表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

Remu【レム】 外伝 Pandora Hope

作者: 飛鳥

 木造の部屋のなかには、油絵具の匂いが充満していた。特別匂いに敏感なほうではないと思うけど、鼻の奥を刺激する独特の油の匂いには、いつまで経っても慣れることが出来ない。窓を開ければ多少は匂いも弱まるはずだけど、コーザさんはたぶんそれを許してはくれないだろう。

 空気が変わると集中力が落ちる。気持ちが分散してしまう。だから、描いている間は絶対に窓を開けないでくれ。最初にこのコテージにやってきたとき、コーザさんはそんなことを言っていた。

 絵なんてスクール時代に教養のレベルでしかやったことがないから絵描きの気持ちなんてわからないけど、コーザさんはたぶん現実に引き戻されるのが、正気に戻るのが嫌なんだろう。

「リリアナ、悪いけど少しのあいだ息を止めていてくれるかい」

 油絵の具を持っているあいだ。キャンパスを通して私を見ているあいだ、コーザさんは私のことをリリアナと呼ぶ。別にコーザさんが勘違いをしているわけではない。

 コーザさんが描こうとしているのはリリアナ・メイルという女性であり、私を描きたいわけではないからだ。私の容姿がリリアナに非常によく似ていたから、だからモデルを頼まれただけ。

「そう、そのまま。その調子。いいよ、楽にしてくれて」

 彼の言葉をきっかけにふうっと大きく息を吐き出し、自分の手のひらを見つめてみる。

 夕焼けの空を象った鮮やかな赤色のネイル。素人が行ったものにしては、我ながら非常によく出来ていると思う。

 空の色が夕焼けに設定されるかは気象庁の職員の気分次第だし、夕焼けに変わったとしてもその時間はせいぜい三十分程度。その三十分を凝縮して、指先一つ一つに丁寧に封じ込めていく。見上げた先に広がるものと同じ色合いになるように試行錯誤を重ね、苦労の末に創り上げた小さな結晶。

 指先を見つめるたびにそのときの記憶が『映像』の術式のように浮かび上がってきて、それだけで幸せな気分に浸ることが出来る。

 いま思えば、私が絵のモデルを受けたのはコーザさんの考えに共感するものがあったからかもしれない。

 時間や思い出、感情を言葉ではなく、視覚的に感じられるものとしてキャンパスのなかに描く。一枚の板のなかに共に過ごした時間や思い出を凝縮させる。

 そんな考えに、自分と共通するものを感じた。

 …………。

「よし。少し休みましょう、ジェムさん」

「あ、えっ、もういいんですか?」

 ジェム、という自分の名前を呼ばれてはっとした。軽く首を振って気持ちを切り替えてみると、コーザさんはもう画材を机の端に置いて、絵の具よけに使っていた厚手のエプロンをハンガーに引っ掛けていた。

「はい。時間的にもそろそろ休憩のしどころですし、ハーブティーでも入れてきます。たしかリラックス効果があるとか何とか。それと何か食べれるもの……クッキーがあったはずだけど、どこにしまったかな」

 台所のほうに歩いていくコーザさんの姿を目で追いかけ、キャンパスをそっと覗き込んでみる。

 薄手のシルクローブに二重まぶたの見慣れた瞳。鼻先から唇、あごにかけて描かれた柔軟なライン。膝元で組んだ両手を見てみると、爪先には綺麗な肌色が塗られていた。

 わかってはいたことだけど、私を描いているわけじゃない。私を元に記憶を手繰り寄せ、思い出を形として、絵という実体のあるものとして残そうとしている。

 わかっている。コーザさんは最初からそう言っていたし、私も、そのことを理解したうえで絵のモデルを引き受けたのだから。

「あったあった。ジェムさん、せっかくだから外で食べましょう。この区域、果物や野菜の農園が近くにあるだけあって、空気が綺麗なんです。夜空というのもなかなか風情があってよいですよ。空にある発光電球の明かりがとても綺麗で。まあ昔一度だけ見たことのある、星空というのにはさすがに叶わないですが」

