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マーヤ  作者: 白木
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残り続けるもの

      ――②―― 残り続けるもの










「はあ? 王子様ってなんだよ。そんな迅速過ぎる対応は困難を極めるぞ」

「わたし、鈍感な男は嫌いって知ってた?」

「なんとくわかるけどさ……」

 直接的ではないけど、誰にでも理解できる嫌み、というものを彼女は熟知しているらしい。

 菅原魔綾は二重人格なのだろうか。途端にシリアスになったかと思いきや、再び暴言を浴びせるマシンガンへと変貌する。

「まあいいわ。1と言わずマイナス5くらいから説明してあげないとわからないみたいだから」

 菅原は軽く咳払いをして続けた。

「わたしね。記憶を定期的に失ってしまうの」

 ほんとにマイナス5くらいから説明しやがった。

「俺が悪かった! 1からの説明でお願いします!」

「1からの説明でいいの? さすがは学年トップ」

「その学年トップていうのやめてもらっていいか……」

「王子様っていうのは――」

 ガラスのように明瞭な無視だった。いや、まあ無視されても特に実害のない内容だったが。

「あんたがわたしの為に尽くすっていうことよ。どう? わかりやすい説明だと思うけど」

「逆説的な物言いになってしまうけど、わかりやす過ぎてわかりにくい。そもそも王子様ってのは気高い貴族だろ? なんで誰かの為に尽くす必要があるんだよ」

 また呆れたのなんだのと罵られて正論らしく聞こえる自論を散々聞かされるんだろうな。

「まあたしかにそうね」

 意外な反応だった。頷くだけで意外だと言われる人間はおそらく、今までこの世界に存在しなかっただろう。

「私的な試みが含まれていたことはちゃんと認めます。王子様ってほら、メルヘンでおしゃれな表現じゃない? そういうものに惹かれる年頃なのよ」

「たしかに、セリフに入っているだけで少しメルヘンチックな風景を思い浮かべてしまう数少ない言葉だとは思うが」

 おしゃれかどうかは別として。

「で、実際のところ、王子様じゃなくてなんなんだよ」

「救世主――もしくは、奴隷、といったところね」

「救世主のほうでお願いします!」

 こいつにとっては、救世主と奴隷って似たような部類なのか。

「おっけーよ。じゃあ救世主ということで認定しておく」

 いや、ちょっと待て。

 話の流れが一方的になっている気がする。自我を保つんだ。

「待て待て! 俺はお前の救世主になるなんて一言も言ってないぞ」

「知ってる。でも、断れないはずよ。わたしたちはお互いに秘密を打ち明け合った仲なのだから」

「仮に救世主になったとして、いや、救世主もなんなのか意味不明だが、仮にそうなったとして、こっち側の利益はあるのかよ」

「わたしと一緒にいる時間が増える」

 そうだ。この女は自意識過剰な面があるのだった。

 今だって、これで反論はできないでしょう、と本気で思っていそうな顔をしている。

 菅原魔綾と一緒にいる時間が増えるとなると、もちろん他人に見られることも甘んじなければならない。菅原魔綾は今日の一件でかなり悪評が広まったはずだ。それを踏まえると、ことによっては俺に火の粉が降りかかってくる可能性だって大いに考えられる。登校初日からこんな普通じゃない状況におかれておいて、更に日常から遠ざかってしまうというわけだ。

 とはいえ、これが俺の理性全てをかき集めた結論なのだとすれば、絶望にも近い、自分に対する怒りのようなものを覚えてしまう。


 俺は、自分の利益しか考えていない――


 冗談めかして言っているけれど、菅原魔綾の言葉は本気なのだろうとおよその推測は立っているにも関わらずだ。

 助けてほしいと、今日初めて会ったばかりの俺に懇願しているにも関わらず、それを拒否しようとしている。素直になれない性格なんだということくらい数分話しただけでも十分わかる。

 道徳的にどうこうというより、何か自分が間違っている気がした。いや、きっと間違ってはいないんだけど、ヒーローや英雄になれるような主人公タイプの人間はきっと別の選択肢を選ぶんだろうな、という感じがどうにも腑に落ちないのである。

 自分らしさってのに縛られるのも現代っ子ぽくてやってられない。そんなこと今まで思いもしなかったんだけど――

 今日は珍しく、直感にお世話になることが多いな。


「救世主=助けるってことだよな。助けるってのはやっぱり、記憶を失ってしまうことに関してなんだろ?」

「簡単に言うと、そういうことね」

「じゃあひとつ条件を出してもいいか?」

「言うだけ言ってみてもいいわよ」

 拒否が前提になっていそうな台詞だな……。

「俺からだけじゃなくて、お互いに助け合うことにしよう。そうすればこっち側からも、なんだか腑に落ちない、なんてこともなくなるし。それに、俺みたいな人間が素直に人助けなんてそもそもできそうにないだろ? さすがに初対面とはいえ、それくらいはなんとなくわかるはずだ」

「でも、あんたは何も困ってないでしょ? 記憶力を手に入れただけなんだから」

 そう思うのも無理ないか……。人の悩みを理解するなんてのは、本当はものすごく難しいものなのだから。

 それが簡単にわかれば、きっと心理カウンセラーなんて職業は存在していないだろう。表が普段の顔ならば、裏の顔はきっと悩みに充ち溢れているのだ。誰だって暗い想いを表に出したくないに決まってる。

 不可解な現象が起きている俺たちなら尚更。

 理解できないものが、もっと理解できにくいものになってしまっている。

 でもだからこそ菅原魔綾なら、逆とはいえ、同じく不可解な現象に陥っている菅原魔綾なら、俺の本当の悩みも理解することができるという逆説的な考えも成り立つのではないか。。

「さっきも言ったと思うけど、全て覚えてしまうということはつまり、忘れてしまうことができないということなんだ。わかるか? 時間が解決してくれる、っていうよく使われる台詞があるだろう? 俺の場合、その言葉が通用しないんだよ」

「なるほどね。忘れたくても忘れられない状況をなんとかしたいと――」

「そういうことだ。細かい例を挙げたらキリがないから今はやめとくけど、お前ならなんとなくわかるだろ?」

「わからなくもないわね。記憶ってけっこういろんなところに影響を及ぼすから」

 まあ菅原の現象に比べたら、すごく卑小な悩みなのかもしれないけど。

「それにしても、解決策がお互い見えてこないような内容よね」

「お前がそれを言ったら何も始まらないだろ」

「じゃあ何か良い案でもあるの? さすが学年トップ」

「まだ何も言ってない!」

「じゃあ良い案が出るまで、3、2、1、Q」

「……」

 そんな簡単な振りで解決しちまっていいのかよ……。

 真面目な話が、一定時間しか続かないこの状況。

 そんな状況下で、校内に残っている生徒は速やかに帰宅せよ、という校内放送が流れた。登校2年目にして、初めて聞いた放送である。

 普段、こんなに遅くまで学校に残ってることなんてないからな。

 それにしても、今日は初めてだらけの日だった。というより、菅原魔綾が俺にとって、初めてだらけの女だった。

 美少女、だけど性格は破綻している、俺の記憶に残っていない女、そして、初対面でこれほどまで会話を続けたのは本当に初の体験だ。初対面なんて苦手の極み、上手く話せるはずもない。でも菅原魔綾は見事なまでに対応力を持っていた。いや、こいつのペースに合わせてたのは俺のほうなんだが。

「じゃあ明日! 明日までに解決法を考えてくるっていうのでどう?」

「一晩で考えろってことかよ……たぶん無理――というか無謀だぜそれ」

「無謀でもいいから! やるだけやるのよ! 殴るわよ?」

「言葉の暴力だけでは飽き足らずだと!」

 女の暴力は多種多様よ、なんて続けてるあたり、この口論は終結を迎える気配がしない。

「てか、もう校内放送もあったし、帰るぞ。教師たちもさすがに屋上までは見回りに来ないだろうし、正門閉められたら困るからな」

「じゃあ先帰っていいわよ」

「お前はどーすんだよ。マジで閉まっちまうぞ」

 菅原は憂鬱そうに空を見上げる。夕日に何かを懇願しているかのように。

「ちょっとだけここにいるわ。すぐ帰るから心配しなくていい」

 そう言って、また明日、と小さくつぶやく。

 耳を澄ませて、ようやく聞こえるくらいの小さな声だった。


 また明日――


 明日も菅原と会う。

 それはもう、ある種避けられないイベントになってしまっている。

 シュミレーションゲームでよくある、制作スタッフが力を入れて用意したイベントのように――

 そんなイベントはやっぱり、主人公にとって大きな影響を及ぼすことになるのだろうか。

 螺旋階段を降りながら、そんなことを考えてしまった。

 夕日が細く差し込んでくるこの階段は、そういうセンチなことを考えさせてしまう魔法の力を持っているらしい。


 一応、C組の教室をのぞいてみたが、星野たちは先に帰ったらしい。

 まあこの時間だし、教室の鍵はもちろん閉まっている。

 明日星野と紗月になんて話せばいいんだろう。

 悩み事を相談された、なんて言っても、なんで俺が、ってことになるのがオチだ。かといって真実を全て話すわけにはいかない。俺の秘密がバレてしまう上に、菅原を裏切ることにもなるからな。裏切るってのは言いすぎかもしれないけど、他人を巻き込むのはどちら側からしても理にかなってないよな。


 記憶が消える――か。しかも単なる記憶喪失じゃない。

 消え続ける――

 ちょっとした言葉に「続ける」を付け加えるだけで、それは大きく意味を変える。変えるというより、残酷さを増す、とでも言うべきか。

 怪我をする、怪我をし続ける。後者のほうが何倍も残酷に聞こえる。まあ、怪我をし続けるなんてことは相当運の悪いやつじゃないとあり得ないことなんだが。

 でも実際に菅原はそのような状況下にいる。

 怪我みたいな身体的な害はないが、むしろそっちほうが軽傷なんじゃないかと思うくらい、精神的ダメージが大きい。相当運が悪いのだ。

 運のせいかどうかなんてわからないけど、実は糸を引いている黒幕がいる、なんてとてもじゃないけど考えられない。

 そして、記憶が残り続ける俺は、消え続ける菅原と、何をどのようにして解決していけばいいのか。

 3年悩んで思い浮かばなかった解決策が、そうも簡単に、それも一晩で思いつくとはとうてい思えない。仮に思いついたとしても、それはやっぱり一時的な対処になるのだろう。

 やっぱり技術的なものに頼るしか……脳の専門家であったり、精神カウンセラーに。

 もとい、そんなもので解決するなんてまずあり得ないんだが。

 もちろん試したわけじゃない。試す価値すらない、という結論に至ったのだ。

 2年も経てば、さすがに思いつく程度の解決方法はだいたい試行錯誤を繰り返してみたりしている。

「異常な記憶力」については嫌というほどネットで調べてみたし、書籍もいくつか読破してみた。卓越した記憶力を持っている人っていうのはやはり世界に何人かいるらしい。

 だけど、俺と彼らには決定的な違いがある。

 彼らは、その記憶力を自在に使える。つまり、これは覚える必要がある、と思ったものだけを覚えることができるのだ。もちろん、人間本来の記憶力として自然に、風景を覚えていったり、人の名前を覚えたり、というのはあるが。

 それでも一切合切、事物選ばず、ということはない。そんなあり得ない記憶力の情報なんてもちろん、ネットにも書籍にも記されているはずがないのだ。

 そんなあり得ない状態から、一体いつ抜け出せられるのだろうか。

 菅原魔綾もそれと同じような感じで、「あり得ない状態」ということになるのだろう。

 念のためネットで検索エンジンにかけてみたりは試してみるつもりだが、おそらく実例なんてものは存在しないんだろうな。もしそんな境遇の人が他にいたとしても、ネットの掲示板なんかに軽々しく書き載せたりはしないだろう。

