第3話
「おはようございます、ローズさーん」
ドアを開け、そっと店の中を窺う。
ここはローズさんが管理している紅茶店。店といっても販売をしている訳ではなく、お城からの色んな要望に応じてローズさんが茶葉を渡したり紅茶をブレンドしたりしてくれる。ローズさんが選ぶ茶葉は世界中から選び抜いた一級品ばっかりで、あまり紅茶に詳しくないあたしでも初めて飲んだ時は美味しくて顔が緩んだぐらいだ。
「あぁ~ら、ルリちゃんじゃないのぉ。どうしたの、アーサーちゃんのお使い?」
カウンターの奥からローズさんが顔を出した。カールしたブロンドにボン・キュッ・ボンの完璧なボディ。どこからどう見ても男性にモテそうなローズさんなんだけど…
「あぁん、今日も可愛いわねぇルリちゃん。ねぇねぇ、陛下の恋人なんてやめて私のところにいらっしゃいよぉ~」
…ローズさん、なぜか毎回こうしてあたしに迫って来るのだ。
「そ、そればっかりはルシ様に聞いてみないと…っていうか、恋人じゃないですってば」
「あら、だったら今すぐ私のところにいらっしゃいよぉ。うふふ、色々可愛がってあげるわよぉ~?」
ひぃ、ローズさんの目が笑ってない!
じり、と思わず後ずさったあたしを見てローズさんは妖艶な笑みを浮かべる。
「ルリちゃんは初心だから愛し甲斐がありそうねぇ。お姉さんが気持ち良くしてあげるわよ?」
うわあぁぁ、濃い!薔薇の香りがめちゃくちゃ濃くなってますローズさん!噎せそうです!
「あ、あたし、ローズさんとは仲の良いお友達になりたいですけど、恋人としては見れないです…」
一生懸命伝えると、大袈裟に溜め息をつかれてしまう。
「んもう、ルリちゃんは陛下の魔力のせいでいつまで経っても籠絡出来そうにないわねぇ。…ま、そんなところも攻め甲斐があるんだけど」
うぐ、諦めてなかった。
「ま、今日のところはこの辺にしておきましょうか。私のせいでルリちゃんがアーサーさんに叱られちゃ可哀想だものねぇ」
ローズさんはあたしからメモを受け取り、紅茶缶がずらりと並んだ棚の前に行き、喫茶店用のブレンドを始めてくれた。あたしはそれを見ながらホッとする。いつもこうして迫られるんだけど、ひと度紅茶の前に立つと甘い空気は鳴りを潜め、一気にピリッと真面目な雰囲気になる。あたしは切り替えがスッパリしているローズさんの事が何だかんだで好きなんだけど、物凄く『好き』の意味を取り違えられそうなので本人には黙っておく。
「はぁい、お待たせぇ~。これ、今回の分ね」
一抱えほどもある大きな缶を受け取る。缶の隙間からふわりと立ち上る紅茶の香りに、思わず頬が緩む。
「ありがとうございます。わぁ、良い香り!」
「どういたしましてぇ。ルリちゃんは紅茶好きだものねぇ。今日はどんなケーキを作るの?」
「この茶葉を使って、紅茶のシフォンケーキを作ろうと思います。甘くないホイップクリームも添えようかな?」
あたしは喫茶店で出すケーキ類を作る役目を任されている。軽食を作る人はまた別にいて、アーサーさんは紅茶やコーヒー等の飲み物係なのだ。
「あぁん、美味しそうねぇ~。午後、何も注文が入らなければ食べに行こうかしら」
「はい、ぜひ!紅茶のプロに味の感想を聞きたいです」
「んもぅ、そういう可愛い事ばっかり言ってると、そのうちペロリと食べちゃうわよぉ?」
……えーと、それってケーキの事ですよね?