 モデルと絵描き。そんな関係を理解していながら、コーザさんと二人でいることに言い表しようのない高揚を、充実感を得ているのもまた、一つの事実だった。




 愛とは育むものである。最初に植えた種に水を与え、照明の光をたっぷりと浴びせて時間をかけて大きく大きく成長させてゆく。

 父様がそんな風に『愛』を教えてくれたのは、リヴァル家で毎年行われていた晩餐会に初めて私たちの家系、ミード家が招待された日のことだった。

 他の飛翔艦がどのようになっているかはわからないが、私たちが住まう方舟という飛翔艦はおおむね平和。貧富の差も、特別大きなものではない。

 ただ、差が小さいとはいえ元々身分が低い者やその家系の者が成り上がりを考えた場合、上の地位に立つのは容易なことではない。

 艦長という名を持つ、方舟を指揮する最高権力者。現在、その地位にはプロイア・リヴァルというリヴァル家の男性が即位している。

 その前も、その前も、その前もその前もその前も、艦長という地位にはリヴァル家の者たちが名を連ね続けていた。それぐらいに権力というものは絶対で、一度でも得ることが出来れば一生どころかその後に続く一族全員の、高水準での生活が確約されている。もちろん没落しないこと、が前提の話だが。

 魔導機杖の性能向上、搭載可能なマナの増加。

 魔導機杖の技師であった父様は外敵(機甲虫)への対抗策として、魔導師が用いる殺虫兵器の強化に大きな貢献を果たした。その結果リヴァル家に名を覚えさせるほどの地位にまで上り詰めたのだが、野心家であった父様のことを考えるに、結果のために過程に力を注いでいたのは間違いないだろう。

 だからこそ、父様は私(女性)が生まれたことに落胆の表情を見せていた。ただ、その気持ちが分からないわけではない。

 私がどこかの家に嫁げば当然、ミード家の財産はその家に吸い取られることになるだろう。富と名声。それらを得るために人生のほとんど全ての時間を注ぎ込んできた父様からすれば、そんなふざけた話はない。

 だからこそ、父様は優秀ではあるが身分の低い技術者を見定め、私の結婚相手として選んでくれた。それを婿養子として取り入れ、間違っても亭主関白などという寝言を吐かさないように言い聞かせてくださった。

 孫が男であればそれでよし。女であれば、連れ添う男をお前が選び主従を徹底させろ。

 父様の考えは素敵だと思うし、私としても、ミード家をどこの馬の骨かもわからない者に託したくはなかった。たとえそれが、自身の夫であろうとも。

 旧姓マーク・アロウ。

 低い身分しか持ち合わせていないが、魔導機杖の整備士としての高い技術力を持っており、技術史仲間及び、上からの信頼も厚い。

 成り上がりに使えるかどうかは分からないが、少なくとも、お前が舵を握っていればミード家を没落させるほど無能なわけでもない。

 結婚相手としてマークを選んできた際、父様はそんなことを言っていた。

 本当はもう少ししっかりした男を選びたかったのだろうけど、なにぶん、父様には時間が残されていなかったのだから仕方がない。

 ガンとかいう名前の、身体の内側から蝕んでくる病。それに食われて、父様は私が思っていたよりもずっと早くにこの世を去ってしまったのだ。

 外敵に対する防衛策を模索していた男が、内側からの病に蝕まれて死ぬというのも皮肉な話だ。ただ父様は、病気に蝕まれて死ぬのはむしろ幸運なことだ。と、言っていた。

 タイムリミットを定められたことで、死ぬまでにミードという家柄の基盤を作り上げることが出来た。なまじ寿命が長くあれば、自分のために躍起になりすぎて後継者作りがおろそかになるだろうし、事故死にでもあえば基盤を作ることすら出来なかった。

 基盤というのは私とマークを結婚させたことだ。どうして父様が家格を育て上げることにあそこまでの拘りを持っていたかはわからないが、ひょっとしたら自分が生きた証とか、そういうものを残しておきたかったのかもしれない。

 証を残す。認めさせる。

 そういう意味では、ネイルだって似たようなものだろう。色や輝きを爪先に封じ込め、形に残し、他人に認識してもらう。評価してもらう。褒めてもらう。

 他人の反応を期待しての行為。

 少し歪んだ言い方になるが、着飾ったものをすべて排除してしまえば、結局はそういうことでしかない。

 ……だから私は、マークのようなタイプを好きになれないのかもしれない。

 料理を褒める。掃除がよく行き届いていると褒める。愛していると、態度ではなく言葉ではっきりと伝えてくる。不快なわけではないが、教科書通りの対応。

 マークには悪いが、普段の彼の動向を見ているとそんな印象を受けざるを得ない。見る場所がどこかわかっていないから、私のことが何も見えていないから、だから当たり障りのない言葉で誤魔化そうとする。

