第1話
「ありがとうございましたー!」
カランカランとドアベルが軽快な音を立て、最後のお客さんが店を出て行った。
「お疲れさん、ルリちゃん」
店長のアーサーさんがにこやかにカウンターから声を掛けてくれる。
「お疲れ様でした、店長。今日も大入りでしたね」
「ルリちゃんが来てからこっち、えらいこと客が増えたなぁ。ま、無理もないわな、こんな可愛い子がオーダー持ってきてくれるんだったら」
からからと笑う店長を軽く睨み、いつもの冗談を飛ばす。
「もう、そんな事ばっか言ってると、聖なる薬ぶっかけますよ?」
「あっはっは、それは勘弁してくれ。まだ昇天したくねぇからな。……っと、ほら、お迎えが来たぞ」
くいっと顎で示された方を振り向くと、ガラス窓越しにこちらへ向かって歩いてくる人影が見えた。
金色の髪をきっちり後ろへ撫で付け、尖った耳には瞳と同色の青い宝石が付いたピアス。フレームの細い眼鏡をかけた人物は、怒ったら手が付けられないと評判の、通称『氷点下の宰相閣下』だ。
「しっかし閣下も熱心だねぇ。毎朝こうしてお迎えに来るなんてよ。ルリちゃんの事目に入れても痛くねぇ程愛してんだろうなぁ、ありゃ」
「そんなんじゃないですってば。あたしはただの人間だから、1人で城内を彷徨いたら危ないって渋々来て下さってるんですよ」
「そんなもんかねぇ。オレにゃ渋々とは全くもって見えねぇけどなぁ」
そんな会話をしているうちに、当の宰相閣下がドアを開けて中へ入ってきた。
「おはようございます、アーサーさん」
「おう、おはようさん。毎朝ご苦労さんなこって」
「なんの。ルリを迎えに来るぐらい、苦労でも何でもありませんよ。そこらの魔物どもに襲われる方がよっぽど苦労します」
「そんな鈍臭くないですよーっだ。子供扱いしないで下さい」
べーっと舌を出せば、呆れたように宰相様が溜め息を吐いた。
「ほら、そういうところが子供なんです。一般的な大人はそんな事しませんよ」
うぐ、言い返せない。
「そ、それは宰相様が子供扱いするからで…」
うにゃうにゃと言い訳を考えてると、店長が仲裁に入ってくれた。
「ほらほら、痴話喧嘩なら帰りの道中でやんな。オレも愛する妻が家で待ってるんだ、ここ閉めるぞー」
『誰が痴話喧嘩ですかっ!』
声をハモらせて抗議するあたし達に構わず、店長は大笑いしながら厨房へと消えていき、残されたあたし達も大人しく帰る事にした。
「そうだルリ。陛下が今日の夕食を一緒に取りたがってますが、どうしますか?」
「ルシ様が?」
あたしは悩んだ。この世界のトップである魔王とそうそう簡単に食事をしても良いものか…
「こないだ断ったでしょう。なのでそれ以来微妙に機嫌が悪いのですよ」
「…だからここ数日、この空模様なんですか」
この世界は魔王の機嫌によって天気が変わる。…いや、それだけじゃなくてどうやら作物の出来にも多少の影響があるらしい。
つまり今現在魔王の機嫌が悪く、したがって現在の空模様は…
「紫色の空に真っ黒い雲、ついでに真っ赤な稲妻…スリーコンボね」
ちなみにここの空は平常時だと薄ピンク。雨はまるで血のようにどす黒い朱色。雲が白いのは変わらないけど、あたしがいた世界とは色々と大違いだ。
…そう、あたしはここの住人じゃない。ついでに言えば、人間でもない。…いや、なくなった、というべきなんだろうか。
あたし、日下部瑠璃は、日本で生まれ育った18歳。無事に志望大学へ合格し、今は女子大生としての生活を謳歌していた。
同世代の友達より多少料理が好きだという以外は取り立てて秀でた才能もなく、ごくごく平凡だけど両親や兄、友達に囲まれて幸せな人生を送っていた…はずなのに。
ある日の下校途中、歩道へ突っ込んできたトラックに撥ねられて命を落とした。最後に見たのはトラックの運転手が携帯の画面を見ている姿と、周りにいた人達の驚きと恐怖に満ちた顔。それからつんざくような衝撃音。
