追憶1 / 歓楽街アルカディア
逃げて。
頭の上から被せられそうになる麻袋を必死に払いのけながら叫ぶ。
今までで一番大きな声で、必死に、涙を流しながら、逃げてと叫ぶ。
黙れと、お腹を殴られる。
痛みで意識が飛びそうになり、涙がさらに溢れてくる。
それでも……まだマシ。
目の前で、赤毛の男の子が複数人の男に集団で暴行を受けている。
まるで、モノを扱うみたいに。
殴って。
蹴って。
掴んで。
投げて。
叩き付けて。
引きずって。
大人と子供の間に大きな力の差があるなんて分かってるのに。
そんなことしたら、取り返しがつかないほどの大怪我を負ってしまうのに。
男達は暴力を振るうのを止めない。
だから叫ぶ。それしかできないから。
逃げて……と。
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上級生交流戦の翌日。
制服に身を包んだラルフとミリアは、寮を出てビースティス寮前のトラム乗り場に立っていた。
今日は休日……アレットが歓楽街まで家具や日用品を連れて行ってくれるということで、こうして外に出てきたのである。
ちなみに、今日はラルフの頭の上にアルティアはいない。
昨日、料理酒を浴びるように飲んで二日酔いで、ベッドにダウンしているのだ。
『う……ううぅぅ……うわぉぁぁぁぁ……』と不気味なうめき声を上げて、左右に転がっていたが問題はないだろう。
酒癖の悪い鳥である。
「なあ、ミリア。今日の買い物って全部アレット姉ちゃんの奢りなんだろ? いいのかなぁ」
「それは私も心苦しいですが……まあ、お金はたくさん持っているそうなので、ここは遠慮せずに甘えてしまいましょう。私達が貧窮していることには変わりませんから」
確かに、ラルフとミリアは他人のことをどうこう言ってられる程、懐に余裕がない。
ここは年長者を頼って素直に奢られておく方が良いだろう。
「しかし、家具って何買うのさ。据え置きの家具で十分事足りるだろ? お金がないのにもの増やす余裕なんてあるのかよ?」
「教材や図書館から大量に借りてきた本を置く棚が欲しいんです。ここの図書館、たくさん本が借りられるみたいなんで、色々置いておきたくて」
「ほーん。よくそんなに本ばっかり読んでられるな」
「兄さんはその活字への拒否反応をどうにかしてください。近々基礎実力テストも迫ってるんですから」
「うげ……」
ラルフとミリアが他愛のない会話をしているちょうどその時、背後から足音が聞こえてきた。
恐らくアレットだろうと振り向いたラルフは、思わず目を丸くした。
「……おはよう、ラルフ、ミリア」
「アレット姉ちゃん……それ……」
「アレット姉さん……その服はどうなんですか」
ラルフの隣でミリアが額に手を当てて頭痛を堪えるように、頭を振っている。
それもそのはず。アレットが着こんでいたのは、この学院の購買部で最も売れていないと評判の運動着である。
一切飾りっ気のないだぶだぶの長ズボンに、だぶだぶの上着。
おまけに色は目に優しくない原色の緑一色ときている。
『使っても部屋着。これで人前に出るなら腹を切る』とまで学生諸君に言わしめた一品だ。
それを白昼堂々と……おまけに、ワンサイズ上の更にダボダボなものを着ているのだから、ミリアが頭を抱えるのも無理はない。
しかし、来ている本人が凄まじい美人だからか……全く化粧していない上に着る物最悪でも、まだ形になっているのが恐ろしい。
もしも、これを着ているのがラルフだったら、ミリアと顔を合わせた瞬間、さっさと着替えてこいと尻を蹴られている可能性が高い。
「アレット姉さん……もうちょっとマシな服装はなかったんですか……」
「……これ、私の普段着だけど?」
「相変わらずと言うべきかなんというべきか……それだけの美貌が台無しじゃないですか」
えへへ、とアレットは嬉しそうに笑っている。
アレット・クロフォードという女性は自身の美貌に関して驚くほど無頓着な所がある。