「どう、ジェム。気持ちいい?」

「うん……ん……」

「声、出してくれていいよ。感じるままにしてくれて」

「うん……」

 彼の態度は行為のときでも変わらない。こちらの気分が乗ってきたときも、達しかけているときも、返事をするまで同じような言葉を繰り返してくる。そのせいである種、冷めてしまうのだ。どれだけ気分が高まりかけていても、雑音にすら思える言葉の羅列によって現実に引き戻され、頭のなかが冷静になってしまう。そうなればもう無理だ。向こうは勝手に達して果ててしまうのに、こちらはオーガズムを感じるどころか快楽を得ることすら満足に出来ない。

 行為の最中に話しかけてくるのは止めてといくら言おうと、マークは、ちゃんと言葉で聞かないとわからないからなんてことを言ってくる。

 こちらの言うことを聞いてくれて、積極的に話しかけてくる。それは良いことだと思う。でも、それも時と場合によりけりだ。返事をするまで何度も話しかけてくるなんて、正直、行為の最中にはうっとうしいだけ。

 ミードという家系を育てるための肥やし。そんな観点でマークのことを見た場合、なるほど、たしかにマークは素晴らしい存在だろう。

 金づかいが荒いわけでも暴力を振るうわけでもなく、ただただ、上を目指している。家柄を守るための夫婦として考えた場合、彼に対する不満は何もない。けれど『相手』としては……正直、私とマークの相性は非常に悪いと言わざるを得ない。

「結局はさ、劣等感が原因ということじゃないの」

「劣等感?」

 居住区のK地区。一般市民が住まうなかで最も発展した区域のとある喫茶店で、エリディア・ソワンはカプチーノにスプーンを突きたてそんなことを呟いてきた。

 くるくると渦を巻きながら気泡が流れて、中心のほうだけに収束されていく。

「ほら、ジェムの旦那さん。婿養子って形で結婚したわけでしょう。そのことに、少なからず抵抗を感じているのではないかってことさ。だからこそ、SEXという場で溜まったフラストレーションを解消しようとする」

「エリディア、昼間なのだから直接の表現は控えて」

 カフェテラスではなく喫茶店の店内とはいえ、人影が全くないわけではない。向かい側のテーブルには私たちと同じぐらいの年齢の主婦らしき女性の三人組が座っているし、本をめくる老人、わずかだが小さな子供の姿も見える。

「あー、そうね。ごめんごめん。ともかくさ、ジェムを感じさせたいとか満足させたいではなく、優位性を得たいということ。社会的な立場で言えばジェムの方が上にいるのだから、せめてベッドの上でぐらいは――」

「器が小さいということ?」

 カプチーノにスティックシュガーを流し込み、空になった紙を小さく丸める。

「いやいやジェムさん。そうはっきり言いなさんなって。けどまあ、旦那さんの考え方がわからないというわけじゃないよ。社会的な地位でまで女性の側に優位性を取られていたら、男としては立つ瀬がない。ただでさえ遺伝子的には不完全な存在なんだからさ」

「ああ、男性が持つY遺伝子は女性が持つX遺伝子の一部が欠落した、劣等遺伝子なんだっけ?」

 現役の魔導師を務めるエリディアは魔導や科学に関する知識を人一倍多く持っている。特にゲノムとかいう遺伝子情報には個人的にも興味があるらしく、ヒトゲノムだのミトコンドリアだの、よくわからない話を言い聞かせてくることがある。

 彼女が言うには女性こそが生物としての完全な存在である。機甲虫の統率者が『王』ではなく『女王』なのも、本能や遺伝子に生物としての序列が刻み込まれているからだそうだ。