後に知った事だけど、あたしの他にも数人が犠牲になったらしい。
痛みはなかった。ただ悲しかった。
一瞬意識が途切れ、次に目が覚めた時、あたしはとんでもなく浮世離れした顔立ちの人達と対面していた。向こうは普通に立って、あたしは手術室のベッドみたいなものに横たわったままで。
慌てふためくあたしにその人達はこれまでの経緯を大雑把に説明してくれた。
日本では事故で死亡し、葬儀も全て終わった事。火葬場で釜の扉が閉じた瞬間、肉体ごと魂をこちらの世界に引っ張って来て身体を再構築された事。なので厳密に言えばあたしは人間じゃなくて魔物なんだという事。
いっぺんに衝撃という言葉だけでは済まない内容を説明されて涙腺がショートして脳もパンクしそうになったけれど、鏡を見せられてあたしは何とか事態を飲み込んだ。
純血の日本人であるあたしは、もちろん黒髪に黒い瞳だった。それが今では黒髪こそ変わらないけど、瞳は赤と紫っていう、なんとも凄い組み合わせになってしまっている。ちなみにこれはあたしを助けた(と言って良いのか)人と同じ。すなわち…
「無理もないでしょうね。眷属の貴女に拒否されたんですから。そりゃ不機嫌にもなりますよ」
「やっぱりあたしのせいなんですか…」
「ルリ以外の原因を見付けろと言う方が無理ですよ。なので今日は出来れば拒否しないで頂きたい。このままでは作物にも影響が出ますし、何より部下の士気が落ちます」
ズバズバ容赦なく突っ込まれ、心がずきずき痛む。
「だって…ルシ様と一緒に食事してると落ち着かないんだもん」
あたしはもじもじと両手を擦り合わせる。
「人がご飯食べてるのにも構わずにくっ付いて来るし…」
「それが陛下の愛情表現なのでしょう。私が毎日ルリを迎えに行くのと同じと思えば良いではないですか」
精一杯の抗議もあっさり一蹴されてしまう。
「それはまた何か違うような気がします…」
「そうですか?私も陛下と同じくらいルリを愛していますよ?」
けろっとした顔で言われても説得力がないというか…
「宰相様…愛してるって言葉はそう簡単に使うものじゃないですよ…もっと心から一緒に居たいと思えう人に言うもんです」
「おや、私はルリに対してそう思っていますよ?陛下に飽きたらこちらへいらっしゃい。本当は私の力を使って無理やりこちらを向かせても良いんですがね」
「宰相様の力って…魅了ですか?」
「そうですよ、私はインキュバスの血が流れているのでね。魅了や傀儡術はお手の物です。本気を出せば天使も堕落させられますよ」
「そんな恐ろしい事言わないで下さい…」
そう。この世界に連れ去られて以来、ずっとこんな感じなのだ。
魔王ルシファー…長いからルシ様と呼んでるけど、彼は事あるごとにあたしにくっ付いてくる。ルシ様なりの愛情表現だと言われたけれど、限度がある。一緒にいる時は常にゼロ距離だし、ともすれば彼の膝があたしの定位置になりかねない。隙あらば頬やら額やらにキスしてくるし、日本人としてはこういう西洋的なスキンシップは物凄く照れ臭いというか、落ち着かない。
ちなみにルシ様にはベルフェゴール様という弟がいて、彼にはアミー様というお人形みたいに可愛い奥さんがいるんだけど…この二人、見てるのが恥ずかしいほどラブラブなのだ。それこそベルフェゴール様の膝にはいつもアミー様がちょこんと乗っかっているし、事あるごとに口付けを交わしている。こっちとしては非常に居たたまれないんだけど、当の本人達はお構いなし。なのであたしはこっそり『バカップル』と呼んでいる。もし空気に色が付いていたら、あの二人の周辺は噎せ返る程濃い桃色だろう。ラメ入りの。
ついでに言えば、その二人にあてられたルシ様があたしに同じ事をしようとするあたり、とんでもなくとばっちりを食らってるんだけど…
「…眷属って、何なんでしょうね」
