もしも、お母さんがいたのなら
「エクセナがインフィニティーの研究を……」
エミリーがそう呟いてうつむく。
ラルフの隣では、チェリルも何かを考え込むかのように口元に手を当てている。
「今の話、フィーに聞かせてあげられたらよかったのにな」
ラルフはポツリとそう呟いて、浮遊大陸エア・クリアがあると思われる方角へと視線を向ける。オルフィはエクセナが唐突にいなくなってしまったことに心を痛めていたが……エクセナはこうもオルフィのことを想っていたのだ。
今の話をオルフィが聞けば、きっと涙を浮かべて喜ぶことだろう。
だが――
「分かっただろう。とにかく、お前ら二人はもうこれ以上エクセナに関わるな」
「……え?」
チェリルが小さく声を出すと、呆れたようにレッカが頬杖をつく。
「え? じゃねぇ。エクセナの足跡をたどるってことは、最終的に辿り着くのはシルフェリスの暗部だ。そうすればお前達も同じように殺される。ザイナリアは躊躇うような男ではない……坊主、チビスケ、お前達もそれは理解しているはずだ」
「……」
「……」
ラルフとチェリルを相手に第一近衛をぶつけてくるような相手だ……少なくとも、ラルフ達の生死を天秤に乗せて、躊躇いを見せるような相手ではあるまい
それは理解できる。理解できるのだが……。
ちらりとラルフはチェリルの方を向く。
彼女は唇を噛みしめて俯いているため、その表情を知ることはできないが……ギュッと握った拳は小さく震えている。
「正直な、この件、学生のお前達には荷が重すぎる。エミリーと互角に渡り合った黒外套然り、たかだか学生相手に第一近衛を差し向けるザイナリアの判断然り……色々とキナ臭すぎる。エミリー、もちろん異論はないな」
「まぁ、そうですね……」
念を押すようなレッカの言葉に、エミリーも控えめながら肯定の意志を示す。
だが、ラルフとチェリルのことも気になるようで、エミリーは心配そうな視線をこちらに向けてくる。そんなエミリーの煮え切らない態度に、レッカは視線を鋭くする。
「エミリーッ」
「わ、分かっています。私は生徒達の大切な身を親御さん達から預かる教師です。もちろんレッカ先輩の意見には全面的に賛成ですが……頭越しに押さえつけるだけでは、この子達も可哀そうですよ、レッカ先輩」
「馬鹿いってんじゃねぇよ。お前と霊術戦で互角以上に戦った黒外套なんて、ヤバいなんてもんじゃないだろう。もしも、ソイツとこのガキどもがやり合ったとしてだ……その結果が、お前には見えないのか」
真剣に話すレッカを見ていたエミリーが、不意に表情を苦笑に変える。
そんなエミリーの変化に、レッカは眉を吊り上げる。
「んだよ」
「いえ、『力と立場で抑えつけようとしてくる教員の相手は楽だな。殴り返せばそれで事足りる』と言っていた昔のレッカ先輩の言葉を思い出しまして。何だかんだで、レッカ先輩もゴルド先輩の息子さんと、エクセナの人格を持つチェリルさんが可愛いんですね」
エミリーの言葉に一瞬、目を丸くしたレッカだったが……次の瞬間、苦虫を十数匹噛み潰したかのように苦々しい表情をした。
「おい止めろマジで……自己嫌悪がすげぇから……」
「いつものレッカ先輩なら、『好きにしろ、ただし、死んでもしらねーぞ』で終わりですからね」
「だから、やめろ」
ゲッソリするレッカを前にしながら、ラルフは先ほどの言葉を考えていた。
確かに、レッカのいう言葉はこれ以上ないほどに正論だ。
ラルフも、チェリルも、この学院に入学して来た当初に比べて、格段の進歩を遂げている。
だが……それでも、レッカ達に比べれば未熟極まりないのは事実だ。実際、チェリルの別人格であるエクセナに助けてもらわなければ、ラルフは浮遊大陸エア・クリアで第一近衛のジレッドとサフィールに捕えられていたことだろう。
――俺はまだ、世界を相手にするには弱すぎる……。
ここで、『チェリルは自分が護るから大丈夫』と、レッカの瞳を真っ向から見ながら啖呵を切れたのならどれだけ良いだろう。
その時だった。
「た、たた、確かにレッカ王の言葉は正しいと思います!」
静寂を打ち破ったのは、緊張でガチガチに固まった声だった。
全員の視線が集中する先……チェリルが、表情を強張らせたまま、必死に言葉を紡いでゆく。
「で、でも……ボクは、エクセナさんのこと、知りたい、です!」
必死に、一杯一杯になりながらも、チェリルは自分の思ったことを言葉としてレッカにぶつけてゆく。その懸命な姿に何か感じるものがあったのか、レッカは静かにチェリルに視線を合わせたまま口を開く。
「理由を言ってみろ」
「あの、あの、その、えっと……ひっ」
「ほら、チェリル落ち着け。深呼吸、深呼吸」
ラルフがそっと背中をさすってやると、過呼吸気味になっていたチェリルの呼吸が落ち着く。
何度か深呼吸をしたチェリルは、たどたどしく言葉を形にしてゆく。
「ボク、その、エア・クリアの、こと、曖昧にしか覚えていないん、ですけど……何度か、エクセナさんの声を聞いたんです」