「でも神様はアダムの肋骨からイブを作り出したのでしょ」

 考え方としては面白いと思うけど、スクール時代に習った神話の冒頭、創世記の内容を否定しているようで、どうにも好きになることが出来ない。

「神話と現実を同列で考えなさんな。だいたい、それを言うならリリスはどうするのさ」

「通説では人間は全てイブの子供なのだから、この場合リリスは関係ないでしょう?」

「いやいや悪魔に身を売ったなら、興味本位でアダムと二、三度交わるぐらいのことはしてるでしょ。そのときに、子種の一つや二つこさえていてもおかしくないと思わない?」

「人間がリリスの子孫なら、男女の立場は平等ということになりますけど」

「……考えてみれば、人間が泥や肋骨から生まれるわけないか」

 コーヒーカップを口元に運び、エリディアは都合の悪さをそっと誤魔化す。まったく、神話の否定なんて熱心な宗教家の耳に入れば言い争いの火種になるだけなのに。

「遺伝子や創世記の話はともかく、女性の立場が以前よりも良くなってるのは事実でしょ。ほら、あの生きる伝承。ジェムも名前くらいは聞いたことがあるでしょう」

「リーゼ・リヴァルのこと? 亡き夫の意思を継いで魔導師に、そして最近では最高司令に就任した大魔導師。美談ではあるけど、実際のところ印象操作という面も少なくないと思うけど? 十年前の襲撃で特区にあったリヴァル家の屋敷は焼け落ちてしまったし、当時はリヴァルに対する風当たりもよくなかったでしょ。美談に仕立てあげて市民からの同情をあおぎ、その上でリヴァルという血統を高い地位に置く。そうすることで家格を一定に保ち没落を防ぐ」

「考えすぎじゃない? 別にリヴァル家が圧政を強いていたわけではないし、革命を望む声があったわけでもない」

「市民にそういう声がなくても、リヴァル家に(まと)わり付く腰ぎんちゃくのなかにはいたということでしょ。こんな時代に人間同士の争いが起これば、あっという間に虫に蹂躙(じゅうりん)されて終わりだもの。ようはリヴァルという名を上に置いておきたかったのよ。最悪、おざなりの司令官だろうと側近に優秀なものを置いておけばいいのだから」

「おざなりね。あの人を目の当たりにすれば、そんなことは口が裂けても言えなくなると思うけど」

「うん? 物凄く優秀ってこと?」

「それもあるけど、一番思うのは『怖い』かな」

 コーヒーカップをテーブルに置いて、エリディアは小さな溜め息を漏らす。

「あの人、何に対してもためらいがないのだよね。どんなに残酷なことでも平然と行うし、保身(ほしん)的なわけでもない。リーゼ新司令にはお子さんがいらっしゃるのだけど、今はその子を魔導師にさせるために魔導師試験の改正を行っているって話。信じられる? 自分の子供を魔導師にさせようとしているなんて。それも、まだ十歳になるかどうかの子供をだよ?」

「……時期艦長として就任させるつもりとか? 早いうちから実践をって言うには早すぎる気がするけど、立場的にはその子がリヴァル家の時期当主に当たるわけでしょ」

「それも無さそうなのだよね。リーゼ新司令、リヴァルという家柄を捨てて今は夫であるシオンと同じ、リストールという姓を名乗っているし」

「家柄を捨てた? リヴァル家の令嬢(れいじょう)が? なんで……だって、シオンって人はもういないのでしょ。好き合っている相手と一緒になるために逃避行とか、そういう映画は見たことがあるけどリーゼ・リヴァルの場合」

「そんなのは私にもわからないって。シオンさんが無くなった当時に起きた大規模な方舟襲撃事件。そのときの資料は閲覧することが出来ないし、当事者の人たちもほとんど詳細を教えてくれないんだから」

「それって、上層部は事件を風化させようとしているってこと?」

「うん、可能性は高いと思う。でも探偵気取りでいたずらに首を突っ込んだりはしないでね。ある朝知り合いが湖にぷかぷか浮かんでいたなんて、いくらなんでも笑えない話だからさ」


 喫茶店で話をした後。エリディアは哨戒(しょうかい)任務が入っているからと早々に居住区を後にしてしまった。時計に目を向けると、日落としの時間まではまだかなりの時間がある。このまま真っ直ぐに家に帰ってもいいけど、少しだけ寄り道。あの人に会いに行ってみよう。

 そう思いくるり、と(きびす)を返す。

 それにしてもエリディアが言っていたこと、リーゼ・リヴァルが家柄を捨てたというのは本当だろうか? あの人がそんなことを言い出すなんて、にわかにはとても信じられないのだけど。