「何度も説明しているではありませんか。貴女には陛下の魂と血が混ざっている。魔族の血を混ぜないとこの世界で身体を再構築出来ませんからね。…まぁ、私の魂と血でも良かったのですが、そうすると貴女はサキュバスになってしまいますからね。夜な夜な誰かを誘惑するなんて嫌でしょう」
それは、嫌だ。即座に力強く頷く。
「まぁ私もそこまではしていませんがね。それでも定期的に伽を行って精を取り込まねばなりません。こればかりは悲しいかな、種族の性ですね。しかしルリにはそういう事をして欲しくないので、陛下にお任せしたんですよ」
貴女の相手は陛下と私だけで良い、と平然と言ってのける宰相を、あたしはじっとり睨んだ。
「…なんですか、その目は」
「…ルシ様もそうですけど、なんであたしみたいなちっぽけな存在にそこまで言うのかなと思って。二人ならもっと素敵な人が言い寄って来るでしょ?」
なんせこの世界のナンバー1と2だ。恋愛相手なんか掃いて捨てる程いるに違いない。いくらあたしに新しい命を吹き込んだと言っても、あたし自体は何の能力もない、城内の喫茶店で働くただの非力な小娘なのに。心底不思議だから何かある度にこうやって聞いている。なのに、
「そのうち分かりますよ」
いつもこれだ。ちなみにルシ様に聞いても同じ返事。二人とも最後に不穏な微笑みを添える事も忘れない。
「まぁ、とにかく今夜は陛下のところにおいでなさい。前回から日数が空いていますからね、愛情表現が濃厚になっていても甘んじて受け止めるように」
「濃厚って言わないで下さい、今からすっごい不安なんですけど…」
「ま、今はお休みなさい。まだ日没時刻まで時間がありますからね。陛下にルリが食事に同席すると私から伝えておきますから」
部屋の前に到着し、あたしはドアを開けようとノブに手を掛ける。
「おや、いつもの挨拶をお忘れですか?私はこれを楽しみにしているのに」
「………っ」
ぐりんと振り返れば、大袈裟に傷付いた顔をした宰相様がこちらを見下ろしている。…目が笑ってますけど。
「……お、おやすみなさい、宰相様」
背伸びをして宰相様の頬に触れる程度のキスをすると、彼は心底愛しそうにあたしの髪を撫で、心臓が跳ねるほど魅惑的な笑みを浮かべる。
「おやすみ、ルリ。良い夢を」
額に柔らかな唇が触れる。…ここに来てから毎日やっている挨拶なのに、やっぱり慣れない…
頬の赤らみを隠すように俯く。
「あぁそうだ。ルリ」
「は、はい?」
数歩歩いたところで何かを思い出したように振り返った宰相様は、その顔に意地悪な笑みを貼り付けていて、あたしは嫌な予感を覚えた。
「そろそろ私も宰相様なんて他人行儀な呼び方ではなく、アイム、と名前で呼んでくれると嬉しいんですけどね?」
「…………」
そ、そう言えば。最初に『宰相様』と呼んで以降、定着しちゃってたな…
「じゃ、じゃあ…アイム様、で」
「……本当は『様』も要らないんですけど。ま、それは追々の楽しみという事にしておきましょう。それではお休みなさい、ルリ」
口をぱくぱくさせている私を置いて、宰相様は今度こそ自室へと戻って行った。
「はぁぁ……」
お湯に浸かりながら溜め息を吐く。ここでは日本とは昼夜の概念が真逆で、日が昇っている間は就寝し、日が暮れてから活動開始となる。したがってこの世界では日没が早い。1日を24時間とすると、太陽が昇っている時間はせいぜい10時間程度だ。その間、兵士やごく一部を除いたほとんどの魔族は眠りにつく。きっと今頃ルシ様や宰相様…アイム様も眠る準備をしていることだろう。
「ふあぁ……ねむ」
最初は日中寝るのは変な気がしたが、ここに来てもうすぐ1年にもなると、さすがに身体が慣れてきた。眠くて頭が重い。
(ダメだ…早く上がって寝よう)
気合いで身体と頭を洗い、歯を磨いてパジャマを着込み、ベッドに滑り込む。
最後の力でいつも横に置いている抱き枕を引き寄せ、瞼を閉じた瞬間、あたしはあっさり眠りについた。