 誰も信じてくれないし、信じる者がいたところで――と行き詰ってしまうのがオチだし。

 とりあえず、まずは単純思考。

 さすがにこれくらいは……と言えるレベルの対処法でも箇条書きにしておこうか。もしかしたら菅原がまだ思いついてないものがあるかもしれないし。

 まさか徹夜なんてしなくていいよな。記憶に関しての問題はまあ、長期的思考で地道に解決策を練っていけばいいし、何より睡眠時間てのは人間が健全に生活していく上でかなり重要な習慣だ。



 そして、8時間という充実した睡眠だったにも関わらず、目覚めの悪い朝がやってきた。

 起きて最初に思い出すのは菅原魔綾のこと。

 単に、昨日あいつと出会った衝撃が大きかっただけだと思うが、なんだか腑に落ちない。全ての事象を記憶できる俺が、最初に思い出すのがあいつなんて。

 というより、そんなことを考えてしまっている自分に驚いた。

 昨日松本や星野に言われた通り、俺は他人に興味を示すことがほとんどない人間だ。目にした全てを記憶の中に閉じ込めてしまう。その能力のせいで人のことを考えるのが嫌になっていたのかもしれない。

 今日の電車の中でも、ほとんどが顔を覚えている人間だった。誰が何をしながら電車に乗り、電車を降りるのか、そんなことをいちいち覚えていても全く意味がないのに。

 それでも記憶の貯蔵庫は容量オーバーを知らせる鐘を鳴らすことはなかった。

 それどころか、またひとつまたひとつと頭の中に収納されていく意味のない記憶。記憶というより、もはや寄生虫のようだ。もちろん、そんなこと菅原の前で言えるはずもない。贅沢な悩みだと言われるに決まってる。



 電車を降りて駅の改札を抜けたとき、目の前に立っていたのはいつもの星野ではなく、菅原魔綾だった。そうか、星野は今日から朝練が始まるとか言ってたな。いや、問題はそこじゃない。なんて菅原が駅で俺を待っているのかってことだ。まさか昨日の話の続きを朝っぱらからするつもりじゃないだろうな。

 にしてもなんで俺が電車通学なのを知ってるんだろう。

 紗月と一緒に、俺をさがしてるときにでも聞いたんだろうか。ていうか、人を待つなんてことができるやつだったんだな。

 まあそんなことはどうでもいい。それより日をまたいだせいか、まるで初対面の人を見ている気がしてしまう。

 しかし、風でたなびくクリーム色の髪と不機嫌そうでツンとした表情は菅原魔綾に間違いない。

 早く話しかけろと言っているような顔をしているので俺はしょうがなく声をかけてやる。

「よう、何してるんだ」

 わざとらしく棒読みの口調で言ってみる。

「何って、決まってるじゃない。あんたが一晩かけて考えに考えぬいた解決策を聞くためにわざわざ待ってやってたのよ」

「あのなあ。一晩で考えてどうにかできる問題じゃないのはお前もわかってるだろ」

「まさかあんた、何も解決できそうにないのにのこのことやって来たわけ?」

「待ってたのはお前のほうだけどな」

 菅原は何も言わなかった。もしかして、少しでも言い負けそうになったら黙る、なんて小学生が考えそうな反抗でもしてるんじゃないだろうな。

 でも、とりあえず無言なら、俺からまた何か言わなくちゃいけないってことだよな……。

「まあアドバイス程度ならしてやれるかもしれないぞ」

「最初から解決策なんて期待してないわよ」

「さっきの発言とだいぶ矛盾してるぞ!」

 そこで一旦会話は中止。

 通勤、通学する人混みに、押されるように駅を出た。

 ちらちらと知り合いの姿も見えた。彼ら側からすれば俺が美女と一緒に登校しているように見えてしまうことだろう。見えてしまうというか、まあ実際に一緒に登校しているということに間違いはないのだが。それには不純の欠片もない確固たる必然性を持った理由が存在することなんか傍から見てもわかるはずがない。

「で、アドバイスって何?」

 前を向いて足を運びながら、単調な声音で菅原は言った。

「もうすでにやってることだったら悪いが、一応言っとくか……お前、日記とかつけてるか? その日に起こった出来事だとか、人とどんな会話をしたかだとか」

「も、ももちろん!」

 つけてなかったらしい。

 ももちろんてなんだよ。桃恥論なんて変換してみれば卑猥な用語にでもなりそうだな。 そんな言葉は絶対に存在しないけど。

 いや、そんなことより。

「日記ってほら、嘘偽りなく書くんじゃなくて、多少美化して書くこともできるし、嫌なことは無理に書く必要もないだろ? だからお前の場合、忘れることを前提にして書けばかなり楽しい日記が書けると思うぜ。まあ完全な真実が書きたいってのもあるかもしれないけど」

「あんた相当ひねくれてる」

「そうでもないだろ。まあたしかに、自分の記憶が消えることを逆利用してるみたいになってるけど、まあそれくらいのハンデは許されるんじゃないのか?」

「甘い! 甘すぎるわ!」

 聞いたことあるようでないような台詞だな。

「それと、さっきからまるでわたしが日記をつけてない、みたいな言い方してるけど」

「ああ、悪い。日記つけてるんだったな」

 と、少し呆れた口調で言ってみる。

 こいつ、実はちょっとバカなのかもしれない。記憶が消えるってわかってるなら日記くらいつけるよな普通。ほんとに全く対策してなかったのかよ。

「でも日記って面倒じゃない? それに、その日あった出来事を全部書くのって物理的に不可能でしょ。心の内面とかまで詳細に書くことなんてできないし」

「でもせめて交友関係がどういう状態だとか、そういうことだけでも書いておいたほうがいいだろ。ほら、昨日のひと悶着みたいなの――もう経験したくないだろ?」

 昨日のこと、それを思い出したのか菅原は少しうつむく。

 よほどショックだったのだろう。

 まあそれもそうか。あれだけ責められれば誰だってそうなる。しかも、全く知らない相手に、正確に言えば忘れてる相手だけど、そんな人たちにいきなり罵倒されるなんてこと、想像するにも恐ろしい。

「まあ一応書いてみる……日記」

 菅原はあからさまに声のトーンを落として言う。

 ていうか、日記書いてなかったことを公言した形になったがそれはもういいのかよ。

 と言いたかったが、途端にテンションが低くなった菅原を前に、それは言わないでおいたほうがいいという結論に至った。



 C組の教室に入ると、何やらざわついている様子が雰囲気で伝わってきた。

 俺はすぐに勘付いた。みんなの目線の先を見れば一目瞭然だ。

 明らかに注目を浴びているのは菅原魔綾。

 俺と同時に教室に入ったせいか、俺まで不審の目線を浴びてしまっている。

 やっぱりな。

 こいつと一緒に行動するってことは、俺だって注目の的になってしまうのは当然。

 一年かけて取得した優等生というレッテルが早くも境地に立たされている。

 もちろん、菅原がこれほど注目を浴びているのはやはり昨日の騒動のせいなのだろう。

 高校生、特に女子の情報伝達スピードは尋常じゃない。関心してしまうほどだ。

 それに加えて、噂は人を伝う毎にその正確さを失っていく。あるいは、人が興味を抱きそうな部分だけ肥大化されていく。

 噂というものは決まってそういうものだ。

 菅原が悪いってことにはもちろんなってるだろうし、良いほうに噂が形を変えるってのは考えにくい。

 その当人、菅原はというと、

 まあそうなるよな――

 明らかに不機嫌そうな面、顔には出さないよう気を使ってはいるのかもしれないが、その試みは明らかに成果を導くことはできなかった様子だ。

 もとより無愛想な表情であるが故、一般人で例えるなら、本気でキレてるときのような状態にまで到達してしまっている。

 目は獲物を見据えたように濁り、口元では唇を噛み締めている。これでも、相当我慢しているはずだ。

 そんな菅原を見るや、C組の生徒たちは素早く顔を伏せる。

 あたかも、菅原のことなんて一切話してなかったかのように、昨日の夕飯の話や部活の話などをわざとらしく喋り始めた。

 やっぱり、陰口ってのは陰で言うべきだよな……。本人には絶対聞かれないような場所で。

 でも、学生としては教室でクラスメイトのことを聞こえないように喋るってのは避けられないのかもしれない。

 羽賀の件だって、俺と星野は教室で喋ってたしな。

 それに、菅原の件は別に陰口が聞こえたわけじゃない。

 雰囲気なのだ。

 それだけで十分すぎるほど把握してしまう。それほど話題性に富んだ事件だったのだろう。


「すでにクラス全体に広がっているらしいな」

 俺は小声で言った。

 巻き込まれないために他人のふりをするってのが妙策だったのかもしれないが、俺がここで菅原を律しないと何かが暴発してしまう気がしたのだ。

 何か、というのはもちろん菅原本人の怒りである。

「昨日言い争った野口ってやつの仕業ね。でも自分で選んだことなんだから、気にしてたらキリがないわ」

「じゃあ今にもキレそうなその顔はなんだよ……」

 正確に言うとキレそう、ではなくキレている、だ。

「これは敵を撃墜するための顔技よ!」

「お前は顔の表情だけで敵を撃墜できるのか!」

 いや、たしかにできそうではあるが。

 で、その顔って技だったのか……。

「あんただっていつも不機嫌そうな顔してるじゃない。あれは、俺と接触しようだなんて難攻不落の一言に尽きるぜ、って顔で表現してるんじゃないの?」

「そんなダサい台詞を顔で表現なんてできるか!」

 お前とは違って、俺は恵まれない顔の持ち主なんだよ。本当に機嫌が悪くて機嫌悪そうな顔するって、今自分がどんなに贅沢なことをしているのか理解してもらいたいものだ。

「で、そんなことより、あんたはいいの?」

「何がだ?」

「あんたまで注目浴びちゃってるみたいだけど、さっさと席についほうがいいんじゃない?」

 そう言い残して、菅原はさっさと自分の席に行ってしまった。

 相変わらず、テンションの変化自在なやつだよな。

 にしても、教室に入るや否や口論を繰り広げる俺たちって、かなり変な目で見られてただろうな……。

 これで、俺と菅原は知り合いだってことがバレちまったし、ここまでくれば野となれ山となれだけど。

 それと、菅原の最後の言葉――

 これってやっぱ気を使ってるってことなのか。

 昨日は、記憶が消えて間もないってことで焦っていただけなのかもしれない。俺に助けを求めたのも、もしかしたら衝動的なことで――

 本当は、巻き込んで申し訳ない、とでも思っているのかもしれない。

 まああいつに限ってそんなことはないか……。


 あいつに限って――


 俺は菅原の何を知っているというのだろう。

 昨日会ったばかりの菅原の、何を理解できたというのだろうか。

 きっと、まだ何も確定事項なんてない。

 自分がこうして、菅原とどうする、なんてこともまだ整理できていないのに、何を気取った思い違いをしていたのだろう。

 厚顔無恥というか、自意識過剰というか、俺ってそういうとこあるよな……。

 こういうことを考えるのもまた、自己陶酔しているだけなのかもしれないけど。


「さあて、昨日の話を詳しく聞かせてもらおうかね!」

 朝っぱらから眩しくて目を逸らしたくなるほどの笑顔で登場したのは、もちろん星野である。

 さて、どう誤魔化したもんか……。

「昨日、一体菅原さんと何があったんだ? 今日も一緒に登校してたみたいだし。一日で友達になるなんて瑛司にしてはやるじゃん」

「それがどうも、あいつ相当頭悪いらしいんだ。学年最下位になったこともあるらしい。それで学年1位の俺に相談しに来たってわけ。まさか、本当に勉強関連のことだとは思わなかったよな」