またしても薔薇の香りが濃くなり始めたところで、あたしは慌ててお礼を言い、回れ右して部屋を出た。
「………あ」
廊下を歩いていると、見慣れた顔がこちらに向かって歩いてきた。
「おはようございます、ルリ」
宰相様が眼鏡を少し上げて笑顔を浮かべる。うーん、相変わらず爽やかだ。仕事中は鬼だそうだが。
「おはようございます、アイム様」
昨日言われた通り、名前で呼ぶ。すると爽やかな笑顔がふわりと緩んだ。その何とも言えない艶やかさに、ドキリと心臓が跳ねる。
「やっと名前で呼んでくれましたね、ルリ。今日は幸せな気分で仕事が出来そうですよ」
「そ、そんな大袈裟な」
「大袈裟ではありませんよ。ようやくルリに名前で呼んで貰えて本当に嬉しいのです。今夜書類を持ってくる物達はラッキーですね。機嫌が良いのでよほどの事がない限り雷は落ちないでしょうし」
自分で言うか宰相様!っていうか自分が怖い自覚、あったのか……
「どうしました、そんな妙な顔付きをして」
「あ、いえ…アイム様、自分が怖いという自覚があったんですね」
「当然です。私は他の高位魔族より年齢が若いのでね。それだけでナメられる要因となります。ではどうやって立場を確立するか。一番手っ取り早いのは、相手に反論の隙も与えないぐらいの正論で完全論破するんですよ。氷点下の空気も滲ませつつ、ね。隙のない相手を前にすると、大抵の人は怖じ気付きますから」
そう説明する宰相様の目はとてつもなく冷ややかで、何だかあたしが怒られてるような気にさえなってくる。……正直怖い。
宰相様はあたしの怯えを素早く察知し、誤魔化すように微笑んだ。
「あぁ、失礼。つい仕事モードになりました。心配しなくても、ルリの前で雷を落としたりはしませんよ。感電すると大変ですからね」
「雷って、お説教の事じゃなかったんですか!?」
「お説教もしますが、それでも改善されなければ雷を落とします。ルリと違って武官や兵士達は頑丈に出来てますから、ちょっとやそっとじゃ死にませんよ」
さらりと言ってのける宰相様。いやいや、雷が直撃したら死にませんか!?
「大丈夫ですよ。今まで死んだ物は誰一人いません。少々身体が痺れる程度に手加減してますからね。…ところでそれは、新しい紅茶葉ですか?」
「あ、はい。今ローズさんにブレンドして貰ったものです」
「そうですか、とても良い香りがしますね。午後の休憩に、ルリごと頂きたいものです」
宰相様、ローズさんより表現がストレートですよ!
「ふふ、冗談はこの辺にしておきましょう。早く保存缶に移さないと、せっかくの香りが抜けてしまいますからね」
それでは、また明け方迎えに行きますよ、と言い残し、ついでにあたしの髪をさらりと撫で、宰相様は意気揚々と執務室へ向かって行った。
後に取り残されたあたしは、少し赤くなってしまった頬を冷ますべく、ひんやりした紅茶缶に頬を押し付けたのであった。
「お、おはようさん」
裏口を入ると、アーサーさんがティーポットを洗っていた。
「おはようございます。これ、頼まれてた紅茶葉です」
缶を手渡すと、アーサーさんは棚から保存缶を取り出し、そこに茶葉を詰め替えた。保存缶はあたしが今持ってた簡易的なものとは違って蓋の周りにゴムで出来たパッキンのようなものが付いていて、中央にはボタンひとつで中を真空に出来る便利な機能が備わっている。この缶が棚にはズラリと並んでいて、それぞれにはラベルが付けられている。当初はラベルの文字が読めずに苦労したけれど、勉強の甲斐あって今では問題なく読めている。話し言葉に不自由しなかったのはまさに不幸中の幸いだった。
「そういや出勤したら厨房に来てくれってヘルガが言ってたぞ。何でも調理器具の事で相談したい事があるんだと」
「ヘルガさんが?分かりました、すぐ行きます」
あたしは手早くエプロンを着けると厨房に急いだ。
「おはようございますヘルガさん!」
「あぁ、おはようルリ。悪いね急かして」
厨房で腰に手を当てて何やら考え事をしていたヘルガさんがくるりとこちらを向いた。
栗色の髪に蜂蜜色の瞳。そして特徴的なのは猫みたいな耳。ヘルガさんは獣人族猫類なのだ。
「いえ、大丈夫です。ところであたしに相談があるって聞いたんですけど…?」
「それなんだけどね。ちょっと新しい調理器具を仕入れて貰えないか二人で店長に交渉しようかと思ってさ」
「新しい調理器具?」
「そ。これだよ」
ヘルガさんが持っていたカタログを広げる。そこにでかでかと描かれていたのは…
「これ、ミキサーですか?」