 目の当たりにしたことがない。エリディアはそう言っていたが、実を言うと会ったことがないわけじゃない。リヴァルの屋敷が焼け落ちる前、まだ幼かったころに招待されていた晩餐会で、度々、リーゼ・リヴァルという女性を見かけた事があったからだ。

 高級そうな絹のドレスに整えられた長い髪。召使いかメイドらしき少女を引き連れていて、ワイングラスを片手に階段の上の広間から私や他の招待客を見下していた。

 こちらと目があったから会釈をしたのに完全に無視。興味がない、とでも言うように奥のほうに引っ込んでいった。上流貴族の典型。私たちとは住む世界が違うと思っているのだろう。特区と居住区。たしかに、文字通り住む世界が違ってはいるのだが……。

 でも、外界から隔離された世界という意味ではどちらも同じではないか。作られた箱庭、エデンの園に権力や貧富の差を持ち込み、その上で弱者を見下す。

 そんな生活に喜びを感じていたような人が家柄を捨てるなんてあるはずがない。絶対に、何か裏があるに決まっている。さすがに、その裏が何なのかまではわからないけど。

 喫茶店から続いていたレンガ造りの地面が土を敷き詰めただけの簡易な地面に変わり、周囲の景色から建造物が少なくなっていく。

 雑草や立ち並ぶ木々。枯れ葉や機甲虫とは違う、小さな小さな虫たち。鮮やかな黄色の花を咲かす植物に蝶や蜂たちが集まり、ひらひらと翅を揺らしている。

 居住区の中央付近とは明らかに違う顔を見せる景色の先に、丸太を組み合わせた質素な家が見えてきた。

 家の前にはキャンパスが広げられていて、油絵具を片手に筆を握る男性‐コーザさんが立っていた。後ろには木造の椅子が置かれているが、画材置き場にしているらしく、座っているような様子はない。

「うん? ああ、ジェムさん。どうしたのです? 今日はモデルを頼んではいないはずですが」

「日落としまで時間があったので、顔を出してみようと思って。でも描いている途中なら、出直してきたほうがいいでしょうか」

「いえ、いいですよ。そろそろ切り上げようと思っていたところなので。ただ少し待ってください。もう少しで、きりが良いところまでいけるので」

 後ろからキャンパスを覗き込んでみると、樹木に覆われた深い森の中で、切り株の上に置かれた頑強そうな箱の蓋をほんの少しだけ持ち上げ、中身を覗き込もうとしている女性(少女?)の絵が描かれていた。

 方舟のなかの農園とは比べ物にならないくらい深そうな大樹林。好奇心と驚き、後悔が重なり合っているような表情を見せる少女。

 素人目にもわかるくらいの迫力、臨場感。いや、リアルさと言うべきだろうか? ともかくそんなものがあって、思わず息を飲み込んだ。ただキャンパスに描かれたその絵の中でもっとも目を引いたのは、なんと言っても中心に置かれた黄金の箱だ。

 何度も描きなおしたのか、あるいは重点的に描いているのか、全体に古ぼけた雰囲気が漂うなかでただ一箇所。箱だけが異質なほどの明るさ、輝きを放ち続けていた。

「あの、コーザさん。この絵は?」

「方舟のデータベースにあった美術絵を私が写生したものです。今から十年も前になりますかね、この絵にいたく感激して、高額で購入してくれた方がいるんですよ。ただ、よく見るとあちこち色が剥げている部分があるでしょう。それを修繕して欲しいと依頼されて」

 言われてみれば、たしかに木々や少女の衣服などの色が変に薄れているところがある。箱もまだ修繕が終わっていないのか、端の方を見てみると土や苔がこびりついた、薄い黄土色の部分を見て取ることが出来た。

「この絵、宝箱の中身をこっそり覗き込もうとしているみたいですね。箱の中には何が入っていたかとか、データベースには記されていなかったんですか?」

「そうですね。解釈は書物によって異なりますが、共通しているのは……病気、悪意、妬み、憎しみ、偽善――」

「えっ、ま、待ってください。それって、ひょっとしてあの有名な」

「保身、悲しみ、飢え、暴力、狂気……。ええ、ご想像の通り、ありとあらゆる災厄が封じ込められていたと言われる呪われた器、パンドラの箱です。あの頃は……恥ずかしい話ですが妻に先立たれて自暴自棄になりかけていて、この絵のように災厄をばら撒いてやろう。そうして、どこかで野垂れ死にでもしてやろう。そんなことを考えていたんですよ」

