幕間 このままならない世界で
クレア・ソルヴィムから事情を聴きながら、ミリアは顔が強張るのを感じていた。
毎度毎度、厄介ごとに巻き込まれる兄ではあるが、今回の件は度を越している。今回敵に回っている相手は実質、シルフェリスのトップともいえる男――鉄血の鉄面皮と呼ばれるザイナリア・ソルヴィムなのだ。ミリアもその名は聞いたことがある……何より、その男によって人生を狂わされた者がすぐ隣にいるのだ。
「また……なの……」
だからこそ彼女が――ティア・フローレスが、今回のことを聞いて黙っているとは思えなかった。
「また、貴方達は私の居場所を奪うつもりなの……?」
「落ち着いて下さい、ティアさん」
「落ち着けるわけないじゃない!!」
勢いよく振り返ったティアの瞳は、今にも溢れそうなほどに涙を湛えていた。そして同時に……憎悪が、憤怒が、彼女の瞳を濁らせている。
明朗快活な彼女には不釣り合いな感情を宿し、まるで、無抵抗な相手にナイフを突き立てるように、ティアはクレアへと視線を突きつける。
「お父様を冤罪に陥れ、私とお母様に重罪人の汚名を着せてエア・クリアから追い立てて……そして今度は、この学院でようやく私を受け入れてくれた人達を、私から取り上げるの!? 貴女達親子は――ッ!!」
「ち、違います! 私は、決してラルフさん達に危害を加えようなどとは――」
「それなら返してよ! 今すぐに、ラルフとチェリルを返してよッ!!」
「それは……」
できないのだろう。苦渋の表情を浮かべながら、クレアは俯く。
そんなクレアの態度に更に苛立ちが募ったのだろう。ティアは足取り荒く、クレアに詰め寄ろうとしたが……そうするよりも前に、ミリアが進路に立ち塞がった。
「どいてよ、ミリア」
「どけません。少なくとも、その握りしめた拳を解くまでは」
「何でかばうのよ!! そんな奴、かばう価値も――」
「いいから落ち着きなさい、ティア・フローレス」
苛烈な眼光を宿したミリアを前にして、一瞬たじろいだティアだったが……彼女の燃え盛る憎悪を鎮火するには至らない。
――本当に、負の感情が似合わない子ですね、ティアさんは。
最近は、ラルフを巡って頻繁にぶつかり合うティアとミリアだが……それは、一種のじゃれ合いのようなものだ。弾けるような笑顔を浮かべるティアをよく知っているミリアだからこそ、今のティアを直視するのは少々キツイ。
「ティアさん、貴女の事情を鑑みれば、確かにクレア先輩を憎むのもしょうがないとは思います。私はそれを否定しようとは思わない。ただ、今はクレア先輩にあたるよりも先に、やるべきことがあるはずです」
「……そう、ね」
何かを言わんとして口を開いたティアだったが、思い直したかのようにグッと口を閉じた。
今、こうしてクレアに八つ当たりをしている間にも、刻一刻と状況は最悪の方へと向かっているのだ……ならば、個人の感情を殺してでも、ラルフとチェリルの居場所を探る方が先決だ。
理知的な判断を下してくれた親友に感謝しつつ、ミリアは振り返る。
「クレア先輩、兄さんとチェリルはもう転送陣を使ってエア・クリアに送られてしまったんですよね?」
「ええ。私がちょうどシルフェリス大使館を訪れた時には、既に転送が完了していました」
その言葉を聞いてミリアは考え込む。
正直、既に手遅れと言って良い事態だ。ベストはラルフ達がシルフェリス大使館へ連れて行かれる前に、その身柄を奪取することだったのだが……いまさら言っても仕方あるまい。
「ねぇ、ミリア。私達だけで動くよりも、先にエミリー先生に相談しに行った方がいいんじゃない? これ、ちょっと事態が大きすぎると思う」
「……そうですね。下手をすると、兄さんの知り合いという名目で、私達まで共犯者として拘束されてしまう可能性もありますから。アレット姉さんもそれで……」
今の今まで一言も声を聞いていない姉へと、意識を向けたミリアは、当の本人の姿がないことに気が付いた。
「アレット姉さんはどこに?」
「あ、本当。クロフォード先輩、どこに行ったのかしら?」
周囲を見回しているティアに倣い、ミリアもアレットの姿を求めて頭を巡らせ――そして、その姿を運よく発見することができた。
遠くに見えるフェイムダルト神装学院の校舎……その窓枠から窓枠へと跳躍することで、垂直に壁を駆け昇る一つの蒼銀の影。その影は瞬く間に屋上へと駆け上ると、その向こう側に消えていってしまった。
その方角は、シルフェリス大使館のある方角だ。
――本気ですか、姉さん……。
この短時間で歓楽街アルカディアから校舎までの距離を踏破したという事はつまり……クレアと鉢合って最初の一言を聞いた時に、アレットは即座に神装を発現してシルフェリス大使館へと駆け出していたのだろう。ミリアとティアがまごついている間に、アレットは即決で行動に移していたのである。
ミリアやティアとは異なり『クロフォード』という後ろ盾を持っている以上、アレットならば姿を見せた瞬間に拘束されるという事にはならないだろう。
だが……それでも短慮と言わざるを得ない。
そこにラルフとチェリルがいるならば話は別だが、彼らは既に浮遊大陸エア・クリアに移送されてしまっているのだ。どれほど急いだところで、有益な結果は得られないだろう。
終始ボーっとしているように見えるアレットだが、頭の回転はすこぶる速い。この程度のことは、考えればすぐに理解しそうなものだが……。
「本当に、どこに行ったんだろう、クロフォード先輩」
「……アレット姉さんの心配はいらないようです。とにかく、私達はエミリー先生の所に向かいましょう。クレア先輩はどうしますか?」
ミリアの言葉に、クレアは小さく頭を振る。
「私はシルフェリス大使館へ戻ります。五種族代表者会議が終わり、すでに父が大使館へ帰っていると思いますので……私は私なりに、父と向き合ってみます」
「…………いこ、ミリア。早くしないと」
クレアの言葉に、ティアは背中を向けることで応える。
非友好的なティアを見るクレアの瞳は何か言いたげに揺れていたが……まるで、それを打ち消すかのように、クレアは小さく頭を振った。
「それでは、失礼します」
意気消沈した様子で去ってゆくクレアの背中を、ミリアは言葉もなく見送る。
――あの人は本当にごく普通の人なんでしょうね。ただ、周囲がそれを許さないだけで。
クレア・ソルヴィムという女性は、ごく普通のどこにでもいるような善人だ。
だが、彼女の持つ神装が、彼女が生まれながらに持つ家名が、そして、周囲の目が……彼女が普通であることを許さない。
内心で同情をしながら、ミリアはティアの背中へ――漆黒の片翼へ視線を向ける。
「世は常にままならず。難しいものですね」
理不尽に満ち溢れたこの世界で、誰もが平穏を望んでいる。けれど同時に、平穏を許さないのもまた……人なのだ。互いに首を絞めあうように、人は人を縛り付けずにはいられない。
「だから、創生獣は人を滅ぼそうとしたのかもしれませんね」
ポツリとそう呟き、ミリアは歩き出す。
このままならない世界で、大切な人を取り返すために。