができる。生活に余裕ができてこそ、人は他者を思いやることができ、大いに人生を楽しむことができるのだ」
グレンは強く拳を握りしめると、自嘲気味に笑った。
「にもかかわらず、人々は今ある大陸に必死にしがみ付こうとしている。種族という垣根で自身と他者を区別し、領土というせせこましい概念で大地に線引きをしようとする……挙句の果てに、限られた資源を巡って戦争を起こし、血を流す……これほど馬鹿らしい話もあるまい」
「そう……ですね」
「だからこそ、その概念を破壊する」
「え!?」
ギョッとラルフが目を剥く。
種族や領土の概念を崩すとグレンは言った。それはつまり――
「世界の……統一?」
「そうだ。全ての種族が、一つの旗のもとに集い、協力して世界を作ってゆく……それこそが、我の望む世界であり、実現させるべき理想だ。そして、その理想を実現させるための第一歩として、我はドミニオスの王に成る」
その言葉でようやくラルフは得心が言った。
グレンがレッカの前で『目的を達するには王位に着くのが早道だ』と言ったのはこのことだったのだ。グレン・ロードという男は、ドミニオスの玉座よりもさらに先を見据えていた。
「でも、世界の統一なんて……もしかして、武力で……?」
「それは統一ではなく征服だ。我が求めるのは調和であり、服従ではないぞ、ラルフ」
「す、すみません……」
謝るラルフに、グレンは小さく笑みを返す。
「お前が言いたいことも分かる。そう簡単に種族という垣根が壊れるのならば、既に壊れている。我の理想は、今の世界の在り様を覆すことに他ならん。困難を極めるだろうが……だからといって、家畜の如く人生を無為に浪費するなど御免こうむる」
「本当に、グレン先輩はこの学院を卒業したら雲の上の人になっちゃうんだなぁ……」
現実問題、グレンがドミニオスの王となるには、凱覇王レッカ・ロードを打倒しなければならない。この世界に数人しかいないS級冒険者の一人として数えられるレッカは、強敵という言葉すら生ぬるく感じるような相手だ。
だが……。
――この人が負ける姿が想像できない……。
底が見えないと言えばいいのか。
今ままでラルフが会った誰とも異なる、『何か』がグレン・ロードという男にはある。何の根拠もない、けれど、幾度も戦いの中でラルフを勝利に導いてきた直感がそう告げている。
「この学院で過ごした三年間は非常に有意義であった。様々な伝手を作ることもできたしな。ただ、一つ心残りがあるとすれば……全力で戦えるライバルに出会えなかったことか」
「噂で聞いたことがあったんですが、グレン先輩は未だに全力で戦ったことがないとか……本当だったんですね」
ラルフの言葉にグレンは頷き返す。
「体が温まり始めた頃には、大抵の相手は地に伏しているからな」
このセリフに一切嫌味を感じないのは流石というべきか。むしろ、『あぁ、なるほど』と納得してしまいそうになる。
グレンはググッと伸びをしながら、ぼやくように言う。
「せめて、最後のリンクフェスティバルぐらいは楽しみたいものだがな」
「大丈夫ですよ」
たいして期待もしていないようなグレンの言葉を聞いた瞬間、ラルフは条件反射で答えていた。身の内で燃え盛っているのが対抗心なのか、それとも闘争心なのか……判然としない。
だが、それでもラルフは今日の会話を通じて確信した。
「今回のリンクフェスティバルは、グレン先輩が満足できる相手が現れます」
やはり、この人とは……この漢とは、全力で拳を交えなければなるまいと。
全力でぶつかりあい、力と技を振り絞って死闘を繰り広げた先で、きっと、今は見えていないものを見ることができるという確信があった。
ラルフの言葉の裏にあるものに気が付いたのだろう……理知的な表情の裏に隠している牙を剥き出しにして、グレンが笑った。
「ほぉ……そうか、期待していていいのだな?」
「はい」
迷いも、躊躇いもなく、ラルフは頷く。
思い切りの良さに……何より、ラルフの真紅の瞳の中にある、燃え盛るような感情を見たグレンは、満足そうに笑うとスッと拳をラルフに突きつけた。
「楽しみにしているぞ、ラルフ」
「全力を尽くします、グレン先輩」
グレンとラルフの拳で軽くぶつかり合う。
未だ、ラルフの葛藤に答えは出ず。
だが、それでも……グレンとの会話で、少しだけ光明が見えた気がしたのであった。
そうして、リンクフェスティバル当日を迎える……。