 そんなふうに、コーザさんは恥ずかしそうに昔のことを口にする。コーザさんなりの復讐なのだろうけど、ずいぶん回りくどいやり方を思いついたものだ。

 でも、そういう精神状態で描いたというなら納得がいった。怒りや憎しみ、悲しみ。写生したものとはいえ、絵の節々から負の感情が滲み出しているようで、神話の中に出てくるパンドラの箱をそのまま描いたような、妙な禍々しさを感じたからだ。

 ただそういう観点でキャンパスを覗き込んだ場合絵の中心、パンドラの箱だけが妙に異質なもののように思えた。修繕する前はともかく、修繕した後の部分は目を見張るくらいに光り輝いていて……いや、そうか。それでいいんだ。

「箱から溢れ出ているものが何なのかに気づいて、パンドラは慌てて箱を閉めなおした。その結果、人々に希望が残された。神話の中ではそんなことを語られていますけど、逆を言えば災厄だけがこの世に飛び出して、希望は箱の中に押し留められたままって解釈も出来ますからね。どちらかと言うと、悪い意味合いのほうが強いかも」

「ええ、私もそう思っていたのですけどね。この絵を購入していただいた方は、そうではないと言ってくれたんですよ。箱の底に残されていたのは予兆。つまり未来を見る力、予知能力であると。未来で何が起こるかわかってしまえば人間は絶望し、生きることを諦めてしまう。しかし予兆だけは箱の中に押し留められたままだったので、人々は絶望することなく生きていく事が出来る。口下手な方だったので上手く言えなかったのでしょうが、たぶん、私を励まそうとしてくれていたのかもしれません」

 未来は何が起こるかわからない。だから絶望して、独りよがりで命を終わらせようとするな。確かに……父様は病に蝕まれたことを幸運だと言っていた。

 目前にまで迫った死の足音に怯えて、自暴自棄になったり無気力になるのが普通のはずなのに、父様は病気の中で、災厄の中で希望を見つけた。

「どれだけの災厄かばら撒かれても希望はある。絵を買ってくれた人は、金銭という分かりやすい形でそれを示してくれたということですね。その絵を買ってくれた方、美術品の収集家だったのですか? そこまで言っておきながらパンドラの箱(不吉な絵)を手元に置いて、おまけに修繕まで頼むなんて、相当の変わり者のように思えますけど」

「変わり者か、あるいは神の使いだったのかもしれません」

「えっ?」

「我々を守ってくださる天使ということですよ」

 そう言って、コーザさんは絵の額縁にはめ込まれていた銀のプレートを取り外す。

「あれ? 『パンドラの箱』そのプレート、この絵のタイトルですよね?」

「ああ。その方からの要望で、作品タイトルを変えて欲しいと」

 画材道具のセットの中から新しい銀色のプレートを取り出し、さらさらとタイトルを書き込んでいく。

「Remu?」

「はい。私も意味は知らされていないのですが、『残されたもの』だそうです」




 数日後、コーザさんが生活するコテージの室内。木造の部屋の中で椅子に腰掛けて、油絵の筆を握るコーザさんをじっと見つめてみる。

 私を……いや、リリアナを描く彼の表情は真剣そのもので、でもどこか穏やかなようにも見える。

「コーザさんはどうしてリリアナさんを、亡くなった奥さんのことを今になって描こうなんて思ったんですか?」

「うん? どうして?」

「だって、奥さんが亡くなったのはもう十年も前のことなんでしょう。忘れるというのは失礼な話ですけど、自分の中で風化しかかっているものを無理やり掘り起こすなんて」

「……葬式、やっていないのですよね」

「えっ?」

「リリアナの葬式を、ですよ。正式な手順を踏んでしっかりと別れの挨拶をしたら、本当にリリアナともう会えなくなるような気がして……リリアナは十年前の機甲虫襲撃事件のときに行方不明になって、そしてそのまま……」

 少しだけ瞳が潤んだのか、コーザさんはそれを誤魔化すため、何度も瞬きを繰り返していた。

「捜索依頼は出したのですが、リリアナの姿はどこにも見当たりませんでした。機甲虫に襲われたのか、それとも襲撃の際に方舟から落とされたのか。いずれにせよ、もう生きてはいないでしょう」