 咄嗟に出た誤魔化しにしては、上々の出来上がりである――

 ――とは、どんなにポジティブに考えても、思えなかった。

「へぇ……それで友達になったと……」

「友達ってほどでもないけど、ほら、今日も英語の小テストがあるだろ? 単語ひとつ覚えるのに2時間もかかるっていうから、効率の良い暗記法を教えてやろうってことで朝集合したんだ。やっぱ相当頭の悪いせいか、電車に乗るのも一苦労だったみたいだぜ」

 躍起になっている俺がいた。

 口調の具合は無論、真面目の一辺倒なんだが、言ってることが常人のそれではない。

 いや、相手は星野だ。あの単純野郎なら大丈夫だ。

 疑わしげに目を細めてるあたりが気になるが。

 それと、教室の右端あたりから殺気を感じたりもするけど、気のせいだろう――気のせいだと思いたい。

 そして、気のせいじゃなかったことがわかってからも、俺はしばらく現実を逃避し続けた。

 その結果がこれだ。

「あんた、なにあることないこと言ってんのよ! 英単語覚えるのに2時間かかる? 2時間あれば100個は覚えられるわよ! それに、頭悪過ぎて電車に乗るのも一苦労って、それ頭悪いっていうか一般常識のない変人じゃん!」

 菅原魔綾のプロフィールに、つっこみスキルは皆無、が付け加えられた。

 そして言うまでもなく、教室中の目線は菅原に注がれた。今自分が置かれてる状況を忘れてしまったんだろうか。

 教室は完全な真空状態のように、静まりかえっている。学校中で噂になっている当人が、いきなり大声で低スキルのつっこみを入れたりすればそれは避けられるはずがない。

 ガラガラっと勢いよく教室のドアが開く。

「どーもどーも! C組の皆さんおはようございます!」

 このタイミングで厄介者の登場である。

 いつも通り、陽気な声で教室に入ってきた(入ってきてしまった)のは紗月だ。

 もちろん、C組の全員が見て見ぬふりをした。

 紗月が誇る、空気の読めないっぷりは異常なわけだが、今日に関して言えば、今までのそれを遥かに凌駕している。

「あれ、なんか間違えちゃった?」

 お前はいろいろと間違えてるよ。

 それにしても、C組の連中がここまでだんまりを決め込んでいるのもある意味すごいよな。紗月の知り合いじゃないにしたって、なんらかの反応くらい示してもおかしくないのに。

 C組に大人しいやつが多いっていう情報は、確かに間違いなさそうだ。

「もっかい入り直すね……」

「入り直さなくていい!」

 そんな愚行は許せなかった。左端最後尾の星野の席にいた俺のつっこみは、教室中に響き渡った。

 そして、教室は静かなままだった。

 ここは何をしてもすべってしまう異空間かよ!

「そっかそっか、じゃあとりあえずそっち行きますー」

 と言って、紗月は俺と星野のいるところまでやってきた。

「これなんなの? あたし間違えて職員室にでも入っちゃったのかと思ったよ」

「菅原がやっちまった、とだけ言っておこう」

「瑛司と?」

「と、ってなんだよ! 言葉を勝手に肥大化させるな!」

 紗月は、下ネタも許容できる、ていうか自ら発する数少ない女子である。星野は、そこは評価できる、と言っていたが、健全な女子を表面だけでも保ってほしいというのが俺の意見だ。

「だってー。昨日あんなことやこんなことがあったんじゃないの? それ聞きにわざわざ遠いところからC組まで来てあげたんだよ」

 毎日来てるじゃねーかよ。それに、A組からC組までは1分で到着できる。

「期待させて悪いけど、そんなことは一切なかった。まあ知り合い程度にはなったけどな」

「なーんだ、つまんないの。とうとう瑛司にも彼女ができたかと思ってお祝いをどうするかとか考えてたのに――瑛司のことだから、肝心な場面でなんか失敗でもしちゃったんでしょ」

 んなこと考えてたのかよ、こいつ。

 とてつもなく、余計なお世話だ。

「肝心な場面なんかなかったよ。悪かった色恋沙汰が全くない男で」

 そういえば、紗月の恋愛事情は全く把握できてないな。

 噂でも聞いたことはないし、自分から言い出すことももちろんない。実は、こそこそと裏で遊んでるのかもしれない。

 まあそこらへんは俺には関係ないことだし、教えられないような内容じゃない限り、本人から話してくるだろう。

「なんか教えられないようなことがあったみたいだし、ほっとけばそのうち明るみにでるんじゃないかなあ」

 ボソッとつぶやいた星野の発言は、たしかに的を得ていた。

 これから菅原と一緒にいる時間が多くなる可能性は高い。それを踏まえると、妙な勘違いをする連中もでてくるだろう。高校生なんかは特に、浮いた話が大好物だからな。

 まあ、さすがに記憶に関するなんちゃらってのが出回ることはないと思うけど、後ろめたさのない真実を嘘で覆うっていうなんとも煮え切らない感じがややこしい。

 まあ、信じてもらえるような話でもないし、お互い秘密ってことになってるから仕方がないか。

 その肝心な菅原はというと――顔を机に突っ伏している。

 強情なのか弱気なのか、さっきの低スキルつっこみは顔も表に出せないほど恥辱的だったらしい。

「おーい、菅原さーん。なんで寝てるの、朝だよー」

「おいバカっっっ!」

 ちょっと目を離した隙に紗月は菅原の前に素早く移動していた。これは大惨事になり得る。

 いやまあ、菅原と紗月は昨日一緒に俺を探してたわけだし、別に気まずいってこともないはずだが、今の状態の菅原に紗月という名の油を注せば大破することは間違いない。

「ん…誰あんた――あ」

 顔を上げ、紗月を確認した途端、彼女は逃げた。

 とてつもなく、なめらかな動きで。

 そういう意味では、一応油としての役割を紗月は果たしたらしいけど、なんで紗月から逃げる必要があったのかは全くもって意味不明だ。

「あれ、菅原さんどうしたのかな? あたし何か悪いことしたっけー? あーもう今日のC組なんか変だよ!」

「今は誰とも話したくないんじゃないのか? ほっといたほうがいいと思うぞ」

 誰とも話したくない、というのは差し詰め間違っていないはずだ。

 さっきの微妙な赤っ恥事件は置いといて、それ以前に菅原にとって悪い噂が流れているのだ。昨日の騒動、それがどれほど菅原の内心に重くのしかかっているのかは、本人が隠しているとしか思えないほどの重量があるはずだ。

 よくよく考えてみれば、紗月と星野はまだその噂を聞いてないのだろうか。

 情報通で友達も多いこの二人からしてみれば、いずれは学校中に広まりそうな噂が、耳に届かないはずがない。

「ちょっと静かにしてくれないかな? 勉強している人だっているんだし、もうすぐ朝のホームルームだろ」

 一瞬、C組全域に緊張が走る。

 特に、俺と星野のそれは他の人に比べてかなり大きな衝撃だったはずだ。

 俺たちに注意を促してきた人物、それは羽賀裕一だったのだ。

 羽賀といえば、星野に聞いた話の影響で俺の中では危険人物ナンバーワンの称号を手にして間もない。

「ああ、すまないすまない。これから気をつけるよう俺からも言っておく」

 星野の咄嗟のフォローが入り、羽賀も前を向いて体制を元の状態に戻した。不覚にも、冷や汗たらたらの俺は小心者極まりない。

 うるさかった連中を注意したってだけなら、本当にただそれだけなら、わりと日常茶飯事に起こり得る出来事なんだけど、羽賀の過去を知ってしまった俺からすれば――そして学年トップの俺からしてみれば、それは事件とすら呼べる衝撃シーンに成り上がってしまったのだ。

 別にシャーペンを突き立てられたわけでもないんだがな、心臓には何かが突き刺さったような感覚にはなったが、これもまた、実害があったわけでもない。

 でも一言だけ言わせてほしい。

 朝のホームルーム前から勉強してるのはお前だけだ!

「じゃあわたしそろそろ帰るね。なんかすごく居づらいし……じゃあまたね!」

「お、おう」

 唐突にやってきて、自分の教室へと唐突に帰っていく紗月。

 まあ逃げたくもなるよな、いきなり無音空間のC組にやってきて、ちょっと騒いだだけでガリ勉野郎に注意されたわけだし。

 で、結局菅原のやつはどこまで逃げたんだろうか。

 逃げる必要性も全くもって理解できなかったが、微妙な関係の人間を前にして、逃げたくなる気持ちはわからないこともなく、俺はどうにも複雑な心境であった。



 結局、朝のホームルームどころか、昼休みを迎えた今でも菅原魔綾は教室に戻ってきていない。

 まったく、行動のひとつひとつが意味不明だ。

「あれ、菅原さんどこか別のとこで食事中?」

 星野と二人で弁当を広げていると、毎度の如く紗月がやってきた。

「いや、まだ帰ってきてないみたいなんだ。早退してるわけでもないらしいし、もう俺には手に負えそうにない。ほっときゃ、何食わぬ顔でそのうち帰ってくると思うけどな」

「あたし何か悪いことしちゃったかな。もしそうなら聞き出して謝らなくちゃ!」

「別に紗月は何もしてないだろ。あいつが勝手に逃げ出しただけだ」

 紗月に非がないのは一目瞭然だ――だというのに、紗月の表情はいつもと打って変わり、暗いままである。それほどまでに気に病む理由が俺にはわからない。

「紗月ちゃん、何かあった?」

 星野も、紗月の顔色から何かを窺ったみたいだ。こいつ、意外と気の使えるやつだからな。

「あたしに何かあったとかじゃないんだけど、聞いちゃってさ……菅原さんの噂……」

 とうとうその噂は、A組にまで届いてしまったらしい。

 それもそうだろう、あれだけのギャラリーの中にA組の生徒が一人もいないってのは考えにくい。

 それに、噂を流した張本人であろう野口裕子はC組の生徒ではないのだから、C組だけに広まってるなんてことはまずあり得ないだろう。

「星野もどうせ知ってんだろ、その噂のこと」

「ああ、黙ってて悪かった。朝みんなが話してたから自然に耳に入ってきたよ」

「で、紗月。その噂の内容聞かせてみてくれ」

 菅原を助けると誓った時点で、俺は知っておかなくちゃいけない。何事も知ることから始まる。

「うん、わかった。あくまで聞いた話だから正しいかどうかは自分で判断してね」

 そう言って、紗月は続けた。

 情報通の紗月が、これほど訝しげに、不安を押し殺したように、情報提供をしているのを見るのはこれが初めてかもしれない。

「菅原さん、仲良かった女の子がD組にいたんだって。名前はたしか……長谷川さん、だったかな。それで、昨日その子がいつも通り菅原さんに声をかけたんだけど、菅原さんは無視しちゃったらしいんだ。それで、あまりにもしつこいからっていろいろ言っちゃってたらしいよ。何を言ったのかは本人たちじゃないとわからないらしくて……それで、昨日D組の人が菅原さんとそのことで喧嘩して、菅原さんは謝りもしないで帰っちゃったとか。でも、昨日菅原さん、放課後までいたよね。だからこの噂がどこまで本当なのかわからなくて、それでいろいろ悩んでたの」