そう、それはまさしく日本でもお菓子作りによく使っていた電動ミキサーだった。ただし日本のようにコードは次いでおらず、ついでにデザインはやはり魔界、若干おどろおどろしい。本体、紫色だし。
「そ。最新のモデルでさ。使用者の魔力で動く代物なんだよ、これ。今までのは魔力バッテリーを内蔵してたから重いしすぐに切れるしで使えなかったんだけど、これは自分の魔力が尽きない限り動き続けるらしいからね、そうなりゃ作業効率も上がるってもんさ!」
確かに今厨房にあるミキサーは非常に使いにくい。まず動かすのにコツがいるし、仮に動いたとしてもものの数分でバッテリーが尽きてスイッチが切れてしまう。そうなると魔力ポットに突っ込んで、充電ならぬ充力をしなければいけない。なのであたしはこれに頼らずに自力でホイップを作ってたんだけど…ご存知の通り、これって相当重労働。電動ミキサーの便利さを知っているあたしには非常にしんどかったのだ。
「…でもこれ、アーサーさんすんなり買ってくれますかね?」
ちらりとカタログの隅っこを見れば、結構な金額が書かれていた。あたしが1ヶ月働いて何とか買えるぐらい、かな。アーサーさんは無駄を嫌がるし、渋りそうだなぁ…
しかしヘルガさんはちちち、と指を左右に振った。
「違う違う。店長に買わせるんじゃなくて、ほら、もっと上の立場の魔族がいるだろ?あんたの真横に」
「あたしの真横…」
言われて思い当たったのは。
「…もしかして、アイム様とルシ様の事言ってます?」
「当たり前さね!あの二人はあんたの事相当お気に入りなんだし、あんたがお願いすれば何でも買ってくれるんじゃないかい?」
やっぱりそうか!あたしは思わず頭を抱えた。
「ヘルガさん…アイム様やルシ様に頼むって事は国のお金を使うって事なんですよ?あたし、さすがにそこまで大それたお願いをするのは気が引けます…」
まぁあの二人ならポケットマネーで買っちゃいそうだけど、それはあえて黙っておく。
「やっぱりそうかねぇ。アタシも言っておきながらさすがに悪いかと思ってたんだよ。やっぱ店長に頼むべきだね」
ヘルガさんはすんなり下がってくれた。良かった…
「でもこれ、あたしも欲しいです。ケーキ作りがはかどりそう!」
「そうだろ?ルリが使わない時はアタシが使うからさ、絶対作業効率も上がるし、ますます質の良い料理が作れると思うのさ」
「そうですね、あたしもそう思います!」
結局あたしとヘルガさんが結託して、アーサーさんに直談判しよう、という結論になった。
「はぁ?ミキサーだと?」
カタログを持ってアーサーさんの所に向かうと、物凄く眉間に皺を寄せて睨み付けられた。
「は、はい…」
その眼光に萎縮してしまい、ついヘルガさんの後ろに隠れる。
「店長、その顔でルリを睨むんじゃないよ。この子を怯えさせて良い事なんざ何もないよ」
「うるせぇ。こういう顔なんだよ。…で?カタログ見せてみろ」
ヘルガさんからひったくるようにカタログを奪ったアーサーさんは、ちらりとそれに目を落とし…
「却下」
一言の下に切って捨てたのでした。
『えーーっ!?』
同時に抗議の叫びを上げるあたし達に、
「こんな高いもん買えるか!今あるミキサーで何が不満なんだよ」
「不満だらけだからこうやって直談判に来てるんじゃないのさ!」
ヘルガさんが机をバンッと叩く。
「これがありゃアタシもルリも作業効率が格段に上がるんだよ!そしたら今まで以上にクオリティの高い料理が作れるってもんさね!そんなのも分かんないのかい、この石頭!」
う、うわぁ、ヘルガさん、相手は店長なのに容赦ない…
でもそんな彼女の叫びをスルーし、アーサーさんはあたしの方を向く。…う、やな予感。
「ルリ、そんなにこれが欲しいのか?」
あたしはこくりと頷く。
「よーし分かった。だったらルリ、お前宰相閣下の許可を取って来い」
「え、えぇぇぇっ!?」
なんでアイム様の許可がいるの!?
「新しい設備を導入するなら、どのみち許可が必要だ。一応魔王城内だからな、ここは。閣下の許可が出たら前向きに検討してやるよ」
「ほ、ほんとですか!?」
あたしはヘルガさんと目配せする。「やるしかないよ」という視線に、目だけで頷く。
「分かりました、じゃあ許可取ってきます」
回れ右をしかけたあたしに、アーサーさんの鋭い声が飛ぶ。
「誰が今行けって言った!今は開店準備の時間だ、仕事が終わってからにしろ!どうせ迎えに来るだろうが」
一喝されてしまった。それもそうか。
こうしてヘルガさんとあたしは再び厨房に戻り、それぞれの準備に取り掛かったのだった。