「そんなことは……」

「いえ、いいのですよ。十年も経つのに手がかり一つ見つかっていないのですから……。リリアナのことを受け入れる事が出来たのは、例の絵が売れて少し経った後でした。でもリリアナが行方不明に……命を落としてから一年以上が経過していましたし、いまさら葬式を執り行うというのも変に感じて、この十年、じりじりとそれを引きずり続けていたんです。そうしてあの日、十年前の、私の記憶の中のリリアナそのものに出会った」

 あの日というのは、絵のモデルを申し込まれた日のことだろう。なにかの勧誘か詐欺かもしれないと思っていたけど、あまりにもしつこく頼み込んでくるからまあいいか、という気持ちになって……。

「ジェムさんには悪いですけど、あなたと自分の記憶を頼りにリリアナを描くことで、一つのけじめをつけられるような気がするんです。自分のためにジェムさんを利用しているようで、何だかひどく感じが悪いように思いますが」

「……大丈夫ですよ。もともとリリアナさんを描くためのモデルという話は聞いていましたし、前に踏み出すために必要だと言うなら、それぐらいのお手伝いはします。なにより、謝礼は頂いていますから」

 小さな苦笑を漏らして、ふと考える。コーザさんは前に踏み出すために、自分の中で一つの区切りをつけるためにリリアナさんの絵を描こうとしている。そのために私はこのコテージに招待され、絵のモデルを頼まれている。ということは、絵が完成すれば私とコーザさんの繋がりは途絶えてしまうのだろう。それどころかリリアナさんを思わせる私の姿は、コーザさんにとっては前に踏み出すための足枷になりかねない。

「…………」

 コーザさんの歳は、四十の半ばあたりだろうか。

 親と子ほどというのはさすがに言いすぎだけど、私やマークとは一回り以上年が離れている。でも、引きつけられてしまう。言い表しようがないくらいの、強い魅力がある。

 隣の芝は青いという言葉があるように、自分のものではないから、他人のものだからよく見えるだけなのだろうか?

 でも、この人は何も持っていない。父様が私に与えてくれたもの、ミードという家柄に何一つ肥やしを与えてはくれない。それに私にはマークがいるのだから、彼を裏切るわけにはいかないだろう。ミード家のためにも……。

「ちょっとキッチンの方に行ってきます。ジェムさんも適当に休んでいてください」

 そう言って、コーザさんは部屋を後にする。

 腰掛けていた椅子から立ち上がりキャンパスを覗き込んでみると、リリアナの絵はもう七割か八割近く出来上がっているように見えた。

 リリアナという女性の事は知らないが、この人が、私とコーザさんの間に関係を、繋がりを与えてくれている。この人がいるから、この人の絵が出来上がっていないから、関係を保ち続けていられる。

 …………。

 …………。

 …………。

 ……割るか。

 ガンッ と、飛び上がりそうなくらい大きな音を立ててキャンパスを床に叩きつける。モデルを行う際に着込むシルクローブはひらひらしていて邪魔だったけど、こういう時は便利だ。服の裾がキャンパスに引っかかって勢い余ってなんて風に、いくらでも言い訳を立てる事が出来る。

 足を挫いたふりをして床に倒れ込むと、そこでコーザさんが戻ってきた。

「ど、どうしたんですかジェムさん。物凄い音がって――」

「ご、ごめんなさいコーザさん。服の裾を引っ掛けて、絵が……」

 床に叩き落したキャンパスに肘をぶつけたせいだろう。リリアナさんの描かれていた絵は、一面がぐちゃぐちゃになってしまっていた。

「ほ、本当にごめんなさい。すぐにどいて――きゃっ」

 加えて、偶然腕を伸ばした先にバケツがあったから、それを勢いよくひっくり返してキャンパスに思いきり被せてしまう。絵の具が水に流されて、一面が真っ黒に滲んでしまう。

「だ、大丈夫ですかジェムさん」

「は、はい。私はなんとか。でも絵が、せっかく描いたのに……」

 バケツの水を吸い込んで汚れたシルクローブの裾を掴み、ぎゅーっと絞る。濡れたおかげでシルクローブが肌にべったり張り付いたのはいいけど、こんなに汚れていたらさすがに意識はしてくれないだろうか?