「なるほどな。お前のことだから、菅原がお前から逃げたのは放課後いたことを知ってるからだとか、それで自分にも幾分か責任があるとか思ったんだろ? もしそうなら、それは間違いなく考えすぎだぞ。あくまで、これは菅原自身の問題なんだからな」

 紗月は、陽気な表とは裏腹、多少自己犠牲精神を持ってるやつで、すぐに人の心配ばかりしてしまう癖があるのだ。本人はそれを隠そうとしているみたいだが、中学から一緒にいれば、そのくらいのことはわかってくるものだ。

「そんな優しい人間じゃないよ、あたしは……」

 そう言って黙りこくってしまう紗月には、何か別の悩みを抱えているようにも見えたが、それが具体的に何なんのかというところまで見透かせるほど俺の洞察力は優れていなかった。

 言わなければ解決しないこともあるのだと、そんな言葉をかけてやるには、俺の人間性としての力量が足りていない。「でもそれって、やっぱ菅原さんに問題があるというか、たぶん事情があるっぽいよなー。無視してしまった理由だとか。理由もなしに友達を拒絶したりはしないっしょ?」

 妙な空気に修復しようとしてくれたのか、星野がそこで割って入る。

「瑛司は何か聞いてないの? 昨日ずっと菅原さんと一緒にいたわけでしょ?」

「ずっとってわけでもないけどな、下校時刻には別れてたし」

 もちろん、菅原は記憶を失っていてそれで昨日のような行動に出てしまった、なんて言えるはずもなく、場の流れに従って返答するしかない、なんともやりきれない感じだ。

 それにしても、D組の長谷川って人は菅原に何を言われたか公言してないんだろうか。

 噂を流して徹底的に菅原を追いつめるためには嘘情報でもなんでも、暴言の数々を言い並べてもいいはずなのに。まあ友達だったわけだし、いきなりそんな天地がひっくりかえったように嫌いになる、なんて不可能なのかもしれない。喧嘩することを避けて、本当の自分を友人に見せることもなく、世間で皮肉に使われる「上手い生き方」を貫いてきた俺には到底わかるはずもない話だ。

 それはともかく、この状況をどう打破するかが今の課題か……。

 記憶がないって言ったって誰も信じてくれないだろう、それは昨日の騒動で証明されてる。それに、例え記憶喪失が信じてもらえたとしても、それが友達を切り離す理由にはならない。自暴自棄になってしまうなんて、それは実際に記憶がなくなってしまわないとわからないのことだ。

 人の気持ちになって考えるだなんて、生まれつき人間にはそんな能力、備わってなどいない。

 だけどそれは言い訳にはならない。

 自分に非があったことは理解してるみたいだし、菅原自身がその長谷川って人に謝るしかないな。

 菅原は被害者でもあり、加害者でもあるのだから――

「あっ」

 星野の目線を辿ると、今にも消え入りそうな顔つきで菅原魔綾が戻ってきた。いつもの無愛想面に加え、何もかもを放棄したがっているような、そんな負の感情が思いっきり顔に表れている。

「ちょっと行ってくる」

 俺は二人にそう言い残して、菅原だるそうに座っている席に向かった。

「現実逃避してる場合じゃないぞ。昨日のことが噂になってることくらい、もう耳に届いてるよな?」

「耳には届いてないわ。ただ、みんながわたしを見る目で十分わかる」

 相変わらず屁理屈好きなやつだ。そこまで元気があるなら、この状況をなんとかしようって考えに思い至ってもいいはずなのに。

「じゃあ何をすべきかわかってるよな?」

「は? 学校やめろとか? それは無理、一応両親がお金払って通わせてくれてるわけだし、それは自分の中だけで解決する問題じゃないわ」

 って、それボケてんのか真面目に言ってるのかよくわからない台詞だな。

 ちなみに、ここはひと悶着起こしちまっただけで、責任をもって退学しなきゃならないほど校則のきつい学校ではない。

 むしろ、うちの校則は非常にゆるい。

「バカだろお前。このままハブられたままでいいのかって言ってんだよ。このまま噂が流れっていっていずれは学年全体に広がるはずだ。お前はそれでいいのか?」

「じゃあどうしろって言うの。実際、ハブられる理由になるだけのことをわたしはしてしまったのよ。友達を……友達でいてくれたはずの子に、ひどいことをしたんだから……」

「簡単だろ、謝りに行けばいんだよ。その友達でいてくれた子に謝りに行くんだよ」

 これしかないよな、実際。

「無理、わたしには無理よ」

「はぁ? なんで無理なんだよ。自分が悪いってわかってるなら謝るのが普通だろ、ってかお前にはそれ以外、道は残されてないと思うぞ」

「勝手に決めないでよ。昨日会ったばっかのあんたに、わかったようなこと言われたくない」

 勝手に決めないでって……決めてるんじゃない、決まってるんだよ。

 悪いやつが謝る、これは全世界共通の流れのはずだろ。

 それとも、記憶がない自分に過去の友達は今更必要ないってのかよ。

「お前、ほんとに一人になっちまうぞ――それでもいいなら、俺はもうお前を助けようとは思わない」

 思えるはずがない。

 だってそうだろ、今の状況に甘んじようとしてるやつを助けるだなんて、そんな善人に俺がなれるはずもない。ましてや、他人の幸せなんてこれっぽっちも願えないような人間の俺に、正真正銘の善意なんて微塵も持っていない俺に――そんなことをするのは望むべくもないことだ。

「そっか――一人になるんだね、あんたもわたしから離れて……」

 俺はそんな菅原の言葉を無視し、歩きだしていた。昼休みはもうすぐ終わる、それでもどこか教室から離れた場所に行きたかった。

 菅原との論争から逃げたわけではない。

 話し合う必要性がないと結論づけたのだ。

 必要性ってのは必ずしもそこになくてはならないものではないことくらい、わかってる。それでも、菅原の為に何かしてやろうなんて思えなかった。

 何をすればいいかわからない内容なら尚更だ。


 気がつくと、俺は屋上に来ていた。まあ、ここにたどり着くべく階段を上っていたわけで、無意識だったなんてかっこつけたことは言えない。人気がなくて、落ち着ける場所なんてここくらいしかないし、未成年じゃなけりゃ、ここは絶交の喫煙スポットになっていただろう。そうなれば、うちの高校で初の不良になる千載一遇のチャンスだったかもしれない。

 チャンスというよりは、むしろピンチな気もするが。

 でも学校の偏差値から言えば、授業をさぼって屋上に来ている時点で十分不良だよな。

 えーっと、次の授業は……たしか、体育だったな。体操着に着替えるのに5分はかかるし、もうさぼる以外に選択肢はなさそうだ。

 あ、そういえば、屋上からグラウンドって見えるよな――

 誰もいるはずがないのだが一応屋上全体を見渡しておいて、俺は屋上から顔だけ乗り出すように校庭を覗いた。

 やっぱり、見える――

 グラウンドには、C組とD組の合同体育の授業の様子が驚くほど明確に、視界へと飛び込んできた。

 授業開始のチャイムと同時に、教師が生徒をまとめている。声こそ聞こえないが、見慣れた光景は上から見下ろしてもだいたいわかるものである。

 授業内容は、今学期はテニスで始まるらしい。そして、一人一人にラケットが配られる。

 二人一組でペアを組めと、教師からの指示――


 菅原は一人だった。

 俺の助言した通り、菅原は一人取り残されてしまったのだ。

なんだよこれ、もういじめの域に入ってるだろ……。

 もちろん、欠席者がいて人数が奇数になってしまったとか、そういうことも考えられるが、それにしたってなんで自動的に菅原が余ることになるのか……となるとやはり、あの噂の所為だとしか思えない。

 たったひとつ、自分に不幸が訪れ、それによって感情がコントロールできなくなって、自暴自棄になって、それで新たなる不幸が訪れてしまう。

 そんな悪循環は不公平すぎる。

 神は人を平等に創造した、なんて言う有神論者が身近にいれば全員殴ってまわりたい気分だ。すぐ暴力に走る人間にだけはなりたくないのだが、ついそんなことを思ってしまう。

 グラウンドでは、菅原は教師に何かを言って校舎内へと戻って行った。おそらく、体調が優れないだとか言って抜けだしたんだろう。

 正しい判断だと思う。俺だって同じ状況ならそうしていたはずだ。

 一人になった人間は、逃げることしかできない。ゲームや漫画の主人公でもない限り、一人だけの抵抗なんてものに挑戦しようだとか言う人間が、現実に存在するはずがないのだ。

 そして俺は、どうすればいい。

 菅原魔綾の秘密を唯一知ってる人間として、何かすべきではないのだろうか。

 だけど、菅原本人は今のままで言いと、俺の前で断言している。

 謝りたくないと、そう言った。


 いや、それは間違っているな――謝りたくないとは言っていない。無理と言っていたのだ。

 それは、不可能という言葉に置き換えてもいいのだろうか。言葉の真意は、『謝りたいけど謝れない』そう言っているのかもしれない。

 気持ちはわからなくもないけど、喧嘩した友達に謝るなんて小学生でさえ簡単にしてのけてしまう簡単作業だぞ。いくら菅原がプライド高き人間だからって、そんな単純に解釈していいものだろうか。

 簡単なことだ、友情を取り戻すことくらい――

 そんな風な言葉が続くのが定型なんだろうけど、なそんなことは口が裂けても言えない。

 そう考えを改めざるを得なかった。

 菅原は記憶を失っている。加えて、これからも――


 記憶を失い続けていく――。


 そんな途方もなく未知な不幸を与えられた菅原に、友情を取り戻すことなんて簡単だ、と言えるやつがいるのならば、それこそ全員ぶん殴ってまわりたい。

 例えば、さっきまでの俺とか。

 軽く舌うちでもしてみる。

 肝心なことを、一番重要なことを除外して考えていた自分を今更になって悔やんでしまう。自分の考えを他人に、同じ気持ちになんてなれない他人に押し付けてはいけないなんて、それこそ全世界共通の流れ、ルールにするべきだ。

 ルールなんて人類が誕生して何世紀も経過した今だって、よりよいほうに改善され続けていくものなんだし、特に目に見えないもののルールなんて、正解にたどり着くのは極めて困難だ。

 やっぱり、俺は菅原を理解なんてできていなかったのだ。

 直感ってすごいよな……、直感だけで生きていけば間違いがないんじゃないかと思えるほどに。

 それで、俺はこれから何をすべきなのだろう。

 何かをすべきなのはわかるんだが、具体案が思いつかない。というより、ぼんやりとし過ぎている。

 記憶喪失の人間が友情を回復するために手を貸す。なんて状況、俺自身の経験はもちろん、前例だって見つからないだろう。

 こういうときに、相談できる相手がいるって重要だよな。

 星野だっていつもは呑気に笑ってるだけのやつだが、真面目なときは至って真面目だ。何度あいつの力を借りてきたか、今では数えるに及ばない。

 紗月はと聞かれると言葉に詰まってしまうが、あいつはあいつで、とにかく根っから優しい人間だ。

 優しいっていう表現を選ぶと、どこかとってつけたような褒め言葉に聞こえてしまいそうだが、それを踏まえた上でそう言いきってしまえる。

 なんて、柄にもなく友人を褒めてみたりするが、友人を頼ってみたところで、行動するのは自分自身だということは念頭に置いておかなくちゃな。

 それと、菅原の秘密を話さずにどうやって星野たちに相談するか、まずはそこで俺の力量が試される。




 さっさと仕事を終わらせたい担任の松本、さっさと帰宅するか部活に勤しみたい生徒は無言の意気投合、暗黙の了解を形成している。たぶん、C組だけやけに早くホームルームが終わるのはその所為なんだろう。