別にものぐさという訳ではないし、身は綺麗にしているのだが、どうも、第三者の視線……というか、異性の視線というものに対してとんと興味がないと言うべきか。
綺麗に見られるよりも、動きやすい、着やすい服装を選んでこうなってしまうという訳である。
浮いた話の一つもないので、今の彼女は恋愛に全く興味を持っていないのだろう。
「……それじゃ、ラルフ、ミリア、行こっか」
「できれば着替えてきて欲しいところではありますが……はぁ、しょうがありません。兄さん行きますよ」
「お、おう!」
女性二人の会話に置いてけぼりになっていたラルフは、慌てて二人に続いてトラムに乗り込んだ。
目指すは中央トラム乗り場から南西に位置する歓楽街――通称アルカディア。
簡単な売店は各種族の寮にも併設されているし、学院にも購買部があるが、変わったものを食べたり、娯楽に関係する物を手に入れるにはここに来るしかない。
このアルカディアが完成したのはほんの数年前だ。
なんでも、あまりの娯楽の少なさに学生から不満が殺到したらしく、結果、こうして歓楽街アルカディアが造られたのである。
日用品の他にも各種族の土地特有の料理が味わえたり、装飾品や家具なんかも売っていたりするためか、日々倹約して過ごし、休日はこのアルカディアでパッとお金を使う学生も多いんだとか。
ラルフにとって、そんな歓楽街アルカディアを訪れるのは今回が初めてだった。
「おぉぉ……」
アルカディアと書かれたゲートの下を通れば、ずらりと並んで店、店、店。
飲食店街から出てくる食欲をそそる香りが空気に混じって流れてくる。
その他にも、女性に受けそうな煌びやかな装飾品が店頭に飾ってあったり、物珍しい食材を並べている店もある。
足元は研磨された綺麗な石畳で舗装してあり、造られて間もないこともあるのだろうが、真新しさや清潔感を感じる。
街の中央には噴水が据えられており、その周囲には色とりどりの花々がそよ風に柔らかく揺られている。
手を繋いだ男女の姿がちらほら見られるところからして、デートスポットなのだろう。
本当に、見て回るだけでも楽しめそうな場所なのだが――
「さて、アレット姉さん、兄さん、買う物と店の場所はあらかじめ調べておきましたから、とりあえず行きましょう」
質実剛健とでもいえば良いのか……女学生たちが集まってきゃーきゃー言っている装飾品売り場や、甘くておいしそうなスイーツが置いてある店を一瞥もすることなく、ミリアはズンズンと奥に向かって歩いて行ってしまう。
ラルフとアレットは互いに顔を見合わせ、急いでミリアの後を追いかける。
「なあ、ミリア。こう、もうちょっとアクセサリーを見たりとかしても良いんだぞ? 時間はたくさんあるんだし」
「……うん、ミリアも女の子なんだから。興味ないの?」
アレットとラルフが左右から窺うように聞くと、ミリアは半眼でラルフの方を向く。
「兄さん、私達にはお金が無いって話はしましたよね?」
「お、おう」
「なら、あんなチャラチャラしたアクセサリーを買う余裕なんてないのも理解してますよね。あのアクセサリー……他の種族の子達は普通に買っていますが、ヒューマニスの私達が買おうと思ったら数か月は働かないといけないぐらい高いんですよ」
「そうなんだけどさ……ほら、ういんどーしょっぴんぐ、だったっけ? 見るだけでも楽しいっていうじゃないか」
「手に入らないのに指をくわえてみることの何が楽しいんですか。空腹の時に、これ見よがしに目の前で焼肉をされるようなものです」
全くと言っていいほどに取りつく島がない。
割と意固地な所があるミリアのことだ。
こうと決めたら梃でも動かないだろう。
だが、それでもミリアも年頃の娘である……確かに現実問題、無駄遣いをすることはできないだろうがオシャレに興味がないということもあるまい。
そんな二人のやり取りを尻目に、アクセサリーショップの店頭でゴソゴソと商品を物色していたアレットが、不意に身を起こしてミリアの方へと近づいてくる。