 そう思いコーザさんの顔を見上げてみると、彼は目のやり場に困ったように目線を泳がせていた。

 一瞬、きょとんと戸惑いかけたけど、すぐに合点がいった。そうか。私の見た目はリリアナさんにそっくりなんだから、色香は十二分に与える事が出来るのか。

「ごめんなさいコーザさん。べ、弁償しますから。お金で何とかなる問題でないのはわかっていますけど、せめてキャンパス代ぐらい」

「いえ、いいんですよ。元々、リリアナとの思い出は十年前に終わっていたのですから」

 真っ黒に汚れたキャンパスを持ち上げて、コーザさんは独り言のように言葉を口にし始める。

「本当は区切りなんてついていたはずなのに、前に踏み出すためなんて言葉を言い訳に昔のことを引きずって……ジェムさんにまで迷惑をかけて」

 不味い。と、嫌な予感が直感のように脳裏をかすめた。

 冗談じゃない。肘に青痣まで負ったのに自己完結されたんじゃ、骨折り損にもほどがある。

「あの、コーザさん。もう一度描いてくれませんか」

「えっ?」

「こんな中途半端で止めたらリリアナさんが可哀想ですし、私も気が重すぎて……だからお願いします。もう一度描いてくださいませんか。もちろん謝礼なんていりません。逆に私が払ってもいいですから――」

 口に出している言葉に嘘はない。こちらからお金を払おうと全然構わないし、何より、リリアナさんを踏みにじっておきながらこれで終わりでは、リリアナさんに対しても申し訳が立たない。

「……わかりました。ただ、やはり謝礼は払わせてもらいます。元々、そういう約束でお願いしていたのですから」

「はい。改めて、よろしくお願いします」

 私が持っていたこの感情は、マークに対する裏切りになると思っていた。でも、違う。

 マークはミード家を大きく育ませるための肥やしであって、個人的に好いている相手ではないのだから。植物や爪に描いたネイルが好きな人がいても、それは『Like』であって『Love』ではない。

 愛は別のところにあればいい。

 ああ、いま分かった。父様が言っていた言葉。愛とは育むものである、とはそういう意味だったんだ。

 確かに私とコーザさんの関係は、まだ種を植えただけに過ぎないだろう。

 それどころか、コーザさんには種を植えたことすら伝わっていないかもしれない。

 でも、いい。

 キャンパスを壊して真新しくしたように、コーザさんと私の関係も最初と同じ、真新しい関係に戻すことが出来た。ここから改めて照明の光を浴びせ、たっぷりと時間をかけて大きく大きく成長させていけばいい

 時間なら幾らでもある。キャンパスなんて持ちきれないくらいたくさんある。

 だから始めよう。ミード家という家柄に縛られることのない、本当の私を。

 ひょっとしたら、リーゼ・リヴァルも私と同じような感情を抱いていたのかもしれない。いや、間違いなくそうだったのだろう。だから家柄を捨てた。いや、正確には家柄を捨てたふりだけど。

 汚れたシルクローブ、リリアナさんにそっくりな身体をコーザさんに押し当ててはにかんだ笑みを浮かべてあげる。いまはまだ薄汚れたキャンパス、リリアナさんのことが尾を引いているようだけどもう大丈夫。

 前に言っていたパンドラの箱の神話と同じ。予兆は箱の中に閉じ込められていて、未来なんて誰にも予想は出来ないから、どれだけの災厄が満ち溢れていようと希望はある。

 私が、貴方にとっての希望になってあげるから。

 だから、何にも心配なんてしなくていい。

 ね、コーザさん。


少し投げっぱなしに感じる方もいるかもしれませんが、この物語は

これにて完結です。本人は至って正常なつもりの異常な人物。

ライトノベルですと、ヤンデレがこれに当たるかもしれません。

パンドラの箱やアダムとイブなど、旧約聖書を強く意識させる単語が多く登場しましたが、これらは今後投稿予定のRemuの続編で重要な部分になってくるため先行して登場させました。

 このような思考が異常なキャラクター、Remuの今後の物語にも登場してくるかもしれません。(むしろ、そんな人ばかりになるかもしれないです・・・w)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 上手く本編と絡め、且つ本編世界の全く別な一面を表現できているのが物語に一層の奥行きを生み出していると感じました。 パンドラの絵を購入したのはもしや・・・ [気になる点] 【誤字】旧姓マーク…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