 松本のあとを追っていけば、あいつがどこで隠れて喫煙しているのか突き止められそうだが、そんな取るに足らない興味に時間を費やしている暇など今の俺にはない。

 こう言えば格好がつくだろうか。

 仲間の力を借りに出発せねば。

 うーん、援軍が待ちきれなくなって逃亡の理由を探している使えない兵士っぽくて駄目だな。

 そんな内心の独り言はほどほどにして、俺は部活モードに入ろうとしている星野の元に素早く移動した。

「おい星野ー。相談したいことがあるんだけど、部活ちょっと遅れていっても大丈夫そうか?」

「菅原さんのことか?」

「さすがだな。話が早くて助かる」

「今のタイミングで相談って言えばそれしかないだろ? それに、自分の為じゃない相談って感じがするしな」

 なんだそれ。

 そんな感じがあんのかよ。

 でもまあ、ほんと察しがいいよな。毎度そういう読みの鋭いクールキャラを演じればいいのに。

 まあ多少俺とかぶっていまう可能性もあるが。

 いや、クールキャラっていうか、俺は友達が少ないキャラか……。

 泣きたくなるぜ。

「やっぱ、瑛司は菅原さんの味方で、それでなんとかしてやりたいって思ってる感じなんでしょ?」

「まあそんなところだな。味方っていうのは大袈裟というかなんというか、良い感じの類語が見つからないけど、あいつをこのままにしておくのはどうにもいたたまれなくてな」

 なんとかしてやりたいっていうか、見てられないっていうほうが正しい。

「瑛司はほんと成長したよな。これもたぶん菅原さんのおかげなんだろうけど、自分以外の人に対してこんなに親身になってる瑛司は見たことないし、そういうのに興味持たなかったもんな今まで」

「そういうのってなんだよ……」

 まあ他人に興味がないっていうのは事実だが、それが改善される兆しがどこに見えているというのだろうか。

 あと、菅原のおかげってのもおかしい話だ。

 まあ初対面であれだけ言葉の攻防戦を繰り広げられたのは自分でも珍しいというか大したコミュニケーションだったとは思うが、あれは俺が成長したというより、相手が横暴過ぎた、というのが実際のところだろう。

それでも、星野の言葉は重みがあるというか、いつもが軽々しすぎるせいで真面目になると手の平を返したように説得力があるよな。

「でも自分にできることなんて限られてくるだろ? 特に俺なんて言うまでもなく交友関係せまいわけだし、人の考えをひっくり返すようなことができるとは思えん」

 ぼんやりと見えている答えを導くことが不可能だと、明確に見えてしまっている。こういうとき、人間関係の充実が大事だって思い知ってしまうんだよな。

 できれば、認めたくないのだが。

 やっぱり、星野や紗月のように生きれたらどれほど楽だろうと考えてしまう。

 楽っていうのは短絡的な考え方かもしれない。人を物に例えるのは避けたいところだけど、でもやっぱり、便利なものであるということを思い知ってしまう。

 友情やら愛情って、精神的にも身体的にも重要なものなんだろうな。

 こういう場面に陥って、柄にもなくそんなことを考えてしまった

「それでもやるしかないんだろ? 菅原さんの何かを知ってるのは瑛司だけで、つまり、その問題を解決できるのも瑛司だけなんだったら、もう答えは自分の中で見えてるんじゃないのか? 俺に相談するのも、自分の決断に説得力が欲しいだけなんだろ?」

「お前ってほんと、多重人格だよな」

「それって怒っていいところ?」

 軽い笑みを浮かべながら、おどけたように星野はそう言う。

 憎めないやつだよ。

 いや、ほんとに。

「とにかく、具体的な何かが知りたいってんなら答えも簡単だけど、菅原さんのことについて俺にも言えないことがあるみたいだし、俺から言えるのはそれくらいかな。あとは、自分らしさに縛られるなってことくらい」

「自分らしさ――か」

 自分らしさ、っていうニュアンスだけ聞けばポジティブなものだけど、星野が言う、自分らしさ、ってのは、暗に何を示してるかってのはよくわかる。

 自分らしさ、というより、要らないこだわり、って感じか。

 まあぼんやりしてたものが――

「多少見えてきた気がする」

「なら力添えできたってことでいいのかな?」

「ああ、いつも世話になるな。感謝するよ」

 菅原にも教えてやりたい、思い出してもらいたい。

 こんな風に、友情を噛み締める瞬間ってやつを。

 きっと菅原にもあったんだよな――記憶の奥底に沈んでしまっているだけで、記憶喪失ってのは、何かが消えてるわけじゃない。

 というより、そうであってほしい、そう思う。

「で、俺はそろそろ部活行っていいのかな?」

「悪いな、時間とらせて」

「まあ、社長出勤てやつもたまにはおもしろそうだし、俺エースだからたまにはいいっしょ」

「お前エースだったのかよ……」

 うちのバスケ部ってたしか、まあまあ強かったよな。

 それでエースって……。しかもまだ3年生引退してないだろうに。

「ムードメーカー兼エースってやつ、来年あたり、そこにキャプテンという称号もそこに加わるかもね」

「ムードメーカーって自分で言うやつ初めて見たぞ。てかお前、そこまで出世してたのかよ……」

「まあ瑛司みたいな陰キャラには到底たどり着けないような高みさ」

「陰キャラじゃねーっつのーの!」

 といういつもの流れ。

 俺のつっこみは本音と1ミリもずれてないけど。

「まあとりあえず頑張ってこいよ。結果は自然に耳に入ってくるだろうし、とにかく、楽しみにしてるよ」

「それだけ聞くと、俺が、告白しに行く前の勇気を振り絞った男子生徒みたいだな」

「え、違うの?」

「陰ながらお前に感謝していた俺の気持ちを返せ!」

 本気じゃないよな?

 尊敬が軽蔑へと一気に逆転してしまう可能性があるぞこれ。

「まあ恋愛経験0の瑛司にそんなことできるわけないかー。女友達だって紗月ちゃんくらいしかいないしね」

「隠しておきたいプロフィールを脈々と読み上げるんじゃない!」

 女友達か……。菅原はどうなのだろう。まだ友達って感じでもないし、知り合いっていうのも安直過ぎる気がする。

「あ、でも菅原さんは……」

「いいから、さっさと部活行ってこいよ」

 菅原のことは、まあじっくり考えていけばいいし、今はあいつと関わりがあるってのもあんまり公言しないほうが良さそうだしな。

 俺に、守るべき立場なんてないけど、それを守ってるようにも思われたくないし。毒にも薬にもならない選択をするのが一番利口だろう。

「わかったよ。じゃあとりあえず、また明日な!」

「おう」

 そんな軽い挨拶があって、星野は軽快な足取りで螺旋階段を駆けて行った。

 相変わらずマイペース、切り替えが早いやつだ。

 引きとめたのは俺だけど、精神的な部分っていうか、その辺を上手くコントロールできてる。

 単純に生きれたらいいなとは思うけど、単純そうなやつほど複雑な裏を持ってるもんだ。それこそ、一番単純思考の持ち主は俺なのかもしれない。

 そうなってしまえば、自分らしさって一体何なんだろうとか、答えの見えてこない課題にまたぶち当たってしまう。

 結局、こんな記憶力を持っていたって、答えの出ていないものが対象となればなんの役にも立たないってことだ。

 記憶の限界っていうか、結局その程度のものなんだよな。



 翌日、菅原は学校へ来ていたものの、その異常とも言える無気力さが手に取るように伝わってきた

 本当に現状を受け入れられているのならば、そんなことになるはずがない。やっぱり、菅原だってどうにかしたいと思っているはずだ。

 大きな事件にはならないにしろ、依然として噂は火を灯したままだった。

 大人しい連中が多いC組でさえ、体育の授業に引き続き、菅原という人間なんていないものである、という空気が漂っている。

 無視。

 無視というより、放置か。

 この中に、記憶がなくなる以前の菅原の友人はいたのだろうか。当然俺には見当もつかないし、菅原当人でさえ、それを自分の意志で知ることはできない。

 友達であった人物が、自ら名乗り出るしか方法がないのだ。

 でもやっぱり、そんなことを言い出す人物は現れなかった。

 仕方のないことだと思う。いじめを傍観するのも罪だ、なんて言う人がいるけど、それは間違っている。

 人間てのは、まず自分を守ろうとするものだ。

 それが達成できて初めて、人を助けようと思える。

 経験談というわけではないが、無情にも人の本質というのはそういうものである。

 俺は何も気にしていないという風にして、自分の席に鞄を置いた。これからやろうとしていることを菅原に話す必要はない。

 菅原はそれを否定するだろうし、否定されても――俺は計画を中止しようとはしないだろうから。

 ちらっと教室の時計を確認する。よし、朝のホームルームまである程度余裕があって、遅刻常連以外はだいたい学校に着いてる時間帯だ。

 トイレにでも行くかのように、自然な動きで教室を出る。誰も俺の行動なんて逐一見てはいないだろうけど、念には念を入れておいて損はない。

 向かう先はD組。

 同じ階の、隣の教室。

 菅原の友達だった長谷川夢依(はせがわむい)がいる所属しているクラス。

 俺の記憶力を以てすれば、どんな風貌の子だったかは簡単に思い出せる。

 たしか、大人しそうな子だったよな。そうであると助かるのだが、まあそうでなかったとしても、今更引き返すことはできない。

 そしてゆっくりと、数えるくらいにしか入ったことのないD組へと足を踏み入れる。

 D組の教室は、C組ほどではないにしろ比較的静かだった。

 学年トップの成績ということもあって、俺の顔はほどほどに知られている。

 自分の教室に籠っていそうな風貌も相まって、教室全体の注目を浴びることは避けられなかった。

 そんな視線を無視し、俺は対象なる長谷川夢依を探す。

 意外なほど簡単に、その姿を見つけることができた。

 教室の右端、俺がいるドアからのちょうど対角線上。

 ゆっくりと、そしてゆっくり過ぎず、あくまで自然体を意識しつつ目的地に足を運ぶ。

 目的地に到着。

 なるべく注目を集めないよう、俺は静かに声を発する。

「長谷川さん、だよな? ちょっと話があるんだけどいいか?」

 ちょっと高圧的な言い方になってしまったかもしれない。大事な場面に限って、口癖というものは力を発揮してしまうものだ。

 またあとで、個人的に心の中で反省会だな。

「はい……なんでしょうか」

 外見と同様、内面も大人しい子であるようだ。菅原と仲が良かった頃、二人の会話がどのようなものだったのか見当もつかない。

「菅原が謝りたいって言ってるんだ。でも、いろいろと噂が……錯綜してるだろ? それで、俺に呼び出してほしいって言ってきてな。あんまり、時間はとらせないから、放課後屋上まで来てくれるか?」

「菅原さんが……、わたしに?」

「ああ、頼む。あいつも反省してるみたいなんだ。来てくれるか?」

「反省……ですか? でもそれは――」

「あいつを許してやってほしい、と言ってるわけじゃない。一回話をして、判断はそれからでいいんだ。あいつの本音を聞いてやってほしい」

「ちょっと待ちなさい!」

 静かな教室に、閃光のような大声が響き渡る。

 野口裕子。できれば、登場してほしくなかった人物だ。

「夢依! 菅原と会う必要はないわよ!」

「おい、ちょっと待てよ! お前は関係ないだろ。これは当人たちだけの――」

「あんただって、部外者でしょ」

「っ……」

 思わず言い淀んでしまう。

 たしかに、俺も部外者だ。長谷川夢依にとっても、そして、菅原魔綾にとっても、何者でもない。

「それに、あいつと会ったって夢依がまた傷つくだけよ。もうあいつとは関わっちゃ駄目。そう言ったでしょう。あれだけ周りから言われておいて、一切反省しようとしなかったんだから。噂が広まったあとで何か対策をしようなんて調子が良すぎるわ」

