第2話
「……ん……」
目覚まし時計のアラームが鳴り、意識が浮上する。あたしはうっすら目を開けて時計のある場所をまさぐり、べしっとアラームを止めた。
そのままうつ伏せで再び夢の世界へ入り込もうとして……
「おいこら、安らかに二度寝するな」
「!?」
頭の上から低い声が降ってきて、一気に覚醒する。
「る、ルシ様!なんでここに!?」
見上げた先には、どーんと仁王立ちする魔王ルシファー様。漆黒の長い髪に赤と紫の瞳。背中に真っ黒い小さな羽根があるけれど、これは怒ると巨大化するそうだ。まだ見た事ないけれど。
それにしても、人形みたいに整った顔立ちでこうやって見下ろされると、今から生け贄にでもされるんじゃないかと思う程威圧感がある。
それなのに…
「ん?ルリの顔が見たくてな。ノックはしたんだが、反応がなかったから入らせて貰った」
「……それ、立派な侵入者ですよ…」
「そうか?俺とルリの仲だろう。俺はルリを愛している。隠す事など何もないはずだが?」
「そういう事じゃなくてですね…」
はぁぁぁ、と深い溜め息を吐く。
この魔王様、ご覧の通りあたしの事を非常に溺愛している。それはもう、むず痒くなるぐらい。
まぁあたしはルシ様の眷属であって、それは日本でいう家族みたいなもんなんだとぼんやり思っていたんだけど、どうやらこの人、あたしの事を『家族として』愛してるんじゃなくて『恋人として』愛しているらしい。今まで真相を聞いていなかったのに、ついに先日キッパリ言い切られてしまった。『お前をいつか俺の嫁にする』と。その時のあたしの反応は…思い出したくないです。近くにいた骸骨兵士さんの歯が凄い勢いでカタカタ揺れてた、とだけ言っておきます。
「まぁ良い。それよりルリ、食事の準備が出来てるぞ」
「えっ、もうそんな時間!?」
がばっと身を起こして時計を見ると、起きる予定の時間よりかなり遅れている。
「えっ?あたし今目覚まし止めたよね?」
「ルリが時計を止めてから結構経つと思うぞ」
嘘でしょ!?二度寝する寸前にルシ様が起こしてくれたと思ってたのに!
「俺が来た時、ルリは時計に手をかざしたまま熟睡してたぞ。何しても起きなかったからよほど深く眠ってるんだなと思って」
何してもって……いったい何をやられたのか気になるけど、あえて聞かないでおこう。
「心配するな、口付けはしていない。唇には、な」
「…………」
どうやら『あたしに何をした』って顔に出てたらしい。
「口付けは、完全に想いが通じ合うまで出来ないからな。だから早く俺を愛せ、ルリ」
そんな色気たっぷりに言われましても。寝起きの頭には刺激が強すぎますよ魔王様。
「……とりあえず、着替えて来ます」
のそのそとベッドから這い出て脱衣室に向かう。クローゼットを開けて適当に服を物色し、シンプルな緋色のワンピースを選んで素早く着替える。
ちなみに今住んでる所は魔王城の最上階。ここの居住エリアにはあたしと魔王様、それに宰相様の3部屋しかない。したがって1部屋が物凄く広い。もちろん一番広い部屋は魔王様で、次いで宰相様、そしてあたしの順になるんだけど、それでも笑っちゃうぐらい広い。
玄関を入って正面に有り得ないぐらい広い広いリビングがあり、左にはあたしが10人ぐらい入れそうな浴室、右側には今までいた寝室がある。ベッドはキングサイズを2つくっ付けたような規格外の大きさ。そしてそれが易々と入る部屋の広さは言わずもがな。
日本だと上流層のセレブしか住めないような部屋に、あたしは住まわせて貰っている。……これでも『小さな部屋』だって宰相様に言われた時は涙目になるぐらい尻込みしたけど。
もちろん家具から服から生活に必要なものは全て魔王様が用意してくれたし、宰相様に必要な物を伝えれば即座に侍女さんが届けてくれる。
至れり尽くせりの豪華な暮らしなんだけど、そもそもが貧乏学生で、アルバイトを掛け持ちするような生活が普通になってたもんだから分不相応過ぎて仕方ない。
だから『何もしなくて良い』と言ってくれた二人に断って、喫茶店でアルバイトさせて貰っている訳なのだ。
「お待たせしました、ルシ様」
「今日の服装もよく似合っているな。だが本当に装飾品の類いは必要ないのか?」
魔王様は何かとあたしに宝石やドレスをプレゼントしたがる。以前手のひら程もあるダイヤモンドらしき宝石をほいっと手渡された時は衝撃的過ぎて対応に困った。結局丁重にお断りして、ついでに宝石やドレスはあたしには必要ありませんって釘を刺す事となってしまった。…もちろん、不服そうではあったけど。
「あたしには釣り合いませんよ、豪華な宝石は。それに働く時にあんなキラキラした物着けてたら浮いちゃいます。だから気持ちだけ有り難く頂戴しますね」
「まぁ、ルリは宝石で誤魔化さずとも可愛い。何も着けない方がかえって良いのかもしれないな。…あぁ、でもピアスだけは着けておいてくれよ?」
廊下を歩きながら、さらり、とあたしの髪ごとピアスに触れる。
ここで暮らす事になった時、魔王様に貰った物だ。バラを象った深紅の宝石の下に雫形をした透明なクリスタルがゆらゆら揺れている、とっても可愛いデザインのピアス。
でもこれ、どうやら魔王様の魔力が込められているらしく、部屋にいる時以外は決して外してはいけないときつく言われている。何でもあたしが何処にいるか、危険な目に遇っていないかがピアスを介して分かるようになっているらしい。…いわば発信器のようなものだ。
まぁ探られて困る事はないし、危険から守ってくれるなら文句のあろうはずがない。ついでに言えばデザインがあたしの好みど真ん中だったのでちゃんと肌身離さず着けている。
「このピアスは、ルリが俺の物だという証でもある。変な虫が付かないようにしておかないとな」
危うく階段を踏み外しかけて慌てて手すりに掴まる。……聞かなきゃ良かった。
「そ、そんな事初めて聞きましたよ…」
「そうか?まぁ言わずとも周囲には認知されてるだろうがな」
え、なんで?