「……ん、これ、ミリアの白い髪に似合う」
そう言いながらアレットがミリアの頭に沿えたのは髪飾りだ。
色はミリアの瞳と同じ赤。
花を象ったその髪飾りは、確かにミリアの白髪に映えた。
まるで、まっさらな綺麗なキャンバスに描かれたようで……自然と目が惹きつけられる。
ただ、肝心のミリアは渋い表情をしたままだ。
「アレット姉さん……これ、私達じゃ買えませんよ」
「……ん、入学祝でお姉ちゃんがプレゼントしてあげる」
「いけません。ただでさえ、今日は色々と買ってもらうつもりなんです。無駄遣いしている余裕なんてないんです」
それに……と、ミリアは俯いてポツリとつぶやく。
「私みたいな可愛げのない女がこんなの着けても似合いません……」
「そっか? ミリアは十分に可愛いと思うぞ?」
ミリアの一人言を耳ざとく聞きつけたラルフが、間髪入れずに切り返す。
確かにティアやアレットのように、すれ違ったら思わず振り返ってしまいそうな、他人に強く訴えかける美しさはないが……それでも、ミリアの顔立ちは十分に整っている。
ふとした拍子に気が付く素朴な可憐さとでもいえば良いのか。
そのことをラルフは十分に知っている。だからこそ、考える前にポンと言葉が出てきた。
「…………はいはい、兄さんもそう言うのはいいですから」
「そんな照れるなって、ミリア」
「照れてませんっ」
もともと色素の薄い少女だ。
頬が薄く朱色に染まっているのを見つけるのは簡単だった。
ニヤニヤと笑いながらラルフが顔を覗き込むと、剃刀のような視線を向けてくる。
「ともかく、この髪飾りを選んでくれたアレット姉さんには申し訳ないですが、遠慮しておきます」
「ふーむ、ならさ、ミリア。俺が今後、一生懸命バイトをしてお金を貯めたら、その時は髪飾りをプレゼントするよ。それならいいだろ?」
「どうしてそんなに、髪飾りにこだわるんですか……」
ぶすっと不貞腐れた様子で言うミリアに近づき、ラルフはその頭にポンッと手を乗せた。
「兄ちゃんはミリアが可愛い女の子だって知ってるし、オシャレに興味あるのも知ってるからな」
「何を言ってるんだか」
頭を撫でる手を跳ね除け、ミリアは足早に奥の家具屋に向けて歩いてゆく。
その背中を見ながらラルフは思わず苦笑する。
最初にアクセサリーの話をした時、ミリアはすぐにアクセサリーの値段について言及していた。
つまり、ミリアは視線の端でアクセサリーの値段をチェックしていたということになるのだが……本人は気付いているのだろうか。
素直ではない妹の背中を見ていると、ラルフの頭にポンポンと手が乗った。
「……ラルフ、お兄ちゃんやってるんだね。えらい、えらい」
「アレット姉ちゃんは滅茶苦茶俺のこと弟扱いだよね」
「……ラルフは可愛い弟君」
「さいですか……」
同年代のミリアを妹扱いしているラルフが言える立場にはないが、アレットとラルフの年齢は一つしか離れていない。
ラルフとしては、もうちょっと同じ目線で話して欲しいのだが……満面の笑みでラルフの頭を撫でるアレットの顔を見ていると、何も言えなくなってしまう。
「ねえ、アレット姉ちゃん」
「……ん、何?」
「アレット姉ちゃんこそアクセサリーとか興味ないの。姉ちゃんぐらい美人だったら恋人とかいそうなもんだけど」
ラルフの言葉を聞いたアレットは考え込むように空を見上げると、うっすらと微笑んだ。
「……今は、あんまり興味ないかな」
ただ、その微笑みは何故だかラルフの目には悲しげに映って――
「アレット姉ちゃん、どうし――」
「兄さん! アレット姉さん! 早く来てください!」
「……ラルフ、ミリアが呼んでるよ」
「あ、うん」
ラルフの両肩を軽く叩いて、アレットはミリアの後を追いかけてゆく。その時点になって、ようやくはぐらかされたことに気が付いたラルフだったが……。
――まあ、いいか。
アレットにも事情があるのだろう。それを根掘り葉掘り聞かれるのは苦痛に違いない。ラルフは小さく嘆息すると、早足でミリアとアレットを追いかけることにした。