「野口さん……私は大丈夫ですよ……私からも菅原さんに言いたいことがあるんです」

「夢依……あんたは優しすぎるのよ。あいつは心から反省なんてしてない、夢依を傷つけたこと、その理由だって話さないんだから」

 話さないんじゃなくて、正しくは話せない、だ。

 そんなことを言ったって、説得力など微塵もないのだが。

 だけど、それでも、あいつには話すべきことがあるはずなんだ。

「それは承知の上だ! 頼む! 一回だけ、菅原にチャンスをくれないか!」

 もちろん、D組の連中は全員、俺たちに注目の視線を送っている。だが、そんなことを気にしている場合ではない。これくらいしなければ、意味がない。

 それだけ、事は大きくなってしまっているのだから。

「夢依、相手にする必要なんてないわ。もう決めたことなのよ。菅原魔綾とは一切関わらないって――」

「頼む! この通りだ!」

 プライドとか、強がりとか、そんなものは、過去の記憶に比べればなんの価値もない。記憶を失うことに比べれば、全然――安いものだ。

「ちょっと……! 急に何よ……」

 俺は、深々と頭を下げていた。言い負かすとか、論破するだとか、そういうことじゃ解決しない論争だってあるのだ。話し合いだとか、そういうものが最良の選択肢なのかもしれないけれど、そんな単純で綺麗なようには、この世の中は創られていない。

「頭を上げてください! わたしは……わたしは大丈夫ですから、菅原さんともう一度話し合います! 話し合いたいんです!」

 強くしっかりとした声が、D組中に響き渡る。

「夢依……あんたはそれでいいの?」

「はい、わたしは大丈夫です! ちゃんと、菅原さんの話を聞きたいんです! ちゃんと、本当の気持ちを知りたいんです!」

 唇を噛み締めながら、大丈夫です、わたしは大丈夫です、と長谷川夢依は繰り返す。確固たる意志を強く表そうとしているように。

 菅原に、自分の声を届けようとしているかのように。

「そう……夢依がそう言うなら、一回くらいは認めてやってもいいわ……」

「本当か?」

「ええ……そのかわり、本当に一回限りよ。もしそれで、反省の色が見られなかったら――」

 野口は、その先を言わなかった。

 言いたくなかったか、言う必要がないと判断したのかはわからない。

 だいたい、予想はつくけれど。

「ああ、約束する。絶対、無駄にはしない」

 全ては菅原次第なんだが、それでも、俺にはそう言わなくてはならない。あいつが自分で自分を救うための、手助けをする為に、俺は菅原を信じてやらないといけない。

「じゃあ放課後、屋上に行けばいいんですね?」

「ああ、頼むよ」

「あの――お名前は?」

「俺か? 俺は嘉神瑛司。菅原と同じC組だ」

 長谷川夢依は、なぜか安心している様子だった。俺の正体が成績学年トップだったということに関してはあまり興味を持っていないらしい。

 そして長谷川夢依は、ありがとうございます。と言った。

 彼女が感謝の言葉を口にした意味は俺にはまだ理解できない。それでも、その言葉が大きな励みになったことに疑いの余地はない。

 当事者本人の口から出た言葉なのだから、俺がしたことは、少なくとも今の段階では間違っていないということだ。



 C組に戻ってみると、菅原はすでに登校していた。

 何食わぬ顔で柄にもなく読書に勤しんでいる。内容が頭に入っているのか疑わしいところではあるが、菅原にとって、立場を失った今の時期は、何かに没頭していないとやってられないのかもしれない。

「おい、勤勉なフリしたって今更遅いぞ」

 話しかけた直後に思い出した。俺たちは若干言い争ったあとの状態なのだった。

 案の定、何事もなかったかのように何をぬけぬけと、といった表情を見せる菅原だった。

 もう慣れてしまったというのが本音だが、その眼光はおよそ殺気を含んでいるかのような鋭さだった。

「何よあんた。あたしのことなんかほっとくんじゃなかったの」

「まあその予定だったんだが、見るに耐えない光景だったもんでな」

「なるほどね。うざい」

「……」

 何がなるほどなんだ、おい。

 恩を着せるようなことは言いたくないが、俺はお前のために頭下げてやったんだぞ。

 まあそれは知られたくない事実でもあるんだが……。

「で、そんなうざお君はあたしに何の用?」

「うざお君か……ひねりがないな」

 ピキピキっと漫画でよく出てくる怒りの音が聞こえた気がした。

 気のせいだということにしておこう。

「一発殴っていい?」

 気のせいじゃなかった。

「殴っていいか聞かれて了承するやつに会ったことあるのかお前は」

「はいはい出ましたお得意の屁理屈」

 屁理屈じゃない、理屈だ。

 てか、そんなことより――

「お前、長谷川さんと仲直りしろよ」

 菅原の表情が一瞬曇る。

 そして、ギラっと俺を睨みつけて言う。

「なんであんたが長谷川さん知ってんのよ。はぁ、あんたも噂に流される連中と同じってわけね。あんたも同じ、そこらの連中と同じよ」

「長谷川さんに会ってきたんだよ」

「はぁ? 何勝手なことしてくれてんの! 余計な心配は無用って言ってるでしょ!」

「心配なんかしてねーよ。仕事を消化したまでだ」

 なんて、ちょっと意味不明なことを言ってみる。

 心の中でリピートしてみても、本当に意味不明なセリフだ。だけど、口から出てしまったものはもう収集のしようがない。

「仕事って何よ。あんた長谷川さんに会ってどうしたの」

「お前と会って話してくれって言ってきたよ。今日の放課後だ」

「あんたってのは……ほんと、ほんとにうざい……」

「うざくてもなんでもいい。とにかく、行って話し合ってこいよ。お前だけじゃない、長谷川さんだって今の状況をなんとかしたいと思ってるんだ。お前を信じた上での行動なんだよ。無駄にしないでくれ」

 先に菅原に作戦を説明しなかったのも、無理矢理状況をつくってやらないと拒否するだろうって考えたからだ。

 無理矢理つくったって、拒否されるかもしれないが、そこはもう菅原を信じるしかない。

 選択肢はひとつしかないのだ。

「信じた上でって――」

 目を伏せて、声のトーンを落としながら菅原は続ける。

「あの子になんて顔をして会えばいいのよ……友達だった頃のことが一切わからないのに、何を話せばいいの……。怖い――あの子に会うのが、でも、あの子にとってわたしに会うことは、もっと怖いはず――」

 それはたしかに、そうかもしれない。

 いきなり菅原から切り離され、それが学校中で噂になり、その当人同士がこれから話し合うだなんて。菅原以上に、長谷川さんのほうが辛いのかもしれない。

 もしかして、菅原はそこに思い至ったから、長谷川さんと会いたくないと言ったのかもしれない。

 でも――それは間違ってる。

 それじゃあ何も解決しないだろ。

 もはやリスクなしで解決するような問題じゃないのだから。

「それでも、長谷川さんはお前に会いたがってたぞ」

「え……?」

「たしかに、お前と会うのは怖いと思ってるかもしれない。だけどな、それ以上に、お前との友情を取り戻したいって気持ちのほうが大きかったんだろ。だから、ちゃんとした意思を持って、お前に会いたいって言ってた。たぶん、何か理由があったんだろうってお前のことを信じてるんだよ。お前には、その気持ちに答える義務がある」

 と、そこで、朝のホームルーム開始をを知らせるチャイムが鳴り響いた。それと同時に、担任松本が教室へと入ってくる。

「おーいチャイムは鳴ってるぞー。席につけよー」

 松本が教室全体を見渡しながら生徒たちにそう促す。

「とにかく、放課後だからな! 放課後屋上だ! 絶対こいよ」

 そう言い放って、俺は自分の席につく。

 あとは野となれ山となれだ。

しかし、正直なところ微妙な作戦だったと思ってしまう節もある。いつもの俺ならもっと有効的な戦略を練ることができていた気もするし……。

 やはり、自分の為の行動ではないということが大きいのかもしれない。特に、菅原なんていう傍若無人、暴言毒舌の塊とも言える人間が対象だし、少々俺の頭が混乱していたっておかしくはないだろう。

 混乱。

 困惑。

 本当に、新学期早々にして精神的に忙しい。

 しばらくすれば、いつも通りの日常が戻ってくるのか。いや、俺自身が、戻ることができるのだろうか。

 そして、菅原との関係はどうなるのだろう。

お互いの秘密を知ってしまった上で、どう接していくことになるのだろうか。

 そんなこと、今考えたところで納得のいく答えが導き出せるとは思えないのだが。

 これほどにまでわからないことだらけってのも随分珍しい。



 時の流れは早い、とは良く言ったものだが、これほどにまでそれを実感したのは初めてかもしれない。1から6限まで、授業内容を簡潔に説明してみろ、と言われてさらっと回答できるものがない。それほど集中力を欠いていた。帰りのホームルーム真っ最中である今もそうだ。

 ある意味、集中力を欠いていたというのは間違いかもしれない。

 別のことに頭を巡らせていたのだ。

 つまり、菅原のこと。

 今日の放課後のこと。

 結局、朝の会話を最後に菅原とは話していない。これ以上無理矢理促そうとしたところで、悪影響だと判断したからだ。あーいう頑固なタイプの人間は、一度考える時間を与えたほうがいい。

 自分を例に挙げるとわかりやすい。

 俺としては、とんでもない皮肉。

 あんなやつと似ている部分があるなんて、なるべく信じたくないが。

 それでも、周りにある種の壁を築いている人間は、同系統の人物を見つけやすくなるものだ。

 同系統か……。外部から見る分には、そんなふうには到底見えないんだろうな。

 そんなことを考えているとあっという間に時間は過ぎ、放課後を迎えた。

 放課後。

 屋上で、長谷川さんと菅原が待ち合わせる時間だ。

 念のため、最後に一言菅原に言っておいたほうがいいだろう。まだ迷ってるとかだと困るしな。

 と、鞄を肩にかけ、菅原のいる最後尾の席の方へと体を捻る。


 いない――


 すでに、屋上に向かったと判断していいのだろうか。

 それとも……。

 ここで悪い癖が発動してしまった。全てをネガティブに考えてしまう、という厄介なやつだ。しかし今回はこれが必然なのではないだろうか。菅原を結局説得できなかったというのが正しい結果だ。あとは菅原を信じるだのなんだの綺麗な言葉は並べてみたが、結局それは自分の力量の小ささ加減を隠すための言い訳だったんではないだろうか。

 いろいろと、間違っていたのかもしれない。

 考えてる暇があれば行動しろ、と誰かに言われたことがある。そのときは、それこそ綺麗事だのなんだの思っていたが、今はまさにそれを実行すべき状況に置かれている気がする。

 いや、事実そうなのだ。

 帰りのホームルームが終わった直後は、二、三言星野と世間話をしてから帰る、というのが毎度の恒例行事だったが、そんな些細な日常は軽くスルーし、俺は勢いよく教室から飛び出した。