「…………ふむ」
「エクセナさん、ずっと、その、ボクのこと、心配してくれてて……すっごく、すっごく、ボクのこと大切に思ってくれてるって、伝わってきたんです」
ラルフは内心でその言葉に頷く。
アルティアの背中に乗った後、彼女がチェリルに体の主導権を返す際、『チェリルを任せる』と言われたことはしっかりと覚えている。
「ぼ、ボクは孤児なんで……だ、だから、家族ってどういうのか、知りません。で、でも……でも、もしも、お母さんがいたら……それは、エクセナさん、みたいな、人、なのかなって」
初めて聞くチェリルの生い立ちにラルフは目を丸くした。まさか、チェリルもミリアと同じく両親の分からない孤児だったとは。
驚くラルフに一瞬だけ視線を向けたチェリルは、再びレッカに視線を戻す。
「だからボク……知りたいんです。エクセナさんと、ボクの、関係……」
「もしかしたら、エクセナは自分の母かもしれんと……そう言いたいのか、チビスケ?」
レッカの返答にエクセナは小さく頷く。
うーむ、と考え込みレッカはエミリーの方を振り向く。
「エミリー、お前はエクセナが男に孕まされたって話は聞いてぶっッ!?」
「学生を前にして言い方ってものを考えなさい」
レッカを殴ったスリッパから煙が出ている……一体どんな威力でぶん殴ればそうなるのか。
悶えるレッカの隣で、エミリーはスリッパを前後に振りながら、考え込む。
「エクセナは恋愛に対して全くと言って良いほど興味を抱いていませんでしたからね……誰かとお付き合いしたって話も、妊娠したって話も聞いたことありませんし」
うーん、うーんと考え込んでいるエミリーから視線を逸らし、ラルフはコッソリとチェリルに話しかける。
「なぁ、チェリル。お母さんとお父さんの記憶とかって、少しもないのか?」
「うん、ないの……」
少し寂しそうに答えるチェリルに対し、ラルフは困ったように後頭部を掻く。
なんだか、まだ儚げだった昔のミリアを相手にしているようで、何とも調子が狂う……まあ、こんなこと言ったら今のミリアが激怒するだろうが。
髪を逆立てて無表情になったミリアを想像して一人で勝手に怯えていたラルフだったが……ふいに、服の裾を引かれる感触を覚えて視線を下げる。
そこには、不安そうな……そして、どこか縋るような瞳をしたチェリルが、ラルフを見上げていた。それはまるで、幼子が父親に無償の愛情を求めるかのようで。
「ラルフは……ラルフも、エクセナさんと関わるの、止めた方がいいと思う?」
「…………正直言えば、レッカ王の言うことは正しいと思う」
そう前置きした上で、ラルフは少しだけ屈んでチェリルと目線を合わせる。
「でも、チェリルはエクセナさんのこと知りたいんだろ?」
「うん……」
「どうしても?」
「うん……」
腰に手を当て、ラルフは小さく吐息をつき……そして、チェリルを安心させるために笑う。
「分かった。こうなったら最後まで付き合うよ」
「……良いの?」
「もうここまで頭を突っ込んだしね。それに、エクセナさんからもチェリルをよろしくって頼まれてるし……ま、なるようになれ、だ。でも、自分から危険なことには首を突っ込まないこと。それだけは約束してくれ」
「ラルフにだけは言われたくないけど」
「う゛……」
自覚があるだけに何とも言い返せない。返答に困るラルフの前で、チェリルは花が咲くように笑うと、小さな両手でラルフの手をギュッと握ってきた。
「ありがと、ラルフ」
「あいよ」
もしも、小さな娘が出来たらこんな感じなのかなーと、変に年寄り臭い感慨を抱きながら、ラルフはレッカの方に向き直る。そこには、呆れた様子でやり取りを聞いていたレッカの姿。
レッカは諦めたように大きくため息をつくと、面倒そうに手を振った。
「ま、お前らがそれでいいなら勝手にしな。だが、何か異変を感じたり、危険だと思ったら、すぐにエミリーに相談しろ。コイツならそんじょそこらの相手には負けん」
「はい。分かりました」
ラルフがそう答えると、レッカは深く頷いて立ち上がった。
「さて、それじゃ俺様は軽く学院を見学して帰るとしよう。俺様は超多忙だからな。あぁ、そうだ、坊主。今日、ゴルドがビースティス寮の一室に泊まることになってるはずだ。明日の早朝にでも訪ね、今回のことを踏まえて、アイツからもエクセナのことを聞いてみろ」
「親父が寮に……? わ、分かりました」
「え、ゴルド先輩、こっちに来るんですか?」
ラルフと同時にエミリーまでその情報に反応する。
二人に頷き返したレッカは、エミリーの方へと顔を向ける。
「あぁ。エミリー、今晩少し付き合え。面白いものが見れるぞ」
「?」
「さて、凱覇王レッカ様のお帰りだ。おら、坊主、チビスケ、見送りぐらいしろ」
「は、はい! ほら、行くぞチェリル!」
「う、うん!」
颯爽と出てゆくレッカの背中を、ラルフとチェリルが慌てて追い駆ける。その背後で、エミリーが少し寂しそうな瞳でラルフとチェリルの背中を見ていたのだが……二人はそのことに気が付かなかった。