「……ルリは疎いな。俺とお前が同じピアスをしていれば、自ずと結論は推測出来るだろう?」
「え」
ばさっと無造作に髪を掻き上げた魔王様。そのエルフのように長い耳の先には、あたしと全く同じピアスがキラリと煌めいていた。
「ぜ、全然気付かなかった……」
「髪を下ろしていても見えているはずなんだが。…まぁ、無理もないか。ルリの身長では」
うわ、微妙に馬鹿にされた。そりゃ魔王様の身長はあたしの1・5倍(比喩ではなく)ぐらいあるんだから見えないのは当然よね?
「ルリは成人しているというのに本当に小さいな。まぁ、そういうところも全て含めて愛しているが」
「ここの人達が大きすぎるんですよ…今のところ目線を合わせて話せるのって、侍女のクラリスさんぐらいなんですよね…」
「…クラリスはゴーストだからな。目線を合わせるぐらい造作もないだろうが」
そう。この世界の住人は皆一様に背が高い。平均2メートル、種族によっては首が痛くなるぐらい見上げても目がどこにあるか分からない事もある。巨人族の兵士さんからは『あんまり足元ちょろちょろされるとマジで踏みそうになる』って若者口調で言われてしまった。
「これでも俺は身長を縮めてるんだがな。本来の姿に戻ったら、きっとどう頑張ってもルリとは目線が合わなくなる」
「ルシ様の本来って、どれぐらいの身長なんですか?」
「色々解放したら、この城と同じぐらいになるか」
げっ!何その規格外な身長!さすが魔王様…というべきなんだろうか。
「そうだルリ、アーサーから伝言だ。ローズの所に紅茶を取りに寄ってから出勤してくれ、だそうだ」
ローズさんはお城で使う茶葉を一括管理している女性で、彼女の周りはいつも名前の通り薔薇のような良い香りがする。あたしはその香りが大好きなんだけど、アーサーさんは『嗅いだら眠くなる』とか言っていつもあたしに頼んで来る。
「分かりました。でもアーサーさん、なんでいつも眠くなるんでしょうね?」
「ローズはリリスだからな。あいつより魔力の低い者が迂闊に近付くと強烈な眠気を覚える。アーサーは魔力が低い種族だから、効果はてきめんだな」
「そ、そうだった…」
あたしは世界一魔力が強い魔王様の眷属だから、当然彼の次に魔力が高い……らしい。実感は全くないけど。
だから本来ならちょっかいを出してくる下級魔族なんて蹴散らせるらしいんだけど、残念ながらやり方はまだ教わってない。
「あー、腹減った。ルリ、今日はお前の好きなコメが出るらしいぞ」
「えっ、ほんと!?やったぁ!」
幸いな事に、ここでの食事はほとんど問題ない。食材も日本でよく見かけるようなものがたくさんあるし、調理法もさして変わらない。……まぁ、時々得体の知れない物や蛍光色の何かが出てきたりするんだけど、勇気を出して食べてみれば意外と美味しいものが多くて驚いた。
でもあたしがここに来て一番食べたかったのは、何と言ってもお米!日本人はお米がなくちゃ生きていけない!という訳で魔王様に聞いてみたところ、世界の隅っこにある忘れられたように小さな村でのみ細々と育てられていて、その種を少し分けて貰い、お城の畑で庭師さんに育てて貰っている。
この世界のお米は異様に成長が早くて収穫量も多いらしく、種を貰って半年経った今では貯蔵出来るまでに増えた。ありがたやありがたや。
魔王様はお米を食べた事がなかったらしく、『世の中にはこんなに美味い物があるんだな』と顔を綻ばせていた。いつか当たり前の食材になってくれれば良いなぁ。
そんな事を思いながら食堂に入ると、全身を良い匂いがふわりと包み込み、一気に空腹感が増した。ここでは夕食と深夜食の2食が普通だから、起きた時にはかなりお腹が空いている。
「おはようございます、お二方。すぐに食事をお持ち致しますね」
今日の執事はゴーレムさん。大きくて動きは少し遅いけど、とっても優しくて力持ち。こないだ暇な時に肩車して貰ったけど、すごく世界が広く見えたなぁ。
「お待たせ致しました。コメはまだまだお代わりがありますので、たくさん召し上がれ」
今も二人分の食事を長い腕に乗せていっぺんに持って来てくれた。あたし達はそれぞれの食器を腕から食卓に移す。
今日のメニューはカボチャのスープに7色に光る葉っぱのサラダ、プリっと美味しそうな白身魚のムニエル。そして炊きたての白いツヤツヤごはん!食欲全開!
「いただきまーす!」
こうしていつもと変わらない、とても美味しい夕食を魔王様と二人で食べ始めた。