 くそ、やっぱり螺旋階段って意味わかんねえよ。

 この走りにくさといったらこの上ない。

 もしかして、校内を走り回る学生予防としてこの螺旋階段を建設したんではないだろうか、そうだとすれば感心を通り越して敬服する思いだが、蓮実高校の適当さ加減を考える限り、たぶんそんなことはないのだろう。

 その一方で、自分の体力のなさには呆れるばかりだ。

 階段を降りているだけで息を切らしてしまう始末。

 まあ走っている、というのがあるんだが、それを踏まえてもこの貧弱さには見下げ果てたものだ。

 そうこうして、校舎の玄関にたどり着いたものの、人影はほとんど見られなかった。

 まあ、ホームルームが終わった瞬間、教室を出るやつもなかなかいないだろうし、担任である松本はなるべく早くホームルームを切り上げたがる教師で、2年C組ほど早く放課後を迎えられるクラスはほとんどないから、一応必然の光景ではあるんだが、それでも菅原の姿が見えることを期待していた俺にとっては、見た目以上に殺風景な感じに見えてしまう。

 本当に、殺風景だった。

 風もなければ鳥の鳴き声も聞こえない。

 街中にあって、街の騒音が一切入ってこない学校として知られてるとはいえ、なんだが世界で自分一人だけが生き残ってしまったような感覚さえ覚えてしまう。

 いわゆる、絶望というやつ。

 菅原が見つからなかったというのは、絶望とまではいかないにしても、俺としてはかなりショックな出来事だ。

 そんなことを考えていると、他クラスの連中もぞろぞろと螺旋階段を降りてきた。

 殺風景でこそなくなったものの、それはそれでまた時間的に長谷川さんが屋上へ向かう時間になってしまったことを認識した。

 菅原のいない、屋上に。

 いやまて、すでに菅原は屋上へ行っている、なんてことはないだろうか。

 もしそうだとしたら、願ってもないことだ。

 無理矢理そう解釈し、俺は再び、走るまではいかないが気持ち早足で屋上へと向かった。

 途中、星野やC組である程度面識のあるグループとすれ違ったりしたが、星野はあえて何も言ってこなかった。

 挨拶もせず、無言のエールを送ってくれていたのかもしれない。

 別に俺が何をするというわけでもないのに。

 他の連中とは、菅原のことに関して話したことはない。俺が菅原と多少の関わりを持っていることはすでにバレているはずだが、それを咎めるどころか、指摘するやつでさえ一人もいなかった。

 そう、C組の連中はたいていがいいやつなんだ。

 それでも、噂というものはどうしても広まってしまって、全く無関係の人間にある種の疑念を植えつけてしまう。それで、菅原は自然と一人になってしまった。

 誰かが敢えて菅原を一人にしようとしたのではなく、ごく自然に――。

 そう考えると、やはり一連の騒動に加害者というものは存在しないのだろう。

 だからこそ、解決の糸口を見つけるのが難しい。

 誰かに罰を与えればとりあえあずの解決をみる刑事裁判とは違う、どちらかというと、民事裁判?

 いや、それも違うな。そもそも、法律で片付く問題と一緒にしてしまってはいけない。 人間関係、ましてや高校生の人間関係なんてものに、法律の力など必要ない。もし必要な場面がでてきたのだとしたら、きっとそれは最悪な場面だ。

 そして俺は、とうとう屋上へと繋がる扉へと到着してしまった。

 扉は完全な金属製で、外の様子は窺い知れない。

 なんで屋上を集合場所に選んでしまったんだろう。目立たないという条件を満たした場所ならいくらでもあったはずなのに。

 今日何度目かわかないが、また、自分の力量のなさに呆れかえる。成績学年トップが冷静沈着完全無欠なんて出来過ぎた話だしな。現実はそうも甘くない。

 俺は決意を固め、天地を分ける扉のドアノブを握る。心なしか、いつもより重く感じられた。

 扉の向こう側、そこにいたのは、長谷川夢依と野口裕子だった。

 二人だけ。

 菅原はいない――。

「なんであんたが来るのよ。当人様はまだ到着していないみたいだけど」

 鋭い口調で野口はそう言い放つ。菅原ではなく俺が現れたことへの、驚きというより失望したといったような表情で。

「菅原さんは――来てくれるんですよね?」

 野口に続き、長谷川さんもそう尋ねる。

 何を言っても逃げることができそうにない。

 逃げる……いや、違う。そうじゃない。これまでの熟考の結果が、逃げるだなんてそんな無粋なものではなかったはずだ。どれだけ小心者なんだ俺は……。

「菅原は必ず来るはずだ。だからもう少しだけ待ってくれ」

 来るはず、という言葉。例えそれが本心から出た言葉でなくても俺はそう言わなくてはならない。

 そういうことにしてしまったのだから――。

「でも、C組は随分前にホームルームを終えていたはずよね? 今の時点で来ていないってことは、逃げだしたってことじゃないの?」

「それは違う!」

「何が違うって言うのよ。菅原はやっぱり夢依と会うのが怖くて逃げたんでしょ? 自分の罪を認められずに、そのせいで自分が教室の隅に追いやられたことに耐えきれなくなって、なんとかしようとしたのかもしれないけれど。そういう理由があっての行動であって、夢依に心から謝ろうなんてこと――」

 違う――それは絶対に違う。

 菅原の言い分は聞いたし、それを聞いてなかったとしても、俺は今野口が言ったことが間違いであると、確信を持ってそう言える。理由だとかそんな理屈的なものは確かにない。けれど、絶対にそれは、それだけは違う――。

「だから何が――」

「嘉神さん――」

 長谷川さんが、野口の言葉を遮る。

「嘉神さん、わたし、C組の教室の様子を一回だけ見に行ったことがあるんです。そのとき、嘉神さんと菅原さんが話しているのをちょっとだけ見ました。なんていうか、すごく楽しそうで……楽しそうではないんですけど、心の中はきっと楽しそうで……。なんて言ったらいいかわからないけど、とにかく、嘉神さんは菅原さんとすごく仲が良いのが伝わってきました。きっと、一昨日菅原さんに何があったのか聞いてるんじゃないですか? あの、もし良かったらそれを聞かせて欲しいんです。菅原さんがここに来なくても、嘉神さんの口からでいいので、真実を聞きたいんです」

 長谷川さんも当事者なんだから、真実は見たまんまだろ、とは言えなかった。

 そう言えば、一応の工作にはなったかもしれないけど、それで菅原の秘密を隠したところで、それは何の意味も持たないだろう。

 やはり、言わなくてはならないのだろうか。

 信じてもらえるかどうかは別の話として、菅原の秘密を話してしまわないと、この問題は解決しないのだろうか。

「あいつは――菅原は、わざと長谷川さんに一昨日のような態度をとったわけじゃないんだ。あいつの記憶は――」


 そこで、タイミング的には良かったのかそれとも悪かったのか、大きな音をたてて、屋上から螺旋階段に繋がる扉が開いた。

 そこまでの演出が必要なのかって思うくらい、眩しい光に包まれたかのように、菅原魔綾は登場したのである。

 実際に光に包まれているわけじゃない、何かが眩しく見えたのだ。

 おそらく菅原本人が――。

 何がそこまで不満なんだと言いたくなるようなキリっとした表情、すらっと高い身長に、煌びやかに光るクリーム色の長髪。

 単純に見たままの感覚で形容するならば、まさに天使のようだった。

 この状況だからってのもあると思うが、むしろ俺が菅原に救われているような気さえしてくる。

 長谷川さんを呼び出したのも、菅原のためにやったことではあるのだが、それでも、俺は自分のためにこうして屋上に来ていると、なぜかそう感じてしまう。なんだろうこの感覚は……菅原の突然の登場に気が動転しているのだろうか。

「何勝手にぺらぺらと人のことをしゃべってるのよあんたは」

 そう言って少しずつ前へ歩み出す菅原。

 俺は何も言えなかった。野口や長谷川さんも、遅れて登場した菅原に対して何も言葉を発さなかった。

 いや、正しくは、発せなかった――。

「わたしを信じたんなら、最後まで貫きとおしなさいよ――」

 俺の前を横切りながら、菅原はそう言った。

「んなこと言われてもなあ、登場するタイミングがぎりぎり過ぎるんだよ」

「まあいいけど。あんたとはそのことはあとでたっぷり話しましょう。今は長谷川さんと、話さないといけないから――」

 そんなことで、あとで怒られなくちゃいけないのかよ。

 せっかく、少しはお前のこと見直したと思ったってのに。

「ちょっとあんた、人を呼び出しておいて詫びの一言もないわけ?」

「ごめんなさい、野口さん――」

 菅原から出たのは意外にも素直な言葉だった。それに対して、野口はなんとも反応し辛い風にしているし、俺も当人だったらそうなっていただろう、キャラが変わりすぎだ。

 そして、その『ごめんなさい』という言葉は、ただそれだけの意味じゃないのだろう。

 言い争ったときのこと、今遅れて来たこと。

 それ以外にも、もしかしたらあるのかもしれないが、そこまではわからない。

 しかし、菅原から発せられた言葉たちは、いつにも増して重みを含んでいるように聞こえた。

 俺とふざけた口論をしているときとは全く違う、真剣なトーン。

「もうちょっと何かあるでしょう。なんていうか、こう……」

「わかってる。でも、今はあなたとやりあってる時間はないの」

 言い淀む野口に対して、軽く受け流す菅原。

 三日前の光景が嘘だと思えるくらい、妙に圧倒的な差がそこには生まれていた。

 やっぱり今ここにいる菅原魔綾は菅原魔綾ではないのではないか。そんなどうでもいい懸念さえ抱いてしまう。

 そして菅原はゆっくりと、ゆっくり過ぎるほどゆっくりと、一歩一歩長谷川さんのもとへ足を運ぶ。

「長谷川さん、謝って許してもらえるようなことだと思ってないけど、それでも言わなくちゃいけない……優しくしようとしてくれたあなたを突き放して、ひどいことを言ってごめんなさい」

 後ろに立っている俺からは菅原の表情を読み取ることができない。だけど、聞こえてくる言葉だけで十分、菅原がどれだけ後悔し、悩んだか、はっきりとわかる。

 菅原は、記憶を失って自暴自棄になっていた、なんてことはもう言わなかった。言う必要がないと判断したのだろう。仮にそれを信じてもらえたところで、長谷川さんや野口の菅原に対する怒りが軽減されたところで、菅原にとっての後悔は消えるなんてことはないのだから。

「菅原さん……謝らなければいけないのは、わたしのほうなんです!」

 突然だった。

「夢依、それってどういうこと!?」

「悪いのは一方的にわたしのはずよ。どういう――」

 長谷川さんは菅原の言葉を遮って続ける。

「わたし、あの日の朝から菅原さんの様子が変だったのには気付いていました。だからわたしのことを無視したり、ひどいことを言うののにも何か理由があるんだってわかってました。でもそれを聞くのが怖くて……わたし怖かったんです! その理由を聞いてあげるのが……。それができなくて野口さんや他の人に相談してしまって……。それで、変な誤解を生んでしまったんです。そのことで噂が広まり始めてからも、わたしは何も行動できませんでした。いや……たぶん、できなかったわけじゃないんです。このまま被害者面をしているほうが、わたしには何の害もなくて、変に行動したら……とか、そんなことを考えてしまって……わたしは、とっても弱くて卑怯なことをしたんです……」

「夢依……」

 衝撃的な事実だった。

 もとい、長谷川さんが菅原に復讐をしようだなんて考えを持っていないんだろうなということは、初対面の段階で判断できたことではあるが。まさか彼女までもが、罪悪感を抱いていたなどということを予想するには至らなかった。

 それにしても、人間性というか、内面がこれほど外側に表れているやつはそういないよな……。

 心から優しい人間なのだということくらい、容易に判断できる。

 それでいておそらく、傷つきやすい――。

「ごめんなさい……泣くつもりはなかったんです。もう泣かないって決めたのに……」

 消え入りそうな声でそう呟く。

 自分のせいで菅原が多くの人から誤解を受けた。それに対する罪悪感がどれだけ彼女を苦しめたのか、俺には想像もつかない。

 それはたぶん、当人じゃないとわからない感情なんだろう。

「全部正直に話してくれてありがとう。今度はわたしの話を聞いてくれる?」

 今までの、俺との会話からは想像もつかないような優しい声で菅原はそう言う。

「はい、もちろんです……」

 涙を拭い、これ以上は泣かない、という決意を持って、長谷川さんは菅原を真っ直ぐ見る。

 それもそのはず、長谷川さんは菅原の本心を聞くことをどれほど待ち望んでいたか。それがわからなくて、彼女は悩み続けたのだ。

 罪悪感を持ち続けていたのだ。

「わたし、記憶を失ったの――」

「おいまて、菅原!」

 それを言ってしまうのか。

 それを言ってしまえば、また別の問題が生まれてくるじゃないか。

「いいの。だって、嘘ついたって、何を言い訳にしたって結局は言い訳になるのだから。本当のことを言ったほうがいいでしょ。それに――」

 それに――

 長谷川さんには、嘘をつきたくない。

 菅原は、俺にだけ聞こえるようにそう言った。そしてまた長谷川さんのほうへと向き直る。

「だからわたし、長谷川さんのことを覚えていないの。新学期が始まったその日に、笑顔で話しかけてくれたあなたのことが誰なのか、全くわからなかった」

「ちょっとあんた! いい加減に――」

「嘘は言ってない」

「あんたは関係ないでしょ。わたしは菅原に――」

「嘘は言ってない。本当なんだ、菅原は記憶を失ってる」

 定期的に記憶を失う、とまでは言っていない。

 だから、あり得ない話でもない。信じてもらえる可能性も低くはないはずだ。

 例え野口でも、常識のないやつってわけじゃなさそうだし。

 無論、長谷川さんも菅原の言葉を信じるはずだ。

 だけど、ほんとにそれでいいのかよ菅原!

 長谷川さんは、その事実を最も信じたくない人でもあるんだぞ――。

「本当なんですか……菅原さん…………」

「本当よ。でも、それがあなたを傷つけていい理由にはならない。本当にごめんなさい」

「違います! わたしは、菅原さんに謝ってもらうためにここに来たんじゃないんです。真実を知りたくて、菅原さんが何について悩んでるのかが知りたかったんです。ただそれだけでよかったんです……。でも、わたしのことは覚えてないんですよね……菅原さんにとってわたしは、全く知らない人で…………」

 全く知らない人。

 一方的な友達。

 辛いのは菅原だけじゃなかった。

 当たり前のようで、気付きにくいことでもあった。菅原に忘れられてしまった人は、同じように辛いはずなのだ。

 日々の積み重ねで深まっていく友情というものは、簡単に取り戻せるものでもないだろうし、菅原側からは、誰とどんな風に何を取り戻せばいいのかさえわからない。

 記憶喪失になってしまったと学校中で言い歩いて回ることなんて、もちろんできるわけがないし、お互い何も知らないままになってしまう。

 今回の件のような問題が発生するのも、ある意味必然だったのかもしれない。

「全く知らない人なんかじゃない。長谷川さんはわたしのことを知ってるんだから、友達だと言ってくれるんだから、それは、きっとそれだけでいいの」

 菅原のその言葉に、長谷川さんは答えることができなかった。

 何を言えばいいのかわからなかったんじゃない。菅原に伝えたいことは、きっと数えきれないほどあるに決まってる。

 ただ、次々と流れてくる涙のせいで、上手く言葉を発せないでいるのだ。

 もしくは、言葉にならない、というのもやっぱりあるのかもしれない。

「記憶がなくなったって、記憶喪失ってことよね。まさか、三日前に言ってたことは本当だったってこと?」

「そうよ。あの時にあんな形で言って信じてもらえるわけがないのに、わたし馬鹿だったわ。でも今は信じてほしい。本当に記憶を失ってしまったの」

「それで、自暴自棄になってしまっていた。ということでいいのね?」

 野口は、菅原が本当に悪意をもってやったことではないと、それを入念に確認しようとした。最初から、そう思いたかったのかもしれない。

「そういうことよ。そんな理由が通用するとは思っていないけど」

 通用するしない、の問題ではないと思うけどな。

 記憶喪失になった人間の気持ちなんて、記憶喪失になった人間にしかわかるはずがないのだから。

「で、あんたは結局どうしたいの。夢依はこんなにあんたのことを大切に思ってたってわかったと思うけど」

 野口は、もう俺たちと対立しようという気持ちはどうやらないようだ。

 あるいは、そんな感情など最初からなかったのかもしれない。

 長谷川さんへの友情故、言動が少し暴走していただけで、彼女も、ただ不器用さが裏目に出てしまっただけなのかもしれない。

 あれだけ感情的になっていたのも、やっぱりそれは友達を思いやる強さの証でもあるのだろう。

「それは、そんなことは、三日前からわかってたわ。長谷川さんがわたしに対してどれだけ心配してくれてたか、どれだけ大事に思ってくれてたかなんてことは、最初からわかってた。何度言っても足りないと思うけど、何度でも言わなきゃいけないと思う。いや、わたしがそうしたいの」

 一瞬の間を置いて、

「本当にごめんなさい――」

 菅原の言葉を聞き、言葉にならない感情を無理矢理表わそうとしているように、長谷川さんは何度も首を横にふる。

 そんなことない、悪いのはわたしだ――

 そう言いたいのだろうか。

 でもこれって、一応和解は成立したってことだよな……。でも、何かまだ煮え切らない何かが点在していて、上手くまとまっていない。

 何かが足りないのだ。

 全て丸く収まった、解散しよう、という流れにはならない。

「菅原。謝るだけじゃ何も解決しないんじゃないのか。それがわかってて、こうするのをためらってたんだろ?」

「ためらってたんじゃないわ。こうするつもりなんてなかったの」

「ちょっと、それってあんた……」

「おい菅原――」

 そんなことは、ここで言うべきじゃないだろ。

 長谷川さんと野口がいる前で、話し合うつもりなんてなかった、だなんて言うべきじゃない、絶対に。

「だけど、ここに来て、こうして長谷川さんと話してよかったと思う。考え直してよかった。全部あんたのおかげよ」

「おま……」

 なんだこの感じ。

 やっぱり、お前菅原じゃないだろ。

 もしくは――

「これこそまさに……ツンデレ……」

「それ余計!」

 ボケとつっこみの担当が逆転した瞬間だった。

 今このタイミングですべきやり取りではなかったかもしれないが。

 まあとにかく、と菅原は仕切り直す。

「わたしを信じてくれるって言ったでしょ。だから最後まで貫きとおしなさい。この場はわたしを信じて、任せてくれればいい。そもそもわたし自身の問題なんだし」

「ああ、わかったよ」

 たしかに、これは俺の問題じゃなくてあくまで菅原当人の問題だ。俺が口を出していいのはその過程まで。この場は菅原本人に任せるのが賢明だ。

 というより、そうしなければならないのだろう。

 菅原の言うように、俺はこいつを信じると明言したわけだし。

「菅原さん……わたしにももっと言わせてください……本当にごめ――」

「もういいの」

 菅原は言葉を遮り、そして一歩づつ長谷川さんへと歩を進める。

「謝るなんてものは、もういいの。わたしのほうはまだ謝り足りないと思うけど、でも、少なくとも長谷川さんはもう、謝らなくていいわ」

「菅原さんも、もう謝らなくて大丈夫です」

 長谷川さんは、涙をこらえながらそう言った。

 強い意志をもって、本気の言葉が菅原に伝わるように。

「そう――ならよかった」

 俺からは死角で見えないが、菅原の表情は手に取るようにわかる。俺には見せたことのないような、優しい表情なのだろう。

 時として、言葉よりも多くを語るものが存在することがある。

 聞くのではなく、感じる。

 今の菅原は、全身からなんらかのオーラを出しているようにさえ見える。

 そういった四次元的なものを信じるのは不得意分野というか、あんまり好きじゃないが、今はそれ以外に形容することが難しい。

 一言で表すならば、やっぱり『天使』のようだ。

 これだけ褒めちぎっているのを、本人には絶対聞かれたくないな……。

「長谷川さん――これだけ、最後に言わせて」

 天使のような、菅原の両手は、そっと長谷川さんを抱きしめた。

 そして菅原は、おそらく、普段は無愛想な彼女が全身全霊を込めてできる全力の優しい声で、全てを包み込むような声で、こう言った。



「記憶がなくなる前のわたしに、こんな素敵な友達がいてよかった――」



 想像を遥かに超えた、とても綺麗な言葉だった。

 裏も何もなく、言葉そのものの意味が、ここで必要な全てだったのかもしれない。

 何かが足りないと思ってしまう状況は一転。

 これじゃあ非の打ちどころがないよな……。

 これはあくまで菅原の問題であって、俺の問題じゃない。

 それはもう何度も自分に言い聞かせた言葉ではあるのだが、やっぱりそれはただの言葉でしかない。

 俺は素直に嬉しかった。

 菅原と長谷川さんが、ひとまずの綺麗な解決を見せたこと。

 よく使われる言葉を引用するなら、これはまだ始まりに過ぎないのかもしれない、けど、それでもやはり、ひとつの節目にはなるのだろう。

 人が小説やドラマで、他人の幸せに感動するように、俺もそれに似たような状況になっているだけかもしれない。それがまあ現実という形で目の前で起きているのだから、俺の感情表現が大袈裟だ、ということでもなさそうだ。

 素直に嬉しいのだから、嬉しいと言って何が悪い。

 厳密には、心の中で反芻しているだけなのだけど。

 そういう感情って他人には知られたくないものだしな。まさか俺だけじゃないよな? この考え……。

 でも、他人に感情をさらけ出すってのも悪くないことなのかもしれない。

 この一件を期に、そんなことすら考えてしまう。

 妙にポジティブな感じが長期間続いてくれればいいものなんだが、人間が一日で変わるなんてそんな都合のいいように世界は創られていないだろうし、まあ努力って言葉はその所為であるようなもんだしな。

 時間はといえば、夕日がすぐにでも沈もうとしている頃だ。思った以上に時間が経ってしまっていたらしい。

 先ほどツンデレが発覚した菅原魔綾であるが、菅原と長谷川さんに便乗して、涙ぐんでハンカチを取り出そうとしている野口裕子を見る限りでは、こいつもまたツンデレということでいいのだろうか。

 こういう感じで、この三人の人間関係が元通りに、上手い具合に戻ってくれればいいなとは思う。

 菅原と野口が果たして知り合いだったのか、という謎が残るが、なんとなく、友達とはいかないまでも、知り合い程度ではあったのではないか、というのが俺の予想である。根拠はもちろんないけれど、根拠なんてものは必ずしも必要なものではない、なんてらしからぬことを言ってみる。

 ちなみにだが、後から聞いた話によると、今日の下校時刻を告げる鐘はなんらかの不都合で鳴らなかったらしい。

 俺たちの邪魔をすまいと神様がちょっとした手助けをしてくれたのかもしれない。

 あるいは、確たる立証ができない何かが起きたのかもしれない。

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